花鳥風月、、2023年からの第二の日記

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暑さとcoronaワクチンの、、後遺症

2023年09月04日 | 日記
少々の、、後遺症や副作用のあるかもしれないが

   死ぬよりは、はるかに良いからと
   
     coronaワクチンを4回受けました。

       1回目の時は、、、30分の安全待機を得てから、、、
        「帰宅しても良い」という許可を受けてから

           駅の見える商店ゾーンに入った時

              右足の、ふくらはぎから、、、外側にかけて

                   激痛と言えば良いのか?
                    魔法にかかってしまった様に、、、
                      足がしびれて、歩けなくなった。


    駅はすぐ目の前に見えるのに、、、
        横断歩道まで、、歩けない。


    右足だけの、、突然の異変に、
         私は立ちん棒をしてしまった。

         座りこむことも出来ずに、
            左足に全体重をゆだねて、、、
                  じ~と、
                激痛が和らいで来るのを待った。

          15分ぐらいして、、、
               右足は、、
                 我慢できるほどの痛さになったのか?

           初めの驚きと恐怖が、
              実際以上の硬直と緊張を
                  よんでしまったのか?

          真実の激痛は、、、我慢できるほどのものだったのか?      

              立ちん坊をしていたことが

                  筋肉の緊張をほぐしたのか??
              倒れそうになるほど痛かったのは
              不安と緊張と恐怖の、、、

           思い込みの激痛になったのか?

           驚きの感覚が激痛になったのかもしれないから、、、

           右脚だけなのだから、
               この痛さに慣れて、、
                 歩くことが出来ないものだろうか?と、
                   落ち着くことを心掛けた。

     はるか向こうの駅の歩道を、待ち合わせたはずの、、
        ダンナさんが、チラッとこちらを見て
          再び、歩く速度を速めて
             駅の中に吸い込まれていった。

        待ち合わせたのは、
        2階の改札口の前のベンチだから
        先に行って座りたいのであろうと思った。

      ダンナさんも
      三回のワクチンの時に、
           末梢神経のしびれが出て来て

     リリカを飲んでいたが、
         肝心の時に、
          めまいがすると言って

     足がしびれている方が、
         通勤の時は、未だ安全だと言って

             休薬していた。

      副作用というより,、、
      腰痛や、脊髄や、
      軽いⅡ型糖尿病もあるから
          腰痛あたりからも 
          足がしびれるのかも知れないし

