花鳥風月、、2023年からの第二の日記

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サッポロは雪まつり、、、TVで見ています。

2024年02月08日 | 日記
昭和46年、、雪祭りに行きました。

しばらくぶりに、、、雪まつりのTV情報に、、、

サッポロの冬の観光客が復活したこと感じながらも、、、

数えとはいえ80歳という歳は、、、雪まつり会場に行く気持ちにまでは

いまいちであり、、、TVの放送を、、、ありがたいと思いながら

  孫子の話に、、頷けるのでした。

    サッポロの放送局は、、、祭りの露店に力を注いで発信しているせいなのか?

      寒い会場にホットな食べ物が紹介されて、

        見ているだけで、、身体があったまって来そうでありました。


  雪像は、、旭川の雪まつりの紹介が、、、カメラアングルが良くて

      圧巻の魅力を醸し出すTV画面でした。


     そのあと、、ニセコの世界からのスキー客が、、、

      キッチン付のホテルで

      仲間とパーティする為の買い出し風景が出て来て、

                 、、びっくり!!

     我が家では、、何年間も買ったことのない、、、

      雲丹(うに) 蟹、、、刺身のロースのドテ!

   お財布考えない買い方の気風の良さに、、、

               びっくりしました。

    ニセコのスキーと、、、
              寒さの中の、、
                アツアツの肉料理にと

     最高の肉の塊を、、籠に、、、、ボイ!!、、、

            外国人のダイナミックな食欲には

     すでに、、伸長、体格負けしているところから考えても、、、

               桁違い!!


        日本は、
           北海道の自然の恵みを大切に、、、
                 美味しいものを提供できれば、、、

  、、ニセコは、、冬のリゾートの

    特別地区になりそうですね。

     目線を変えれば、、、

          日本人の若者は、、、
              有名大学だとか、、、
                  エリートだとか

                      狭い競争にこだわらなければ

                          食事の材料選びとか、、、
                              料理の材料の組み合わせとか、
                                       目利きになれば、、
                   腕次第で世界の食のニーズにこたえる為の材料調達が出来れば

               就職難の一部は、、解決しそうな、、、
             プロ性のニーズを感じながら

          これからの日本の若者は、、
        外国のりっりな階層をお客にできるような

      眼力と、、料理の多様性と、、、
      型にはまらない季節の物の材料使いに長けて、、
           圧倒する味付けを学べば

           ニセコのお客さんだけでも、、、

            上客だと思いながら、、、

    北海道の雪の多い地区や、、低音の地区のペンションを工夫すれば

         スケート、、スキー、、ジャンプなどの冬のリゾート客が

            世界からやってきそうだと,、、、かんじながら、、、

               お財布事情にお構いなしに、、、
                  高級材料を買いまくる画面を見ていて、、

         北海道の雪の使い方一つで、、、冬のメッカになるのだと、、、

           80歳になって、、、、初めて、、驚いてみています。


      我が家では、、、ひねもす雪掻きの重労働で終った人生が

              もったいなかったと振り返るのですが、、、

                 結婚しているというしがらみの大きさは

                    私だけが、、、
                 故郷の、、、
              「温かなふゆの南紀」に帰れるという、、、

                  道は有りませんね。


          息子の居る「富士山」の見える街に行くには、、、

            お邪魔虫の、、御老体になりましたね、、、。


          ニセコでスキーをするには、、、歳をとりすぎたかも!?

           人生、、、ともかく、、、先にレジャー!
                       先に遊ばなくっちゃ、、、

                         気が付いたときには、、、80歳ですよ~~~~~!

                (**)~~~~~~~(++)!!

          ダンナさんとは、、
              二人で旅行をしたのは、、、
                       新婚旅行の京都だけ!

             旅行の間は、、、大学の仕事の疲れで、、、爆睡していました。

                  他人同士のまま、、、の、、、ご帰還でした。

                   振り返ると、、、戦後の復活期の

                 日本一億,、、全員貧乏という時代に、、、青春時代を過ごした戦中生れですからね。

               池田首相でしたかね???
             「貧乏人は麦を食べれば良い?」でしたか??

                。。。。。有名な言葉になった時代でした

              その後、、カレーを食べれるようになった???

