「アーカイブス 中国残留孤児・残留婦人の証言」ゲストブック&ブログ&メッセージ

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地元川越での講演会報告(5月25日)

2024年06月17日 11時54分34秒 | 満蒙開拓団
 先日、日中友好協会埼玉西部支部のニューズレターが届きました。68名の方に参加いただきました。新宿の講演にも参加し今回も参加してくださった方が、数名いらっしゃいました。中国帰国者支援・交流センターの 語り部、大連外国語大学の教授、都議会議員の配偶者、新聞記者(仕事ではなく本人の興味関心で参加しているとのこと)と私の友人でした。
 今回は、大学院時代の恩師も弟子を伴って来てくれました。先生は本を出版する時に、中堅のアカデミックな本を数多く出している出版社を紹介してくださったのでした。そのいきさつも先生を目の前にして講演の中で説明させていただきました。講演後に三人でのお茶の時間を持ち、様々な話をしました。多くの示唆をいただきましたが、まだ実行されずにいます。
 また、ご近所の方も数人いらしてくれました。以前某国の大使を務めていらしたというご夫妻も、伴侶の介護でお疲れ気味の友人も、娘の愛犬のトリマーさんも、庭の草取りを手伝ってくださる友人たちも、庭友も、お声がけしたら来てくださいました。「動画で見るとグッと胸に迫ってくる」「いつものほほんとぼんやりしてるのに、大丈夫かなと心配してたけど、別人だったね」「映画を見るより感動した。作りものじゃないから」などの感想をいただきました。
 本だけではなくて直接言いたいことを圧縮した動画とパワーポイントを使って伝えられたのは、幸せなことでした。
  おっとっと、大事な人を忘れるところでした。上尾からいらしてくれた夫の友人、Kご夫妻。夫は三つの大学、大学院を卒業しているのですが、K氏は最初の大学で一緒でした。18歳の時からの友人で、細く長く、今も時々顔を見せてくれます。池澤夏樹氏が同級生だったと、最近、彼から聞いたところでした。お二人の感想は的確過ぎるくらい的確で、私の胸にとどめ、今後に生かそうと思います。今後があればですが。

 当日いただいた感想と、その後いただいたメールをいくつか紹介します。



Sさん
「講演会を拝聴して、とても感動しました。
遅くなりましたが、藤沼様にこの感謝の気持ちをお伝えしたく、メールでご連絡させていただきました。
私は大学4年生の時に偶然藤沼様のブログを発見し、その後藤沼様の著書「あの戦争さえなかったら」の一冊を拝読させていただきました。
さらに、今年の4月に藤沼様とお会いができ、貴重なお話を聞けて、とても幸せでした。
多くの残留日本人にインタビューをしてくださり、その資料を丁寧にまとめて公開してくださり、誠にありがとうございます。残留日本人にインタビューするのは、苦しい思い出が語りの中に多くあり、時には藤沼様も一緒に悲しむことになると思いますが、そのような大変さがあるにもかかわらず、藤沼様は時間と精力を尽くして、根気強く研究を進めるのがとてもかっこいいです。
いつか藤沼様のような優しく心強い女性になりたいです。
本当にありがとうございました。」

Tさん
「ー略ー 講演から帰って、早速藤沼様のホームページを拝見しました。無修正、編集なしで1時間も2時間もインタビューできるのは特技だと思います。普通はつまってしまうものです。藤沼様はお気づきでしょうか?声が素晴らしくて、ただ聞いているだけで癒されるのです。取材を受ける人もきっと心地よく癒されてもっと話したいと思ったと思います。藤沼様の中国帰国者に対する尊敬が、優しい声にあふれていました。250人中、何人聞けるかわかりませんが、一日一人ずつでも聞いていく所存です。ー略ー」




講演会の報告と、5月の講演会の案内です

2024年05月05日 10時46分30秒 | 取材の周辺
 5月25日(土)、川越駅西口徒歩7分 ウエスタ川越にて 13:30~15:30まで 、 日中友好協会埼玉西部支部主催で、「『中国残留孤児・残留婦人の証言』~30年かけ 約250人の体験者の聞き取りをして~ 」 というテーマでお話させていただきます。お時間がございましたら是非お出かけいただきたくご案内申し上げます。

 偶然のことに3月は国際善隣協会主催での講演、4月はヒロシマ講座(新宿区男女共同参画推進センター)主催での講演と続き、5月は地元 川越での講演依頼が舞い込みました。諸般の事情で、ずっと講演をお引き受けできませんでしたが、たまたま依頼が重なり、思い切ってお引き受けしてみることにしました。

 国際善隣協会での講演では、パソコンもパワーポイントも忘れるという大失態をやらかしましたが、会場の皆様の関心の高さに支えられて、大いに励まされ勇気づけられた講演でした。
 
 ヒロシマ講座では、当初参加申し込みが一桁と伺って、Facebookで告知したところ、中国帰国者支援・交流センターの先生がシェアしてくださり、それをご覧になった劇作家で精神科医の胡桃沢伸さんがシェアしてくださり(いらしてくださり)、そこから広がってたくさんの方がシェアしてくださいました。『あの戦争さえなかったら 62人の中国残留孤児たち(上)』に推薦文を書いてくださった法政大の髙柳俊男先生はお知り合いの方に宣伝してくださり、当日は数名の学生を伴って来てくださいました。日本語教師時代の友人や四国の古い友人、名古屋の南山大学の研究者、中国帰国者支援・交流センターの先生と語り部数名も来てくださいました。感謝に堪えません。

 講演では、2,3分の短い映像を10数人分見ていただきましたが、その時に「この映像は行間を読んで欲しい」と言ったところに、2、3人の方から感想が寄せられました。
 最後の質疑応答では南山大学の研究者から「証言が変化する理由はなにか?」という質問がありましたが、その時は、自分自身の出来事に対するものの見方が変わったためと応えましたが、今考えると二つあると思います。一つは、「できごと」を受け止める自分自身の考えが時間の経過とともに変わったということ。もう一つは、世の中の受け止め方、価値観が変わったので、それに影響を受けて証言が変わった、ということだと思います。「昔言えなかったことが言えるようになった」という変化は、本人にとっては心穏やかに晩年を過ごす妙薬のようなものだったのかも知れません。
 また、このことに関連して思い出したことがあります。1994年頃、佐久市でお会いした帰国直後の残留婦人のことと、2000年瀋陽でお会いした残留婦人のことです。お二人の反応はまったく同じでした。正座して「中国人と結婚して申し訳なかった」と謝るのです。戦前の日本の価値観そのままにフリーズされていたのです。二人には時代の変化による価値観の変遷は関係なかったのです。戦前の日本の為政者によって作り上げられた価値観の中にいました。五族協和と言いながらも日本の優位性を植え付けられ、アジアを支配する野望を具現化するために都合の良い価値観の中に長い時間置いてきぼりにされていたのです。自戒せねばと思います。絶えず自分の価値観が何によって作られているものなのか、それは正しいのか、探り続けなければならないと思います。
 
 また、法政大学の髙柳俊男先生から「何がこんなに彼女を駆り立てるのか、そのエネルギーは何なのか、知りたい」というご質問がありました。講演の最初に話したこと、「素晴らしい出会いがあって今日に繋がっている」と繰り返し話しましたが、それは先生の質問に正面からお答えしていないと、後になって気づきました。
 つらつら考えてみますと、エネルギーの源はズバリ!「怒り」です。感性が少し他人と違っているところがあるようで、残留孤児・残留婦人の話を聞くと、感情移入しすぎてしまう傾向があります。「生活保護を受けているのに孫に小遣い(50円とか100円)をやれる立場か!」と、福祉課の職員に恫喝された話を聞くと、怒りがこみ上げてきました。日本に帰りたくても親族が身元引受人になってくれないので長く帰れなかった話や、身元が未判明なら帰国できるのに、判明したために帰国できなかった孤児の話など、怒りを禁じ得ませんでした。なかでも家があるからと支援金を受けられなかった孤児の話は、自治体によって大きな違いがあるのです。200万円で中古住宅を買い、自分で少しずつリフォーム工事をした家に住んでいるので支援金がもらえない(都内に住む孤児には理解してもらえませんでした。「自分の家を持っている人なんていません」ときっぱり断言されて仰天。いえ、地方にはたくさんいるんですってば)。子世代(ほとんど共働き)と同居しているために支援金がもらえない話もたくさんありました。世帯分離をすればいいだけなのに、それを誰も教えてくれないのです。それどころか世帯分離は実態と違うからできない、と諭す自治体もありました。また、1世の孤児に、「生活保護はうちの自治体では支給しないことになっているから、そのつもりで」という自治体もあったのです。生活保護法を逸脱していますが、何も知らない帰国直後の孤児には抗議のしようもありません。
 本当は2,3世のためにも『年表 中国帰国者問題の歴史と援護政策の展開』の続きとその後の援護政策への批判を、怒りを集中させてきちんとわかりやすい形で書かなくてはいけないのですが、だいぶ私自身がへたってきたので、書けるかどうか自信がありません。ただ、断捨離を始めたはずなのに、関係する資料や書籍類はいまだに捨てられないでいます。
 講演で私自身たくさんの気づきと刺激をいただきました。講演が終わってみると、2時間以上いただいたにもかかわらず、言い忘れたことが山ほどありました。それは5月の講演で、1時間半いただいておりますので、凝縮し、かつシンプルにしたものを手渡そうと案を練っているところです。
 5月25日(土)ウエスタ川越でお会いしましょう!
 

