FUNAGENノート

私の考えたことや、読書から学んだことを伝えます。
私の脳は書いたり読んだりすることで研ぎ澄まされると思っています。

一つの窓とたくさんの窓

2018-11-27 15:20:05 | コラム
一つ窓とたくさんの窓
窓が一つの部屋は 風通しが悪い。
窓が一つの部屋は なんとなく寂しい
窓が一つの部屋は 人間の息づかいが聞こえてこない 小鳥のさえずりも寂しそう
窓は多くなると そよ風が吹く 人間の息づかいや小鳥たちの息づかいも聞こえてくる
どこの窓からも 人間の声が聞こえてくる 小鳥のさえずりに心は和む
多くの窓は ここちよい風を体いっぱいに受け 人々の談笑でいっぱいだ
そこには 生きていることの実感を分かち合うことができる空間がある

 表向き、何の変哲もない、あたりから見れば穏やかな家庭や学校、職場でありながら、個々人の心の内面は、表には現れない。そこで何が起きているのかを感じとることも出来ない。しかも、近くの家どうしにしても、そんなに親しくしているわけではなく、朝夕の挨拶をかわすぐらいだ。だから、何かおおそれた事をしでかしても、「普通の明るい子」だと応える。
 今日の新聞紙上を賑わせていた、一家を殺害の事件、最近家庭での殺人事件は結構多い。学校では、あいかわらず「いじめ」が多い。企業のモラルも低下している。
 私たちの周りには「窓」が不足しているのだ。だから、心の底からわき出る喜びや悲しみを、表だって表すことができない。「窓」のたくさんある空間に立ち向かうことが不足している。「窓」がふさがれていると言ってもよい。
 中には「窓」をふさぎ、保育所反対、養護施設反対を唱える者もいる。以前努めていた学校で、鶏を飼っていた。理科教育のためである。ところが、電話がかかってきて、朝の「コケッッコー」がうるさいから、鶏を処分してくれという。のどかな朝の鳥の鳴き声すら、その「窓」をふさげという。あきれた世の中だ、
 「窓」は個人情報保護法や、それにともなうIT関係のパスワードなどの増殖のために、一人一人がばらばらな砂粒のように、世の中をさまようことに拍車をかけた。人々はみな砂粒と化した。その砂粒だけ見ていると、何の変哲もない普通の砂粒に見えるが、その全てを見ることが出来る「窓」の無いことで私たちの世界を閉ざしてしまった。
 最近のメール(ラインなどのSNSではない、普通のEやGメール)で、やりとりにしても、がっかりすることが時々ある。調子抜けすることが多々ある。メールの文面は、こちらが心をぶつけて書いているのに、返事は質問したことの一点だけ、そこには味も素っ気もない。もちろん、このメールは個人宛のメールで会社や学校などの団体向けではない。それなのに、まるで、関係機関の一員としてふるまうメールとなる。だから、そこには感情や心の表現が全くない。
 確かに、関係機関の一員としての立場で答えなければならない時もあろう。その時は、感情をだしてはいけないとう指導もあろう。しかし、場合によっては「機関の一員としての立場」と「個人としての立場」の使いわけは必要なのだろう。
 機関の一員としての顔は表向きの顔、そして他に、個人としての顔が必要なのではないか。その個人の顔こそ、喜怒哀楽を全面にだすことなのだろう。ところが、先から触れている「窓」を多く持たず、個々ばらばらな砂粒となっていて、その砂粒が、砂粒としての他人と交流する。そこには喜怒哀楽のない、決まり切った挨拶と用件のみがあるだけとなってしまている。
 それでなくても、普段の会話の中、昔ほどの表現力は欠落しているのに、メールのやりとりなどSNSの場面では、当然そうなることうけあいである。それでも、SNSでは時々不穏当な表現がある。それは、短い文章の中で、感情を表すことの限界をしめしている。
 手紙が、この世から無くなりつつある現状は、メールで事を足すという世界のなれの果てである。文章を書けないという人間が多くなったのもこのためである。新聞や雑誌の購読が減少しているのは、文章を読めない人間のいかに多いかを示している。
 もっと、私たち社会は、活字文化の復活に向かうべきであり、それが人材育成になるのに、そういうことには全く触れず、ただ目先のことだけに目がいっているのが現状である。だから、私の書いた本など、売れるわけがない。でもこりずにPRはしておきたい。活字文化の社会の復活を願って!
 「戦中・戦後世代から現代を見つめる」(風詠社)税抜き1400円です。アマゾンなどネット通販でも扱っています。船場幸二と検索すると、アマゾンの私の本が現れます。みなさんにお薦めいただければ幸いです。