            リリカは
            中枢神経作用もあるという効能書きなので

                 眩暈が起きても、、、不思議ではない。

     服薬は、空腹のときは、、辞めた方が良いと思いますね。
     急に血中濃度が、、、あがる場合も考えて
     食後の方が良い薬ですよね。

     春先には、帯状疱疹も出ていたから、

     後遺症のしびれかも知れない、、、

            いろいろボヤキながららも、

            83歳で、、ダンナさんでなくっちゃという、、、

          何十年も通ってきている患者さんの中には

          がんの早期発見で、、
          オペを受ける事が出来て

          30年経ちました。

                   という、、、患者さんから

           自慢の果樹園からとりましたと、

           病院に持って行くと、「受け取れないシステムだというので、、、」

         ことしも元気で、果物を育てていることを、、先生に伝えたいからと、、、

          自家製のブドウを、黒猫ビンで 届けてくれては

          今月も、検査の日は、、先生にお願いします、、、。

          ダンナさんは札幌の「愛育病院」で
          アメリカで修行してきた大学の講師の先生の下で

          現場の患者さんを、、一人で診察していた修行の時代があった。

          その時の事務長さんというのは

           若手の医師の気持ちのわかる人で、

           初任給は23万円だったのですが
          実に、若手医師が、、何に燃えてるか?、、
          先回りしてわかる事務長さんでした。

           外科はダンナさん一人と、、
           院長のエライサンノDr.の、
               2人だけだった時代でもあり

         院長先生は、
         外交や病院経営の会議や学会での仕事が主なので

          大学から、、忙しすぎるときは、
          超若手の医師が応援にきていたという

              昭和40年代の、、、植物園界隈の病院の、、、外科医のもようです。

           当時は雪印の会社が経営母体だったようで

            医師の給料というよりは

            会社の課長クラスの月給だったと思います。

           この頃の新参の医師は、早朝から、宿直、手術、外来、、、
           常連の患者さんが、、、重症になった時は

           往診までありました。

           兄は旦那さんより3歳上ですが、、

           父が経営していた地域貢献型の開業医を継承していたので

           23人の従業員の肩に、仕事を振り分けて

           日曜日は、、ゴルフ、、
           夏休みには、、海外の学会に参加して

            ストレス解消を、、
           実に収入の大半を使って、、、外に吐き出していました。

          大学で、、、研究してから留学して、
           講師になった大先輩と、、
           新参の若手のダンナさんだけの外科は

           病院から帰ってくる事が出来ない日々が続くのが

           当たり前のような、、、
           医者という名の「労働者」でした。

          家内は、、、開業医と勤務医の収入の差に、、、
            納得のいかない心で、

           「東京の実家で、、、一緒に働ける日を、、

               母も、兄も、、職員の従姉妹の同級生の医師も、、、

                   一緒に病院にしよううと言っているのだから

              東京に帰りましょう。」

            当直が続くたびに、、、ダンナさんに、、、

             23万円で、休みのない勤務なんて、、、

           信じられない「仕事バカ!」

             
             信じられない、、格差でした。

           正月も、連休も、旗日も病院勤務で、もぬけの殻の家庭に

            23万円で、家のローンが春と暮れに、、23万、毎月10万円の支払いの

             ミサワホームを、9パーセントの利息の
              提携ローンで買ってしまった。

            とりあえず、、自宅は有るし、、、どうにかやって行ける月給だし

            旦那さんは、、、多くの種類の病気が、、全部自分にまかせてくれるし

            大学の医局人事で勤務しているので

            大きな手術の時は大學から、、指導者も助手も手伝いに来てくれるし

            一人前の外科医になる為には、臨床が出来ないと

            東京では通用しないから、、、

            自信が付くまで、、、修行したいと、、、

              家庭は留守のような日々を過ごしていました。

           ダンナさんは、奨学金で大学院んで研究をしていたという
           普通の家庭の子だくさんの家庭の中で
             男兄弟の3人とも大学を出した、、、ご両親は
            経済的には大変だったはずですから、、、

           ご両親への御礼返しで
            東京に帰って、開業をして、頑張るという事を
           誰でも考えそうなものなのに、、、
            充実していたのでしょうね、、、。

             北大は、、北の王者だし、、医学部は、、当時は

             国立の北大が一校だけから始っていて、、、

              北大の医学部の半分が、、医大の一期抗生だというから

             医大は、北大から別れたんですね、、、?

             それって❓??本当なの?