              政治には音痴なので、、、、、???
              何を言いたいのか???、、、混沌としていました。

              ダンナさんの家は、、、一家は二手に分かれて疎開していたため

             お婆ちゃんに母代りになってもらって、、、信州の柿の木の多多い地区に居たそうです。

             柿の木が有れば、、、食事の代わりになると、、、

                疎開先は、天然の食堂を選んだようでしたね。

                 戦中に幼少期を疎開先で過ごした、、、ダンナさんは

                  親戚に身を寄せていたせいか?、、、

                   成長段階の、、、大切な時期に、、、

                  お婆ちゃんと居たせいなのか、、、

                「 転ばぬ先の杖、、、、」、、、あれダメ。。。これだめ。。と
                怪我をさせないような、、、育児をされ多のかもしれません、、、、ね。

                戦時中に生れた男性の共通点だと思いますが

              贅沢では無い食材を、、、バランスよく、、、何でも食べたいという

              必要だから食べるという、、、

              納豆、、、お豆腐、、、ユバ、、、味噌汁、、、野菜の煮つけ、、、
              チーズ、、、カレー、、、うどん、、、、ソバ、、、のり

              ベッタラズケ、、、キムチ、、、ラッキョウ、、、キュウリの酢の物、、、

              かもの肉の「ゴマ眩しいため焼き」

              果物は、、、信州産の干し柿、、、

               孫が高校生になるころまで、、、

               夫婦二人でレストランに行くことは無かったですね。

              仕事の世界が、、、
              医療スタッフとともに頑張る職場だけに

              同僚との、、誕生会や、、、職場のイベントや学会が多くて

              外食が多く、、夕食を一緒に食べるようになったのは

                    人生も晩年になってからでしたね。

              80歳過ぎてからですね。

              80歳を過ぎるころから、、、イベントに、出席することも減ってきて

               20時以後に帰ってくるのが日常ですが

               それから食事をするのですが、、、

               TVを視乍ら、、、情報をゲットしながら、、、一人で食べていただくという日常です。


              ゴールデンタイムのTVはダンナさんの食事の相手になってくれています。
                  

             片づけ終ると11時になっていますから、、、私は深夜のTVを良く観ますね。

                      
             実家が開業医でしたので、、、戦後の東京の下町は

              キャバレーや、夜の街が駅前を占領していて

              家族で行けるような、、、穏やかなレストランなどは、、下町に見当たらなくて

              父は、大きなホテルの会員権の家族パスポートを持たしてくれていて

             家族は、ホテルの地下のプールで、健康づくりをした後

              ホテルのカウンターで、、、

             サンドウィッチやスパゲティ、、、オムライスに、、チキンライスなど

             スポーツをするにも、、、
            会員権のあるホテルのスパなどを利用していましたね。

                当時としては、誘拐犯などの事件が頻発していたので

              一億総貧乏人だった時代だけに
              開業医は、職員の給料に追い掛け回されていても、
              外から見ると、、、お金が在りそうに、、、誤解されやすい、、自家営業でしたから。
             税金も、車2台までは優遇茶っるので、、、

            華やっている営業としての内田氏の戦略で、良い車を買っていましたからね。

             19歳の時、、、父が過労で倒れてからは

           学生結婚をしていた長男が、、、開業を継ぎましたが
             父の時代の様には、営業成績は上がりませんが

            奥さんの交際相手が営業に関連してゆく医師会の奥さんだったこともあり

             背伸びして、、父の時代の医師仲間についてゆく努力をしていたように、、、私には思えましたね。

            奥サンと二人で、ホテルのスパに行って、、体力を整えていましたね。

            どんなに大変な時にも、、、素敵な夫婦に見えるように、、、頑張っていたように見えました。

          兄夫婦がホテルの会員権を持っていましたので、、、

               招待客として、、、父が生きていた頃と同じように、、、

                スパは利用させていただけたのですが、、、

               私の方から、、自分の力の等身大でよいから、、、自分尾力で出来る事の方が

             自立できると考えて、、、千駄ヶ谷の屋内プールに通うようにしました、

            300円くらいで、、、楽しまるプールでしたね。

              周りには、、、小学生も居ましたから、、、ムードは、、がらりと変わり

             活気とエネルギーにあふれていましたね。

             その後、ホテルの会員権があるという事は、、、
              会費だけで、、、自分んでは手におえない階層の日とも接待できるという
              メリットのあることに気が付いて

             旦那さんは使ったことを見たことは有りませんが

                ホテルの会員にはなりましたね。

                 大学一年生までは、、父のおかげで、、家族会員でしたから、、、

            会員権を持っていると、、、2000円ぐらいで、

            日曜日はプールを利用でき☜、、、
           いろいろなヘルスマシーンが無料で仕えたようですね

                  父が亡くなってからは、、、金欠病を味わいましたね。

              誰も、、、お金をくれないという、、、、現実!!!

