真剣道外伝★無端晟輝の残日録

真剣道・基道館宗師範の残しておくべき余談集

火花散る「相対稽古」 熱い男たち

2019年07月08日 | 基道館活動記録

令和元年7月7日 私は悔しい男になった。詳細は後日記すことにする。私はこの日を生涯忘れない。

さて、悔しい気持ちを抱きかかえ蹌踉と天神山に帰った。

 

季節は初夏

 

美しい花が可憐に咲いている。

 

やっとたどり着いた陋屋にはダーリンも静かに待っていた。

 

 

事の次第を黙って聞いてくれた。

 

夕刻からは虎乱洞稽古がある。

見学者が来る予定だった。

 

定刻より早く天神山小学校に出向くと応援の萬重関塾長 無有庵師範と見学者の方が話していた。

 

遅れましてと挨拶、ほどなく不調から立ち直った虎乱洞主人 無維庵師範も到着。

 

見学者の方の対応は前半を私が受け持った。

正座法から入り、使用前使用後の写真を写す「お顔まで変わりますよ」と言って始めたのだが歴然と変化していた。

次に80㎏はあろうかという元ボクシング経験者の方にしっかり構えてもらい「小指一本で押す」いつもの洗礼(笑)

本当にびっくりされていた。

その間にふと道場内を見ると火花が散る相対稽古が行われていた

無有庵師範VS無完庵准師範

 

浮雲から参加していた女性剣士Fさんは自分の稽古も忘れ、きれいに座ってじっと見学していた。その間およそ40分

両者納得するまで技を繰り出す、その熱いこと!

 

Fさんの感想 「競技でないからこそ、こんなすごいことができるのですね、見学してありがたかった」

 

やがて、無維庵に見学者をお任せした。

 

稽古が終わり、見学者の方は

「ぜひ入門したい」とのこと

「私どもの基道館はひと月の無料体験がありますから、その間にじっくり本物のブドウと付き合っていけるかお考え下さい」と説明した。

 

先月から入門希望者が多数、基道館の門をたたく、実にありがたい傾向である。

各師範は軽い気持ちで来た人も、きりりと覚悟を決めてきた人も等しく、6段になるまでは責任をもって指導してください。

時にうまくゆかなくとも、それが我々の責任だと考えましょう。


狂気ありて   再掲正統とは何か。

2019年07月08日 | 安全な食品

正統とはなにか」ギルバート・チェスタトン 
2016.01.14. 
ギルバート・ケイス・チェスタトン(1874-1936)は正統とは何かのなかでこう述べた。

「伝統とは、あらゆる階級のうちもっとも陽の目を見ぬ階級、我らが祖先に投票権を与えることを意味するのである」

私は以下のように考える
どのような場面に於いても先人と共にあり、自分こそ先人が築き、伝承してきた「文化」の最後尾に位置するという自負を持つ、そして先人の魂と同化して少しも油断せず端然としていること。
いまの「現場」には幾多の先人も投票権を保持して参加しているという謙譲を態度として持つこと。
大義とは何かを問い詰めながら、有効無効の隔てを乗り越えて、純粋に「正しいもの」を顕わそうとし、断固として動かないものをうちに秘め、流されて行く世相と関係なく、その中心に静かに端座すること。

註 中心とは点ではなく時空を垂直に貫く縦軸に他ならない



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昨夜はダーリンが録画していた「立川談志」のドキュメンタリーを視聴した。
芸道に飽くなき熱情を持つ、師匠は「人間を肯定した」落語をやりたいと念願して生涯をかける。
「大衆には落語は分からない」ことに落胆しつつ、それでも挑戦を続ける。

「ハナシを覚えて、(お金を貰って)やれるようになり、それで満足なら他の処(他の一門)に行け」と弟子にも厳しい。
真打ちにはオリジナリティーを要求する、そのオリジナリティーとは他ならぬ人間の深さであろうと思った。

中身のない落語は「笑わし屋」と軽蔑していた。

 




図譜にも同様の記述があるから紹介しておこう。

「私は常に思ふ-吾々の武道修養上肝要な心構へはー師の教へを守って、動かぬ心が最も大切なことであるが更に一歩を進めて、師に忠実ならんとする為には、師の教への枠内に安住することなく-師の教へを基として、是を乗り越へて-自己みずからの魂を表現する-みずからの心技(自分のモノ)を創造することが肝要と心得る」

「和は道の真諦」 河野百錬 (S42.元日記)


いわゆる守破離の段階を踏み、6段ともなれば破の階梯に到達するのが師匠孝行というモノだ。
師のコピーでは情けない。

伝統の中からこそ新しい価値が芽生えてくるだろう。それがモノマネではない正統のシルシだ。
先人とシンクロする、その先に一歩を進める気概を持とう。

そういった、基道館の気風にプライドを持っていただきたい。
群盲象を撫でる如き世相に生きていて、目先の損得に左右されずやって行くのは至難のことだが、本物のプライドというものは、自分を超えたものの価値を認めて、その原則に従って生きているという誇りなのだ。
それが備わったとき、自然と気品や品格が人間に出てくる。

私を越える者たちがぞろぞろいるんだな~・・・・・・(笑)