 ぜひ、お時間がございましたら、5月25日(土)13時半から川越駅西口ウエスタ川越までお出かけくださいませ。

4月13日13時半から新宿区男女共同参画推進センターで講演会

2024年04月05日 23時01分11秒 | 取材の周辺
講演会のお知らせです。
 自分の講演会のお知らせを出すのは気が引けるのですが、昨日主催者から、「現在のところ、申込者が一桁」と伺って、宣伝しなければと。どうぞ関心興味のある方同士、誘い合わせてご参加ください。
 4月13日(土)13時半より新宿区男女共同参画推進センターで『満蒙開拓とは?戦争とは?』というテーマでお話します。これまで取材してきた250名の動画の中から、テーマに沿って短くピックアップした動画をたくさん見て頂きます。  
 先月、国際善隣協会で「不条理を生き貫いてー中国残留孤児・残留婦人の証言」というテーマでお話させていただきました。パソコンもパワーポイントも忘れるという大失態をやらかしましたが、会場に来てくださった皆様は、私よりも高齢の方が多く、知識も豊富で、暖かく受け止めてくださいました。重いテーマであるにも関わらず、とても楽しかったのです。
 本を書いて終わりではなくて、双方向の意見交換のできる講演会は私にとっても学びの多い経験でした。今回は、いくつかの「問い」を設定し、短い動画をテーマに沿ってなるべくたくさん見て頂こうと思っています。何しろ膨大な量のビデオと、鈍器にもなる分厚い「鈍器本」を前にして、たじろくどころか、みんな逃げ出してしまいます。ですからこの講演会がやさしい導入になればと思います。会場の皆さんのご意見、ご感想などを伺えたらと思っています。
 会場でお会いしましょう!是非ぜひお出かけくださいませ!

問い合わせ、申し込み先は、主催者「ヒロシマ講座」竹内様まで。 qq2g2vdd@vanilla.ocn.ne.jp


国際善隣協会での講演

2024年03月16日 21時40分17秒 | 取材の周辺
 一昨日、新橋の国際善隣協会で講演をさせていただきました。人前で話すのは、およそ20年のブランクがあり、1か月前からパワーポイントを作り始め、各々の証言のハイライトを抽出して、なるべく沢山の残留孤児・婦人・周辺の証言を聞いていただこうと苦心していました。
 講演1週間前になっても、スライドショーは講演時間の90分以内に収めきることができず、例えば3分20秒の録画を2分50秒に撮り直すというような細かな作業を多数繰り返して、講演2日前に、やっと90分以内に収めることができました。
 いつもパソコン作業は、老眼に優しい大きなモニターのデスクトップを使っているのですが、会場に持っていくノートパソコンでの操作も慣れておく必要があると思い、もっぱら1週間前からは、ノートパソコンを使用していました。
 当日はパソコンの設定などもあるので、講演の1時間前に着くように言われていましたが、余裕を持って1時間半前に着くように家を出ました。スーツケースには会場で希望者に分けられるように数冊づつ自著を入れ、参考資料数冊と旧満州の大きな地図などを入れ、持ち上げてみるとかなり重い。最寄り駅まで歩くこともありますが、スーツケースを車に積んで駅前の駐車場を利用することにしました。ところが駅に着いてみると、人身事故があったという放送が流れていて、ダイヤは乱れ遅れていた。それでも指定された時間より7分遅れで国際善燐会館に着きました。7階で温かく迎えられ、熱いお茶をいただき、5階の講演会場に一歩足を踏み入れた瞬間、私は倒れそうになった。パソコンもパワーポイントのデータも忘れてきたことに気が付いたのだった。保護ケースに入れファースナーを閉めて、コードをその上に置いた。それをスーツケースに入れることなく、私は早めの昼食を用意し食べたのだ。
 目の前が真っ暗、とは、こういうことか。どうする!どうする?考えろ!パワーポイントなしで90分話すなんて無理!無理!でも、やるっきゃない!と、覚悟を決めました。
 そこでまず、自著を4冊そろえ、取り上げたい証言にポットイットを張り、お借りしたパソコンでホームページを立ち上げ、取り上げたい証言の各々のページを開いておいて講演を始めた。紹介したい場面がすぐに見つかる訳もなく、どれだけ参加者の皆さんの時間を浪費したことだろう。秒単位で動画を短くしていたことが嘘のようなダメダメめちゃくちゃな講演になってしまいました。
 それなのに、参加者も主催者側の皆さんも優しく助けてくださって、最初は身も凍る思いでしたのに、講演が終わるころには暖かな気持ちになっていました。講演の後、名刺をくださった数名の方は、いろんな意味で中国や旧満州にご縁のある方々でした。

 2019年から4冊の本を出して、2022年に『不条理を生き貫いて 34人の残留婦人たち』の改訂版を出しました。あとの3冊はkindleやオーディブルにしようと思いながら、校正は遅々として進んでいません。家族の病気、自分の腰痛、不眠症、ドライアイ、、、理由はいくらでもあります。「少し休みたい」それが本音かも知れません。
 たまたま国際善隣協会から講演依頼があった後、二つのところからも立て続けに講演依頼が入りました。これまで講演なんてやりたくないと思っていましたが、本を出して終わりではなくて、こうして関心のある方々と双方向の交流ができることは素晴らしいことだと思いましたし、本やホームページを知っていただくことにもなります。
 めちゃくちゃな講演だったのに、今私の胸には「楽しかった」という思いが占めています。残りの講演も「楽しかった(けっして楽しい内容ではないのですが)」と思ってもらえるように、また、私自身も「楽しかった」と言えるように出来たらと思っています。
 国際善隣協会の皆様、参加者の皆様、ありがとうございました。

二日市温泉の大丸別荘

2023年03月12日 14時12分30秒 | 取材の周辺
 大浴場の湯の取り換えを年2回しか行わず、塩素注入も行わなかったとしてニュースになっている二日市温泉の大丸別荘に、2017年5月14日、宿泊した。食事は美味しく、温泉・建物はクラシカルで趣があり、部屋も夫婦二人では使いようがないくらい多すぎた。何も知らず大満足だった。
 かつてこの二日市温泉には堕胎施設、廿日市保養所があり、その慰霊祭参加のために宿泊したのだった。
 敗戦後、満州・朝鮮半島等からの引揚女性に堕胎手術が行われた。当時は姦通罪が存在したため強姦であっても【不法妊娠】と言われた。廿日市保養所で働いている医療従事者を慰労するために、高松宮殿下がこの地を訪問したと何かで読んだ記憶がある。不法な堕胎に従事している医療者に、高松宮殿下がいわばお墨付きを与えるための訪問だったのかも知れないと思う。大丸別荘の日本庭園には、高松宮殿下のお手植えの松と記念樹碑が確かにあったので、この大丸別荘に宿泊したことは間違いなさそうだ。




埼玉日本語ネットワーク30周年記念誌 ~いままで そして これから~

2022年12月18日 00時11分30秒 | 身近な出来事

 古希を目前にして、先日、30代後半に引き戻されるような出来事があった。埼玉日本語ネットワークの現在の代表、山尾さんからお電話をいただき、「今年で30周年になるので、初代代表として記念誌に寄稿して欲しい」というものだった。「30周年」にかなり驚き、30年の日々はどんなふうに流れ去ったのか、時を追って思い出そうとしても、時の断片しか思い出せない。その多くは二人の娘たちの成長記録と重なっていて、娘たちの年齢とともにかろうじて思い出せる程度の記憶しかない。あの頃は、人生は短いなんていう自覚がなかった。人生に終わりはないと信じているかのように振る舞って生きていた。それなのにいつも走っていた。そして今振り返ってみると、本当に短い。アッという間だったと思う。

 現在の代表は、設立当時の資料がないので、できれば活動している写真が欲しいという。10数年前に、膨大な写真類をデジタル化する機械を買って整理していたものが役に立った。そこで数枚の関係写真が見つかった。みんな生き生き楽しそうだ。30代後半(なんと30代ですって!)の私も楽しそうだ。埼玉日本語ネットワーク通信1号に一番ケ瀬康子先生の寄稿文を載せているということは、あの当時、大学院にも通っていたはずだ。毎日忙しく、アップアップしていた。自分がどんな人生を送るかなんて、まったく関心がなく、ただ日々、目の前の課題をこなすのに精一杯だった。

 人生は短い。想像以上に短い。もうすぐ70歳だなんて信じられない。たとえ女性の平均寿命まで生きられたとしても、あと20年もない。しかし自分の中の記憶は、数十年をさかのぼって旅ができる。先日、あることがきっかけで、当時15歳の私が何に悩み、何を考えていたのかを、認識させられる出来事があった。15歳の私との対話は、思いもよらないきっかけで、ある日突然ふっと舞い込んできたが、自分の芯に触れるような体験だった。記憶って本当に不思議だ。記憶は今まで生きてきたどの時間にも戻って、その時の自分に会うことができる。時には望んでいなくても、会いたくない自分にも会ってしまうことがある。

 年齢を重ねるということは、記憶を重ねること。歯医者さんで嫌な処置をされている時、カハラホテルのビーチベッドで寛いでいる情景を想像する。文庫本を膝に置いて喉が渇いたと思ったところに、ボーイさんが冷たいスムージーを運んできてくれる。幸せな時間。プルメリアの咲いているラッフルズホテルのプールで泳いでいると、ビルの谷間にいるとは思えない、軽井沢で聞いたことのある鳥のさえずりが聞こえる。幸せな時間。夫と共に家業をリタイアした時、娘たちがボンのケーキで祝ってくれた。幸せな時間。そんな幸せ時間を寄せ集めて思い出し、歯医者での嫌な時間をやり過ごすのが私の歯医者のかかり方になっている。
 先日、庭に春の球根をたくさん植えた。春になってコロナが落ち着いたら、代表ほか数人で、BBQをする予定。楽しい経験を重ねて幸福な記憶を積み上げることに、今は専念しよう。不穏な戦争の気配は遠くに追い払おう。

 振り返ってみると、たくさんの素晴らしい出会いに恵まれていたことが、現在の自分に繋がっていると、実感する。困った出来事があると、親身なアドバイスが飛んでくる。遠くに住んでいるにもかかわらず、しばらく会っていないにもかかわらず、「困った出来事」と、私の立場で考えてくれて、時間をかけてさまざまなアドバイスをしてくれる。なんと幸せなことか。