             私はそのころ、、、薬学生だったので
            実践を学びながらのバイトに忙しくて

            家庭教師を3人、夜の銀座の薬局での店番とか、、、

             英会話の実践を兼ねて、、、アメリカンファーマシイでの売り子とか

            一人で生きてゆく為の、、
             社会勉強を兼ねた、薬学知識の得られるバイトに

             駆けずり回っていましたね。

                ラキーだったのが、、、大使館で、、、世界の来客に、
                 日本の婦負初旧跡を案内するという、、、大学生のバイトが掲示された時

             30人ぐらいの応募の中に交じって受験をしたら、、、通過したというラッキー!!

             神社の設立のいわれや、、、名所旧跡の説明を、英語で覚えるという講習会に出席して


           アン㋐に中に説明する事を、英語で覚える機会があったという事が

              とてもらきーでしたね。

              慶応大学の女子学生とも友人になれて、、、楽しいアルバイトでしたね。


                  此の神社は、、○○年の設立で、、、

              おかげで、、家庭教師していた学生が大学に合格して

               その学生のお父さんから、、、当時40000円という、、、ご祝儀をいただいて、、、

             お金に困っていた時だけに、、、舞い上がって,、、しまいましたね。

             そのころ、、、高校時代の化学部で一緒だった同級生が

              北海道大学の理学部に進学していて

              夏休みに帰省してきては、、、私が3本も家庭教師を持って

              おまけに、教職実習で飛び回っているのを知って

             家庭教師の方を、、夏休みの間だけ、、、肩代わりしてくれたのが記憶に在りますね。

             北海道は、、同級生が北大に進学することで、、、

              身近に感じるようになっていましたね。

              昭和42年ごろでした。

              雪まつりは、、、北大生が、、雪のだるまや、、雪の造形物を、、、

              大通りに並べたのが、、始まりだと、、、

               同級生は、、話していた記憶があるのですよね。

               札幌雪祭りを知っていたのですよね、、、

              サッポロに嫁ぐ前から、、、、

              北海道は、、同級生が北大に2人進学したことで、、、

              何時か夏に、旅行をしたいと、、、大学時代は思い乍ら

              アルバイトと、教職実習で、、、せっかくの大學時代の夏は

               思い出作りの夏にはなりませんでしたね。

              そして、、、大学を卒業すると、、、北大に進学していた同級生は

               下宿していた時に知り合った、、、女性と結婚して

              外国に行ってしまったのでした。

              雪まつりを、、、一緒に楽しむという事は 在りませんでした。

              

                 

 

             一生、、仕事が好きで、、、仕事場を離れませんでしたね。

                若い時は、、子供の心臓の奇形や、、、心房中隔欠損の手術に夢中でしたね。

              「手術によって、、全身のチアノーゼ―が治るんだと、、、」

             家庭そっちのけで、、、ぼうぼう、、と、、お仲間の医師と、何日も泊まり込んでいましてね。
              
            息子が麻疹の時も、、、高熱の息子のもとにはいませんでしてね。

               結婚していると事実だけで、、、病院に停まっている事の方が多かったですね。

           創生期の病院だっただけに、、、外科のように夜昼働く先生には、、、

              「マイルーム、、前田「という1Kのキッチン付の部屋を貸してくれていました。

               3万円ぐらいだったですかね、、、?


     本人は「医師をすること以外に、、興味がないんですから、、、」

         自宅は、ところかまわず、、、本も、置き散らかしで、、、

             医師同士の交際以外の時間は、、、診療だけ、、、!

