真剣道外伝★無端晟輝の残日録

真剣道・基道館宗師範の残しておくべき余談集

松山市帰還、松山武衛會立ち上げ

2020年11月29日 | 目先を変えてもええやんか!

4月に松山帰還しました。コロナのため自宅で待機

6月から活動開始し、8月までガードマンやってました

10月からキッチンカーで「珈琲遊撃隊」出動

完全オーガニックで自分に規制をかけ、美味しい、安全というキーワードを保持しながらほそぼそと生計を立て

 

来年1月から 真剣道・松山武衛會の活動を開始します。

現在は松山市三番町八坂公民館をお借りして、初心者向けの無料体験会、いろいろなジャンルの雑談会(根底は居合)などを開催しています。


武の本質

2019年10月13日 | 書簡

秋も深まり、石鎚のもみじが懐かしいころとなりました。

大兄にはご健勝のことと存じます。

私儀、

今般、松山に移住することに相成りました。

それにしても、武の本義、本質を追求する道の途上で、不本意ではございますが、これも浮世の定めと諦観の成り行きでございます。

つきましては、かように思いますので、是非とも駄文につきまして御叱正賜れば幸甚です。

 

武の本質

原初闘争の具として発明改良された術は徳川期「人道の糧」と昇華した。

現在では先人の苦労により、人格形成の道となっている

 

そこには体格、男女、老若の区別なく、道を求める人々に「惜しみなく」すべて与える真剣道があって当然。

勝敗など、取るに足らぬこと、まして段の高下など「人間力」に比べたら何の意味がありましょう。

しかしながら、勝ってやろう、こちらが上だ、という邪心は人間にはつきものに違いありません。

 

今日も「愛がない」と、とある方から指摘があり、誠に恐れ入った次第です。

 

大兄の住まいする、松山に帰還するにはこの40年の大阪滞在は不首尾かもしれません。

しかしながら、私の出番は終了。

どうぞ、落魄し先祖墳墓の地にて余生を静かに終えたいというわがままをお許しいただきたい。

 

真剣道基道館は峠の上にとまった列車、あちらに行くか、後に戻るか。

 

半々ですね。

武の本質に肉薄するには、私には器量がなかったと思い知るこの頃です。

来春、松山城の桜の下で飲みたいものです。

 

追伸

同じカメラでも狙いが違うと絵も違うということを思い知りました。

 

 

右乱筆乱文ご海容のほど

 

令和元年10月13日 夕刻

                        無端 敬白

〇〇大兄 御侍史

 

 

 

 

 

 


私の誤謬

2019年10月11日 | 基道館活動記録

200名を超える有段者を育ててきた。

しかし、どうしても私の指導で伸びない、または話が飲み込めない方もいた。

 

先日、藤平先生がTV出演されるということで、誠に久しぶりでTVを視聴したら、そのあとの出てこられた人が実に興味深いことをやっておられた。

 

早速実験。赤いところが安定しているところ。点線は安定する方向

 

 

世の中は <河>型と、<城>型が半々だという。

これは私の直門がわかりやすいように名前を変更した、河野型 大城戸型の略だ。

幸いなことに斎藤名人、村上範士ともに<城>だったので、すらすら飲み込めた。その型に不遜にも私の字を使うのはご海容いただきたい。

両先生とも型が違うのに真剣道居合を習得されるご努力はいかほどだったろう。

 

どの型が不都合というわけではない、体の折り目のようなものだと説明されていた。

 

このことを月影会で話したら、不拳庵助教が「私は居合には向いていないのでしょうか?」といった

私は「そんなことはありません、河野先生は明らかに貴殿と同じディレクトシステムです」

 

もしかしたら、助教は「基道館の居合」といいたかったのかもしれないが。ご心配なく基道館はこれからどんな型にも対応できる居合のカリキュラムシステムを作り上げます。

 

それを知らず、指導してきた私のトンチキ、不勉強、無知に恥じ入っている次第です、過ちを改むるにはばかることなかれ。です。

 

根本的に体の使い方が違う。

手指を折り曲げるにも、<河>は第二関節から始めるし、<城>は第三関節から始める。

階段を上るのも、椅子から立ち上がるのも全く違う方法をとる。

 

型にはめるのが古流であり、その型を自在に応用するのがブジュツではあるが、こんなところに落とし穴があるとは!

恐れ入った。

 

以降、各人の型を観察し、というか簡単に絵にかいたテストで判明する。指導を改善してゆくつもりだ。

しばらくは手探りになるだろう。

 

 

 

 

 


911テロ_ロックフェラーの予告(アーロンルッソ監督)

2019年10月11日 | 社会の破壊者

911テロ_ロックフェラーの予告(アーロンルッソ監督)


森のかほり、木のにほひ。

2019年10月10日 | 詩篇

此の泉州に住まいして四十年。

野心もあり、挫折もあり。

而して、およそ結末、決算を迎えやうとしてゐる。

わが武名の示す通ほり、人生は有限で、できることはたかが知れてゐる。

 

そこで、いささか痴呆の入ったわが身を勘案するに、これだけはといふ思ひがある。

 

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私は今、岸和田の山近くに住み、にゃんこも公認で住める快適な公社団地にゐる。

痴呆、といふか物忘れがひどいといふか。

先ほど階下の自家用車に忘れ物をして階段を下りた。

すると、森のかほりがする。

この香り立つ国を滅ぼしてはならない。

そのためには、人々の規範となる武士道精神を持った有意の人士を育てることは急務であろう。

 

弟子のまた弟子には「原発はぜひ必要だ」という方もいる。

個人の見解は尊重するが、原発必要論の根拠が「経済発展」ではまことに心もとない。

 

人は、お金を儲けるために生まれたのか?

人は、名誉を求めるために生まれたのか?

 

それとも幸せを感じるために生まれたのか?

長渕君の歌にあった。

 

♪ 幸せになるのではない、幸せは感じるものだ

 

ただいまこの時、現実こそ生きている時間だが、目前の課題に全力で取り組む、のもいい

それって、全力なら余力はないのだろうか?

 

選ばれた人々に、凡夫の私からお願いしたいこと

 

目前の課題も大切だが、余力を残して、来るべきクライシスでの領導に備えていただきたい。

もちろん、そういう優れた人もいらっしゃると期待しています。

 

 

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私は今度の春、松山に帰る。

懐かしい松山弁、祖母に手を引かれって行った石手寺、何よりも胸に残る松山城の上に広がる黄昏の空。

その中にいて、やがて死んでゆく。

こんなうれしいことはない!

 

もちろん、そんなことは誰も言わないだろうが、私はこう思っている

 

ウエルカム、バック、ホーム。

 

 

 

50年ほど前の、松山での夕暮れを書いたものがあった、それを思い出した。

当時私は18歳、そういう見方があったのだな~という記憶です(笑)




(1968年刊)土居豊一詩集 「残照」


   「黄昏」

風が立ち
旗翻り
紫の煙たなびき
電線は微動を起こし
屋上の風信器の車
それぞれに回り始めて
夕日浴び影はあざやぐ
夕餉の匂い路地に漂い
自転車のチェーンの音させ
生活の話しながら
人の背は下駄はいて去り
影ばかり思いに残る
嗚呼、そのとき悲しいまでの色彩が
空仰いでゆく人たちの上に炎え
黄昏として展がる・・・・・