<思い出1>
 会場には、春原憲一郎先生が、アフリカ系の学生を伴っていらしてくださっていた。当時、日本語教師仲間と春原先生の授業見学をさせていただくため、たびたび(財)海外技術者研修協会に通っていた。毎回素晴らしい授業だった。『日本語ジャーナル』への1年間の連載の話を持ってきてくれたのも春原先生だった。中国帰国者のインタビュー動画を本にまとめている、と、年賀状に近況報告をすると、出版社を探してくれ、構成を考えてくれたりもした。しかし私は、先生が病魔に侵されているとも知らず、まず証言集を出してからと、先延ばしの返事をしてしまったのだった。そして先生は、2021年5月27日に逝去された。
 人生は選択の連続。その時は予測できなかったのだから、後悔しても仕方がない。春原先生はまさにレジェンド。伝説のように語り継がれるべき素晴らしい日本語教師だった。
<思い出2>
誰かが予約してくれて、近くの居酒屋で打ち上げをした。そこで食べた大きなアナゴの天婦羅がふっくらしていて美味しかった。ぺろりと平らげてしまって、それ以降、大食漢の汚名は雪げず。つい最近の出来事のように思い出す。
<思い出3>
フォーラム数日前(?)のリハーサルの時、日大演劇科の熊谷先生を古川先生が連れていらして、指導を受けた。演劇の指導というより、ボディーランゲージの可能性を探る身体運動のようなものだった気がするが、よくわからなかったというのが正直な感想。熊谷先生は演劇ワークショップの可能性を探るため、手弁当で私たちの指導に当たっていたのだ。2014年、46歳で急逝されたことを、最近になって知った。



<埼玉日本語ネットワーク設立30周年に寄せて>
                       初代代表 藤沼敏子
 先日、現在の代表の山尾さんから連絡をいただき「30周年記念誌」への寄稿を頼まれました。なんと30周年! 時の流れの速さにびっくり致しました。その後直接お会いして、私も山尾さんも似たようなムーミン体形になっていたので、ちょっとほっとして、共有できなかった歳月の長さに感慨深い思いを抱きました。長く日本語ボランティアを続けて来られた山尾さんはじめ皆様には尊敬しかありません。
 当時、私は埼玉県国際交流協会で日本語講座のボランティアコーディネーターをしていました。そしてある中国残留婦人と知り合いました。それがきっかけになって、日本語教育から中国帰国者の福祉問題に関心が移っていきました。同時にまたその頃、『日本語ジャーナル』(アルク)に1年間の連載を書いていたり、文化庁の中国帰国者のプロジェクトが忙しくなったりして、後任を春日部市で活躍していた元気の塊みたいな野沢光江さんに託し引退しました。
 さて、山尾代表から、設立当時の事を思い出してできるだけ詳しく書いて欲しいという要望をいただきましたので、覚えていることを記しておきたいと思いますが、私ももうすぐ古希を迎えますので、記憶違いや間違いもあるかも知れません。その節はどうぞご指摘くださいませ。
 設立が1992年と聞きました。その前に県内各地の日本語ボランティア有志が、何回か集まりを持ったと思います。記憶が不確かで、手元に残っている資料を検討すると、1995年には、埼玉県内の市町村の国際交流課や国際交流協会等に、日本語教育や国際交流について抱えている課題や疑問、問題点などをアンケート調査しています。この時は、埼玉大学の野元弘幸先生のご厚意で回収先を野元研究室が引き受けてくれましたので、埼玉日本語ネットワークの私書箱よりもだんぜん回収率が高くなったと思います。そのアンケート結果と考察を「定住を前提とする外国人の日本語学習ソーシャル・サポート・システムについての一考察―埼玉県の現状から―」(中国帰国者定着促進センター紀要4号1996.03.29発行)にまとめました。インターネットで読むことができます。      https://www.kikokushaenter.or.jp/resource/ronbun/kiyo/04/k4_06.pdf
 またこのアンケートによって、外国人の増加に戸惑っていた市町村も、国際交流や日本語教室の必要性などに関心を持つようになったのではないかと思います。市町村から県国際交流協会に日本語ボランティア養成講座の講師派遣の依頼が来るようになり、いくつかお手伝いさせていただきました。
 また、県民活動センターに於いて、日本語ボランティア養成講座を3年間担当させていただいたご縁で、生涯学習課から、なにかシンポジウムを開いてみてはという提案をいただき、1995年11月18日、県民活動センターにおいて「埼玉日本語ネットワーク交流会」を行いました。この時もシナリオ「ある日の日本語教室」を当日配るという荒業でした。主役の銭さんを車に乗せてシナリオを渡し、県活に着くまでの時間、車の中で役割を話しました。聡明で機転の利く銭さんは、シナリオを抜け出して素晴らしい個性を発揮し、会場を何度も笑いと共感の渦に巻き込み、大成功でした。野元先生がたくさんのおにぎりを差し入れてくれたことも思い出します。あとで担当者から参加者属性を伺うと、日本語ボランティア志望の人と公民館職員が多かったと聞き、冷や汗が出ました。実はシナリオに不親切な公民館職員を登場させていたからなのです。
 翌1996年2月17日には、ソニックシティー小ホールにて、「多文化共生社会に向けて ―日本語ボランティア活動とは―」というテーマで、演劇「心の扉を開くのは」という簡単なシナリオを用意し、フォーラムを開きました。その時の有志は、春日部の野沢さん、川口の合地さん、越谷の奥村さん、上尾の山尾さん、伊藤さん、小川町の斎藤さん、大宮の逸見さん、有木さん、千野さんなどでした。当時私は、国立国語研究所の日本語教育相互研修の研修生だったご縁で、日本語教育室長の古川ちかし先生(現、台湾東海大学教授)が日大芸術学部の演劇の熊谷保宏先生(故人)を連れて来てくださり、何が何だか分からない中で、ご指導を受けたことが懐かしく思い出されます。この時の様子は、『月刊 社会教育』「演劇を通して日本語教室のあり方を考える」(国土社1996.7)に記しました。
 毎回、ギリギリのドタバタであるにもかかわらず、皆さんのエネルギーが集結すると結果オーライになったのは本当に不思議でした。
 また、1997年には埼玉初となる『埼玉の日本語教室多言語案内‘97』(凡人社1997.02.10)を日本財団の支援で出版することができました。この時は出版に無知で、ISBMも知らず、後になってから、凡人社の知人がISBMをタダで割り当ててくださって、ノリ付きシールに印刷し、1冊ずつ貼っていったのを思い出します。その上いただいた総額すべてを出版費用にあてたため、作り過ぎて山のように本が残ってしまいました。
 当時、あのような活動をしていた私の最大の目的は、私たちの親世代、引いては日本社会全体に蔓延る外国人に対する差別や偏見を打ち破るのに、日本語ボランティアが緩衝材(あるいは起爆剤)になるのではないかと思っていたからなのです。直接接する中で、誤解や偏見を解消し、相互に新たな学びが生まれると思っていました。
 自分の都合で早々と辞めてしまいましたが、個性豊かな皆さんとご一緒に過ごした楽しい思い出は、私の人生の大切な一ページです。その後私事ですが、リタイア後、4冊の本を出版し、2021年9月、『あの戦争さえなかったら 62人の中国残留孤児たち(上・下)』(津成書院)が、第24回日本自費出版文化賞大賞を812点の応募の中から受賞しました。中国帰国者の取材も、紆余曲折あり、途中休みながらでしたがもうすぐ30年になります。終活が迫ってくる中で、まとまった形にできてひとまず安堵しているところです。
 道は違いましたが、日本語ボランティアという好きなこと、やりたいことをライフワークとして、長くやってこられたことは、皆さんの人生の誇りだと思います。いいことばかりではない様々な出来事があったことでしょう。それらを乗り越えてきたからこその30年の重みを想像しています。
 最後になりますが、埼玉日本語ネットワークの今後ますますの発展を祈念いたしております。





本日の日経新聞文化欄に記事が掲載

2022年09月15日 23時30分59秒 | 中国帰国者
本日の日経新聞文化欄に記事が掲載されました。
以下は日経新聞のウェブサイトです。

普段は、私のホームページ「アーカイブス中国残留孤児・残留婦人の証言https://kikokusya.wixsite.com/kikokusya」の閲覧数は4.5名なんですが、今日はたった一日で、350人越えです。

本はともかく、生の声を聞いてください。
記事に出てきた鈴木サダさんは、Eさん。以下のアドレスです。最初にまず、聡明で強烈な個性が光る鈴木サダさんから。彼女が語らなかった艱難辛苦に思いを寄せて。

中島千鶴さんは、Hさん。以下のアドレスです。

佐藤安男さんは、No.31さん。以下のアドレスです。

一日に1人の方のお話を聞くだけで、精一杯。聞いた後は、その方の人生に思いを巡らし、ぼんやり考えながら一日が終わります。
興味を持っていただけたら、ゆっくり時間をかけて聞いてみてください。せっかちな方は、やはり本の方が早いです。お近くの書店に注文するか、図書館で借りて読んでくださいますように。たくさんの図書館に寄付いたしましたのでお近くの図書館にリクエスト申し込みしていただけましたら、地元の県立図書館などから取り寄せてくださると思います。





飯田日中友好協会のホームページ

2022年08月28日 09時09分31秒 | 中国残留婦人
 ずいぶん前に、飯田日中友好協会のホームページに、元満蒙開拓平和記念館設立準備室の事務局長で、現理事長の小林勝人さんが、私の4冊の本を紹介してくださいました。