パソコン故障奮戦記

2018-11-17 18:58:44 | コラム
パソコン故障奮戦記
 不思議なもので、機械というものは、ある日突然壊れるものだ。私使っているPCも前回のブログを発信して、次に起動させたら、おかしなエラーの文字が出てそれ以上動かない。しかたなく、パソコン工房というところから、私好みのアレンジしたPCを購入した。ところが、以外と時間がかかるものだ。最近は受注があって、それから組み立てるらしい。
 5日に注文して13日に届いた。約1週間かかったことになる。DELLコンピュターに聞いてみたら、2週間から3週間かかるという。多分海外で組み立てているのだろう。
 こちらにすると、その間は開店休業のありさまだ。多分、すぐ届くパソコンもあるのだろうが、それには余計なものがついていて、私には向かない。
 OSというパソコンが軌道するための基本のソフト(今の人はアプリというのかな)だけ、極端に言えばそれだけで良い。後は、自分の使うアプリがあればそれでよいということで、メーカーのパソコンは昔から買っていない。余計なものがつきすぎる。
 ところが、組み立てPC(店で買っても組み立てPC)は、初期設定というのが、これまたなかなか面倒なものだ。最近はとくにセキュリティ対策が必要なこともあるのであろう。いくつもの、アカント(利用者の名称)やパスワードがあり、メモをとりながらの作業だから大変である。普通なら専門家に頼む人も多いのだが、わたしは自分でやってみた。頼むと、一万円ぐらいあるいはそれ以上かかるらしい。(もっともメーカーのパソコンも結構初期設定はめんどうなようだ。)
 アプリの復元も課題だ。アプリは昔のようにCDやDVDになっているのではなく、ネットで会社から購入することが多いわけだから、その一つ一つをネットを通して再インストールする必要がある。それには、シリアルNOとか、プロダクトキーが必要で、それを探すのが一苦労だ。メモもあるのだが、肝心の壊れたPCに一覧として保存してあったものもあったが、それも用立たずとなって、再発行してもらったり、会社に頼んで履歴を調べてもらったり大変なものだ。おまけに、もう売っていないアプリもあり、それは残念ながら新たに購入とることとなる。一番心配していたもう売っていないアプリ「PHOTOSHOPCS6」だった。インストール出来てほっとした。なにせ、昔4万円から5万円ぐらいしたアプリである。現在PHOTOSHOPは、ネットから直接使い、月々の利用代をとる仕組みになっている。そんなわけで、私のは貴重なDVDだったのだが、はたしてインストール可能かどうか心配だったのだ。やれやれである。
 壊れたPCに内蔵されているハードディスクを取り出して、その中にあるデータを読み取ることもできて、撮った写真や、ブログの記事などは助かった。今は、内蔵のハードディスクを取り出して、それをUSBにつなぐことの出来るセット(2千円ぐらい)が売られている。これからも外付けハードディスクとして使える。
 やっと、それに関係各社のサポトセンターのみなさんの助けをかりて、なんとか自分の力で復元できたのが嬉しい。ところで、このサポートという仕事も大変なことだと思う。相談を受ける方は、それぞれの特有の問題を抱えている。それに答えるということは、すばらしいことだ。
 ただ、一概には言えないが、女性のサポトが丁寧だということは言えるかもしれない。どうも、男性の一部には、すぐ他の部署や会社に振ってしまう傾向にある。一理はたしかにある。それもそっけなく他に振る男性がたまにいる。
 アプリやPCを構成する部品は、お互いに他の製品とつながっているから、どちらに原因があるかは面倒であることは確かのだが。精一杯質問者の気持ちになって、一緒に考えることも大事なことだと思う。
 以前、私のプリンターがパソコンとつながらなくなったことがあった。そこで、メーカーのサポートセンターに相談したのだが、いろいろやってみたが結果はNO。PCに原因があるのか、プリンターにあるのか、はてはつないでいるコードに問題があるのか、確かめるすべがない。コードの場合は、新しいコードでつないでみると解る。実際やってみてもだめだった。結局、方法は別のパソコンにつないでみてどうかということになる。さてどうしたことか、原因がわからなければ、プリンタを新しくしても、PCに原因があるなら無駄となる。 この事例では、サポートの助言だけでは無理だということは解った。そこで、ふと思ったのは、無線でつなぐ方法だ。幸いこのプリンタには無線がついている。それをパソコン側の無線とつながればしめたもの、やってみたらうまくいった。いまはやりのWi-Fi無線だ。やれやれだった。今は、私のipatもWi-Fi無線でプリンタで印刷できる。
 それにしても、全く新しいパソコンを、よくも復元したものだ。4日に故障して、本日、11月17日やっと全ての復元終了となった。われながら、満足である。
これからまた、ホームページの更新、ブログ(写真とエッセイ)で、みなさんに発信していきたいと思う。