            北海道野歴史って、、、それから、、、旭川医大が出来ましたよね。

            旭川大学の学長になられた先生は、、、
    
             ダンナさんが、北大の大学院で博士論文を書いている頃の

            研究チームの指導者の先生だったそうです。

             手を農機具で切り落としてしまった患者さんなどの

               数多ある毛細血管の縫合などを指導してもらって

              家庭での話は、、、 その日、
             その先生の手術に感動した事の話でした。

              仕事人間が仕事をしているようでした。

            仕事と結婚しているダンナさんは

             仕事という『愛妻』と帰宅して来るようでした。

             帰宅と同時に、、病院からの緊急呼び出しでも

             仕事人間は、、仕事という「愛妻」とともに、、
                 
                、病院にU-ターン」

            どんなに疲れていた様子で居ても、

             病院からの電話が鳴ると

            「仕事君になって、、、すっ飛んでゆきます。」

            若手の、、知識欲と、、、臨床力を磨きたいという

                月給なんぞなくても、、、この、、ダンナさんは

                   声がかかれば、、
            、正月でも、、、病院の仕事のプールにダイビング、、、

              家計ぎりぎりで買った、、車は

              買い物には、、一回も使えなかった、、、仕事君の相棒だった。

             私は、、「仕事君」の「舞台裏の雑役係の役」と結婚したようでした。

              自分の仕事しか,、関心が無いし、、、自分の仕事の為の足場のような家庭でした。

             あの時代があったから、、、開業医に来てくれる患者さん同様に、、

            「ダンナさんの患者さん」と言えそうな、、、信頼関係の絆で

              家内の私は、、、
             完全に、、
             「ダンナさんの仕事が奥さん」であることを

              この時代に、、認めて仕舞っていた。

            そのころの患者さんが、、、
          ダンナさんが、、ダンナさんが医局の命令で

           道内を動き続けたローテションの後も、

           札幌に固定したときから、
            
              信頼関係で、、今も検査に来てくれているようです。

           留萌の出張も、昭和40年代に4年ほどあったのですが

            北大医学部学生として北大生だったのに、、、

             「医大」が出来て、、、クラスの半分は

            北大生が、、、医大性になって卒業した時代だと

            留萌の先輩医師は、、自宅の夕食に呼んでくださり
            主人に話として、、いろいろな、、
             北海道の事を教えてくれた。

           三浦雄一郎さんとも、、学生時代は同級だったとか言っていた。

            東京出身で、、、
            東京に後ろ髪引っ張られる思いのダンナさんは

            私の母には、、30代のうちに、、「
           お宅のお兄さんらと
             開業の外科医長を一緒にします」   と

            男尊女卑のすごい時代だっただけに
             私は、旦那さんが、、、奨学金で大学を卒業して
             「若い医師、懸賞論文」にインターンの頃当選して

           今と違って、大学卒業と同時に、仕送りは無い
            インターンという、、、無給奉仕は有る

             下宿は引き払う、、、お金は無い、、、

             その上、、、青医連とかで、、、国家に物申す若手医師が
              足並みそろえるのだと言って、

             今日にも「国家免許がないと、、、、」という

            経済的に切羽付待った同級生も「時代の流れである以上、、、」
            国家免許は受けることはしなかった。同級生の団結を選んだ。

             当時のダンナさんは、、、外科医の娘で、現役の薬剤師で

             ブランド物も、、高級品も一切付けていない、、、普通の女性の私であれば

            ご自分が、、30歳になる前に、、家庭を持たないと

             激務に突入する一瞬の、、許された休日しか

             出逢いの機会は無かったのだろう。

              生涯忘れられない、高校時代の同級生で
     
              大手デパートなどの美術品コーナーで作品が販売されているという
             芸術家の恋人が居た。

             ダンナさんにとったら、、、
             その人以外の女性はこの世には存在していないのだった。

             しかし、、彼女に結婚を申し込むのなら
             開業して、お金儲け一筋に走らねば

            美術やサンのダンナは勤まらないということぐらいは、、理解できたらしい。

           生涯、、彼女の作品を買っては、尊敬する友人などに

            プレゼントしていた。

            母が、、「外科医と結婚させたい」「東京に帰る時は、足場になる家庭が要る」

              母と、ダンンさんという、、、
           「支配型の当時の日本人は、めづらしくも、無く、、、変人でもなかった。」
           8歳上の実兄などは、、、旦那さんも、、、吹っ飛んでしまうくらい

             ヒットラーの時代に、、あの御人を、、不思議な天才だと教えられた世代ですからね。

            妹の一人や二人、、、自分のボストンバック位にしか考えていないようでしたね。

            戦時中の、占領軍も見ているし、、、

             敗戦の悲哀も見ているし、、、

              東京だ愛空襲のさなかに、、、親類縁者も無くしているし、、、

              昭和10年前後の生れの男たちの「教育」そのものが

             大逆事件さ中で、、、育てられたのですからね、、、

              戦争の怖さは「破壊」「独裁」 「子供たちへの洗脳」

             ヒットラーが、、、英雄だなんて、、、信じられない時代があった。

             人種差別、、、破壊、、貧困、、軍部の勇み足、、、何でもありの時代に

             ダンナさんは、、「鈍感力に見える、、、静かな行動で、ty久慈つい積み上げるという。」

             俊敏ではあっても、、、目立たない動きで、、、生き延びたのだろうではないか?
              私の兄は、、何かにつけて、、めだってしまう行動が多くて

              案山子には使ってもらえない人だった。

              手塚治氏の「火の鳥」に出てくる「我王」のような、、、

               相手を玉砕して突っ走るという、、、

             日本が「特攻隊」「肉弾三銃士」「旅順海軍ひゃあくなりて~~~」

              「敵の大将、、ステッセル~~~」

             子供たちは、、お手玉しながら、、こんな歌を教えられた時代なんですよね。

              防空壕の中では、、泣きだした赤ん坊は、、口を塞がれた。

               私は栄養失調でなく元気が無くて、、、生き延びた方ですね。

              そして、、、人類が吹っ飛んだ、、、原子爆弾のダメ押し!!

