寛政一揆によって刈谷藩は、幕府から村変えの処分を受け重原村、野田村、半城土村、高須村、犬ケ坪村等
18か村を奥州の福島領・幕領の一部と交換することになり、以来福島藩はこの地に陣屋(現在の重原市民館あたり)を置いて郡代により三河の飛び地を治めました。浄福寺の前には[重原陣屋跡]の石碑が建てられて居る。
此の碑と並んで「従是東福島領」(これより東、福島領)の碑が建てられて居ます。
もとは東海道筋の福島領の東と西の端にありました。福島分領は、明治2年(1869)三河の国に新たに150ケ村与えられ、重原藩が誕生し、やはりここを陣屋として治めました。陣屋で使われた門は、半城土町の願行寺の山門に玄関は十応寺に、それぞれ移築されています。
浄福寺に有る重原陣屋跡の石碑。
是より東福島領の石碑、同じく浄福寺に設置されている。
浄福寺石門、
重原陣屋の門、現在願行寺の山門に移築されている。
重原陣屋の玄関、十応寺に移築されている。
是より西福島領の石碑、知立中央公民館北に位置する処に設置されている。
福島領西の端は、東海道筋の東に有った、池鯉鮒宿は福島領であった。
刈谷城址石碑現在の位置は二の丸の有った所である。
刈谷城の名残の石垣。一揆は、農民の我慢の限界であったと考える、
正統な事でも、暴動を起こすのは、戴けない。
刈谷藩では元文3年(1738)にも一揆が発生しており、いずれも領内諸村に課せられた金銭負担が原因となり発生した、いずれも飢饉の年に発生したとみらる。
令和2年1月6日投稿。