 それが残念なことに、以下の3冊については、現在在庫がほとんどありません。

『不条理を生き貫いて  34人の中国残留婦人たち』津成書院 2019.7.13 A5版 552頁 定価2,500円。
『あの戦争さえなかったら 62人の中国残留孤児たち―北海道・東北・中部・関東編―(上)』津成書院 2020.07.12 A5版 579頁 定価2,500円。
『あの戦争さえなかったら 62人の中国残留孤児たち―関西・山陽・四国・九州・沖縄・中国の養父母―(下)』津成書院 2020.07.12 A5版 454頁 定価2,500円です。

 売れない売れないと思って献本も頑張っていたのですが、じわじわと気づかないうちに在庫がなくなっていました。
 それで、急遽、順番に増刷予定です。ただ、あまりにも誤字脱字、勘違いなどのミスが多いので、改訂版を準備しているところです。
何事もなくうまくいけば、
 1冊目の『不条理を生き貫いて  34人の中国残留婦人たち』は、9月20日を目途に書店に出回る予定です。
 2冊目、『あの戦争さえなかったら 62人の中国残留孤児たち―北海道・東北・中部・関東編―(上)』は、11月中旬。
 3冊目、『あの戦争さえなかったら 62人の中国残留孤児たち―関西・山陽・四国・九州・沖縄・中国の養父母―(下)』は、12月中には重版できると思います。
 9月27日は、日中国交回復50周年にあたります。日中関係が微妙な時期ですが、新聞やテレビなどでも特集が組まれるのではないでしょうか。9月24日(土曜日)夜10時、NHKスペシャルでは残留婦人の番組が予定されています。これまで取り上げられることの少なかった残留婦人を、この時期に取り上げる意義は大きいと思います。最後の最後の機会だったと言えるかもしれません。私も取材協力いたしました。34人に連絡を取ると、亡くなった方、施設・病院入所中の方が多く、ほんの一握りの方としか繋がりませんでした。テープが癒着してデジタル化できなかった古い8mmビデオテープが、NHKのおかげで甦りました。そこには懐かしいお顔が、、、。
 是非たくさんの方に見て頂きたいと思います。きっといい番組に仕上がっていると思います。そして興味を持たれたら、9月20日頃、書店に出回る予定の『不条理を生き貫いて 34人の中国残留婦人たち』改訂を手にしていただきたいと思います。校正、頑張ります。

①閣議決定で教科書が書き換えられる。②日本自費出版文化賞の大賞を受賞

2021年09月12日 12時12分14秒 | 取材の周辺
 9月9日、私は、日本自費出版文化賞の大賞を受賞し、少し浮かれていたようだ。それは、昨日、日本自費出版文化賞大賞受賞の報告をするため、9月9日の朝日新聞を手に叔母の家に向かうグリーン車(コロナ禍の混雑車両を避けるため)の中で、大きく新聞を広げている時に発見した。NHKのニュースは朝の7時、夜の7時、9時と見て、朝仕事をしながらテレビ朝日モーニングショーをつけ、夕仕事をしながらTBSのNスタを付けている。新聞は東京新聞をとっている。それなのに迂闊だった。まったく記憶にない。
 社会30面の記事を読んで驚いた。政府が適切でないとして、従軍慰安婦の「従軍」を取るように閣議決定し、大手5社の教科書会社は応じたと言う。応じなければ採択を外され、倒産の憂き目にあうのだろう。どこも素直に応じたようだ。閣議決定で教科書が書き換えられる。教科書を書いた学者は、どのような思いだっただろう。
 朝鮮半島の人々を日本で働かせた強制連行も、記述を訂正したという。河野談話はどこ行った?! ここは日本?! 頬をつねりたくなる。一党支配で思想統制された北朝鮮や中国じゃあるまいに!歴史学者ではなく、政治家によって教科書の歴史が書き換えられる。
 びっくりし、がっかりした。受賞の喜びの報告のはずだったのに、意気消沈して叔母のお位牌に手を合わせて帰って来た。
 拙著『WWⅡ 50人の奇跡の命 ー満蒙開拓青少年義勇軍・従軍看護婦・軍人・サハリン残留・沖縄・台湾・満州からの早期帰国者ー』
243頁には、従軍慰安施設(皇軍万歳 第六慰安所 桜楼、と書かれている)3か所と順番を待つ兵士たちの写真が掲載されています。私の住んでいる川越市には、満州の写真集『私の従軍中国戦線』(2005年)を出版した村瀬守保さんという元軍人が住んでいました。そのご近所に住む平松辰雄氏(中国文学研究者)が、生前、村瀬氏に託された膨大な満州の写真を持っていました。その一部をCDでくださいました。許可を得て、この本にもいくつか掲載させていただきました。時に写真や映像は言葉以上に大きな力を持ちます。
 また、244頁には「揚子江に流れ着いたたくさんの中国人の死体」の写真を3枚掲載しています。あまりにもおぞましい写真なので、「よく見ればわかる」程度に小さくしてあります。これは南京大虐殺の1週間後の写真です。
 私たちは民主主義の世に生まれました。しかし今、時の権力者によって、歴史が書き換えられる瞬間を目撃しているのです。こんな恥ずかしいことを、私たちは、ただ黙って指をくわえて見ている。

朝日新聞デジタルの記事をブログに残し、記録しておきます。
≪自費出版文化賞決まる≫
2021年9月9日 5時00分
 第24回日本自費出版文化賞(日本グラフィックサービス工業会主催、朝日新聞社など後援)の各賞が8日、発表された。大賞には、812点の応募作の中から藤沼敏子さん(埼玉県川越市)のインタビュー集「あの戦争さえなかったら 62人の中国残留孤児たち」(上・下)を選出。賞金20万円が贈られる。各部門賞と特別賞は次の通り(敬称略)。このほか、同賞創設から20年にわたって選考委員長を務めて7日に亡くなった歴史家、色川大吉氏の「特別功労賞」受賞も決まった。


 【地域文化】「粟国島(あぐにじま)の祭祀(さいし)―ヤガン折目を中心に―」安里盛昭(沖縄県中城村〈なかぐすくそん〉)【個人誌】「鍬(くわ)の戦士 父・前田定の闘い―満蒙開拓青少年義勇軍に消えた青春―」前田千代子(高知県安芸市)【小説】「ペリーの巣」あいちあきら(埼玉県日高市)【エッセー】「味覚喪失~人は脳で食べている~」元木伸一(静岡県伊東市)【詩歌】歌集「イーハトーブの数式」大西久美子(神奈川県鎌倉市)【研究・評論】「御冠船(うかんしん)料理の探求 文献資料と再現作業」ウ揚華(う・やんふぁ)(那覇市)【グラフィック】「土と緑と人間と―西阿波・祖谷(いや) 傾斜地に暮らす―」日浦嘉孝(香川県丸亀市)


 【特別賞】「四国秘境物語」安森滋(愛媛県西条市)▽「お前の親になったる」草刈健太郎(大阪市)▽「墓仕舞い」荒川れい子(千葉県市川市)▽「阿波の福おんな」安部才朗(島根県隠岐の島町)▽句集「峡(かい)の畑」石井美智子(秋田県五城目町)▽「イタイイタイ病と戦争―戦後七五年忘れてはならないこと―」向井嘉之(富山市)▽「モリノコ」黒瀬麻美(松山市)≫https://www.asahi.com/articles/DA3S15037738.html




TBSラジオ 荻上チキ セッションに出演して(https://www.tbsradio.jp/articles/43044/)

2021年08月17日 15時41分52秒 | 取材の周辺
 昨日、TBSラジオ「荻上チキ セッション」に出演しました。
ラジオ出演は、実に20数年ぶり。以前、『日本語ジャーナル』(アルク)という雑誌に「ちきゅう家族の生活術」という連載を書いていた頃、NHKから取材が来て、夕方の時間だったと思いますが、「国際化」に関することをお話した覚えがあります。その時、NHKのロゴ入りのCDウオークマンを記念に頂き、当時はけっこう使っていました。

 緊張して心臓はドキドキバクバク。言おうと思っていたことを言い忘れ、言うつもりのなかったことがスルスルと口をついて出て来てしまって、自分でも驚き、聞き返すと後悔の嵐!補足したいことがいくつかあります。

【補足したいこと その1】
 中国残留婦人たちが、当初日本に帰って来られなかった理由は、いくつかあります。
①中国人と結婚したため、日本国籍があるのに外国人として取り扱われ、「身元引受人」が必要だったから。帰化をさせられた人もいました。(のちに法改正あり)「身元引受人」の重要キーワードがなぜ出てこない?
②一時帰国で帰って来た時、その振る舞いが「中国人的」であるとして、親戚から総スカンを食らい、だれも親戚が「身元引受人」になってくれなかったから。
③相続の問題。今さら帰って来ても、兄弟の分け前が少なくなるという考えから帰国を歓迎しなかったから。
④帰国後、生活保護を受給する時、親族への資産調査があり、「援助できない理由」を書かされた。支援法ができてからは親族への資産調査はなくなったが、親族に生活保護受給者がいるということが、小さな村では話題になり、肩身が狭くなるという考え。