               敵が憎かった、、ダロウ、、、沖縄は全滅

                 こんな時代に学童期だった、、、兄と、、、旦那さん

                男尊女卑どころではないですよね。

              お正月の,、豪華な食事を前に、、女の子は、、お運びさん!

               戦争の怖さは、、、正しいとか間違いとか無くなる教育がされてしまい

               国家の決める教育を、各校で、、教案を提出して
                許可された内容を、、教えるという、、時代。


             めちゃくちゃな時代を生き延びて、、、どうにか家庭も残して

             東京出身と言っても、
                祖父の時代に、岩見沢で開業していた血筋であるから

                   血液の中に、、、北海道からの XGを受信する、、、

               何かが残っていたのかもしれない

             女性から、、言わせると、、「出逢いの出来るづ脳は、初恋だけ」

              

              蜘蛛の体内に、、卵を産み付ける蜂が居る。

              蜂は孵化した卵に、、自らを喰わして、、、蜂のこと知らずに育てる。

                喰わせる肉が、、腐敗しない様に、、、蜂は薬液で,、

              子どもが喰い終わるまで、、蜘蛛の肉を新鮮に保ち

                活かし続けるという、、、悪魔のような、、、作戦で子供を育てる。

                これは、小学校の時、理科の時間で教わった、、、

                   動植物の生き残り作戦の授業の時だった。

               先生は、、お寺の和尚さんだった。

                人生の、、終幕があがった80歳を目の前に

                 生きて行くという事の、、、恐ろしさを感じることがある。

                 蜘蛛は、、銀行や、、金融システムや、、、税金のシステムの様の思えることもある。

                 お金社会の残酷な一面を拡大して、、神は人類に呼びかけているようにおもえる。

            大地を耕し、、、太陽を崇めて、、、天然の循環のエネルギーを

             科学で吹き飛ばすなと、、、言われている様な気賀蛙するが。

               2000年になる前に、、中国やチベットや、、モンゴールあたりは

             大地の子、、、大地が、、人類を包んでいた。

             人間は地球の一部として、、、順応していた。

             成都に行ったときも、、、高層buildingは無かったし、、、

               モンゴールは、、パオが在っただけだった。

                若き日のルーツを訪ねる気持ちで、、、

                大陸を旅した。

             「私は、、、ここで、、産まれた、、、」と

             叫びたい衝動に駆られたほど、、
               、地球の原点の姿が、、、今はビルだらけの中国にも残っていた。

               中国の良さが消えてゆくのが残念ですね。

               眠れる獅子は、、、存在だけで、、、地球そのものでしたね。

            国全体の世界遺産があるとすれば、、、眠れる獅子、、、中国だったと思いますね。

                
               母との約束を破った、、旦那さんは、、、
               母の葬式にも行かなかった。
               私も、、子育ての仕事がおわり。。

             ふと気が付くと、、、戦後を活きる為に生きた、、、

              人生って、、生きて行かねばならないから、、、

               その時代の片隅で、、、出来る事だけしながら

           戦争が無い地球を祈りながら、、、、

             男という心に潜む、、、権力欲、、、支配力を

              どのように、、コントロールできるか、、が

              人類の最期の生き残りになるかもしれないね。

            今日は「モーゼの十戒め」の映画を見乍ら

               子どものころから、、何回も観ていながら、、、

               海が割れて、、民衆が逃げてゆくシーンに、、、

                 最後の希望がありますね。
               

 
            我の強い人は、、時代からとり残されてゆくのに
             気が付くすべは有りません。

                  *****************:
            母は、、、40歳に旦那が成ってしまうまで、、

            いつ帰ってくるのと、、、電話ばかりかかってきました。
                  ******************

             40歳を過ぎて、、
                  ダンナさんは、、家族を置き去りに、大学に呼び戻されてからは、、、

             ローンの支払いと、、育児の費用と、、ダンナさんの学会費や本題が

                  当たり前のように、、、のしかかって来ました。

              父が54歳で亡くなってからは、、、母は

              同じ外科医に私を嫁がせて、、、彼が行ったことを信じて

               博士号を取得したら、、、東京に帰ってくるよ信じていたようでした。

              ダンナさんが大学の医局人事で大学に呼び戻されたと知ってからは

            私の方から電話を掛けても、、母は、、、反応しなくなりました。、

              「電話がもったいない!」と言って、、
