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旅する骨董屋 喜八

チベット圏を中心にアンティークや古民芸・装飾品を旅をしながら売買する喜八の、世界の様々な物や人その文化を巡る旅のブログ。

第五話 死から生へ。

2019年10月08日 | 日記

フィクションです。


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次郎は
全てを捨てて、旅へ出た。

よくある使い古された言葉だ。

周りには
今さら自分探しかよ、
と言われたが、
実際には何かを見つけようとしていた訳ではなく、
旅に出たのは、
自分の死から逃げたい、
逃げなければならない、
その反面、
死ぬ場所を求めている、
という矛盾する理由からだった。

次郎にとって、
あのまま日本に居たら、
精神病院に入るか、
自殺するか、
しか選択肢はなかっただろう。


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三回目のインドだったか。

行き先は決めずに来たので、
北へ向かった。

ヒマラヤの麓、マナリへ。

二度目のマナリだった。

ヒマラヤの麓の小さな村で
大麻の煙と、
ヒッピー達に混じり、
ゆっくりとした時間が流れるなか、
堕落した日々を長い日数、送った。

その後、更に北へ向かった。

ラダックへ行き、
何ヶ月かを過ごした後の記憶は定かではない。

ただ、旅先では多くの人間と出逢った。

風景がどうであるとか、
食事がどうであるとか、
は時間と共に薄れるが、
不思議なもので、
旅先での人との出会いは何年経っても覚えているのである。

移動は、
デリーに戻って、
タイやラオス、ミャンマーなどを経て
ネパールへと移った。
それぐらいの記憶しか残っていない。

クソ溜の吹きだまりの街、
ネパールのカトマンズのタメル地区の安宿で長く過ごした後は
西の国に向かおうと決めていた。

結果、
ネパールからドイツやフランスなどヨーロッパ数カ国を経て、
イビザ島で遊んだ後、
ポルトガルまで辿り着いた。

色々あった様で
何も覚えていない。

その先は、
海を渡り南米にでも行くか、ぐらいしか考えていなかった。

しかし、
ポルトガル、リスボンの赤茶けた夕陽を高台から一人で見ていたら、
突然、啓示があった。


インドヘ戻りなさい


と。

次郎は啓示に従った。

慌てて、エジプト経由で
インドへ舞い戻った。

再度再度のインド。

多くの夜行列車や長距離バスを乗り継ぎ、
強烈に香る香辛料の匂いのなか、
クソや反吐、汗にまみれて、
南北東西、
インドをグルッと一周した。

多くの出会いや別れがあった。

ガンジス河の上流まで行き、
清流の小川となったガンジスの脇の
ヒンドゥー教寺院のアシュラムでも寝泊まりもした。

奇人の大祭典、マハ・クンブメーラにも行った。

石を投げれば変人に当たるぐらい、
世界中から奇人変人ヒッピーが集まっていた
当時のバラナシは混沌の極みだった。


不思議なのだが、
日本人はある一定の年齢になると無謀な旅をしなくなるが、
一方、欧米人達は年齢を経ても、
金がなくとも、
自由気ままに彷徨う旅を楽しんでいる人間が多い。
例え、幼子を連れた家族連れであったとしてもだ。
自分の国へ10年以上帰っていない旅人も時には目にする。


その欧米の旅人達に混ざり、
長く濃密な時間を過ごした。


これ以上ない程の
濃度の濃い時間と空間のさなか
死を意識して旅立った
次郎は変わって行っていた。


明け方、
夜行列車の開け放たれた鉄の扉の先から見えた
真っ赤に染まったインドの大地と、
まぶしい程の朝日を見た時、
自然と涙が出ていた。


次郎はその時には
「死」
という事を
意識しなくなっていた。

強烈に
「生」
を意識していた。


六ヶ月間有効のビザが切れるギリギリまでインドへ居て、
またしてもネパールへと渡った。

お約束の
長旅沈没定番コースだ。

その頃には金が底を尽きかけ、
貧困そのものの旅をしていたが、
アンティークは会社員時代から好きだったので、
カトマンズの骨董屋には
冷やかしで出入りしていた。


次郎は、古い物を昔から好きだった。


会社員時代には
モロッコへ古いカーペットを探しに行ったり、
トルコへエキゾチックな布を買いにも行っていた。

旅途中でも必ずと言っていいほど、
訪れた各地の骨董屋は見に行っていた。


その趣味が
次郎のその後の人生を大きく左右するとは
この時は夢にも思わなかった。




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