自由の奴隷から解放されよう(読書ノート)

2018-11-05 12:50:39 | コラム
自由の奴隷から解放されよう(読書ノート)
 今回は、「自由という牢獄」(大澤真幸著・岩波現代文庫)を読んで、自分なりに考えたことを述べる。
 自由とは何だろうか、多分普通に解釈すれば、それは迷惑をかけなければ何をしてもよいよいうことだろう。しかし、現在はどうだろうか、地球温暖化、それに伴う異常気象、資源の枯渇、有害物質が地下に体積する問題、海洋汚染などは、景気回復・維持の為という名目のために自由に行われている。
 しかし、まぎれもなく、私たちは迷惑を被っている。人間だけでなく、動植物までも被害を被っている。
それでは、私たちは自由を謳歌しているだろうか。これでもか、これでもかと欲望が踊り消費文化の虜になってはいないだろうろか。そしてその行動が限りなく続く。これは自由の奴隷化ということだろう。
 かつて、資本主義対社会主義という東西の冷戦の中で、言われたことは、資本主義は自由と民主主義、社会主義は平等をかかげて対峙していた。しかし、平等を求めた社会主義は、結局、有力な共産党員や官僚の私服を肥やし、格差は拡大した。言論統制も行われた。資本主義はどうか、新自由主義という時代を迎え、格差社会が拡大している。一握りの富裕層が財の大きな部分を独り占めしている。中間層の没落も問題になっている。
 そんな中、現在の資本主義は、皮肉なことに社会主義的な政策を織り込み始めた。まさに国家社会主義的様相である。消費拡大のために企業に賃上げを求めたり、雇用促進を促したり、まさに、かつて労働組合が要求したことを国家がやりはじめた。
いくら消費の拡大のためとは言え、それは国民を自由の奴隷にしてしまうことになる。それでは私たちはどうすれば良いのか、それは消費に惑わされることなく、存在としての自分が、現前の存在に立ち向かい、自分を高めるこいとだろう。
 政府も、消費の拡大だけを狙うのではなく、私たちの文化や芸術、スポーツの育成にもっと目をやらなければならない。オリンピックのアスリートは、いわばスポーツ界の特別な存在で、多くの国民はそれに挑戦しているわけではない。もっと裾野を広げなければならない。それは、文化・芸術にも言えることだ。「私やる人(極少数)」、「私見る人(大多数)」というのが現在の状況である。
《高級な規範とは、他の命令の手段になっていない。形式への欲望は、終極的な命令、つまり高級な規範と相関したものになりうる。それに対して、形式への欲望、貨幣(によって表現される価値)への欲望は、永続的な手段である。最後の「目的」はいつまでも現れない。それは、どこまで行っても、手段であることを返上できない欲望である。》
「高級な規範とは、他の命令の手段になっていない。形式への欲望は、終極的な命令、つまり高級な規範と相関したものになりうる。」と言っているのは、私の言う文化・芸術、スポーツへの挑戦のことであろう。
《高級な非市場規範が市場規範に閉め出される。》と言っているのは、文化・芸術・スポーツへの挑戦が、市場経済、消費社会に閉め出されているということになるだろう。
 私たちは、消費文化に惑わされることなく、自分の時間をもって、自分の文化・芸術・スポーツに挑戦することが求められている。
 ひととき、金曜日の早帰りを提唱したことがあったが、結局、それはみんなに店に行って何かを購入してほしい、消費拡大が景気を良くすることとなるという考えが根底にあったのであろう。
 私たちは、自分で、自分の時間をとり、存在としての自分と、現前に存在するものとの対話、交流をすることであろう。自分の存在は、それ以外の存在がなくては成立しないであろう。自分以外の存在を否定すると、どうなるか。それは、差別、いじめ、虐待、DVにつながることとなろう。
 重ねて言えば、私たちは消費文化に惑わされずに、自分の時間を、有効に使うことであろう。動きすぎないで、ちょっと立ち止まってみよう。そこには、素晴らしい世界が広がっていることだろう。

