旅する骨董屋 喜八

チベット圏を中心にアンティークや古民芸・装飾品を旅をしながら売買する喜八の、世界の様々な物や人その文化を巡る旅のブログ。

大人のビジネスの世界と人生観

2018年08月17日 | 日記

先日、友人と飲んだ。

ある大手有名企業系の社長をしている。

頭脳超明晰、即断即決、気遣い、負けん気、どれをとっても
客観的にみても、大人の世界で成功しているのを納得させる実力を持っている。

酒が進むと自然と仕事の話になった。

「それ、ワシに言うても難しすぎて分からん話しやで」

と思いながら聞いていた。

俺の容量の少ない頭脳では全ては理解ができないが、
簡単に言うと、
ビジネスに関して、お金が最も重要、という事。
また、
できる、できない、を検討する時間は無駄であり、
グレーな部分も必要ない、
即、イエスかノーかを言えば良い、
という事だ。

まぁ、今さらの当たり前すぎる事であるが、
いざ、大きな会社の社長という地位の人から友人として、
直接聞く言葉には説得力があった。

例えば、
ある商品があったら、
それを10円で買うお客がいたら、
5円しか出せないが、世の中に役立っている事をやっているお客より
10円を出すお客を優先させる、と言うのだ。

ビジネスは、
与えられて(儲けて)なんぼの世界、
施しなんか意味がない、
5円しか出せないが、将来・・・という不確定要素はNOなのだ、
と言うのだ。

ふむふむ

将来性に対しての融資、を「施し」ってゆー直接的な意味じゃないし、
はしょってる部分もある。

しかも酒の席なので、真意であるかどーかは分からんが、
少なくとも仕事に置けるスタンスは垣間見えた。
フォローする訳ではないが、あくまで、「ビジネスに置ける話」であって、
個人的に施しの感覚がないかというとそーではないと思う。

でもなんとなく、
それが大人のビジネスの世界なんやね、と思う。
それを実行しているから社会的に成功するんやね。

そして、
「究極論、自分が生きるか死ぬかの瀬戸際に他人の事なんか心配してられない」
という言葉にハッとさせられた。


そこで、ぼく、ふと、思うのだ。

施しってビジネスには必要ないのかー
全ては共通だと思っていたが。

究極論、生きるかどうかの瀬戸際に人を想う気持ちを持ってたいよね〜

それがいくら夢見がちな意見だったとしても。
実践は、まぁ、間違いなく難いけど、それがほんとの究極論のよーな気がするのだ。

でも、他人より自分、それが現実だね。
俺だって今そーだよ。
そーゆーのが社会なんだろう。
身近な人もそーゆー感覚で生きているのだ。

しかし、それらにどこか違和感を感じるのも事実だ。

自分の仕事上、チベット仏教だったり、
インドやネパールの貧しい人、
世界中のヒッピーを地で行く旅人と接してるからか、
自分の中の感覚が、日本の世間、いや、社会と少しズレてしまったのだろう、
と感じて、色々考えたのと同時に、
なんとも説明できない淋しさを感じたわけさ。


チベット圏とか行くと、
え?コイツ、こんなキャラでも、
施しってゆーか、祈り、とゆーか
宗教観に根ざした感覚持ってるんだ、と驚く時がある。

また一方、
欧米人の極端な施し思想(東洋思想に対しての信仰)を持った人たちの輪に
おいおい、ちょっとそれ、美化しすぎ、キモいわ、
と感じる時もある。
インドのサット・サンガでのグルの教えに集まる欧米人はその傾向を感じる。
特に著名なムー・ジーの講演に集まる人の中には、
マジでっか?というよーなイっちゃてる人から、
表面的にやってくる人まで様々だ。

個人的には、本気でやってる人に共感する。

だが、スピリチュアル的な、
愛こそ○○、とか言うつもりはない。
いまこそ宗教が必要〜、とかも言うつもりはない。

あ〜、ついに狂ちゃったんだね、と言われるだろうし
そこまで極端な傾倒思想は持っていない。

人生の楽しみ方や価値観は人それぞれだし、
金持って、不自由なく楽しみながら生きるのって間違いなくいーよね。
金と健康、大事ですよね〜
愛とかも金とのバランスですよね〜

・・・と思うが、
何かが違う気がしてしまうのだ。

自分が世間と何処かがズレてしまったのを感じるさ。


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