地方都市出身の僕は、故郷を後にし、東京の大学で学んだ。
写真が好きだった僕は、学校の帰り道である大通り沿いのカメラ屋に鎮座するM社の一眼レフを、毎日、ため息をつきながら眺めていた。
シルバーのメタルで出来た操作部と黒い革張のボディ。ボディは開閉式になっており、ボディを開くと蛇腹が伸びてレンズが飛び出す。その美しいシルエットは、つんと澄ました美人の鼻ようであり、或いはハリウッド映画の女優のバストのようであった。そのカメラの美しい造作と、精巧なメカニックは、僕を惹きつけて止まなかった。
大学4年の暮れ、それまで手紙など書いたことのない父から下宿に速達が届いた。
「もう直ぐ、卒業、就職だから、今年の暮れには必ず実家に帰ってきなさい」とその手紙にはあった。
僕は、毎年、暮れには実家に帰り、大晦日も元旦もきっちり家族と暮らしてきたのに、何故、あらためてこんな手紙を、しかも速達で寄こしたのか、
父の行動をいぶかしく思った。
父の手紙の如何に関らず、僕は例年通り、12月の20日過ぎに在来線で帰省した。
車窓から見る年末の景色は、例年と何ら変わることはなかった。
車内で食べる弁当の味も、いつもと同じだった。
そして、生まれたときから住んでいる木造の古ぼけた実家に着いた。
一夜明けて朝ごはんを食べていると、普段は無口な父が饒舌に僕に話しかけてくる。あげくの果てに、卒業祝いに何かを買ってやるという。
僕は、高すぎるかなと思いながらも、思い切ってM社のカメラの名を挙げた。
意外にも、父は、それは良い買い物だと言う。
しかも、これから、早速、駅前のカメラ屋に買いに行こうと言う始末だ。
そんなことで、憧れのカメラがあっさりと僕のものになった。
憧れの美人に思い切ってプロポーズしたら、案外、簡単にOKしてくれたような感じで、嬉しさの中に少しだけ戸惑いがあった。
M社のカメラを手にした僕は、毎日、上機嫌で年末の実家を過ごした。
そして、年の瀬も迫った12月30日に父が倒れた。そして、それこそあっけなく逝ってしまった。
父は若い頃から心臓が弱く、それが父の立身出世の妨げになっていたわけだが、その持病が急激に悪化したらしい。
カメラが、文字通り置き土産になってしまった。
父はまだ50代だった。
僕は茫然自失となった。しかし、21歳の若さで喪主になった僕に、世間は泣く時間を与えてくれなかった。
葬儀の準備と執行、初七日の法要。
そして、父が唯一残してくれた幾ばくかの土地には、複雑な債権、債務がついており、それを弁護士と相談しながら、綺麗にするのに予想以上の時間と労力がかかってしまった。
僕が東京に戻ったのは、卒業式の十日前だった。
随分、長く空家にしていた下宿には、たくさんの郵便物が溜まっていた。
その郵便の束から一枚の葉書がこぼれ落ちた。
それは何と父からの年賀状だった。
父が年賀状をくれたのは、後にも先にもこれが唯一だった。
父は明らかに自分の死期を悟っていたのだ。
そして、この官製年賀葉書は、何とお年玉くじの2等に当たっており、僕は毛布を貰った。
父の息子に対する強い思い、魂が、こんな奇跡のような出来事を起こしたとしか思えない。
三月というのに底冷えする下宿の一室で、僕は毛布にくるまり、M社のカメラを撫でながら、泣いた。
父は若い頃からの療養生活で、僕に父親らしいことが出来なかったことが悔しかったに違いない。
僕には、よその子供のように父とキャッチボールした思い出も、大きな背中におぶわれた記憶もない。
しかし、寂しいのは僕でなく、父の方だった。
僕は、そんな父の思いを最後の最後になって痛感し、改めて自分の中での父の存在の大きさを感じた。
ろくに父と語り合わなかったことを悔いた。
M社のカメラを思い出すと、今でも涙が出てくる。
父さんの買ってくれたM社のカメラ。
日経新聞7月19日夕刊
連載「こころの玉手箱」第三話 NTTドコモ元会長 大星公二氏「父が買ってくれたマミヤのカメラ」を読んで、涙が止まらなかった。
殆ど丸写しだが、自分なりに脚色してみた。
脚色というより、改悪になってしまったが・・・。
写真が好きだった僕は、学校の帰り道である大通り沿いのカメラ屋に鎮座するM社の一眼レフを、毎日、ため息をつきながら眺めていた。
シルバーのメタルで出来た操作部と黒い革張のボディ。ボディは開閉式になっており、ボディを開くと蛇腹が伸びてレンズが飛び出す。その美しいシルエットは、つんと澄ました美人の鼻ようであり、或いはハリウッド映画の女優のバストのようであった。そのカメラの美しい造作と、精巧なメカニックは、僕を惹きつけて止まなかった。