                 切ってしまう母になっていました。

            娘夫婦には、、、がっかりしたのでしょうね。


            東京の250坪の敷地のビルの「一階は、」、、全てガラス張りの空室のして

             ダンさんが仕事を何時始めたいと言っても良いように
              外科医が使う、医療機械を入れればスタートという

            一階は全部空室にして、駐車場は16台が入る様にしていましたからね。

            ダンさんが、、東京には合流しないと判ると

             

             兄は開業を閉店して、、、
             父の友人が発足させたと聞いていた、、、
             千葉の巨大病院の勤務医として

             内視鏡指導医の資格を生かして、、、とうとう、、、

             兄弟はバラバラになってしまいました。

            もう、、、開業の時代じゃなくなっていたのかもしれませんね。

            兄からのtが身は100通を超えていましたが

            ダンナさんは一通も風波開けないまま
             ダンボールに閉まったままでした。

          北大を誇りに思い、、、
           サラリーマンの家で育ったダンナさんは、
            付き合ったことも無い女房の家に入ることなど

               直面すると、、、ありえないというほど、、

                    社会人として成長してしまっていたのでしょう。

          北海道で、、医師になったのだから、、、北海道に貢献するのが筋だと、、、

          ごく自然に、、、北大を誇りに思い、、

           札幌に生きることを決心したのでしょうね。

           男尊女卑の日本では、、、
          独身でキャリアウーマンを選び
          自分尾未来を切り開くための結婚をして、、、

           オンナ丈夫に生きるには、、、女医か、先生か、、美容師化、、看護師、、、ETC.

            それでも日本はオンナ丈夫の定年後は、、、どうなるのでしょうね。

              他人事のように、、、家政も、、政治も、、、疎い私ですが、、

           生き抜くための、、「エゴ!」、、男のすごさには
             私の世代の昭和戦前組は、、、女性は口をはさめないですね。

            活かさぬように、、殺さぬように、、、自分の思うままになる家庭を

             管理させるだけの,、、無給寮で働く、、女房ゲット、、!!

             それが出来た風痛の男性が生き残った時代だったのだと、、、

            可もなく,、、非も無く、、、ダンナさんの世代の男たちに

             生き残りゲーム、、、頑張ったね!!!

             運動会で走り切った我が子を見るように、、、

             他人の私なのに、、、長く弥次喜多道中をした人生だから、、、

             男のサバイバルの、、ひたむきさには、、、拍手しかないですね。

            日本よ❕!、、、生き残ってくれれば、、、100点を差し上げます。

             このような、、敗戦の貧乏な心のまま
                日本の男たちは、、、戦後を生き抜いてきたのを、、、
             ネット裏から見ていたのが
               出産、、子育て、、育児、、、家のゲット、、、ローン尾しくみ

               大家が国のマイホーム、、、

                 生きる為には何でもありの、、、戦争、、、

             個人レベルの我が家の男の生き残り人生は

             ひたすら、、自分の仕事大事で、、家庭的には
            自己愛の権化のような仕事君のダンナさんは

            生涯、、どんな立場にいようとも、、
            職場が家庭だという。

            職場にしか、、生きてる自分を感じないのだろう。、、きっと。

            大事なモノの為にしか、ヅ脳のセンサーは、、反応しないのだろうね。

            家庭の運営に時間を割くという事は、、一切ない人でした。
                
            北大という、、、寄らば大樹の影という、、、
             大学がバックにある限り
            東京には来ないという事を、、、

             母は知るべきでしたね。
                                               
             
              男尊女卑の昭和の時代に、、、置かれた女性の立場というのは
               社会に組み込まれていない。

              隣組の歌を歌いながら、、、
               「バス道リ裏」のTVから始って、、、

              8時だよ!全員集合で、、TV人生を過ごした子供達、、、

             知らない事の多い方が、、幸せだから、、、

              手に職をつけるまでは、、両親の応援が付く。

               そこから先は、、自分尾分野は一生勉強を怠ると

              時代が君を、、、追い越してゆく。

            われ関せずに、、、自分のベストを尽くすだけの習性で

             私は、、他人事のように、、、感情移入させない様に

             「 仕事と結婚する男が居ても、、、悪くない」、、、と思いながら

            子供たちにとっては、、
            ほかの人には変えられない父親なので
             母の住む、、、
             私の居場所でもあった東京に
             帰るチャンスはありませんでした。

