35. 南北朝時代へ
建武3年/延元元年(1336年)10月10日後醍醐天皇は尊氏の講和申し入れを受け入れて下山を決意、皇太子恒良親王に譲位した。
この新帝は新田義貞と共に越前に向かった。
また天台座主尊澄法親王と北畠親房は伊勢に、懐良親王は吉野に、 四条隆資・中院定平はそれぞれ紀伊・河内に下った。
これら後醍醐天皇のゆかりの地方へ味方を配分したのは、天皇再挙の根拠地を培う意味をもっていたのである。
11月2日、後醍醐天皇から光明天皇へ神器授受の儀がおこなわれ、後醍醐天皇には太上天皇 (上皇)の尊号がおくられた。
ここにおいて足利政権の正統性が確立したのである。
光明天皇は8月15日にすでに尊氏の要請により、治天の君である光厳上皇が院宣を用いて、践祚していたが、これは三種の神器がない状況での即位であった。
三種の神器がない状況での光明の即位は、後鳥羽天皇が後白河法皇の院宣により即位した先例に従ったものである。
11月7日、尊氏によって建武式目17カ条が制定され、室町幕府の基礎がうちたてられることになった。
12月21日の夜、花山院に軟禁されていた後醍醐天皇は、親房からの連絡とすすめによって脱出、「賀名生」を経て吉野山に向かった。
35.1.吉野朝廷
後醍醐天皇の花山院に軟禁される
後醍醐天皇還幸の一行が京都法勝寺辺りまで来たとき、足利直義が兵を率いてやって来た。
直義は「まず三種の神器を今上帝の方へお渡しになるべき」と言った。
後醍醐天皇は三種の神器を持明院統側の内侍に渡した。
後に「あの時手渡した三種の神器は偽物である」と後醍醐天皇は主張している。
その後、後醍醐天皇は花山院へ押し込められ、四方の門を閉じて警護の者を置き、幽閉同然の扱いをされる。
新田義貞北国へ
10月10日新田義貞は春宮(恒良親王)行啓のお供をして北国へ下った。
10月13日春宮一行は金ヶ崎城に入った。
金ヶ崎城に入った親王一行は、各地の武士へ尊氏らの討伐を促す綸旨を送った。
北陸で各地の武将に綸旨を発給した恒良親王は、自らを天皇と認識していたことが知られる(北陸朝廷)。
しかし、後に京を脱出した後醍醐が吉野で南朝を開いた事により、恒良の皇位は無意味となり、恒良は歴代天皇には数えられていない。
後醍醐帝と決別した義貞は恒良親王を頂点とし、越前国に南朝・北朝とも一線を画す自立的な地域的政治権力を樹立しようとしていたとみられ、この政治構想は複数の研究者によって「北陸朝廷」と表現されている。
金ヶ崎城は足利方の斯波高経、高師泰の軍が押し寄せ、取り囲まれた。
しかし金ヶ崎城は日本海に面した要害で足利軍が攻めてきても何度も弾き返されるのである。
守りの固い城を攻めるのは兵糧攻めである。
斯波高経は持久戦に持ち込んだ。
<金ヶ崎>
後醍醐天皇吉野行幸
新田義貞が金ヶ崎城で善戦していることは各地に広まった。
後醍醐天皇側の武将はこれを聞いて息を吹き返し、各地で挙兵するようになった。
後醍醐天皇も「まだ、希望を捨てたものではない」息を吹き返し、花山院から脱出する決意をする。
夜の闇に紛れて後醍醐天皇は三種の神器を持って阿野廉子と花山院から脱出した。
建武3年/延元元年(1336年)12月21日のことだった。
「太平記」では8月28日と記載されているが、12月21日が史実のようである。
脱出した後醍醐天皇は「賀名生」(奈良県五條市吉野町)に到着する。
しかし、ここ賀名生は皇居にする適当な場所もなく、食料も入手しにくい所であった。
そこで、吉野の衆徒を味方に付けようと使者を送った。
吉野では全山の衆徒を集めて蔵王堂で集まり協議して、天皇を迎えることに決めた。
吉野の若大衆三百余人みな甲冑を着けて、天皇を迎えにいくことにした。
これを聞いた後醍醐天皇側の武将が続々と集まってきた。
楠正行、和田次郎、真木定観、三輪の西阿、紀伊国の恩地、牲川、貴志、湯浅が、五百騎、三百騎と途切れることなく続々と馳せ参じたので、雲霞のような軍勢に輿の前後を囲ませて、後醍醐天皇は吉野へ行幸したのである。
後醍醐帝の運が再度開かれ、忠義な武将たちが早くも現れたと、周りの人々は歓喜した。
吉野山は金峰山を主峰とする重畳たる山岳群の一つであって、金峰山の北の入口に位置する、比較的低い一峰である。
山の北麓を東西に流れる吉野川を利用すれば、西は紀伊、東は伊勢と連絡することはさほど困難ではない。
また 西北に進めば楠木の本拠河内に達し、北に下れば奈良盆地に進出することができる。
しかも南方には大峰の連山がそびえていて攻撃を受けにくい利点があった。
かつて、護良親王(大塔宮)はここの金峯山寺本堂(蔵王堂)を拠点に鎌倉幕府と戦っていた(吉野城の戦い)。
大峰連山から熊野にかけての一帯の山岳は山伏の 道場として知られ、かれら山伏はあるいは武力集団として、あるいは諸国への連絡役として期待することができた。
吉野を本拠と定めた天皇は、足利氏に強要されて光明天皇に渡した神器は偽器であって、真器はわが手にあると主張し、延元の年号を復活して、足利氏討伐を諸国によびかけた。
かくて吉野朝廷の後醍醐天皇と京都朝廷の光明天皇 の両朝が対立して50余年の争乱時代に入るのである。
<吉野朝宮趾>
<金峯山寺本堂(蔵王堂)>
<大塔宮陣地趾(金峯山寺本堂(蔵王堂)前)>
<後醍醐天皇導稲荷神社>
<続く>