台湾の優しさ(注1)
冬になると、暖かい台湾か沖縄に行きたくなる。今年は台湾。大好きな台湾。いつも来るたび思うことは、人々が優しい。
遠い遠い記憶を辿ると、娘たちが小学生の頃(20数年前)、アメリカのユニバーサルスタジオに遊びに行った時の出来事。アトラクションに並んでいると、娘がティッシュを要求する。バックの中もポケットの中も探したが、もう使い切ってしまって、私はハンカチを差し出した。するとその様子を知ってか後ろに並んでいたご婦人グループが「どうぞ使ってください。」とティッシュを差し出してくださった。そしてお決まりの「どこから来たか」尋ねると「台湾です。」との答えだった。私は虚を突かれて驚いた。〈そうだった、日本は50年間も台湾を支配していたのだった。〉と思い出した。それは美しい流暢な日本語だった。「どこが良かったか、どこへ行くのか。」しばし旅人同士の会話を楽しんだ。それが30代の私が経験した最初の最初の台湾の人の優しさに触れた出来事だった。
今回もたくさんの優しさの中にいる幸せを感じている。
最初のホテルをチェックアウトする時の出来事。
フロントに、「タクシーの運転手さんに、夫は杖をついているので、なるべく駅の切符売り場の近くで降ろしてくださるように頼んでください。」とお願いしたところ、支配人は日本語を話せるフロントスタッフを伴い、自分の車で台北の駅まで送ってくださった。そしてフロントスタッフは切符売り場までトランクを運んでくれて切符の買い方まで手伝ってくださった。信じられない業務を超えた(?)想定外の出来事で、無口な夫も笑顔で、「謝謝、また利用させていただきます。再見。」と口を開いた。
また、台中のコンドミニアム滞在中、近くのスーパーに買い物に行った時の出来事。
日用品や食料品など、一通り必要なものを買い、会計を済ませると、スーパーの袋4つ分になってしまった。すると近くにいた店員さんがたどたどしい日本語で、「ホテルまでお持ちします。」と、重たい袋を一緒に運んでくださった。
また、ある日、バス停でバスを待っている時の出来事。
隣のベンチの老人が日本語で話しかけてきた。私が日本語のプリントを読んでいたからだろうと思う。公学校(注2)の先生がとてもいい先生だったということを懐かしそうに話された。死ぬまで尊敬し続けると話され、「仰げば尊し」を歌いだした。続けて「蛍の光」と「海」ともう一曲、私の知らない歌だけれど懐かしい歌、「峠の我が家」にも似ているし「埴生の宿」にも似ている歌、を、披露してくれた。これから教会に献金に行くところだという。私が日本人であるというだけなのに、親近感を持って接してくださる。そういう方に何人もお会いした。
極めつけ。
先日、果物屋の店先で立ち話をしている人に、バス停の位置を聞いた(言葉がわからなくても、こちらのバスはすべて番号を言えば通じる。しかも台中は悠遊カードで無料なのだ)。すると客らしきバイクにまたがったご婦人から、何か話しながらヘルメットを渡された。「えっ、うそー!」と思いながらも意に反して自動的にヘルメットを被ってしまっている自分がいた。あっという間の出来事。私は彼女の腰にしがみ付いて、狭い路地を右に左に傾きながら(けっこうな体重なので、曲がる時かなり傾くのだ。)命からがらバス停まで送ってもらった。台湾では親切を受けるのも命がけの体験なのだ。日焼けした彼女の笑顔に「再見―!」と大きな声で別れを告げることくらいしか感謝の気持ちを表現できなかった。
台湾に来るようになるまで、台湾の事を本当に知らなかった。2、30年前に司馬遼太郎の「街道を行く」シリーズの『台湾紀行』を父の本棚から拝借(?)し読んだくらいだった(注3)。その後、司馬遼太郎のガイドをした蔡さんの本や『増補版 図説 台湾の歴史』(周 婉窈)などを読んだ。そして、当然のことながら日本統治時代の事に私の関心は行った。およそ21万人(軍属を含む)が戦争に参加し、3万人が死亡したそうだ。できれば元日本軍兵士として参戦した方、従軍看護婦(補助だったらしい。手記も1冊読んだ。)だった方にもお会いしインタビューしたいと思っているが、もはやかなり難しい。ご縁があって数名の方にインタビューできたが、皆さん、90歳前後になっている。遠慮がちな用心深い語りからは、何かを語ることで何かを失う事を警戒しているのかも知れないと思う。ちょうど文化大革命の洗礼を受けた中国残留孤児の警戒心と白色テロを経た台湾の元日本兵の警戒心が重なる。とっくに覚悟を決めて堂々と語れる人々もいる。38年間の戒厳令が解かれ、今年で31年目になる。台湾の歴史が、今後どのように変わるのか変わらないのかわからない。ただ、今を生きている日台時代の方に、どのようにこれまで生きてきたのか、日本語による皇民化教育(注4)と戦後の中華教育、その狭間で、白色テロを経て、時代の変化とアイデンティティーの変遷、台湾人の誇りなど、お話を伺いたいと思っている。
3年前に来た時に、偶然228記念館の張さんにインタビューできて、ホームページにアップした。すると私の友人達や視聴した方から「知らなかった。」という反響が多くあった。私は張さんが話してくれた歴史は知っていた。しかしそれくらいしか知らなかった。だからもっと知りたいと思う。庶民の生活(個人史)が歴史の中でどうだったのか、知りたいと思う。興味・関心を同じくする私の友人達にも知らせたいと思う。自己満足かも知れないけれど、台湾の事を知る人が増えること、それが台湾の優しさへの恩返しに少しでも近づくことになればと願います。
(注1)「台湾の優しさ」については、少し長い文章になるが、その原因を歴史的にも考察したWikipedia「日本統治時代の台湾」に詳しい。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E5%8F%B0%E6%B9%BE
(注2)日治時代、台湾の子供は「公学校」、日本人の子供は「小学校」に通っていた。教師はほとんど日本人。わずかに台湾人もいた。
(注3)関連記事、 2016.3.25の当ブログ「台北市 二・二八紀念館に行ってきました。」
(注4)『台湾 韓国 沖縄で日本語は何をしたかー言語支配のもたらすものー』(古川ちかし他 三元社2007年刊)は、難しくて何を言いたいのかよくわからなかった。その上、字が小さいので、1時間も読むと字が霞んでしまう。老眼には優しくない本。古川ちかし氏と春原憲一郎氏の論考だけ読んだ。日本語教師時代、ふたりにはお世話になったので。この題名が示す内容、日本語教育の功罪を実証的な論文で是非読んでみたいと思う。