              勤務医ですから、、、家には、、週末に帰って来て、、、爆睡しているだけという、、、

             味気ない結婚生活でしたね。

            子供は一緒につくりましょうという、、、まじめさがあるだけで

            奥さんンとして迎えたという実感よりも、、、
             奥さんは、自分の、、もう一つの働く腕?の感覚ですね。

          自分自身の延長戦が奥さんなのだから、、、

            自分委も思いやりのない、、無茶苦茶な勤務をして、、、
             4か月も入院したことが有るダンナさんだから

             奥さん緒事もお宮ㇽ余裕なんてありません。

             ダンナが退院して、、大学を出て、、、国立病院ン勤務の為に、出発する日に合わせて

             盲腸炎になって㎜手術した私は、、家で、抜糸をダンナにしてもらい、、、

             単身赴任で国立病院に行ってしまったダンナさんの日常品を40個の段ボールにパックして

             赴任先に送付した後、、、

              生々しいクズ口に、、、具とめのバンソコウを張って、、、

              子供達の弁当作りが始まりましたね。

               不規則に,、深夜に帰ってきたㇼ、、ゴールデンタイムに帰って来て

               飯だの、、、風呂だの、、、今を一人の部屋にしてしまうダンナが

                単身赴任していったときは、、、自分自身が戻ってきましたね。

                正職員で会社員をしながら、、子供達の弁当を3個作り置きして

              自分の為の時間を使いましたね。

               薬剤師会に入り、、、認定薬剤師をとり、、、北大の聴講生として、、

                夜の講習会に通い、、、認定薬剤師の勉強会に参加して

                エポックになっている、、、免疫学とか、、、集中的に勉強して

                現場に復帰しましたね、、、、

                 自分尾時間が自分で使える、、、夢のような、、「ダンナさんの、、、単身赴任中でしたね。」

              息子は、、怒っていましたが、、、、

              「母さん、、弁当重ねて作っておいて、、、

                 レンジでチーンすれば、、、温かン夕ご飯だというのか!!」

               確かに、、、仕事とはいえ、、、夜の10時まで残業していたこともしばしばだった。


               単身赴任で、、まさか、、2年足らずで、、、国立病院の医長を辞めてしまって

                 サッポロに出来たばかりの、、、ビル一個の、、、私的病院に移動するなんて、、

                紺豈早く帰ってくるなんて、、、考えもしませんでしたね、、、

                 私の天下は、、、あっけなく、、終わり、、、

                  もとの雪掻きおばさん衣逆戻りでした。


             
      

          私自身が、、薬剤師の免許も、、、検査技師の免許も、、、衛生管理一般の免許も、、持っていても
           出番がありませんでした。

           医局の命令とあれば、、、何処にでも行ってしまう、、、

            留萌、、、夕張、、、旭川、、、釧路、、、余市、、、倶知安、、、 函館と、、、

            函館なんかは、、、2年間近く出張でしたね、、、

            一度も訪ねてゆきませんでしたが、、、、
            ダンナの方で医局を辞めて、、、札幌の私的病院だった所に就職することで
            妻子と合流出来ました、

            単身赴任で帰ってきたときは、、、2年間の自分勝手なスケジュールが、、、ストップになり

            早朝から、、ダンナのペースで動き始めた時は

            馴れるまで、、、ストレスがひどかったですね、、、。

             女性が結婚して失うものは、、、「自分尾時間ですね。」

            単身赴任から帰った月に、、、私は会社の正社員として仕事に復帰していたのですが
             退職して、、、家庭に戻りました。

             半年ぐらいは、、、ダンナが居るということが、、、うっとうしくて、、、

              再び始まった結婚生活に慣れるまで、、、一年ぐらいかかりましたね。

           ダンナが居ない間に、、、私は、、薬剤師会員医戻り、、世界の学会に出席して
            人生で、、お仲間の薬剤師に話にもついて行けるようにと、

          イギリス、、フランスの20個以上の病院見学をして来ました。
          ウエルカム、、???医療博物館に行ってきました。
          世界の医療の歴史的な、医療機械の発達の展示品も見てきました。
          フランスの薬剤師会のゼミナールにも出席してきました。
          オテル、ディュ、、、病院の薬局も見学して、、ゼミにも出てきました。

          日大の恩師だった有吉教授が博士号の研究をしたと話されていた
               パスツーㇽ研究所にも見学を許され、、、

           著名な「ツル首のフラスコや試験官、、、化学薬品など見学を許されました。

           パスツール研究所は「狂犬病のワクチンン」でも有名ですが、、、
            エーズが流行したときのいち早く解決にいたる研究をしたことでも、、報道されていましたよね。

        ダンナから解放されている、、、束の間に、、、
            中国の4大中医学院を廻ってきました。

             成都まで行って、、一千軒も並んでいる露店が繋がったような雰囲気の
             生薬市場まで行ってきました。

            日本では、、桐の箱に入った一本10000万円の霊芝が、、、5本で 
日本円で100円ぐらいでしたね。買ってきましたが、、、

            国際親善仲間の研究者と一緒だったので、、持ち帰る子tが出来ました。

            結婚前は、、大学で薬剤師をしながら、、研究テーマを追いかけていましたが

            女性という、、、結婚、出産という、、、一大事業の為、、、

               6回目の認定薬剤師も通過しても、、、

               連続で働くことは出来ないで、、、

            ダンナの入院や、、子供の入院、、、大学受験などで

             ぶつ切りの勤務になってしまい、、、

             60歳になった時、、、後半年勤務してほしいと、、言われたのですが
             薬剤師からは、、、引いてしまいました。

              息子は、一人は医師に、、一人は薬剤師に、、そして、、、

              孫たちも、、医療関係を目指しています。

              家庭の主婦をしながらも、、、束の間だったけど、、、
              ダンナの単身赴任中の、、、自由が、、、私にとっての宝物の一瞬でしたね。

              45歳の頃の出来事ですが、、、昨日のように、、思い出すと、、笑みが出てきます。

            出産する、、、主婦になる、、、仕事とは両立しませんね!!!