奥多摩・鳩ノ巣渓谷


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真の文化に立ち向かおう!

2018-10-24 14:29:12 | コラム
真の文化に立ち向かおう
 先のブログで、私は文化の衰退について書いた。文化に目を向けるとはどういうことか。それは、森羅万象すべてに、精神の喜びを感じるものがあることを、身をもって体験することだ。文化つまり芸術、スポーツなどの世界へ飛び込むことだ。あの障害者のみなさんの和太鼓のように!
 現前の存在は探検の場だ。そこで、精神の喜びを感じることだ。わたしは、そのことを「戦中・戦後世代から現代を見つめる」(風詠社)でも述べているし、現在続けているブログ(エッセイ)でも述べている。つまり次のようにである。

現前の存在は
たちこめる霧の中にあるようだ
やっと見えてくる山に目をむける
その周りは何も見えない
山だけがぼやっと見えている
その山めがけて一目散に突進する
そこへたどり着くと
はるか彼方にまた山が見える
そばへたどり着いたと思ったら
またその彼方に山が見えてくる
落ち着こう
立ち止まろう
ふと足下に目をやる
きれいな山野草が咲いている
可憐な姿で微笑んでいる
心が和む一瞬だ
この一瞬を大事にしたい
そこには見世物ではなく
精神の喜びがある

現前の存在は、見える者には見えている
ただ、見ようとしていないだけだ。
山たちは目立ちたくて仕方だない
いくらでも、いくらでも、次から次と現れる
そこへやっとたどり着くと
また向こうに目立ちたがりやの山が見えてくる
山を追いかけるのをやめて
現前の存在をよく見つめると
精神の喜びを感じ取る世界がそこにある
そいういう世界は
見える人にしか見えてこない