【補足したいこと その2】
荻上チキさんは、従軍看護婦の「引き揚げの混乱」について聞いてくれたのに、私は婦人公論の澤地久枝さんの発言について話をしてしまいました。本当は、『7,000名のハルピン脱出』(嘉悦三毅夫著)について、話したかったし話すべきだったのに。
 この本は非売品である為、現在は国会図書館から取り寄せないと目にすることができないかも知れません。
 2015年頃、友人が『七〇〇〇名のハルピン脱出 』(嘉悦三毅夫 著、1971年 非売品)という本を貸してくれました。満州国軍事顧問であったハルピン第一陸軍病院院長によるものです。題名にもある通り、ハルピン第一陸軍病院の傷病兵、衛生兵、従軍看護婦たち七〇〇〇名を早々にハルピンを脱出させて、終戦の翌月、9月末には仙崎・博多に無事帰還していたということが、嘉悦院長の筆致で描かれていました。敗戦から1か月半で七〇〇〇人もの傷病兵、衛生兵、看護婦さんたちが無事帰還できたということに驚きました。その中に赤松しづゑさんも金城文子さんもいたのです。本当に無傷で帰還できた唯一の部隊でした。
 話の流れとしては、そのことを話すべきでした。なのに、婦人公論8月24日号の『対談 元軍国少女が封印した「終戦」 昭和20年夏、満州で起きたことを今こそ語ろう 澤地久枝×上野千鶴子』を読んで、心に違和感を抱え続けていることができなくて、どこかで吐き出してしまいたいという衝動に駆られたのではないかと自己分析します。
 澤地久枝さんは、対談の中で「満洲に最初に入って来たソ連軍は、囚人兵だと言われています。でも、2か月ほどで正規軍に変わり、軍規も厳しくなった。そして46年1月頃には撤退している。つまりソ連軍による性被害は、最初に進駐してきた2か月程度じゃないでしょうか。ずっとあったわけじゃないと思います」と。
 拙著『WWⅡ 50人の奇跡の命』185頁コラム3「日赤従軍看護婦の筆舌に尽くしがたい運命」で、さいたま市の青葉園霊園の青葉地蔵尊について記しました。ソ連兵の蛮行(レイプ)から逃れるために22人の看護婦さんが自決しました。遺書の日付けは昭和21年6月21日でした。その顛末が碑に刻まれています。
 チキさんがまとめてくれたように、たくさんの人の証言を集めて様々な角度から検討しないと事実に到達できないと思います。
 また、加藤聖文先生が書いてくださった推薦の言葉の中に、黒澤明の映画「羅生門」を例に、以下の記述があります。
引用「黒澤明の映画「羅生門」は、芥川龍之介が今昔物語を下敷きにして書いた短編「藪の中」をモチーフにしたもので、私が好きな映画の一つです。一人の武士が死んだという事実をめぐって、その場にいた三人の当事者(盗賊・武士の妻・武士の霊)がそれぞれ全く違う話をします。しかも、それを目撃していた四人目の男(杣売り)にとって三人の話はどれも真実ではありませんでした。人間とはなかなか一筋縄ではいかない存在で、彼らの行為の真実を明らかにすることは容易いことではありません。その一方で、人間は歴史の真実に迫りたいという気持ちを押さえることができないのも事実です」引用終り

 インタビューのそのままを記述し残すと言っても、そこには必ずインタビュアーの解釈が入ります。従軍看護婦の赤松しづゑさんは、インタビューの中で、「ひと夏、731に行っていた」と、証言していました。そこで何をしていたのかを尋ねても、「たいしたことはしていなかった」という応えでした。その時は、731の医療従事者は口外禁止令がかかっているから応えられないのかも知れないと思いました。その後、『戦争・731と大学・医科大学―続 医学者・医師たちの良心をかけた究明 』を読み、滋賀医科大学の西山勝男先生に
赤松しずゑさんが、1945年1月作成の731の名簿にあるかどうか、調べていただきました。旧姓で調べていただきましたが、名簿にはありませんでした。
西山先生のメール、一部引用「ご承知かと思いますが、ハルピン陸軍第一病院と関東軍は別組織です。2004年時の調査でハルピン陸軍第一病院跡は駅などになっていてあとかたもありませんでした。しかも私が入手した関東軍防疫給水部の名簿は1945年1月1日に作成されたものですから、仮にそれ以前に隊員であったと場合には、名簿には記載されていないはずです」
 これでは「いなかった」証拠にはなりません。149頁に載せた写真は、赤松さんの字で、「S,18年夏 平房」と書き加えられています。にこやかに夏野菜を収穫している赤松さんと、その後ろで5人の衛生兵とみられる男性が、釣り竿を持って談笑している写真は、穏やかそのものです。何度もビデオで証言を聞き直し、今思うことは、赤松さんは731の人体実験に加担していた訳ではなくて、731の職員のための診療所が平房にあって、そこにひと夏行っていたのではないかと私は解釈しています。「お産の時には何度も駆けつけた」とも言っていました。職員のご家族のお産だったのだと思います。
 731の事は、知りたくないと思う気持ちが正直強いですが、知らなければいけないことだと思っています。





「NPO中国帰国者の会」企画の写真展が2月19日から21日まで開かれる

2021年02月09日 11時50分15秒 | 中国帰国者
昨日の東京新聞「こちら特報部」の記事。

 昨日、新聞を開くと、中国帰国者の会の創設者であり、長年、会の代表を務めてこられた鈴木則子さんの写真が目に入った。長年、会の事務局長を務めてこられて若くして急逝された長野浩久氏の紹介で、何度かお会いさせていただきました。彼が司会を務めた新年会にも参加させていただいたことがありました。
 慈愛に満ちた眼差しで私の話を聞いてくださり、私に欠落していた視点をアドバイスしてくださった。それから数年後に、残留孤児の国家賠償訴訟の先行裁判としての残留婦人裁判を模索している時、庵谷磐さんから、埼玉の「紅梅の会」の「村上米子さんを連れて来て。皆で一度会いましょう」と、言うことになった。この時には、鈴木則子さんも村上米子さんも杖を突いていて、かなり体力の衰えは見られたが、知力・気力とも充実していて、話が尽きることはなかった。
 最終的に、東京都の残留婦人の国家賠償訴訟ということで裁判方針が決まったようだった。
 鈴木則子さんは、日本に帰国したくても帰国できない残留孤児たちに絶えず心を砕き、中国東北部で日本への帰国を待つ孤児たちのために日本語教室を開き、身元引受人を探し、国がやらない帰国後の問題にも個別に対応してきた。80年代、90年代には、それを支える高齢のボランティアも多数存在していた。長野さんから聞いたひとつのエピソードを思い出す。帰国者のボランティアに熱心な方が帰宅すると、家から締め出されて入れない。そこで庭の柿の木を登って家に入ろうとしたが、枝が折れ落下。それが元で亡くなったと。このエピソードももう誰も覚えていないのかも知れない。
 鈴木さんの人望に支えられて「中国帰国者の会」を支えた高齢ボランティアの存在も忘れてはならないと思っています。
 鈴木さんの歴史を見る目、さまざまな状況を俯瞰し、目標に向かって効果的な対処法を編み出す力は素晴らしかった。それを実践面で支えた長野浩久さんの行動力も素晴らしかった。お二人の話をもっともっと聞いて置くべきだったのに。
 フォトジャーナリストの山本宗補さんは、長野県御代田出身とのこと。二十数年前に、御代田に住む中国帰国者にインタビューしました。当時のビデオテープが癒着のため復元できず、残念でなりません。訪問すると庭の井戸でトマトを洗っていた。声をかけると手を休めることなく振り向いてくれた。その一瞬の不可思議そうな表情が、私の思い出写真館に今もあり、いつでも思い出すことはできます。

『証言 天安門事件を目撃した日本人たち』(ミネルヴァ書房)

2021年02月05日 10時30分03秒 | 取材の周辺
 数週間前に『証言 天安門事件を目撃した日本人たち』の著者の一人である櫻井澄夫さんから、本が贈られてきました。
 ずっと次の本の執筆以外のことは考えられない状態で、著者には「次の本を出したら、読ませていただきます」と、メールしたのだった。私は過集中のところがあり、今は次の本を書くこと以外、できるだけ手を抜いている。だからブログなど書いてる時間はないはずなのに。
 1月31日、朝日新聞書評欄の記事を、櫻井さんがメールで送って来てくれて、拝読しました。
 評者の加藤聖文先生とは、数年前に開かれた抑留研究会(成蹊大、富田武先生主宰)の先生の本『満蒙開拓団 虚妄の「日満一体」』(岩波現代全書、2017年)合評会でコメンテーターをさせていただいたことがありました。また加藤先生は、総合研究大学院大学の准教授でもありますが、知名度が低いせいでしょうか、ノーベル賞受賞者でさえ、以前の大学名を使い、総合研究大学院大学の名前は使いたがらない傾向があるように思います。私は博士課程を過ごしましたが、一番良かったと思える点は、図書室にお願いすると読みたい論文がすぐに入手できたこと、道の向かいには都立中央図書館があって便利だったことです。次によかったのは、ブラジルからの留学生、ハワイからの留学生とその配偶者、バングラデシュの留学生夫婦と親しくなれたことでしょうか。公園で大人数でジンギスカンとかしたけれど、あれよかったのかな?届け出とか出していたのかな?一番年上の私が確認すべきことだったのに。
 後は何も覚えていない。思い出さない。 現在、コロナ禍で都立中央図書館はネットで予約して行っても3時間で入れ替え制。使い慣れた図書館なんですが、利用を諦めました。
 
ブログに書こうと思ったのは、書評欄を読みながら『不条理を生き貫いて 34人の中国残留婦人たち』(津成書院 2019) 第1章 中島多鶴さんの話を思い出したからです。これはやはりブログに残しておいた方がよいと考えました。

 中島さんは、NHKの取材協力で中国に一人で発つその日に、成田空港で天安門事件を知り、新聞を買って現地入りしました。先に現地入りしていたNHKのスタッフは、だれも天安門事件を知らなかったということでした。動画はこちら(https://kikokusya.wixsite.com/kikokusya/nakajima-tazuru-c1svq)

