「アーカイブス 中国残留孤児・残留婦人の証言」ゲストブック&ブログ&メッセージ

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日々雑感。この頃短歌。

2016年02月27日 23時06分27秒 | 取材の周辺

<写真は昨年6月にイギリスを旅した時のもの。モティスフォント アビーの搭の上から撮影したもの。夫は大きな木の下のベンチで待っていた。>

 

 この頃短歌に嵌まっている。思い返してみると事の発端は昨年9月、知人から送られてきた一冊の歌集を読んだことにあるようだ。

 その後、アウシュビッツ博物館に旅した時の事。短歌になりそうな言葉の断片が頭の中に浮かんでは消え、消えては浮かびしていた。それを思いきって手帳にメモし、電車の中やホテル、飛行機の中で推敲を重ねてみた。短歌なぞ作ったこともなく、ルールも何も知らない。しかしその作歌の時の、感情と言葉が一致したと思える瞬間は、最近経験したことのない快感だった。一人旅の寂しさもあってか、20首ほど歌ができた。帰国後、一番身近にいる夫に見せると、「これが短歌か?」と、冷や水を浴びせられる。私は過集中なところがあるので、それから数十冊、短歌本を取り寄せて読みだした。       

 短歌本こそは、斜め読みの出来ない本である。昔は速読を競って多読を得意としていたが、短歌は何を何冊読んだかではない。一首でもいい、どれほど心の芯近くに到達できる歌に巡り会えたかなのだ。その人の心の持ちよう、生活感情などで短歌に込める思いも違うのは当然なのだ。歌は読者を選ぶのだ。

 先日、書店で『角川 短歌』2月号を買った。「推敲法」の特集記事がでていた。初めのページに岩田 正氏の「森の洞」31首が載っていた。

 朝あさの目薬まつすぐさせぬままわれは終わらむこころ残して

  引退後、普段は理論物理学の本を読んで日々を過ごしている夫が、時々短歌の本を自分の部屋に持って行って読んでいるらしいことを知っている。この本を見せると、「いい歌だね。代わりに詠んで貰ったようだ。この人は有名な人なの?」 私は何も知らない。ネットで調べると、なんと憧れの馬場あき子氏の夫君ではないか。夫は戦中生まれなので、老がい(「がい」は老の字の下に毛を書く)の歌に共感する年齢なのだ。

 短歌に興味を持つと、勧めてくれる人があって、最初に竹山広氏の歌集を何冊か読んだ。その中にやはり老がいを歌ったものが多くあった。 

 以下の歌は、竹山広氏の歌集『か年(「か」の字が見つかりません)』『千日千夜』『地の世』より。


  祖母(おほはは)も母も癌にて逝きたるを怖れゐたりし人癌を病む

  われの死がかずかぎりなき人間の死になるまでの千日千夜

  遺さるる場合のあるを思へよと答えのできぬことをまた言ふ

  この妻と生死分つは当然のことなるものを朝夕おびえつ

  老妻にこころ捧ぐといふごとき一首を作り昼深く寝ぬ

  老がいのがいとはこれか歌一首投げては拾ひ疲れてたのし

         (「がい」は老の字の下に毛を書く)

  推敲はほんとに楽しいのです。例えば4句目を違う言葉に変えたいのに、ぴったりした言葉が見つからない。朝に晩に宿題を抱えた子供のように軽い重圧感を抱えながら日々を送っている。ふっと、気持ちに近い表現が浮かんでくることもある。それからしばらくして、もっと近い表現が浮かんでくることもある。そんな時間が「疲れてたのし」なのです。

  以下の歌は、夫が作った歌ですが、4首目は飯田市に住む友人が直してくれたものです。私の歌はいつの日か、、、

 

  中国の領土広げし英雄は俺の事かと鄭和笑えり

  手をつなぎ「さんまの開き」見せし子らあの日の笑顔今も忘れじ

  木枯らしに帽子とられしあと追えば枯れた田の果てかすむ赤富士

  から風に取られし帽子を追ふ妻を車椅子に待つ 遠き富士山(ふじ)見て

  齢経てこの世あの世をつなぐ橋妻より先に渡らんと思ふ

  老ガイの我が身に似たり愛犬も老ガイ故の悲しみ在るか

  足萎えは入浴ならじと咎められ急ぎいづれば外は木枯らし

  (温泉施設で「障碍者は入浴できません」と言われたときに詠んだ。)

  悲しきは小学校の帰り道友を追い抜くともに足萎え

           (足萎え=ポリオの後遺障害)


沖縄に住む残留孤児・残留邦人3人にインタビューしてきました。

2016年02月10日 11時58分52秒 | 取材の周辺


 1月末から2月初めまで沖縄に行き、3人の残留孤児・残留邦人のお話を伺ってきました。「証言(2)」のNo.3さん,No.4さん,No.5さんです。沖縄は桜祭り開催中という事で期待していましたが、コヒカンザクラは紅梅に似た花で華やかさはなく、本部八重山岳桜祭りも今帰仁城桜祭りも名護公園桜祭りも寂しく感じました。満開のソメイヨシノが散りゆく景色を桜の美しさと、無意識に思い込んでいた自分の桜感を認識したのでした。