大学4年の暮れ、それまで手紙など書いたことのない父から下宿に速達が届いた。
「もう直ぐ、卒業、就職だから、今年の暮れには必ず実家に帰ってきなさい」とその手紙にはあった。
僕は、毎年、暮れには実家に帰り、大晦日も元旦もきっちり家族と暮らしてきたのに、何故、あらためてこんな手紙を、しかも速達で寄こしたのか、
父の行動をいぶかしく思った。
父の手紙の如何に関らず、僕は例年通り、12月の20日過ぎに在来線で帰省した。
車窓から見る年末の景色は、例年と何ら変わることはなかった。
車内で食べる弁当の味も、いつもと同じだった。
そして、生まれたときから住んでいる木造の古ぼけた実家に着いた。
一夜明けて朝ごはんを食べていると、普段は無口な父が饒舌に僕に話しかけてくる。あげくの果てに、卒業祝いに何かを買ってやるという。
僕は、高すぎるかなと思いながらも、思い切ってM社のカメラの名を挙げた。
意外にも、父は、それは良い買い物だと言う。
しかも、これから、早速、駅前のカメラ屋に買いに行こうと言う始末だ。
そんなことで、憧れのカメラがあっさりと僕のものになった。
憧れの美人に思い切ってプロポーズしたら、案外、簡単にOKしてくれたような感じで、嬉しさの中に少しだけ戸惑いがあった。
M社のカメラを手にした僕は、毎日、上機嫌で年末の実家を過ごした。
そして、年の瀬も迫った12月30日に父が倒れた。そして、それこそあっけなく逝ってしまった。
父は若い頃から心臓が弱く、それが父の立身出世の妨げになっていたわけだが、その持病が急激に悪化したらしい。
カメラが、文字通り置き土産になってしまった。
父はまだ50代だった。
僕は茫然自失となった。しかし、21歳の若さで喪主になった僕に、世間は泣く時間を与えてくれなかった。
葬儀の準備と執行、初七日の法要。
そして、父が唯一残してくれた幾ばくかの土地には、複雑な債権、債務がついており、それを弁護士と相談しながら、綺麗にするのに予想以上の時間と労力がかかってしまった。
僕が東京に戻ったのは、卒業式の十日前だった。
随分、長く空家にしていた下宿には、たくさんの郵便物が溜まっていた。
その郵便の束から一枚の葉書がこぼれ落ちた。
それは何と父からの年賀状だった。
父が年賀状をくれたのは、後にも先にもこれが唯一だった。
父は明らかに自分の死期を悟っていたのだ。
そして、この官製年賀葉書は、何とお年玉くじの2等に当たっており、僕は毛布を貰った。
父の息子に対する強い思い、魂が、こんな奇跡のような出来事を起こしたとしか思えない。
三月というのに底冷えする下宿の一室で、僕は毛布にくるまり、M社のカメラを撫でながら、泣いた。
父は若い頃からの療養生活で、僕に父親らしいことが出来なかったことが悔しかったに違いない。
僕には、よその子供のように父とキャッチボールした思い出も、大きな背中におぶわれた記憶もない。
しかし、寂しいのは僕でなく、父の方だった。
僕は、そんな父の思いを最後の最後になって痛感し、改めて自分の中での父の存在の大きさを感じた。
ろくに父と語り合わなかったことを悔いた。
M社のカメラを思い出すと、今でも涙が出てくる。
父さんの買ってくれたM社のカメラ。
日経新聞7月19日夕刊
連載「こころの玉手箱」第三話 NTTドコモ元会長 大星公二氏「父が買ってくれたマミヤのカメラ」を読んで、涙が止まらなかった。
殆ど丸写しだが、自分なりに脚色してみた。
脚色というより、改悪になってしまったが・・・。
知りませんでした。
とてもいい話ですが、KEVINさんがどう脚色されたのかとても興味があります。
どこかで夕刊をゲットしなきゃ。
マジに恥ずかしいです。脚色なんて大げさなモノではないないです。ほとんど丸写しですから深読みしないで下さい。あー本当に恥ずかしい。
父親の大きな背中を常に見ながら
育ってきたんだと子供を持った今、
ようやく感じつつあります。
キャッチボールやサッカーを二人の
子供とするのが僕の夢なのですが
簡単に叶うようでいて、一方で
とても大切な時間なんだと思いました。
改めて気付かせていただいてありがとう
ございます。
KEVINさんがどう脚色されたのかも気に
なりましたが・・・。
僕の脚色は、ともあれ、父を思う子供の立場からの自分と、子供を持つ親としての自分。
その両面にシンパシーを感じながら、この話を紹介しました。
あなたの父上も沖縄出身のベテラン、フォークシンガーを追いかけている素敵な方だそうですね!
シンガーを追いかけている素敵な方だそうです ね!」
その通りです! すごくエネルギッシュな若々しい
方です。