               子どもの人生を、、カギリナク、、、孤独にしてしまうのではと

            孤独なのは、、母さんだけでよいと、、、腹をくくった。

            ダンナさんが、、どうせ、、、先に天国に旅だつだろうから、、、

            後片付けをしたら、、、父母の行ってしまった「高野山の麓で」

             父母が呼びに来るまで、、、一人で、、南紀に帰ろうかと思っている。

             北海道のものは、、、
            北海道人として受け入れられていった
              長男家族に
              全て譲って、、、、

            子どもや孫には、、、北海道の母方の爺ちゃんと婆ちゃんに

               心の支えになってもらえたらと、、、


           孫に言われるんです、、、

              婆ちゃんは、人を入れない所がるというような、、
              ニュアンスのような事を、、、

          私は、孫子は大好きだし、、、孫子の幸せの為には
           自分尾出来る限界まで、、、頑張ってきたつもりですが

             此処rはつとまらないですよね。

           奥さん方の、、爺ちゃんらは、、一緒に風呂に入ってくれたり
           一緒にじゃが芋堀に行ってくれたりするという。

            叔父さんも、母方のオジサンは、、、いい人だという。

            次男は医師で、独身で、、、北海道の南高を卒業して

            本州に鉄砲玉となって飛んで行ったきり、、帰ってこないし、、、

             存在だけで、、孫子を、、守っているとは思うのですが

             「ライオンの雄のように、、、雌ライオンのとってきた餌を先んじて食べても

              用心棒になれるのは雄ライオンだからね、、、」

            孫への愛情が通じないとき、、、うっかり、言いたくなるのは

            婆は、、2頭のライオンのエサ係だったから、、、

             優しさはあげられないが、、、

             君らが大人になるまでは、、、「用心棒の飼育係に徹するしかないんだよ、、」

            当の、、、ライオン君たちは

             自分が存在だけで、、、孫子を守って来たことなんて
              知る由もなく、、、

              仕事人間を続けている。

             人はね、、、その人が、、生きたいように生きるのが

               一番、、世の中の為になると、、思いますよ。

            ダンナさんは、、、北大を卒業したのだから

              北海道に貢献するのが筋だと思いますよ。

              私の母は、明治生まれで、、音楽大学に行って

              日本に入って来たばかりの、、、クラシックの譜面を

              ドイツのショルツ先生の弟子となって、弾けるようになったというような

              私から言わせると、、、男尊女卑の日本のど真ん中で

              医師だったお父さんを、、、ぺったんこにお尻に敷いて

              自己実現の晩年をゲットしたという

                80歳で現役のピアノ教師をしていましたからね。

              ダンナさんが、、東京に帰っていたら、、、

              お母さんに振り回されて、、、
              「俺、、俺、、俺、、と言っている、、、今の旦那さんは 居なかったでしょうね。」

              自分の卒業した大学を、、、両親と思って、、、

                 国大に傍の、、病院に勤務したことは、、、正解だったと思いますね。

             
              結婚生活の奥さんは、、、北海道の女性を選んでいれば、、、100点だったと思いますけどね。


         

          

              

           
              北大医学部を卒業して、、、北海道大学で医学博士を戴いて

            一頃は、、大阪の循環器センターなどに、、勉強に行ったり

              函館に、単身赴任で言っていたりして、、

            家内の私も、、束の間の、、のびのびとした、、自分をやれた人生の休日だったのですが

              結局、、札幌に帰って来て、、北大の銀杏並木が恋しい人なんですね。

           src="https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/4e/96/5aa4136232502239f48b006ccc9683a3_s.jpg" border="0">

                                
           出張するたびに、、「北海道が好きになって、、いったようでした。」

            「仕事が愛妻」オダンナさんの雑学は 外科だけにはとどまらず。

             麻酔の上手な先生の元に出張したときは、、、麻酔を習ってくるという

            マンタやジンベエザメが、、、でっかい口で、、、何を吸いこんでいるのかな?