             結婚生活が女性にとり、、老後を保障されるものでなければ、、、

             独身で働いて、、、老後は年金で、世界旅行を出来ればと
             普通は考えるかもしれません。

              政府の少子化問題は、、、育児が一台仕事であるという認識を
              男性側に解ってもらい、、、女房の誕生日には、、毎年感謝の送り物をするくらいでないと

              現状のままでは、、、結婚したが最期、、、女房の双肩に育児家事、、、税金の申告まで

              町内会の班長、、、PTA,,運動会、、、

              我が家のダンナさんは、、、全部、、自分の仕事優先でしたね、、、

              母が亡くなった時も、、、病院麻イベントに出席していましたね。
            長男が生まれる前に、、一度流産したのですが、、、

               雪の中を,、、這いながら陣痛に耐えながら、、、一人で病院いたどり着きましたね。

              翌年、、、また、、真冬に生れる予定日の妊娠で、、

              二度も流産をしては、、、子供を産めない身体になると思って
              4か月の時、、、問うK党の実家に帰りましたね。

              一年三か月ぶりに札幌の替えってきましたが、、、

              ダンナさんは、、病院当直室で泊まったり、、

               博士論文の研究中だったことから、、、研究室に泊まりきりだったㇼ、、、

               子供が帰ってくるのだと、、あらかじめ。。。

                ヒコーキの到着時間を知らせておいたのに、、、

              迎えには来ていません出したね。

            「やっぱりか、、、」そう思って、、一人で、、連絡バスの後ろ座席に息子を寝かせて、

            久々の、、一年3ヶ月ぶりで、、、札幌に帰還しました。

            二間しかないアパート暮らしに戻りながら、、、
            埃だらけの部屋を掃除しながら、、、
            この先、、、どないなるんや???

            北海道で、、、息子を一人で育児できるんかいな?
            そのような事を考えながら、、、
              1歳になった息子の冬の誕生日のあと、、、の
                  雪まつりに、、、ベビーばーぎーの折り畳み乳母車で、、

               オオドウリ公園の雪像を、、、息子と二人で、、診て回りました。

               プリンプリンに太った息子は、、皮下脂肪の姓なのか、、、寒さしらずで

                私の方が、、寒くなり、、、凍えながら、、、大雪像を観た記憶が甦りました。

              ダンナさんは、、、孫の代になってから、、、息子夫婦やお嫁さんと談笑しながら

              運動会にも、、、水族館にも、、雪まつりにも、、こまめに参加できる都市となりました。

           息子の育児の時には、、、仕事に追われて、、、独りぼっちの育児だったことが

            嫁さんおおかげで、、、孫が授かり、、、

            ぽっかりと、、穴の開いたままの、、、我が子の育児が

             孫の時代に、、しっかりと経験でき☜
             医師という職業は,、50過ぎないと、、、医局の働き手なので
             自宅に帰るのは深夜という時代でしたね。

              祖の点、、今の時代は、、無給医だとか,、インターンだとか

              無給のキンムノノルマが無くなったことは、、、若き医師の疲労からくる自殺が無くなりましたね。

           しかし、、、世の中の風評被害というやつで、、、
               大学の医師は、、金満家だと思っている
                  得体のしれない、、電話や、、詐欺や、、落とし穴で

                    若き医師を苦しまるのは辞めてほしいと思いますね。
                日記にこのように、、、洗いざらいか着ておくのは、、、愚痴ではありません。

            医師になることも、、むつかしい試験を通過しなければなれませんが

                医師をするのには「サポーターが、、犠牲を払っても、、、応援するという事!」
               医師として花が咲いた本人は、、、その「医師をするという事までには、、、」

               どれほど多くの応援があったかは、、実感する余裕さえないほど、、、
               医療だけを見つめて来た結果だと思いますが、、、

                親が開業医でない場合、、、私立の医科大学を卒業させても、、

                医師にはなっても、、、親が普通のサラリーマンでは、、

                留学の順番が来た時も、、経済的に、、、受けて建てないという、、、

               「医師をするためには、、、永遠のサポーターが、、、ごく自然態で出来る親が居ないと、、

              なかなか、、、学問の世界は、、お金がかかるという事だけは、、、認識しておかないと

           医師になったという事が、、ゴールではなくて、、、
             ここからが、、、「医師をすることが出来るか!!」始まりだという事に、、、
              気が付かなかった私は、、、