 No.5さんの疑問に十分にこたえる事ができず、現職の自立指導員に応援を仰ぎました。彼は中国にいる時に、日本人にだけ特別に支給されるべき品を役人がピンハネし自分の手元には何一つ来なかったという経験を持っていました(今までのインタビューで、彼だけでなくけっこう貰ってない人はいたようです)。そんなことも伏線になってか、国民年金が満額支給されるために国が肩代わりして保険庁に支払った支払い決定書に書かれている金額を自分は受け取っていないと主張し、役所がピンハネしたと勘違いしていたのです。また、支援金の額についても、川崎に住む知人と比較し不満を述べていました。生活保護の地域格差基準に準じるため、支援金に差が出る事などの制度そのものの仕組みを理解できていない為に生じた誤解と思われます。

 40代、50代で日本に帰国し、20年、30年と住んでいても、言葉の問題もあり、書類だけ送られてきても、年金の仕組みや地域格差などの制度を理解していないと、このような誤解が生まれてしまうのかも知れません。

 このことから、80年代の帰国者ラッシュの頃の事を思い出しました。中国では都市部と農村部では大きな経済格差があり、中国での農村戸籍を嫌う人が多く、帰国者は出身地の故郷(農村部)に帰るよりも都市部への定住を希望する人が多く、社会問題化していました。もちろんそれ以外の理由、例えば、いったん故郷に定住しても仕事がなくて、やむなく都市部に引っ越す人もおりました。今回の事で、当時の騒動は、生活保護の支払い基準の地域格差が拍車をかけた大きな要因だったかも知れないとあらためて思いました。


公文書と私文書、そしてデジタルアーカイブス

2016年02月08日 01時54分05秒 | 取材の周辺

 最近、国文学研究資料館の加藤聖文氏の論文を2本を読ませていただいた。      

「満洲移民の歴史と個人情報の壁 : 開拓団実態調査表をめぐる問題 (満洲特集)」信濃 [第3次]   67(11) 873-880   2015年11月  と、「市民社会における「個人情報」保護のあり方ー公開の理念とアーキビストの役割」国文学研究資料館紀要. アーカイブズ研究篇 (11), 1-14, 2015-03

 氏は、国内のみならず海外も含めた多くの公文書館や資料館、資料室などを巡って、「旧植民地」関係の記録資料を調査収集し、あわせて植民地統治機関における『公文書管理システム』の実態を明らかにする研究を進めている(ウィキペディア)そうである。二つの論文の中では、その研究活動の中で見えてきたいくつかの問題点を提起している。

 個人情報の壁とその取扱いが市町村の場合と外交史料館の場合の違い、市町村合併にともなう公文書の承継の問題や保存期間が満了した文書の扱い、また、歴史資料(開拓団実態調査票を一例として)として重要であるかの判断に統一基準もなく、時代や部署の判断により消失の可能性もあること等の問題点を知った。そもそも公文書館が全都道府県にあるわけでもないことも初めて知った。彼の指摘は極めて重要で、早急に迅速に困難を乗り越えて資料の収集が進むことを祈らずにはいられない。そしてそれらがデジタルアーカイブス化され、万人の歴史遺産として継承されていくことを期待している。

 私が今関心を持っているのは、個人の歴史(=語り、ライフヒストリー)でありその周辺の時代背景や風俗、情景等(=写真)、また、市井の人の残した日記や記録です。これを仮に公文書に対して私文書と言う事にします。公文書から見えてくる出来事や歴史に、血を通わせ生き生きと浮かび上がらせるのは、私文書だと思うのです。インタビューが終わると、多くの方が自分から古いアルバムを見せてくれます。満州での豊作の写真、中国服を着た人も混じった運動会の写真、田畑や家や農機具、家畜の写真などです。時には父親の日記などもあることがあります。小さな村落でどのような経緯で満州に渡ったか、克明に描いてあることもあります。またある村では、日中国交回復後に、慰霊碑に刻まれていた方々の何人かが中国で生存していることがわかり、ある志のある方が全戸をまわって確認作業をし、死因・死亡場所の特定等し記録している。しかし未だに活字化されていなくて、数名がそのノートのコピーを持つのみである。

 それらは個人のものである故に、人目につくことは少なく、歴史の中に埋もれてしまいがちですが貴重な歴史・文化遺産です。しかし、今の残留孤児・婦人世代が亡くなった後、二世・三世はこれらを大事にしてくれるでしょうか。これらを散逸に任せるのではなく、残留孤児・婦人世代がご存命のうちに、趣旨を理解していただき、デジタル画像に撮らせていただき、アーカイブス化し誰でも見られるような国民の財産としていく。大学生や大学院生に協力を呼びかければいい。それは国立公文書館アジア歴史資料センターが担ってもいいし、加藤聖文氏のいる国文学研究資料館でもいい。問題意識を持ち次世代への継承の意義に気づいている人がいるところがやればいいと思う。民間ではなく公の責任でやるべきだと思う。

 辛い悲しい正義に反する出来事であっても、それが事実であるならば、それを覆い隠さず、その事象に関連するあらゆる写真や日記を保存し、公文書との整合性の再検証などを後世の人ができるように、情報を残し伝える努力をするべきだと思う。

 公文書と私文書(の曖昧さは曖昧さとして)、両方のデジタルアーカイブス化を、不完全でもする努力をして、後世の人々が様々な問題意識を検証できる資料を残すべきだと思う。

 日中戦争を含む先の戦争で、満州では245,400人が亡くなった(厚生省-『引揚と援護30年』 [昭52]-P311)。無念に命を閉ざされて逝った多くの人々がどのように生き、死んだのか、その足跡を検証することは何より彼等への鎮魂になるように思う。 

公文書と私文書、両方のタイムリミットは迫っている。