            ともかく「仕事君」との結婚生活の日々が,、
             医師旗掲げ、、、傍から見たら、、こんなに働いて苦しくないのかと観ていると。

            たまに帰る家では、、、爆睡して回復あるのみ。

            忙しすぎて、、、引っ張りだこの苦しさに、、、
            酔っている様な、、、楽しさで

            この人は、、北海道で生き残れるという、、腕に自信が湧いたら

            きっと、、、東京に帰るというのは、、、無かった事になるだろう、、

            何処の病院の事務長さんも、、、
            昭和時代の仕事バカの若手の医師を扱うのが

              見事だった。

              彼らが飢えているのは月給ではなくて、、、

             逃げたいのは仕事ではなくて、、、
             仕事からくる苦しみからでもないという事を察知していた。

             定期的に、、、学会に、、行かせてくれた。
             院内で300円もあればかつ丼が食べれた。

            家庭なんて「先生の保証人で有れば良い」というような

             病院システムからは、、蚊帳の外に奥さんは配置されていた。

             開業医で育ち、、、薬剤師の私は

            家庭を任されて、、
           一切家庭を振り返らない「仕事バカ」と結婚したことに
            気が付いたときは、、、子供は2人いた。

            次期が来るまで、、、自宅学習で、時代の薬学に取り残されない様に

           認定だけは毎回とる様にして、子供達を仕上げねばと、、、

             職場の人とは一切無関係の人生を、歩いてきた。
            ダンナさんは83歳になった。

             頭の中は、、仕事があるから、、、生きて行く力が出ているんだろうと、、

            一番近くの距離にい乍ら、、、
            舞台裏の雑事と結婚したような奥さんのベースを守りながら

             仕事が帰ってくるようなダンナさんから

             仕事が無くなったら、、、一気に、、、

            「ここは何処?

