祈る。
チベット人にとって「祈り」は日本人が思うところとは違う次元であるように思う。
祈りが人生と密接に結びついている。
ひたすら祈る。
来世のより良い人生か、
今世の生活を良くする事か、
それとも他の何かか。
祈ってだけいるのではなく、
行動も必要だ、とは誰かが言った。
でも祈る。
チベット人にとっての祈りとは何だろうか?
西洋でも祈りは日本人より生活に密接に結びついているように思えるが、
チベット人のそれは、少し違う印象を受ける。
重いのだ。
チベット人の祈りには重さを感じる。
過酷な環境と複雑な歴史を持つ国内で生きて来た人々だからなのか。
ズッシリと重い。
西洋にも暗い歴史を持つ国々の祈りがあるので、
西洋の祈りが軽いというのでは無いが、
チベット人達の祈りは概して皆、暗く深いものを感じる。
チベット仏教の深遠さからくる祈りだからなのか国民性なのかは分からないが、
皆で祈って、ハッピーで行こうぜ、などとはけっして声をかけられない。
祈る姿で印象的なのは五体投地だが、
全身を使って祈る方法、五体投地、で巡礼をしている人々を実際に目の当たりにすると
祈りの重さを実感する。
歩くだけでも大変な荒野を、五体投地で長い長い距離を巡礼してボロボロになった巡礼者の姿を見かけたり、
昔、雪が降りしきる凍てつく寒さの中、お寺の外でひたすら五体投地を繰り返す老婆を見た事があるが、
なぜ、そこまでするのか?
と、感じる。
日本人として生きてきた僕にはまだ分からない。
因に、五体投地は、ラサなど自治区内ではそこらじゅうで見る事ができるし、
東チベットの大草原や荒野の道を五体投地で巡礼している姿を見る事ができる。
ネパールではボダナートでも見られるが、なぜか同じチベット圏のラダックで五体投地をみる事はほとんどないです。
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