神鳴り3

後期高齢者になりましたが、ますます若々しくありたいと願っています。どうぞよろしくお願いいたします。

『ほんとうに俺でよかったのか』

2022-03-04 16:22:02 | 日記
私の今も敬愛する河野裕子さんの夫くんの永田和宏先生の出演されたドキュメンタリーである。

放映されたのは2月25日(金)であった。

ご長男の永田淳さんがインターネット歌会でお知らせくださったから録画しておいて昨日観た。

が、残念ながら字幕なしであった。

最近の私は字幕がないとテレビ放映された番組の内容を理解することができない。

が、せっかくだから画面だけ拝観することにした。

裕子さんに初めてお目にかかったのは1998年、朝日カルチャー芦屋教室であった。

通い始めて一年後くらいに裕子さんが乳癌になられて休講になった。

その後よくなられていたが、10年後に再発。


永田先生のお宅には、裕子さんご存命の頃から結社誌の校正に通った。

現在の永田家は裕子さんの亡くなる一年前に建て直されたものだ。


私は、その建て直す前のお家にも伺ったことがある。

初めてお邪魔したとき、トイレを借りようとすると、永田先生みずからがトイレに案内してくださって恐縮したものだった。

お家を建て直すと決まった頃に裕子さんに乳癌が再発転移していることが見つかった。

それなのに、この家が完成したとき、こけら落としをすると、私達を招待してくださって手料理を振る舞ってくださった。

裕子さんが作ってくださったのはバラ寿司であった。

私達が結社誌の校正をしている間、すし飯を混ぜたり薄焼き卵を焼いたりするのが対面式キッチンの向こう側に見えた。

お顔がこちらに向いていたから、裕子さんの生真面目なお顔が目の当たりに拝顔できた。

既にお体もしんどくなられていただろうに、一生懸命作っていられた姿が今も私の眼裏に焼き付いている。

あと、鶏の唐揚げとかは、さんかさんが買ってきてくれたようだった。

熱々の揚げたてが並べられた。

お刺身も何種類か並べられた。

サラダもあったと思う。

永田先生はどういうわけか私にわざわざ「ビコさん遠慮しないで食べてください」と言ってくださった。

その翌々月くらいに裕子さんは兵庫県小野市で開催された小野市短歌フォーラムで小野市短歌賞を受賞されることになっていたから私も夫に頼んで車で連れて行ってもらった。

痩せ細っていた裕子さんは、紅さんに付き添われながら壇上に上がられた。

その翌月7月には、紅さんがご結婚されると聞き、ほんの印ばかりのものをお渡しするため普段より早目に永田家に伺った。

するとまだ校正をする準備ができていなくて裕子さんは食堂のテーブルで書き物をされていた。




今から思えば随分ご迷惑だったろうと思う。

なにしろ裕子さんが亡くなられた8月の前月、7月であったのだから。

それが裕子さんとお会いした最後になった。

その8月、私達は当時娘一家が住んでいた名古屋から仙台までフェリーで旅行をしていた。

忘れもしない、仙台に着岸する少し前に歌友からメールが入って「裕子さんが亡くなられた」と。

8月12日であった。

結社誌の校正は、毎月第三日曜日であるから当然、その月はどこかの会場を借りてすると思っていたら、永田先生が家に来て裕子さんに手を合わせてほしいと言われて校正はいつも通り、永田家で行われた。


私はいつもこの掘り炬燵に座らせてもらっていた。↑

東北大震災の前年、2010年のことであった。

このドキュメントでは、永田先生が裕子さんには結婚前もう一人好きな人がいたと語っていられる。

だから題名が「ほんとうに俺でよかったか」なのである。













今、永田先生は広いお家で、一人暮らしをされている。



裕子さんの生前の日記を読んでいて、この番組を作ることを思いつかれたとか言われていたような?


相聞歌で売り出された裕子さんの名歌。↓


夕闇の桜花の記憶と重なりてはじめて聞きし君が血のおと



その後2011年に東北大震災があり、その翌年2012年に我が家では義母が亡くなった。

私の兄が亡くなったのは2013年であった。

私が鬱病になり精神薬を服用したのもその年だった。

3月に精神科にかかってジプレキサという薬を処方されて飲み始めた。

私の兄は9月に急逝した。

その後、今度は私がジプレキサの禁断症状だったと思うが、12月中頃から体調に変調をきたした。

翌年の1月2月は最悪になっていた。

その頃から結社誌の校正にも行けなくなった。

精神薬の後遺症が治り元通りになるのに数年を要した。

義母の三回忌の頃も、私はまだまだ元には戻っていなかった。

まだ存命だった母が様子を見に来てくれて泣いていたことを覚えている。

この話は長くなるから、また稿を改める。

とにかく、あの数年間はいろいろあった。

裕子さんが亡くなってから寂しくなっただけでなく、所属結社の魅力も私には減じてきたかもしれない。

いや、永田先生が主宰をしてくださっているころはまだよかったが、その後、編集長だった松村正直氏も退会したため、一段と寂しくなった。


2005年だったと思うが、永田先生が東京歌会に行かれるということをお聞きして、その頃わたしの娘は東京在住であったから私は東京に出向いて次のような歌を出詠した。

★ぼつたりと墨汁つけて一の字をふたつ並べて永田和宏

歌会では割合好評であったが、肝心の永田先生は「そうかなあ」と首をかしげていられた。

その歌会では東京支部の会員三名が交代で難聴の私のために要約筆記してくださった。

私達は「永田先生はノーベル賞を受賞されるかも」と言い合っていたが、ノーベル賞ではなく、2017年にハンス・ノイラート科学賞という賞を受賞された。



ノーベル賞は山中伸弥先生が受賞されたことは皆さん、ご存知の通り。

永田先生と山中先生はトイレ友達と言われていた。

つまりお互いの教室が近くだから、トイレで一緒になることが多くて、並んで用を足す仲だったらしい。


ブラウスの中まで明るき初夏の日にけぶれるごときわが乳房あり





校正にお邪魔していた頃、この紅里(あかり)ちゃんが紅さんのお腹の中にいた。



それから上記した私の個人的な理由でずっとご無沙汰して、また校正に行かせてもらったのは二年前のコロナがパンデミックになり始めた三月であった。

それが実質永田家での校正の最終回になってしまった。

だから今は永田先生にお会いしたくても、お会いすることができない。

★裕子さん懐かし永田氏なつかしとテレビの向かうの昔を眺む

★叡山のふもとの永田家なつかしくテレビの向かうであるを忘るる

★有名な人であるからテレビにも映ることありそを写したり

★亡くなりて十二年すぎまた会ひきテレビの四角き画面の中に