              貧者の一刀のような、、サポートしか出来なかったと、、、

              ダンナにも、、息子にも、、、自分のサポートは

             専業主婦になる事ではなくて、、、

               薬剤師を続けることで、、サポートは、「金銭的な事を」優先にすべきだったのかもしれませんね。

           大学を50歳近くで辞めたダンナさんも、、、息子も、、、
              私的な病院で勤務の報酬を得るようになって
         、、初めて、、人間らしい住宅と、、
             生活を始めることができるスタートに発ちました。

         全ては社会的な信用を得る事の出来た、、、固定、、、

           ローンを返し終わったのは70歳の中半でしたね。

          家賃を一生払っているつもりが、、、古くなった家が、、自分たちのものになっていたという、、

          考える暇のない、、流されながらの、、貧者に一刀が

         継続は力なり、、、が、、、35年ローンの結果でしたね。

        30年以上勤務しても、、医師は退職金がないので、、、ぼろ屋でも

           土地付きの家が残ったという事は、、、老後資金には成るという、、、

           自分たちの血と汗で得た、、、老後の安心ですね、、、。

         医者の外側からと、、、内側から戸では、、、現実の厳しさは

             奥さんの忍耐力にかかっていると、、、私は思いましたね。

         あれから、、、ダンナさんは

30年に上も勤務しました。、、、70才、、75才、、、づ脳明晰、、働く意欲バンバンの時に

             引き際が肝心だと、、、別の病院から、お誘いがかかりましtが

                ダンナさんにとっては「うちの病院」という話し方をするほど

                 他に移ることなど、、考えなかったのですね。

       私の実家も開業医でしたので、、、兄は、、一階部分をテナントのように空き室を並べて

            小外科として、、、開業をするのなら、、いつでも戻ってきてほしいと言っていました。
             しかし、、、院長を経験して、、名誉院長として、、病院に馴染んだ、、ダンナさんは

              東京に帰ってこないのなら、、、閉院しますが、、いいですか?と

             聞いてきた兄の言葉に、、、返事の手紙は書きませんでしたね。

              私が電話で、、、「全部放棄するそうです、、、と答えました。」
                      
             待ちくたびれて、、、兄は、、奥さんが痴呆になった段階で
              閉院して、、介護付の老人ホーム併設の病院に、、勤務医として勤務する傍ら
               奥さんの痴呆の治療の研究やケアや、、宝塚に観劇する刺激を与えたり、、、

              四苦八苦の老後を送っています。 

               30年勤務しようが、、、外科医のダンナさんは、、、一年契約の連続でしたから
               退職金は有りません。、、、院長に就任する時も、、、前院長の依頼で引き受けました。

                大きな科であること、、、国立大学であること、、、サミットなど国際間の事で
                世界のビップの医療面を引き受けられるという
                万一の重症に対しても   医局の人事と繋がっている
                援軍を養成できる発言の出来る地位まで行った医師であること。

            サミットを控えていただけに、、、外国とのパイプの在る医師や
            国立大学の助教授、講師前許された医師という事で、、

             医局長や、同門会長、講師と、、医局の臨床部門の人と人を繋げる立場に居たダンナさんが
             事務サイドの依頼と、、前院長の推薦で、、、一度は辞退したのですが、、、
              次期院長に自治体の押すような地元貢献型の地元のエリートの方が院長が立つには