【第1章 中島多鶴さん 一部抜粋 45頁】
【帰国支援】
 中国へ手紙をやると、「日本に帰りたい」ちゅう手紙が返って来る。そいで私は、NHKと一緒に行って、あの『忘れられた女たち』 ができたわけね。これ、1か月行ったんですよ。ちょうど天安門事件のあった頃。NHKはね、大連から機材を積んで、ホッキョウへ行っちゃったの。ホッキョウに泰阜の人が1人いたから。ドウコウケンちゅうところに。そいで私、1人で行ったの。佳木斯まで。そいでもね、北京からガイドさんがついてくれた。北京空港で、「中島多鶴さん」っていう旗持って迎えてくれたもんで、「はー、やれやれ」と思って。ほいでもう、天安門事件でしょう。「これは行けるかなあ」と思ったが、終戦の時の事を思えば、「そんな弾が何? 怖くないわ」と思って。もう、ここまで来ればね。「しょうがないわ」と思って。
 NHKが航空券を送ってくれてね。成田から1人で乗って、新聞を買ってリュック入れて。哈爾浜行きに乗ったんだ。哈爾浜へ行ったら、小さな15人乗りの飛行機。プロペラ機、初めて乗った。佳木斯はね、空港じゃなくて、草むらへ降りたんな。ま、乗っちまえば、度胸が据わるもんで。7日にNHKと落ち合う約束だったもんで、何がなんでも、佳木斯のホテルへ着きさえすればいいと思って。ほで、女のガイドさんがついとってくれるしね。でもね、みんな戸が閉まってましたよ。天安門事件があったもんで。そしてね、報道はしないの。そういう事を。だけど知ってる人もおってね。みんな、戸閉めちゃったんだね。NHKの方も、知らないの。7日の日にね、落ち合うわけだったの。ほんで、私が5時に着いて待ってたら、「黒竜江から船で来た」って言って、カメラマンと2人だった。通訳が2人。英語の通訳と日本語の通訳と、合計4人が来てくれたの。「あー、中島さん、よく来てくれましたね」って。そいで、あの新聞を見せたの。「あー、やっぱりそうか」天安門事件が怖かった。「中島さん、よく1人で来る気になった」って言うもんで、「そりゃそうですよ。あの敗戦の時の事を思えば、問題じゃないですよ」て、私言ったの。北京に降りた時ね、夜中にパンパーンって音がするの。ほんと、怖かったですよ。そいで1か月おったの、中国に。ずっと回って。佐藤治さんから、山下一江さんから。山形県とかそういうとこの人もいっぱい集まって来てたけれど、泰阜の人を中心に6人に会った。それぞれの家庭を訪ねるの。方正だけじゃなくて、延寿(エンジュ)県とか牡丹江、佳木斯まで行った。そのテレビのビデオを見てもらえばわかるけどね。
 この取材の前に、昭和33年の5月に、佐藤治さんが紅十字会のお世話で一時帰国してて。で、佐藤治さんから、近所に20人ぐらいの日本人が残ってるっていう話を聞いて住所を調べたら、みんな「帰りたい」って泣いていたっていうようなことで、それから帰国支援が始まった。1984年 、昭和59年の9月に村長さんたちを連れて方正に行って、いろんな方が生きてるってことがわかって。それが、NHKの1989年のあの取材の原因になったっていう感じですよ。取材が6月。放送は、9月3日だね。1時間番組が出来たの。
佐藤治さんも数奇なっていうか、一時帰国で帰って来ている時に、「長崎国旗事件 」が起きて。治さんとしても、子どもとか置いてきちゃったから、「ここで中国に帰らなかったら、もう帰れないかもしれない。帰る約束してきたから、「帰る」っていう選択をして帰ったんですよ。その事件が元で、結局、日中国交断絶になっちゃって。今度は中国から日本に帰れなくなっちゃって。
 NHKの方たちと一緒に、佐藤治さんにもお会いして。それが2時間、荒野に連れてってね。家では家族がいるから、本当のことをしゃべれないら。そこらはNHKですよ。荒野でね。私もそばに行けないから、こっちおったけど、治さんが上手いこと言ってくれたの。本当のことを言ってくれたの。それで、いい番組になったの。あの人、頭のいい人でな。もう、テレビ見たとおりの事をね、全部話してくれた。中国の政府の通訳はついとるけど、政府の悪口だって言ったりしたけど、政府の人いないもんで。そいでこの「忘れられた女たち」っちゅう番組ができたわけ。(抜粋終り)

 中島さんが歩んできた道は、まさに歴史の証言そのものです。インタビューの1年後にお亡くなりになってしまいましたが、お会いしてお話を伺うことができ、動画で残すことができたのは幸いでした。多くの方からも感謝の言葉をいただきました。

「蟻の兵隊(注)」という映画を数年前に都内の大学で見ました。その映画の後半で、主人公のおじいさんが、民家(旧軍部?)の周りをうろうろしながら、「何百人もいた孤児はどうした!」と罵声を浴びせるシーンがありました。とってつけたようなシーンで、違和感がありました。私がもし、中島多鶴さんに会う前だったら、このシーンを見て、「何百人もいた孤児を始末してしまったのか?!さもありなん」という印象を持ったことでしょう。しかし、彼女が葫蘆島で帰国を待つ多くの日本人の中で、泰阜村帰国第1号になれたのは、看護婦として400人の孤児を日本に引率するという任務があったからです。映画の後、製作関係者のところに歩み寄って、そのことを話しましたが、まったく関心を示してもらえませんでした。

【400人の孤児を引率して帰国】39頁抜粋
 そして、今度は列車が通っていたので、奉天まで列車に乗してもらって行ったの。日本人がいっぱいいるの。「日本へ帰りたい」って言う人ばっかり。もう、収容所が、あちこちにあってな。したけど、高碕達之助 っていうね、満州国の総領(?)をやってた偉い人がね、日本人を世話してるんだね。そいで、私、そこへ行ったの。兵隊が外へ出れないから。ソ連軍が来ると連れて行かれちゃうで、だめだっていうことになって。ほいで、「あんた、お使いをしてくれ 」ちゅうもんで、高碕先生とこへ、私、2日通った。「私たちは、北の方から、歩いて、歩いて、歩いて、何百里歩いたかわからんけど、やっとここまで着いたんで。早く、日本に帰りたいと思って。何かできることがあったら、お手伝いしますから、先生教えてください。私は看護婦してたの」って、こう言ったの。その一言が、「あ、そうか。そいじゃなあ。ここに孤児がいっぱいいるで」「10か所にね、400人くらいいる」って言った。その時。「400人?」ってびっくりしちゃってな。「行って、見てくるように」って言うからね。行って見たらね、骨皮。みんなこんなに(元気の無い表情)なっちゃって。そんな子どもを預かってもね。「もし、列車の中で亡くなりゃ、困る」って言ったら、「ここにおっても亡くなる。毎日。だから亡くなるのはしょうがない。そいじゃ、列車を出すで」って。1週間以内で列車が来た。無蓋(むがい)列車ですよ。 ちょうど、雨が降らなんでよかったけれどね。それで、子ども全部兵隊が集めて、列車に乗せちゃったの、22両の無蓋列車に。カンパンが1人に1袋、1週間分。ビスケットの味の無いの。「これを食べさして、水をとにかく飲ましてきゃ、いいで」って言うんだよ。水だけ飲ましたって、生きていけるんだでって。1日に5個くらいしか無いんだ。もっとあったかな。10個くらいあったかな。そいで、子どもたちにね、10歳くらいの子どもは、もうお手伝いもしてくれたしね。だけど、夜になるとね、小さい子どもが泣いてね。「お母ちゃん、お母ちゃん」って泣くじゃない。子どもたちが私のとこ、みんな集まって来て、「先生、先生」って言ってくれて、かわいかった。みんな10歳以下だった。あまり大きい子はいなんだ。3歳ぐらいから10歳ぐらいの子。大勢ですよ。もうものすごい大勢ですよ。それからね、列車の隅にね、草を刈って来て置いて、兵隊が「ここを便所にするんだよ」って、決めてね。夜になるとみんな私のとこに集まって来るの。そだけど、私はここだけじゃない。次のとこ、また次のとこ行かんならん。私を入れて14人で、その400人を見たの。ってわけで、もう、自分が死んじゃうかと思った。このお腹が、ここ(背中)ついちゃってな。病気上がりだから。そいで歩いて来たでしょう。ほいでも「頑張らにゃ、しょうない」それが若さ。21歳。そいで頑張ったんですよ。生きるということは、我慢せにゃだめだっていうことを覚えてね。ほいで兵隊が心配してくれた。「大丈夫か?」って言ってくれた人もおった。親切にね。だけど、兵隊だって大変だったですよ。
それでもね、列車に乗っちゃって1週間で葫蘆島(コロトウ)に着いたの。葫蘆島へ着いたら、アメリカの兵隊が来てて。もう夏だもんで暑くてねえ、炎天でね。水飲むよりしょうがない。子どもたちに、「日本へ帰るんだから、みんな元気出してな」って言っちゃ、みんなをなだめてきたの。親の名前も知らんような子どもばっかだったから、可愛そうだと思ったですよ。葫蘆島へ着いたらね。アメリカの兵隊がトラック持って来て、日本の兵隊も手伝って、亡くなった子どもは亡くなった子どもで別にして、そして、イバラヤマちゅうとこあって、そこへみんな持って行ったの。葫蘆島まで着いても、船に乗れなかった子どもたちも、いっぱいいた。100人近くおった。300人くらいが生きとって船に乗れたかも知れない。そんなの数えたことないから、わからんけど。朝、起きてみるとね、眠ってるんだと思うと、そうじゃない。亡くなってるの。ま、そういう目に遭ってきたけどね、とにかく、私、自分もね、「自分が死んだら、この子ども預かったんだで」と思ってね。頑張ったんな。そいでも、水は飲んでね。乾パンを2つばか食べちゃあおったけどね。やっぱり体力があったんなあ。歳が若かったもんでね。
博多に着いたのは、昭和22年の8月16日。(抜粋終り)


(注)昭和二十年八月、日本は無条件降伏した。だが彼らの帰還の道は閉ざされていた! 北支派遣軍第一軍の将兵約二六〇〇人は、敗戦後、山西省の王たる軍閥・閻錫山の部隊に編入され、中国共産党軍と三年八カ月に及ぶ死闘を繰り広げた。上官の命令は天皇の命令、そう叩き込まれた兵に抗うすべはなかったのだ──。闇に埋もれかけた事実が、歳月をかけた取材により白日の下に曝される。


