映画・アート・時代を読む

映画、演劇、アートの感想や批評、ときには日々の雑感を掲載します。

くまもと九条の会発行「憲法九条と私たち」

2008-10-28 21:44:41 | Weblog
 くまもと九条の会が発行したユニークな冊子を一読する機会があった。
タイトルは、『憲法九条と私たち-がまだせ九条!熊本から世界へ-』(「がまだせ」は熊本弁で「がんばれ」の意)
熊本在住の一般市民から寄せられた戦争体験の手記、戦争と平和をテーマにした俳句、短歌、川柳、漫画、詩、戯曲など、実に多彩な作品が集められている。とくに満州引き上げの体験を綴ったいくつかの手記が心に響いた。私たちの周囲にこれほど悲惨な体験をした人がいるのか、という驚き。そしてその痛みを想像することから生まれる悲しみと憤り。若い人たちにもぜひ手にしてほしい一冊である。作家ではなく、市井の人びとの声を集めた点も評価できる。
定価600円 表紙は熊本在住の著名な芸術家浜田知明氏の作品で飾られている。
詳しくはくまもと九条の会HP参照。

映画「もんしぇん」を観て

2008-10-27 13:48:04 | Weblog
・・・2006年に一般公開された映画「もんしぇん」(監督:山本草介、脚本、主演、音楽:玉井有海)、そのときの批評文を公表しそこねていた。ずいぶん時が経ったがあらためてここに掲載する。・・・

新しい〈いのち〉への祈り
21世紀を迎えてもなお、世界は戦争と暴力で満ちあふれている。そして、常にその最大の犠牲者は、新しい〈いのち〉としての子どもたちであり、〈いのち〉を産み育む性としての女性たちである。この日本でも事情は変わらない。個人的欲望と経済的利益の追求の果てに、〈いのち〉が脅かされ、切り捨てられていく。未来への希望を示すことなく不安をあおるだけの政治、日増しに強まっていく軍靴の音。多くの女性たちが新しい〈いのち〉を産み育てることに不安を感じ、躊躇してしまうのもゆえなきことではない。主人公「はる」の産むことへの迷いは、われわれの時代の絶望と不安を象徴している。
映画は、「はる」のつくった母子像の泥人形を「作一」が祈りを込めて海中へと投げ入れるシーンから始まる。それはこの映画の主題の提示でもある。深く沈んでいく泥人形は、海を通じてもうひとつの世界での新しい〈いのち〉の誕生とつながっている。その祈りは、新しい〈いのち〉の誕生と行く末への祈りであると同時に、いかなる〈いのち〉も脅かされることのない平和な未来への祈りでもある。その意味で、私は作品の若き作り手たちの志に深く敬意を表したい。

抗う力、もうひとつの現実
 あえて不満を言えば、この映画には、〈いのちのつながり〉という世界観を提示することによって抗おうとした「もうひとつの世界」、もうひとつの抗うべき現実が描かれていない点である。『千と千尋の神隠し』はたしかにファンタジー世界が舞台であるが、その世界に迷いこむ前に千尋が目にしたものは、廃墟となったリゾート・パークであり、バブル崩壊後にわれわれが体験したまさに現実そのものである。その抗うべき現実が指し示されていたからこそ、観客はより鮮明に宮崎が描くファンタジー世界の意図を読み取ることができた。作品舞台のモデルとなった御所浦町は都会の若者にとって確かにひとつのユートピアに見えるかもしれない。しかし、一方で、町には旧町長が原発誘致を口にしなければならないほどの厳しい社会的現実がある。おそらく作り手たちにはこの作品の一貫した世界観を崩したくないという意図があったにちがいない。この映画のモチーフの一つが「祈り」であるなら、人はなぜ祈らねばならないか、天草の隠れキリシタンたちが、いのちの危険を犯してまでも抗いとおした、その現実に向き合ってこそ、その意味が見えてくるはずである。

汚染米の主食転用、農水省が通知していた

2008-10-26 17:48:17 | Weblog
久しぶりの投稿。
汚染米事件にかかわる某新聞のスクープ。
2007年3月30日付農水省総合食料局長通知「物品(事業用)の事故処理要領」には「事故品については、極力主食用にするものとし」と記載され、汚染米の「主食用」売却が農水省の既定の方針であったことが明らかとなった。
私は当初から、この問題の背景は、農水省の監督怠慢によるものではなく、業者と農水省はもともと共犯関係にあったとみていたが、そのことが立証された。
しかし農水省をたたけばよいというわけではない。
財政再建を口実に、農水省に対して、業者への事故米「在庫一掃セール」を強要し、裏では業者から賄賂や献金をたんまり受け取っていた連中(政治家)がいるはずだ。野党やマスコミには、この問題のさらなる真相解明を期待したい。