              札幌市の地域優先型の病院として、、医大からの院長が来るので商と、、、話しながら

              依頼された以上、、、引き受け手という流れでした。

             国際的なニーズが必須で亡くなった段階で、、、国の御用に直接応じるイベントもないし

              地域の病院としているのが良い時期に入り、、、ダンナさんは、、、事務サイドの方のニーズにこたえて

           ロテェスターのような、、国際医療都市に成長するだろうという、、、期待も持てなくなり

             あっさりと、、事務サイドのニーズに従って、、もとの、、現場の医師をしたいという診断医に戻りました。

            弟は、、ダイナミックに世界の後進国にも講演をして回るという 「がんセンターの検診研究部門の所長だったこともあり

            メイヨ~クリニックにも、、ハーバード大学病院にも、、留学していることもあり

             中国や、バングラディシュにも、、講演をしていて

             警備の為に動けないよと、、、ホテルから、、電話を掛けてくれて、、、

              世界の医学の状態を、、少しでも、、患者利益のあるレベルまで、、、と、、

              当時は話してくれていましたね。

              ダンナさんも、、小樽という港が近い、、病院が、、ロテェスターのようになれば、、

              全道のみならず、、、北方4島も、、、樺太も、、、医療の貢献が出来るゾーンになるのではないかと

             若き先生たちと、、夢を語っていた時代もありました。

             医大からの院長が来る前までは、、北大の院長だったこともあり

              国が御している国立の医師が院長をしているという事で、

              外国も、、いざ国際的な異変状態の時も、、、国立の大學蛾関連している院長の病院であれば

             緊急の時は国の責任い老いて動いてくれる部署に、、連絡が取れるから

              安心して、、スタッフを送れるという考えも、、、無きにしも非ずでしょうね??

               そんなことはないって???

              でも、、国立大学の医学部の大きな科である外科の医局で、
              医局長として勤務歴も長く、、、その後は同門会長を務めて、、

               全日本規模の、「臨床医と医療スタッフの、、患者さんの入院などの時の共有できるクリニカルパスの学会」を
              札幌市で開催できたのは、、、大会長を仰せつかったダンナさんに、、、皆が協力してくれてから、、

              大成功に、つつがなく、、大会開催地都市として、、「札幌市」を全国に知ってもらえてという

             札幌市への貢献も合わせて出来たと思いましたね。、、、、恩返しが出来たと、、、私からは見えましたね。

             雑費や、、連絡や、、個人的な勧誘で、、、空回りかもしれませんが、、、

              友人の薬剤師からも、、エールが来て居ました。

                



            ダンナさんは、、、弟が札幌に、、学会でやってきたとき

             外科の医局に連れて行ってくれて、、、教授に紹介してくださり

               医局で講演会をさせていただいたこともあるんですよね、、、

             医師の義兄弟って、、、助け合えつこともあるんですね。

            その後、、、北大の医師から、、講演会を依頼された弟は

               ロイトンで、、画像診断の、、CTや、、MRIの黎明期の時の公園をさせていただくことになり

             私も、、薬剤師会員として、、聴きに行ったことがりました。

             医学部の学生が使えるような、、、「紙の本」を13冊ほど出版している弟は

             団塊の世代の、、、日本緒CTの草分けとして、、、公的な賞をいただいているようです。

              札幌市で、、、検診検査研究業務をしてくれるなら、、、専門的な画像診断の師匠が来るようで

              うれしいのですが、、、いかにセントも、、、団塊の世代で日本をアメリカに追いつき追い越した世代も

             後期老人の、、時代が来たという事です。

              ヅ脳明晰、、、ホーキンズ博士のように、、、医学の脳だけでも貢献できるように

               こうした逸材は、、サポート体制が無いと、、、医師を続けてもらう事は出来そうにもないですよね。

              国際的なイベントが終って、、、国際イベントも当分来ない、、、

              地域の自治体貢献型の病院いするのが妥当なのか、、、アメリカから、、医師がやってくる、、

             国際的な後進国にも開かれた窓口のある病院いするのが良いのか、、、、、

             政治的には、、北大が強いと思いますね、、、政治音痴の母ちゃんの意見ですが、、、

              北大は国立ですし、、、本州からの医学部入学性も多くなっているから
               世界に必要な情報ごと、、医師になってくれているという、、、

                普段は、、北海道人と変わらなくても、、、いざ、、国際的なビップが来た時は

             君子豹変するという、、、国際感覚で、、北海道の仕事をやってのけるのが
             国立と、地域の医大の役割分担の接線ではないのかな~~~と、、思ったりしている母ちゃんです。


             なんいしても、、、旦那さんという、、北大出の医師に、、、上手に家庭入院ンをさせられた間の間、、

                入院中の、、朝昼夜の、、、おしっこをとれと言われている様な,、

                     家事一般で、、家庭という持ち場を離れられない状態に、、甘んじる55年間で

              北海道大学の医学部の卒業生の、、、一徹な頑固さには

               自称、、女性では、、男に負けてたまるか、、、精神で活きて来た私は

               Nippon国の、、、男尊女卑の、、根深い頑固さに、、、クッしてしまいましたね。

                  雪を搔いて、、人生は、、過ぎてしまいました。

               ともかく、、札幌市の私たちの医師先生は、、、「医大の先生ですよね。」

              現場の診療状態は、、、札幌市民のおばさん方は、、「医大の先生が、、、私の先生だという人が多いですよね、」

                 国際的なイベントのサミットがぶじに終った方が
              政治的に外国のビップを守らねばならない非常事態を考えると
              国家に即通じる国立が良いと、、
               国立の講師までを勤めた医師が、トップダウンの情報につながりやすい適任と
              偉い方がたは考えたのかもしれません

                御っ母ちゃんの立場の長かった私は、、、推測するしかありません。

             する人材が出て来るまで、、、とりあえず、、サミットという
              世界を巻き込んだイベントがある以上、、、国立大学の医局から院長が推薦された方が
              地方自治体の病院が、、、国の援助を受けるよりは、
              国立大学の方が国の援助を受けやすいかもしれないなどと

             外国の要人を迎えるという、、イベントがあるだけに
             北大からの院長が良いという事になったのではないでしょうかね?