『不条理を生き貫いて 34人の中国残留婦人たち』(津成書院 2019)は、まだ多少在庫があります。ご希望の方は、地元の本屋さんか、ネット書店に注文してください。宣伝になってしまいました。
















神戸大学 浅野慎一先生 YouTubeデビュー

2021年01月14日 11時45分13秒 | 取材の周辺
 神戸大学 浅野慎一先生から、年頭に年賀メールと共にYouTubeデビューするとのお知らせが届きました。拡散していただきたく、以下にコピペします。

<この度、私が所属する残留孤児支援関係組織で、youtubeで情報発信しました。
私にとってはYouTubeデビューです。
お手すきの際、覗いてみていただけるとありがたいです。
https://www.youtube.com/watch?v=CSTk_dGzJtU
併せて、お知り合いの帰国者問題に関心をお持ちの皆さんにも拡散・宣伝していただけるとありがたいです。>

 浅野先生との最初の出会いは、1997年秋の日本社会学会(関西の大学)で、中国帰国者問題について発表した時でした。北海道大学の院生と神戸大学の院生を伴い、私の発表を聞きに来てくれました。その後、皆さんと大学の近くでお好み焼きをご馳走になりました。初めて食べた牛筋のお好み焼きが美味しくて感動しました。その後、お好み焼きを食べるときは必ず牛筋のお好み焼きを頼み、その時のことを思い出していました。私の記憶では、「良い研究と良い研究者」について、議論したように思います。未だにあの時のように美味しいお好み焼きには出会えずにおります。
 その後、本や紀要が出版されるたびに送って来てくれましたが、私はそれから引っ越しをしたり、研究や仕事を辞めて家業に従事したりしておりましたので、長い間、関係は途絶えておりました。
 一昨年、昨年と、私の本を贈呈し、今年の年賀メールとなりました。よく考えたら、最初の出会いが最初で最後、1回しか会っていません。しかし、今後も「良い研究者」として、きっと「良い研究」をなさってくださるものと期待しています。
 

正誤表『あの戦争さえなかったら 62人の中国残留孤児たち(上巻)(下巻)』(津成書院 2020.07.12)

2020年12月17日 11時25分12秒 | 取材の周辺
 平素からズボラな行動パターンながら、こと本に関しては、細心の注意を払ったつもりでしたが、たくさんの誤記が見つかりました。
 証言者の皆様、取材協力者の皆様、関係者の皆様、本を買ってくださった皆様に、大変申し訳なく存じます。正誤表ができましたので、お手数をお掛け致しますが、誤記を訂正し、ご高覧頂けますようお願いいたします。

『あの戦争さえなかったら 62人の中国残留孤児たち―北海道・東北・中部・関東編―(上)』(津成書院 2020)
p.11 16行目、p.13 11行目、 p.148 3行目、p258 3行目、p.504 南都留郷(広富山)開拓団 → 広富山南都留郷開拓団 
p.13  3行目、p.415 1行目、p.418 2行目 苗地(ビョウチ)→(ビョウテイ
p.34 注28 容疑をかけられ者、下放されたもの → 容疑をかけられ者、下放された
p.37 注33 1957(32)→ 1957(昭和32)年
p.39  5行目 9月末現在 → 2019年9月末現在 
p.46  12行目 彼らこそ戦争の犠牲であり → 彼らこそ戦争の犠牲であり
p.67  15行目~17行目 姉さんの子ども12~13歳だったの。… お金ないから。 削除
p.118 5行目 一時帰国 → 一時帰国 兄が見つかる 
p.119 13行目 1972(昭和47)年、日中国交回復になったあと、東京に住んでいた兄が、電話で連絡を~→ 1988(昭和63)年肉親捜しで東京に住んでいた兄が見つかったあと、兄が電話で~ 
    14行目 兄は一生懸命捜したみたいです  削除
p.121 7行目 「これ何ですか?」って聞くと → 「これ何ですか?」って聞く人もいる。
「わかんなかったら、市のほうに聞きなさい」って。→ 「わかんなかったら、市のほうに聞きなさい」って、私は言います。
p.122 3行目 おじさん、おばさんたち → おじさん、おばさんたち
p.123 6行目 奥さんと子ども3人で永住帰国 → と子ども3人で永住帰国(自費)
p.125 9行目 向う→向う   9月の始め頃は →9月の初め頃は
15行目 おじさん、おばさんたち → おじさん、おばさんたち
p.165 16行目 p.166 3、7行目 開放 → 解放
p.228 2行目 おとう(夫)ちゃん → おとうちゃん(夫)   10行目 務めた → 勤めた
p.238 13行目 中国開放 → 中国解放 
p.244中国在住38年 → 37年  一時帰国を永住帰国に切り替える
p.254 2行目 太古洞 → 大古洞
p.259 13行目 こんな苦労をさせてきたことを → こんな苦労をさてきたことを
p.263 12行目, 20行目 1997(平成8)年 → 1997(平成9) 年
p.306 9行目 7人で帰国 → 7人で永住帰国
p.324 7行目 日本人に助けていただいたところ → 日本人助けていただいた
8行目 旗をもっとらんようなね → を持っとらんようなね  
p.337 10行目 10歳年の → 10歳の  14行目 次男 → 長男
    15行目 次男28歳  → 31歳
p.352 一時帰国後、4、5年で永住帰国 →2回目の一時帰国(自費)を永住帰国に切り替える 
p.361 2行目 そのお兄さんは → そのお兄さん(異母兄)は (関係をはっきりさせるために)
p.364 3行目 p.366 9行目 話とった → 話とった
p.374 一時帰国から2年後、永住帰国に切り替える →一時帰国から1年3か月後、永住帰に切り替える  
p.375 10行目 39歳 9月 永住帰国に切り替える→ 38歳 1月 永住帰国に切り替える 
p.379 18行目 上郷のルビ かみごう → かみさと
p.388 中国在住34年 戦後中国在住47年 戦後在住44年  線部分削除
一時帰国から永住帰国へ → 一時帰国から9年で永住帰国 
p.418 証言者プロフィール   全面修正
  1942(昭和17)年 両親が渡満 (苗地(ビョウチ→ビョウテイ)伊南郷(いなんごう)開拓団)  
1945(昭和20)年 苗地伊南郷開拓団で生まれる 
 終戦 父はソ連軍に足を撃たれ、その後感染症で亡くなる
1948(昭和23)年 3歳 母が中国人と結婚 その後、弟が生まれる
1959(昭和34)年 14歳 母の日本国籍抹消
   (不詳)       中国人と結婚(子どもは2人)
1974(昭和49)年 29歳 母が1人で一時帰国(国費) 9か月滞在、親族と会う  
1993(平成5)年  48歳 9月5日に母が12人と強行帰国、永住帰国 (自費)を果たす
          母と自分の国籍取得
1995(平成7)年  50歳 家族全員で永住帰国 夫婦(国費) 子ども家族(自費)
2005(平成17)年 母が92歳で亡くなる
インタビュー 2013年11月3日  68歳  場所 
p.422 脚注73 阿南日中友好協会→南日中友好協会
p.470 12行目 太古洞開拓団 → 古洞開拓団
p.481 最後の行 親父は、真の親父(継父)じゃないけど → 親父(継父)は、真の親父じゃないけど
p.487 5行目~7行目 本当の親じゃないから…だから、家内と喧嘩にならないように 「 」を削除
p.488 1行目 妹弟6人 → (義理の)妹弟6人  
p.493 14行目 怪我がしたり → 怪我したり
p.495 p.496 小八浪のルビ ショーパラン  →  ショウパラン
p.505 3行目 南都留郷のルビ みまみつるごう → みなみつるごう 
p.530 8行目 1984(昭和51)年 → 1984(昭和59)年
p.550 2行目 10月14日生まれ → 10月 黒竜江省牡丹江市で生まれる 
p.550 15行目 2004(平成16)年 → 1996(平成8)年 
p.554 6行目 「弱い物はいじめたらダメ」→「弱いはいじめたらダメ」
p.560 16行目 その人の家に探しに行った → その人の家に捜しに行った 
p.565 18行目 2004年12月4日 →2004年(注)意見陳述書によると1996年。本人の勘違いか。 
p.571 15行目 18行目 20行目 探し → 捜し

『あの戦争さえなかったら 62人の中国残留孤児たち―関西・山陽・四国・九州・沖縄・中国の養父母―(下)』(津成書院 2020)

