旅する骨董屋 喜八

チベット圏を中心にアンティークや古民芸・装飾品を旅をしながら売買する喜八の、世界の様々な物や人その文化を巡る旅のブログ。

死について

2022年02月15日 | 日記



先日、友達と飯を食ってたら、
「親友が自殺したんだよね」と打ち明けられた。

話しを聞く限り、亡くなった人は経済的に困っていた訳ではなく、
(表向きになるかもしれないが)孤独だった事もなかったらしい。

毎日の様に会っていた僕の友達にしたら突然の事だったらしい。

具体的な話しは控えるが、
その友達はショックを極力、表にださなかった。
彼なりの気遣いだったのだろう。

また、少し前の事だが別の友達も婚約者が事故死してしまい、
彼女の人生は突然急角度に変わってしまった。

あまりにも急角度だった。

事故後、彼女は他人には分からない程に計り知れないショックを受け、
社会的にも高いポジションに居たが仕事は手につかず、
最終的に自ら手放さざるをえなかった。

亡くなった婚約者が裕福な人だった事も考慮するのが良いか分からないが、
輝く将来が「死」によって突然変わってしまったのだ。

彼女は明らかに美人で華やかという事もあり、
もし彼女の経験を知らなければ、外からは悩みがあるようには見えないかもしれない。
愛する人との突然の死別を経験した人にしか分からない事だろう。

死って、現実的に自分に身近になってから
真剣に考える事または実感する事だと思う。

一般的には健常で平穏な日常生活を送る上では真剣に死を考える機会は少ないだろう。
特に自死に関しては。

イスタンブールに居た時、
皆で飲んでたらたまたま自殺の話題が出て、
同席したフィンランド人がフィンランドも自殺は多いと言っていた。

ちょっと調べたら韓国とかめっちゃ自殺多い。

少し前にもアメリカで華麗な経歴を持つミスUSA2019の自殺(※調査中らしい)もあった。
日本でも有名人の自殺は注目されるが一般の人も数多く亡くなっている。
今でも年間2万人以上。単純計算で毎日50人以上が自殺で亡くなっている。

凄過ぎだと思う。
コロナであれだけ圧倒的に騒ぐのに自殺はほぼ報じない。
何故かしら。

自殺だけじゃなく事故死とか病死とか寿命とか色々あるだろうけど、
死って考えても答えはたぶん出ない。
少なくとも僕の頭脳では答えは出ない。

しかし、そんな僕ですら、
死について考えまくった時期があった。

毎晩の様に泥酔し、
毎週の毎にパーティ三昧。

少しばかりの社会的地位もあり、
東京の一等地に住み、
お金持ちではないが金に困窮してもいない。
特定の悩みがある訳でもなかった。

そんな時に来るんスよ。

死の影ってのは。

死の影とかカッコつけて言ってみたが、
僕が知る限り、そんな良いもんじゃない。

誰かが言っていたが、
死ってのを自分で選ぶ時は、
絶望的な迄に打ちのめされ死ぬ気力すらも無い状態より、
日常生活をしていて衝動的な行動である場合の方が多い、と。

僕の場合は最終的に旅、特にインドでのあまりに衝撃的な美しい光景がきっかけで、
死から自分を遠ざける事が出来た。

ほんとまぁ、紆余曲折、色々あった結果、
個人的に「死(または死と生)を象徴するモノ」と感じている、
チベット仏教でのカパーラを扱う事に辿り着いたのだが、
そんな個人的理由はあえてイチイチ言っておらず、
「おれ、人骨を扱ってるんだ」と言うと仲の良い友達には爆笑される。

単に金銭商売的な視点や話題性として扱っている訳ではなかったのだが、
もはや内輪では笑いのネタになってしまっている。
でもまぁ、それはそれで良いと思っている。
怪しい宗教に傾倒してると思われるよりはマシかもしれない。

死の話題を出す時、宗教や哲学という言葉も出てくる時もあると思うが、
それは、死って宗教観に深く関係している側面もあるからかもしれない。

また、「暗い話しじゃなくポジティブに考えていこうやー」と言う人も居るかもしれないが、
「死」そのものをネガティブだと定義してる時点で僕は疑問が出るのです。
実際、僕も死の話題をだそうとする時「重い話しをしますね」と言われる時もある。
それは日本人に限った事ではなく、欧米人と話してても同様な返しがある時もある。

思うに、
もしかしたら、死そのものにはネガティブな要素はなく、
上記で他人様の体験談を書いた様に、
生きている人間に対してネガティブな事象が起きる。
逆説的に言うと、
生というものにこそネガティブな苦しみが在るんじゃないかとも感じられるのです。

死というのは、生きている命に対して悲しみを与える要素を持つ、合わせ鏡なのかな。

日本での自ら死を選ぶ権利を否定する事や論じる事もしないのは、
もしかしたら、
生きている側(現実社会側)に悲しみを産むからダメという潜在的な自分本位の恐れや「拒否反応」であって、
死ぬ側(生命世界と対極側に向かう本人)の事を本当に想っての事ではないかもしれない。

宗教的に自死を避ける事(または認めない)がもしあれば、
色々な価値観解釈かもしれないが、
少なくとも、それを様々な視点から改めて論じ合う事は大切であろう。

死ってのは誰しもに訪れる。
今のところ、必ずね。

誰しもが共通して通る道。
なのに公に論じるのは、日本では、ある種のタブーの様に扱われる。

「死」について、もしくは、
「自死の権利」をもっと日本でも論じ合っても良い気がするのです。

そんな事を思うのでした。


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