            ダンナさんは、、、院長は政治家みたいだから、、
             「自分は現場の医師をしたい」と言って
             一度は断ったようでしたね、、、

               前院長のように、、、政治的な面が優れているというわけではないので

               「現場の医師をしたい」という強い目的で生きて来たのを、、感じましたね。

             院長を引き受けてしまってからは、、、なる様にしかならないから、、、

                  ベストを尽くすだけだと言って、、、

              「クリニカルパス学会」なども、、、不得手なジャンルでしたが
                 得意な先生方の絶大なる応援で、、、推薦されて、、会長を勤めました。

                   その時、、大人気だった旭川動物園の副園長だった
                       坂東 元副園長さんに、、、講演をお頼みして

                          あたたかな、、命の講演んで、、、会場は大盛況に湧きました。

                  私も、、家内という、、、賞も無い立場では、、手伝いにもならないと思い
                          個人的な、、奥さんという立場は通用しないので、、、

                     「クリニカルパス学会員」として
                       「認定薬剤師と薬剤師の身分証明書」で

                     会場に入れていただき。。。
                     すべての講演で、、時間の許す限り、、聴くことが出来ました。

                    本州で医師をしていた息子も、、会場に来ており、、、
                    薬剤師の息子も

                     「クリニカルパス学会員」として登録して

                      家族も一丸となって、、、外側から、、

                      応援することにシテ、、、
                     札幌のロイトンホテルや、隣りのイベント会場や

                       アチコチの会場を走り回って、、参加したことが、、昨日の様です。

          
                   
                   院長を引き受けた以上、、クリニカルパス学会は、、成功してほしいと

                    抄録は読破して、、、英文発表のページも、、

                    翻訳に、、問題がないように祈りながら、、、表紙にかかれたダンナさん緒名前を

                    頼もしい北大の仲間や、、病因の事務の皆や、、病院内の医療スタッフが

                    一丸となって、、札幌ンぽ病院が主催の全国学会が成功するようにと、、

                  心は一丸となったに違いありません。

                  外野の立場の私でしたが、、、自分委出来るせいいぱいの応援はしたつもりのイベントでした。

                 奥さん、、、と言われる、、社会の外野の立場ではなくて、、、

                  勤務中だったこともあり、、、薬剤師として、、、ダンナさんの会長の学会講演を

                  聞くことが出来て、、、自分の為には、、、自分を出来たと、、思いましたね。

                      家族や家内としての立場で、、病院を応援するという立ち位置には居ないので

                     学会員として、、、ダンナさんの手足のように、、、資料の整理や、

                     学会誌の英文の議事脱字の校正や、、時間のかかりそうな翻訳などの雑用は

                     この時ばかりは、、縁の下で、、、
                   何でも頼まれたことは引き受けましたね。

                    ダンナさんが院長時代で、、一番楽しかったイベントかもしれません。

                      

                     旭川動物園には、、その後、、機会ある毎に行きました。

                     孫が小さい時にも、、、連れて行って、、孫を喜ばせました。

                        坂東元先生とお呼びしていますが

                         動物への愛情が、、、深い視点で公演されて、、、
                         聴いた人々の感慨無量の感想を
                            聞く事も出来ました。

                           

                     クリニカルパスという、、、入院患者さんにとっても、、

                      看護師さんにとっても、、、

                       臨床医の先生方にとっても、、

                       素晴らしい学会だったと、、、
                    今でも実践の現場の人々にとって必要な「パスの考え」を

                     その後も、、事ある毎に、、記事を読むようになりましたね。

                        

                        学会が終われば忘れ去られる事の多い演題ですが

                          坂東元先生の、、、動物と人との心の講演は、、、いつまでも忘れない

                         あたたかな、、視点でしたね。

                         今日の日記はこれでおしまい!!、、、

                         雪を搔かなくっちゃ、、、、もう、、、春になってほしいよう!!!

      

                    


                      



                       

               
            

    


          

  

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