p.22 16行p.164 1行目、p.165 3行目            柞木台(サクボクダイ)土佐郷開拓団 →下欧根土佐郷開拓団
p.22 17行 p.185 1行目  p.256 1行、15行 柞木台(サクボクダイ)土佐郷開拓団 →柞木台(サクボクダイ)開拓団
p.22 証言45冨樫ムツ子さん p.118 1行目 p.119 4行目   p.121  7行目、16行目   p.129  16行目 p.160 4行目、5行目 大田郷開拓団→田郷(おおたごう)開拓団 
p.37 12行目 『引き上げと援護30年の歩み』 → 『引き揚げと援護30年の歩み』
p.45 注30 容疑をかけられ者、下放されたもの → 容疑をかけられ者、下放された
p.50 6行目 9月末現在 → 2019年9月末現在 
p.54 15行目 一定の基準を満たない → 一定の基準満たない 
p.55 5行目 問題は数多くあります → 問題数多くあります 線部分削除
P57 11行目 彼らこそ戦争の犠牲であり → 彼らこそ戦争の犠牲であり
p.79  12行目発音は「ソウハンハ」相反派(反対派)か造反派(反逆者)か、不明 
p.83  16行目 終って → 終って    
p.103  一時帰国後2年で永住帰国 → 一時帰国なしで永住帰国 
p.113 後ろから6行目 三郷 → 3号 
p.141 一時帰国後5年で永住帰国 → 一時帰国後1年で永住帰国 
p.143 16行目 従姉妹に当たる妹の所 → 妹の所  線部分削除
p.154 11行目 1月 → ひと月 
p.156 1行目~2行目 唐山市での仕事は、また夜勤の仕事。鉄道を作る工場だった。  線部分削除
p.161  5行目 厳い寒さ → 厳い寒さ
p.164  一時帰国を永住帰国に切り替える → 2回目の一時帰国(自費)を永住帰国に切り替える
p.190 11~13行目 6つの郷でしたけど、…土佐郷と東予の2郷は出てこなかった。 → 線部分削除し、「土佐郷と東予の2郷は出て来なかった」をp.191  5行目の最後に移動
p.196【川を渡る】のパラグラフを【方正県に着く】の前に移動
p.209  7行目泊って → 泊って
p.212  14行目泊ったんや → 泊ったんや  
p.215  20行目泊って → 泊って
p.230 18行目 (トウフェ) → (土匪)
p.257 7行目 石川千代 → 石川千代さん
p.263 9行目 立って見ていね → 立って見ていね   12行目 もう1人の弟も妹も2人も斬られた → もう1人の弟も、妹2人も斬られた
p.286 4行目 子どもたちを連れて逃避行の末→連れて逃避行の末 線部分削除
p.287 琿春の難民収容所に → 西太廟難民収容所に
p.294  2行目~5行目 「日本語は…夜間の準看学校~家内は…話してます~戦争がなければ私も…」→  「上の子は、日本語は…夜間の準看学校。(中略)家内は。(中略)戦争がなければ私も…」 
p.296  10行目 当って → 当って
p.301 20行目 向った → 向った
P317 13行目ホウアン → 興安 
p.341 2行目 こんなことできよ → こんなことでき
p.357 2行目 行かないと行けない → 行かないといけない  14行目 お母さん → お継母さん
p.360 10行目 車の運手 → 車の運転
p.379 18行目 ウチは、34歳 →  34歳(数え)
p.382 3行目 2本持ってても → 2本持ってても
p.402  1938(昭和14)年 → 1938(昭和13)年  
   注87 2行目 統計的数字などは頼った → 統計的数字などはこれに頼った 
p.404 3行目 看手 → 
p.405 14行目の最後 いましたからね>(81頁) → いましたからね。 線部分削除
p.409 写真の説明 図佳(ズケイ)線 → 図佳(とか)線 
p.412 15行目 養父母は…1回だけもらった。養父母はまだ生きている。
→ 養父母たちは…1回もらっただけ。養父母たちはまだ生きている。
p.415 2行目 翌年か翌々年に → インタビューの翌年か翌々年に
p.418 1行目 証言63 58 → 証言63  線部分削除
p.426 12行目 大坂 → 大
p.434 1行目 川添緋沙子さんのように → 川添緋沙子さんの養父母のように
p.436 7行目 25年度 → 平成25年度
p.454 3行目 江本三男さん(小古洞蓼科郷開拓団)さん   線部分削除


無言館、無言館第2 訪問

2020年12月05日 10時49分36秒 | 取材の周辺
 今朝は真っ白な雪景色。温泉大好きな夫と一時間でも長くパソコンにしがみついていたい妻の利害が一致。また温泉です。今回は長野の温泉、ジム、プールもあります。

ずっとホテルに籠っていたので、一昨々日、無言館に行ってきました。昨日の朝日新聞夕刊に大きく出ていたと、友人が記事をメールで送ってくれました。



無言館には第1と第2があって、けっこう若い人がたくさん見に来ていました。車椅子は両方に備えられていました。


<無言館>

<無言館 第2>
 絵画を見るのは問題ないのですが、ショーケースは高すぎて車椅子からは無理でした。ショーケースがもう少し、あと20~30㎝低かったら問題なく見ることができると思いました。そこで大事な資料を発見しました。写真はNGなので、メモしました。賞状には「志那事変に於ける勤労に依り 金参拾円を賜ふ 昭和十五年四月二九日 陸軍省」と、ありました。どのような勤労だったのか、想像するしかありませんが、何か事あるたびに報奨金のようなものが軍人に配られていたことが窺われます。
 
 絵ごとに、その人と背景が書き加えられていて、心動かされました。
例えば「裸婦」日高安典
「大正七年一月二四日生まれ、鹿児島県種子島に出生、昭和十二年四月東京美術学校油絵科入学、一六年一二月繰り上げ卒業し、一七年に出征、二〇年四月一九日ルソン島バギオにおいて二七歳で戦死。『あと五分、あと十分、この絵を描かせておいて欲しい』」と言って、出征直前まで恋人の裸身像を描いていたということです。
 
 また、自画像が多かった。それぞれの自画像は出征を前に静かに自分自身と対峙しているように思えるのだが、またそれは、絵を見る人(私)に自分自身の内面を覗かせるという役割も果たしていた。
 ほとんどの方が20代前半でなくなっている。特に目についたのは、南方諸島。フィリピン、ビルマ、ニューギニアなど。それから沖縄、満州など。結核による病死も多かった。
 絵の作者名しか記録のないものもあり、できるならばその背景、人となり、絵にまつわるエピソードなどを調べて記録しておいてほしいと思いました。

<以下は朝日新聞12月4日夕刊より転載>
「無言館」を残したい 79歳館主、私財投じても「あと6年」 長野・上田、戦没画学生の作品展示
戦争で亡くなった美術学生の絵画などを集めた美術館「無言館」(長野県上田市)が、作品や遺品を次世代にどう引き継いでいくかの模索をしている。遺族の多くは世を去り、作家で館主の窪島誠一郎さんは79歳になった。根強いファンがいるとはいえ、来館者数は年々減り、今年は新型コロナウイルスの影響で激減。資金面での苦境が続く。そんな中、作品をデータベース化する構想も始まった。
10月下旬、色づいた里山の中に立つ無言館に着くと、平日にもかかわらず120人あまりが訪れていた。だが、窪島さんは「冬は一人も来ない日もある。維持費などを考えると、一年中開館するべきかどうか迷っている」と打ち明けた。
無言館に展示されている画学生らの絵は、画家の卵たちの未熟な作品とも言える。しかし、遺族が語った学生の生い立ちや、戦地から恋人や家族に宛てた手紙などとともに見ると、日本が国を挙げて戦争へと突き進んでいた時代に、夢中で絵を描いていた若者たちの姿が浮かび上がる。
「無言館にはファンが多い。それは窪島さんと分かちがたく結びついているから」。そう話すのは無言館の財団の理事で、分館を持つ立命館大学国際平和ミュージアム(京都市北区)の名誉館長、安斎育郎さん(80)だ。
窪島さんは、戦後の混乱の中で養父母に育てられた。作家の故・水上勉が実の父親だと知ったのは、35歳のときだ。水上との再会で養父母をないがしろにしてしまったとの思いや、高度経済成長の波に乗りスナック経営で金もうけ一筋に生きたうしろめたさ。「画学生の遺族を回り、感謝されることで、そんな悔恨が一つずつ消えるように感じてきた」。窪島さんは、全国の講演先や著作でも、そう赤裸々に語ってきた。
自らの「戦後処理」という私的な感情と結びついた美術館。その物語が多くの人を引きつける。
しかし、戦後75年が経ち、戦中や戦後の混乱期の記憶は薄れつつある。入館者数は、ピーク時には年間約12万人を記録したが、昨年は約2万8千人。今年は新型コロナの感染拡大もあり、11月末までで昨年の約半分だ。絵の修復や施設の維持管理にも費用がかさむ。
開館時に220人以上が存命だった学生の遺族は、いまや6人。窪島さんもこの数年、病気を患い、無言館の行く末は重い課題となってのしかかる。
無言館は一般財団法人になっており、収益を支えるのは主に寄付と1人1千円の入館料だ。昨年には、窪島さんが私的に収集した絵画などのコレクションを長野県に約2億円で売却することで当面の資金を確保した。ただ、運営は苦しく、「入館者数が回復しなければ、あと6年ほどで運転資金が底をつく」と窪島さんは明かす。
公的な資金援助の話もあったが、あえて受けてこなかった。「国に命を奪われた画学生の美術館を、国のお金で運営するわけにはいかない。市井の人がお金を出してくれることに意味があると思ってきたんです」
しかし、安斎さんは「無言館の社会的な存在意義は大きい。戦争の記憶を残す責務を第一に考えるべきだ」との考えだ。
将来が見通せないなか、次の世代が少しずつ動き始めている。昨年8月、東京・神田の出版社「皓星(こうせい)社」社長の晴山生菜さん(33)が、絵や遺品のデータベース化を持ちかけた。
昨春、初めて無言館を訪れた晴山さんは「ぼろぼろになった絵を見て、作品や遺品を写真でデータベース化し、どこからでも見られるようにしたらどうかと考えた」と話す。窪島さんの長男でIT系の会社を経営する剣璽(けんじ)さん(46)も、作品や作者に関する基本情報をデータベースとして整理しようと、システムの構築に着手し始めた。
窪島さんがこだわるのは、作者の学生に関する正確な情報を残すことだ。どのような状況で絵が描かれ、学生たちはどのように死んでいったのか。それは戦争の記憶が薄れゆくとき、無言館が「戦争で美しく散った学生たちの美談」になることへの警戒心からでもある。(宮地ゆう)
 <無言館> 1997年5月、長野県上田市に開館。画廊を経営していた館主の窪島誠一郎さんが、画家の野見山暁治さんから「多くの有望な美術学生が戦争で亡くなった」と聞き、2人で遺族を回って作品を集めた。現在も作品や遺品が持ち込まれており、2008年には近くに第2展示館を開館。現在、約130人の作品や遺品約600点を展示・保管している。(以上)

マディソン郡の橋のような屋根付き橋を散歩の途中で見つけました。