               僕の奥さんの仕事は何処?、、、買い物カナ?」

             おーい、、おーい、、僕の仕事の奥サンやーい、、、

             探さなければ良いけどね、、、、 

             昭和時代は、戦中だった時に生れて
             富国強兵策の中で
             女の子が産まれたら、、、がっかりされたそうである。

             男尊女卑の一番すごい時代に、、、男5人
             女2人の兄弟のなかの、、、もみくちゃで育った私は

             小さいころから、、、家庭での便利屋さんお様な位置にいた。

             番茶も出花の、、、青春時代に、、、父が過労死、、、

             東京に、やがて帰りたいというダンナさんの

             希望に沿った、、結婚だったはずが

             「仕事が奥さん」になってしまった旦那さんは

             奥さんおいらっしゃる、、、北海道に、、、心から恋をしたのでしょうね。

             まてど暮らせど、、来ぬ人を、、、宵待ち草のやるせなさ、、、

             私を分身の人形と思っていた母、、は、、、
              最後まで、、帰らぬ仕事人間の息子になるはずの、、、娘婿を

               いいえ、、、54歳で過労死した、亡き夫が、、、
                 若き外科医になって、娘が連れて帰ってくると、、、待っていた。

            母の死んだ日は、、、私だけが、、、

              鈍行に乗って、、秋田周りで、、母の好きな藤田画伯の美術館に立ち寄って

               もう、、息をしていない母の為に、、、画伯の作品の絵葉書を買って

               新潟から、、、ゆっくりと、、東京についた。

              母の葬式には、、、私一人が東京に帰ってきた。

             弟の同僚の医師の先生が60人ほど来てくれて、、、
             母には、、弟が居てくれてことを、、、感謝で感じた。

              北海道に嫁ぐという事は、、、こういうことだったのでした。

              東京から、、北大の医学部に合格するという事は

             仕事という奥さんが、、北海道に居て、、、

              北海道も、、北大生を、、仕事君に育て上げて
                仕事の奥サンと結婚させてしまうんだと、、、

              80歳になろうとする、、、今頃になって

               ダンナさんの、、、仕事という奥さんの

                家政婦けん、便利屋をしながら、、、

               子どもにだけは「出逢った!!不思議な御顔!」

               こんな仕事人間が、、、 壱年以上前に

              予防注射を打たなかったら、、、コロナにかかるようなもにだから

               coronaにかかって、、、患者さんを診察できなくなるのは心外だからと、、

              6回目も、、、、今までのワクチンの後遺症の痛みを抱えながら、、も
               受けてきたのでした。

               足が痛いので、、今日は、、私が、駅のタクシー乗り場まで
               ダンナさんを送ってきました。

               一列に並んだタクシーの最後尾に駐車すると

               いそいそと降りて、、最先端のタクシーまで、

               アスファルトの道だけに、、、すたすたと、、、普通に歩いてゆくのを

               ワイパー越しに見つめながら、、、

               一番好きなのは、、仕事という奥さんなのだと、、、

                  ダンナさんが「苦しみを分かち合うのは、、、
              仕事という、、奥さんと、、、分かち合えば良いことであり、、、

               世の中で言う「奥さんと呼ばれる座布団い座っているのは、、、ダンナさんの保証人」

                印鑑みたいなものかもしれませんね。

               印鑑は、、大切ですよ、、、金庫にしまっておかなければネ。

           coronaの3年間の背水の陣で「閉じこもり」

               食事洗濯掃除に片づけモノを真夜中にして、、、

                  ダンナが帰ってくると、、、勝手に食べられるバイキングのように用意して、

               寝てしまい、、、旦那が寝ると、、、真夜中に起きて働くから

                 仕事のダンナとも離婚しないで日時が飛んだ。

                擦れり蛾ウという関係も無い、、、不思議なニーズで

                 一生が、それなりのゴールまで見えてきた。

                仕事人間のダンナさんが、、、
                仕事という奥さんとの二人連れで亡くなった時

               私というニーズも要らなくなれば、、、めでたしめでたし何だろうが、、、

                 この人に、、、仕事という名の奥サン以外に、
                 代理が務まる奥さんは居ないと思いますよね。

              その時は、、、私という奥さんは、、、ダンナさんの人生の
              「後片付けという、、、仕事の奥さんに選ばれるのかもしれません。」

              旦那さんも、、、私子と、、、、この80歳前の婆ちゃんも

               仕事が仕事している様な、、、 
               どんな、、門外漢の仕事でも引き受けて、、仕事に生きた、、家事という

               誰からも評価されないけれど、、、「空気のような仕事だった。」

               空気のような仕事の私が、、、仕事稚う奥さんを亡くしたダンナさんンを

               死ぬまで、酸素を送り続けることで、、、

              産まれたからには、、、生きなばばらない仕事人間の、
               この世の片づけ婆さんの役割を終えた時、、、

                 まだ生きていて、、、

               人生の苦しみは「仕事という、、家内が持って行ったから、、、」

               何処の婆さんか知らないけど、、、御茶でも一緒に飲もうかね、、、

               ダンナさんは、、寂しさから、、
                初めて、、、奥さんを探し始めるかもしれないね。
               そして、、、僕には、、仕事という奥さん以外には、、見えないのだよ、、、と、

               手探りで歩き始めたら、、、婆ちゃんは、、家の仕事を一つづつ

                ゆっくりと、、手ほどきして、、、

              園芸でも良い、、、絵画でも良い、、、囲碁でも将棋でも、、、

               新しい相棒を、、、ダンナさんに教えてあげようとしても、、、

             きっと、、今度は、、、TVの野球番組が、、人生の伴侶にン⒮るだろうね、、、

             医師をすることに、、人生の時間を全部使った老人は、、、

              婆ちゃんにとっては、、、手におえない、、かもしれないね。

              それでも、、旦那さんも、、、私も。。。

             coronaから、、必死に自分を守っている。

             もっと急になるだろう、、、孤独な老境の坂道を

             健康で、、友を探しながら、、

             第二の人生に挑もうとしている、、、

              人間👌、、、人間?  人生? 価値感?   健康が一番でしょう!!

             ダンナさん❣!、、、これかrは、、、
             「健康という奥さんと二人連れだよ。」

              私も、、健康というダンナさんと二人連れで行くからさ、、、

              余生を活きる「心構えだけは、、、しないとね!」

             

               
         
              


   


  
          coronaと、、今年の異常に暑すぎる気候の為に

              閉じこもってばかりの日々は、、、ろくなことが思いつきませんね<<<(^^👈

         

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