快談爺流離日記

思いの儘に記す自然を好み手近の被写体を撮り歩く暇爺。

郷土の偉人伝、幕末を駆け抜けた、郷土の志士たち…維新の魁 天誅組。

2020年01月09日 18時34分06秒 | 日頃の写真新活動

幕末の動乱期、朝廷が政治の表舞台に台頭するようになり、幕府の権威が徐々に失われて行きました、その折、公家の中山忠光を中心に志士たちが団結し、天皇を中心とした国作りを目指して一つの集団が立ち上がりました、この集団を「天誅組」と言います。

文久3年(1863)孔明天皇の大和行幸の紹を受け天誅組は先に大和入りをして、幕府領を平定し行幸をお迎えしょうと考え、そこの幕府出先機関を倒し「五條御政府」を置きました、のちに天誅組が「維新の魁」と評される由縁に成って居ます。

しかしながら、行幸の直前に朝廷内で、クーデターが起き行幸中止が断行され天誅組は、朝廷・幕府から逆賊として討伐受ける側に立たされ、天誅組は敗退を続けて、現在の奈良県吉野村において、壮絶な最後を遂げる。

この天誅組に刈谷藩を脱藩した、松本奎堂や宍戸弥四郎らが参加していた、松本奎堂は、総裁として、宍戸弥四郎は合図係として活躍し、最期は、天誅組と運命を共にした。当時は逆賊の汚名を受けたが、明治えと時代が変わる中で、彼らの行動が

評価されるように成って来ました。

刈谷偉人伝其の1幕末をかけぬけた刈谷の志士たち~”維新の魁” ”天誅組”。

松本奎堂詩石塔『君が為命しにきと世の人に語りつきてよ峰の松風』 亀城公園にて。

天誅組が最期を遂げた、奈良県東吉野村と刈谷市との友好締結

『ゆかりのまちの友好市町村』である旨の締結の記し。

1段上の画との関連。                               

松本奎堂先生の生誕の地、石碑、

 

松本奎堂先生の墓十念寺にて。

宍戸弥四郎先生の生誕の地「広小路5丁目」お墓は、銀座4丁目「松秀寺」にあるが、

探し当てられなかったので、ごめんなさい。

 

宍戸弥四郎の紹介プレート、天誅組はちょっと勇み足を踏んだ様だ。

この若い志士の行動が無ければ、明治維新は来なかったであろう、

文明開化も来なかっただろうと考える、幕府の政治では一揆も発生した?、今の天皇制が良かったのでは。

   令和2年1月9日投稿。