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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−79(後醍醐天皇−7 隠岐行在所)

30.3.元弘の乱

30.3.7.後醍醐帝の隠岐行在所(続き1)

30.3.7.1. 島根懸史から

2)黒木御所説

西ノ島の黒木御所説は文書としての記録はなく伝聞のみとのことである。

これらの伝聞は次の書物に記述されている。

隠州視聴合記

黒木を行在所と記した最も古い資料は「隠州視聴合記」(江戸時代の寛文7年(1667年)に著された隠州(隠岐国)の地誌)の知夫郡別府(西ノ島別府)の条にある。

府より北の山崎を黒木と云、傳に曰く昔後醍醐天皇姑(しばらく)狩りし玉へる所なり故、今に至て黒木皇居と云

これに対し、島根懸史では元弘二年後醍醐帝の播遷(​​遠国をさまよい歩くこと)より三百三十六年後の編集なれば史料たる可き価値は甚だ薄弱にして一つの参考資料に過ぎない、としている。つまりあまり当てにはならない、という。

また、知夫湊(知夫里島)の条に

村老告て白、昔し此に蘭若(寺院)あり、即ち宇類美坊と云う、又南に有りては二部里坊と云う、此両寺昔は殊に美尽くせり、後醍醐天皇の皇居なりと云其地の躰も然らん 

   

と、記述されている。

懸史はこれを、行在所の場所が矛盾しており、なおかつ両方とも後年編集の薄弱なる資料であり、根本資料と認める価値はないと、手厳しい。

「隠州視聴合記」ではこの矛盾については次のように説明しており、最後に「是一按也」と記している。

しかし、懸史はこれを「遁逃げせり」と揶揄する。

 

隠州視聴合記は和文のなかに漢文で書かれていることも有り、この部分も漢文である。

「隠州視聴合記」はいくつかの写本があり、ところどころ違いがある。

<早稲田大学蔵書から>

 

按別府黒木謂之皇居、 此水土又號天皇之行在、 蓋先在黑木、後遷于此歟、 不然則經營黒木之間、 姑在於此、不果而潜幸歟、彼誰人眠而出寝所 、半夜步而到于知夫浦可交見也、若在黒木則何得玉趾渡珍埼赤灘乎、是其一按也。(返り点等は省略した)

<要約>

考えて見るに、別府の黒木を皇居と言い、この地(知夫里島)を又天皇行在所と云う。

ということは、思うに、先に黒木におられ、後でここに移られたのか?

そうでなければ、黒木御所を造る間、しばらく此処におられたか。

だが、それが果たさぬうちに潜幸(隠岐を脱出)された。

後醍醐帝は、人が眠っている夜に寝所を出て夜中歩き、知夫浦にたどり着き、落ち合った。

もし黒木におられたのなら、いかにして玉趾(天子の足)で珍崎(西ノ島の岬)から赤灘(西の島と知夫里島との間の海峡)を渡って、知夫里島までたどり着くことができるだろうか。

これは、調べてみる必要がある。

 

隠岐國史

享保九(1724年)に完成した「隠岐國史」に

元弘二年後醍醐帝鎌倉北条義時(高時の誤りか?)が為に被捕させ給ひ、當國へ在遷在し、始は知夫里村の古海坊、二夫利坊にしばらく御座す、後黒木に御所を立遷らせ玉ふと云傳ふ

元弘2年(1332年)に隠岐配流の身となった後醍醐天皇は最初に知夫里村(知夫里島)の古海坊(寺)、仁夫里坊(寺)にご宿泊された。その後黒木御所に移りられた。

と記述されている。

島根懸史は、これは前述した「隠州視聴合記」を種本としたものである、といい、そのまま信用できないことを仄めかしている。

 

隠岐古記(文化三年以後に編集)

懸史は、隠岐古記に記されている御所に関するものも「隠州視聴合記」を種本としたものである、として評価していない。

 

このように、島根懸史では、古文書や古記などから後醍醐帝の行在所は国分寺であった、と断定している。

また「黒木御所説」の基となっている伝承は、後年編集された薄弱なる資料であって、史料とする価値はない、と言い切っている。

そして、島前各地に行在所跡と伝わるのは、後醍醐帝が遷幸の途中で、安来の乗相院や美保関の三明院(仏谷寺)と同じように、一時的な宿泊地ではないかと結んでいる。

 

<余談 「隠州視聴合記」>

「竹島、竹島を以って国境とする」

この「隠州視聴合記」の巻一國代記の条に松島(現竹島)、竹島(現鬱陵島)についての記載が見られる。

<早稲田大学蔵書から>


・・・・戍亥間行二日一夜有松島、又一日程有竹島、俗言磯竹島多竹魚海鹿、此二島無人之地、見高麗如自雲州望隠州、然則日本之乾地、以此州為限矣・・・・(返り点等は省略した)

<要約>

・・・・北西の間、二日一夜の所に松島がある。

また一日程行くと竹島がある。竹島は俗に磯竹島といい、竹・魚・アザラシが多い。

これら二島は無人島で、高麗を見るように雲州より隠州を見るようである。

ならば即ち、日本の北西の地、この島をもって国境とする。・・・・

 

「後醍醐帝が最初に上陸した島は、島前の知夫里島」

恐らく「隠州視聴合記」「隠岐国史」から展開したものであるとおもわれるが、

知夫里島観光協会のホームページ「自然・歴史」のページ「知夫里の歴史」に次の記載がある。

・・・・1332年に隠岐配流の身となった後醍醐天皇、は最初に知夫の仁夫浜に上陸し赤ハゲ山にある仁夫里坊、古海坊にご宿泊されました。

現在は当時の場所に石碑が置かれています。

ご宿泊された後醍醐天皇は、西ノ島の黒木御所に移りられ脱出されるときも知夫村から建武の新政で活躍をされました。

現在、当時古海坊であった松養寺には、後醍醐天皇からご寄進された「松養寺地蔵菩薩立像」が安置されています。・・・・

上陸地点近くに「天佐志比古命神社」があり、この裏手「後醍醐天皇」が腰かけたとされる石があるという。

 

<続く>

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