北海道新聞9月2日号の片隅の「本の森」というコーナーに私の著書「戦中・戦後世代から現代を見つめる」が紹介されていました。ありがたいことだと思っています。



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文化の衰退が進んでいる

2018-10-23 18:24:17 | コラム
文化の衰退が進んでいる
 日本太鼓全国障害者大会が、10月7日に開催された。今年20回目の大会だという。私は、この太鼓の演技を聴いていて、とても障害者の演技だとは感じなかった。いや、それどころか、ここで演技をしたみなさんの力強さに感服した。
 知的障害者、耳の聞こえない人たち、それどころか、聞こえないだっけでなく、目も見えないという二重の障害をもった方たちも、すばらしい演奏を披露していた。目が見えなくても、耳が聞こえなくても演奏することが出来るということを実感した。
 以前、私が附属小学校に努めていた時、当時の6年生が、盲学校の児童たちと交流したことがあった。その時の感想の中に「あの人たちの聞く力(聴力)は僕たちにはとてもかなわないことを実感した。」という言葉があった。その言葉を思い出した。
 ところが、私たちは障害者の能力を過小評価してしまっている向きがある。最近の例では、企業どころか、役所までもが、身障者の雇用義務違反を日常的に行われていたという実体がある。
 それどころか、障害者に対する偏見を持っている人間が結構多い。ノーマライゼーションという言葉がある。障害を持っている人が、健常者とともに生活する社会をめざす言葉だ。
 先ほどの太鼓の演奏にたちもどれば、障害者のお子さんたちが健常者であるお母さんやお父さんと一緒に和太鼓を演奏する姿、そのヴァイタリティに心を打たれた。これぞまさしく、ノーマライゼーションの姿なのだ。ただ、一つ気になったのは、出演者の数が極端に少ない、伝統のある集団があったことだ。後に続く人たちが集まらないのであろう。
 それに関わって、大衆文化の現状について述べてみたい。先日、調布市の市民文化祭の一環として、演劇を観る機会があった。そこで、見たのは、私にとってものすごくショックだった。演技する人はほとんどいなかった。まるで朗読会のようだった。芥川龍之介の「杜子春」を演じることになっていたので、私は、きちんとした演劇だと思ったのだが、私の期待は、ものの見事に外れてしまった。あの太鼓大会とは、月とスッポンであった。
 多分、現代社会は、文化の衰退がものすごい勢いで進んでいることを物語っているように思われる。かつて、地域でアマチュアの演劇集団として存在したのだろうが、高齢化が進みだんだん消滅の憂き目にあるのが現状なのであろう。そのために、演じる役者がいなくなり、先のように、一人で朗読するようなことになってしまったのであろう。そこをなんとか色をつけようとして、ジャズ奏者、ジャズダンスのスペシャリストなどを背後においての、朗読会となってしまったのだろう。私には惨めにしか思われなかった。もちろん、演劇の場合、音楽効果、ダンス効果はあってもかまわないことは知っている。ミュジカルという分野もあるのだから。
 この現状は、演劇だけの問題ではない。地域の合唱団にしても、高齢者だけの集団が多くなってきている。この現状だとそのうち消滅するのではないだろうか。それはいつも音楽祭で演奏を聴くたびに思うことだ。
 問題はスポーツでも起きている。私観る人、あなたプレーする人という状況になってはいないだろうか。例えば野球にしても、私たちの時代は草野球というのがあり、野球の裾野は広かったように思う。それはテニスにしても、サッカーについても言えることだ。私は、野球はあまり得意ではないが、それでも試合には出たこともあるし、柔道は中学時代に部活でやっていたし、スキーはそこそこ滑ることができる。サッカーは職場の地域大会で決勝までいった経験もある。
 現代の若者たちをみていると、スポーツにしても芸術にしても、すっかり専門的になり、およそ、普通の人の手の届くところには無いのではないか。全てがメジャーな種目となってしまった。これぞ、大衆文化の衰退の姿である。
 それでいて、一億総評論家のようになってはいないだろうか。世界の大会で優勝はもちろんメダル獲得でもしたら大騒ぎである。一躍注目されることとなる。大阪選手がグランプリをとると一躍有名人となる。それは偉大なことでり、拍手をおくりたい。ところが、彼女のような境遇にある普通の人たちが、どれだけ差別され、いじめられていることか。それを考えたことがあるのだろうか。
 かつて、アメリカは、陸上大会での黒人の活躍が目立った時代があった。その時、国内での黒人に対する差別はものすごいものだった。そして、黒人選手が優勝し、「星条旗よ永遠なれ」の曲がグランドいっぱいに流された。そして、アメリカ人は熱狂した。
 ちょっと脇道にそれたが、私たちはもっと芸術文化(スポーツも含めて)の何かに挑戦する姿勢を持ちたいものである。あの障害者の和太鼓演奏のように、なにか夢中になる文化に挑戦することがもとめられているのではないだろうか。
 地域共同体の活性化は、年寄りも若い者もともに文化活動に参加することによって、築き上げるものなのだろう。多分、かつてはそうだったのが、それが惨めな姿となって現れたのが、先に述べた演劇の姿である。