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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−77(後醍醐天皇−5 後醍醐天皇配流)

30.3.元弘の乱

30.3.6. 光厳天皇の践祚と後醍醐天皇の配流


1.光厳天皇

元徳3年/元弘元年(1331年)9月20日に光厳天皇が即位する。

 

元徳3年/元弘元年(1331年)8月、倒幕の企てが発覚した後醍醐天皇は、南山城の笠置山に立て籠もる。

9月18日、幕府の使者が関東申次(幕府と朝廷の交渉を担当する貴族)である西園寺公宗に皇太子量仁親王の践祚を申し入れた。

かつて、尊成親王(後鳥羽上皇)が後白河法皇の院宣を受ける形で践祚し、その儀式は剣璽渡御を除く譲国の儀に倣って行われたことがある。

これを、先例として、9月20日、後伏見上皇の詔によって19歳の光厳天皇が土御門東洞院殿にて践祚した。

父の後伏見上皇は院政を開始し、皇太子には病死した大覚寺統邦良親王(後醍醐天皇の皇太子)の皇子である木寺宮康仁親王が立てられた。

剣璽渡御の儀

剣璽渡御の儀は、天皇が譲位・崩御の後、皇位継承者が践祚の際に皇位継承の証として剣と璽を受け継ぎ、新天皇となる儀式である。

三種の神器とは
「神鏡」=「八咫鏡」(やたのかがみ)
「神剣」=「草薙剣」(くさなぎのつるぎ)
「神璽」=「八坂瓊勾玉」(やさかにのまがたま)
をいう。

八世紀初めに「剣璽渡御の儀」が成立する。

これは践祚にさいして、「神鏡」は別扱いにして「神剣」と「神璽」を新天皇が承継する儀式である。

そして、もっとも重要な「神鏡」は、温明殿などの別殿に奉安したままで動かさないことになった。

なお、この「神剣」「神璽」継承の儀式は、いまでは「剣璽等承継の儀」とされ、今上天皇が即位されたときも、憲法に定める国事行為としておこなわれた。

この「剣璽等承継の儀」で、今上天皇が承継されたのは、「神剣」「神璽」のほかに天皇の印章である「御璽」と日本国の印章である「国璽」であった。

<剣璽等承継の儀 令和元年(2019年)5月1日>

  <令和 即位礼正殿の儀 令和元年(2019年)10月22日>

 

2.後醍醐帝隠岐遷幸

『太平記』巻四,『増鏡』、『花園天皇宸記』等の記述から、後醍醐帝が元弘二年(1332年)3月7日に京都を出発し中国地方を通って、4月上旬頃隠岐に着いたことは確かなようである。

しかし、中国地方での遷幸の道筋の詳細は不明である。

太平記によると

3月7日に千葉介貞胤、小山五郎左衛門、佐々木佐渡判官入道道誉が五百余騎で道中を警護して出発した。

お供の者と言えば、一条頭大夫行房、六条少将忠顕、お世話する女房は三位殿御局(阿野廉子)だけである。

桜井の宿(現大阪府島本町)、湊川、須磨の浦、明石の浦、高砂を通過して行く。

太平記にはそれぞれの場所に何時到着したかは、記されていない。

増鏡にはその日付が次のように記されている。

3月12日加古川の宿で過ごした後は、岡山県美作の杉坂峠を越え、3月17日美作の国に着き2、3日休息する。

3月21日に津山の久米の佐良山を見ながら津山の雲清寺に立ち寄り、院庄に入った。

4月1日頃、後醍醐帝は百敷(内裏)の宮の内を思い出して歌を詠む。

さもこそは 月日も知らぬ 我ならめ 衣がへせし 今日にやはあらぬ
(月日も忘れてしまったが、宮中で衣を替えたのは今日のこの日ではなかったか)

出雲国安来の津というところから、船に乗る。

大船24隻、小舟の数は数え切れない。

海岸より少し入った所にある国分寺(隠岐の島町)と申す寺を、御所に定めた。

太平記では、

都を出発してから13日目に出雲の見尾(美保関)の港に着いた。

ここで、10日余り逗留し順風になったので、舟人はとも綱を解いて御船の準備をして兵の船三百余艘を前後に並べて、雲の彼方を北へ漕ぎ出していった。

都を出発して26日目に御船は隠岐国に着いた。

佐々木隠岐判官貞清が国府の島というところに黒木の御所を作って皇居とする。

と記述しているが、所要した日数が若干増鏡と異なっている。

太平記も増鏡も伝聞を記録したものであろうから、事実の検証はされていないのであろう。

これは、仕方ないことである。

 

また、増鏡では、「出雲国安来の津というところから、船に乗る」とあり、ここから隠岐へ直接向かった、ように取れる。

しかし実際は、ここ安来の地に逗留したようである。

島根懸史は、これを示す次の史料があるという。

①「安来津の乗相院を行宮(行在所)に充てられた」(乗相院寺傳)

②「北島貞孝が後醍醐帝に安来の津滞在中に奏陳した」(北島男爵家文書)

このころ、出雲國造千家では孝宗と弟の貞孝が対立していた。そこで、貞孝が後醍醐帝が安来の津滞在中に奏陳したようである。

なお、孝宗は康永2/興国4年(1343年)に兄の清孝の跡をつぎ国造となるが、貞孝は北島を称し、国造家は2流にわかれた。

以後明治維新まで両家が交互に出雲大社の神事をおこなった。

 

後醍醐帝は安来の津から美保関に着き、三明院(現 仏谷寺)を行在所として天気が順応になるのを待った。

<京都から美保関までのルート(想像図)>

 

附 天莫空勾践、時非無范蠡

備前国小島郡(現 岡山県倉敷市)に、児島備後三郎高徳という者がいた。

後醍醐帝が隠岐国へ流されなさると聞いて、道中の難所で天皇護送団を強襲、後醍醐帝の奪還を画策する。

児島達は備前と播磨の境にある船坂山の頂に隠れて後醍醐帝一行を待っていた。

ところが、一行は山陽道を通らず播磨の今宿から山陰道に入って、行幸を進めたので、この計画は失敗に終わった。

 

「それならば次なる難所である美作の杉坂で待とう」と急いで杉坂に向かう。

しかし、残念ながら、後醍醐帝一行はもう院庄に入ったと分かった。

しかたなくここで解散することにした。

だが小島は、せめてこの意思を帝のお耳に入れたいと思った。

姿を変えて密かに一向に近づき機会を窺っていたが、中々隙を見つけることが出来なかった。

 

しかたなく、後醍醐帝が宿泊している宿の庭にある、大きな桜の木に、大きな文字で一句の詩を書き付けたのだった。

「天莫空勾践、時非無范蠡」

(天勾践を空しうすることなかれ、時に范蠡なきにしもあらず)

 

警護の武士たちは朝になってこれを見て、すぐに後醍醐帝のお耳に入れた。

後醍醐帝はすぐに詩の意味を理解し、顔を格別うれしそうに笑ったといわれている。

  

 

<続く>

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