「押し入れの中から、昔のチケットが出てきた。
「1999年 パシフィック・リーグ選手権」と書いてある。
俺もこのボウズのために、今日使ったチケットを入れておくとするか」
語り継がれ、ネタにされ続ける名門のプロ野球球団、千葉ロッテマリーンズ。
…とゆーわけで、部屋の中をごそごそしていたら、昔使っていたチケットホルダーが出てきまして、ホルダーの中に貯めておいた昔のチケットがごっそり出て参りました。
これを使っていたのは1999年の1シーズンだけだったので、ホルダーの中にあったチケットはこの年のものだけなのだが、当然の話なのだけれど、それぞれチケットには日付が入っていて、この年1999年は、印象に残る試合が数多く残っていることもあって、日付を見ているといろいろと思い出しては感慨にふけることも多々あるわけで…。
っつーか、どうせなら10年近く前のチケットもネタにしてしまえ…ってーことで、いろいろと今のチケットと見比べてみようじゃないかと。
この時代のチケットとなると、いろいろと残されていることは残されているから、資料的には大した価値はまるでないのだけれど、ヤマモトマリーンズ元年の1999年は、いろいろと思い出が詰まっているから、ネタにするには申し分ない。
まずは、最初は外野席のチケットから。
この日は今でも強烈に覚えている。
前夜4月14日に、この年入団初年度だったボーリックが、初打席初本塁打という偉業を達成、突然降って沸いたボーリックの一振りに、マリーンズファンが沸きまくっていた。
その中で、この日のボーリックに打席が回ってきたのか、代打だったのかは覚えていないのだが、同点だったかの9回裏にボーリックに打席が周り、打球は右中間スタンドに吸い込まれるサヨナラホームラン。
この時、今年のマリーンズは何かが違うと、今と比べても圧倒的に数が少なくって、どこにでも座れたマリンスタジアムにいたファンの誰もが感じ始めていたことだろう。
そして、ボーリックのサヨナラホームランもさることながら、確か9回表に投げたのが近藤芳久だったから、スタンドのファンは狐につままれたような顔をしながら、「…これって勝ちが近藤につくんだよなあ…」とささやきあっていたのも、ボーリックサヨナラ弾と合わせて強烈に残っている(笑)。
このボーリック弾が、この6日後に松坂千葉マリン初登板で売り切れ札止め、そして7月にかけての快進撃へ繋がって行くのである。
では、内野自由席のチケットなんぞも。
当時はおいらもまだまだ若いというか血気盛ん。
ファンクラブの内野自由席引換券でまったり見ていたはずなのに、いつの間にか外野で声を嗄らしていたのだから、今となっては考えられぬほど若かった。
今でこそ内野で見ていても、最終回か、そうでなくても試合終了後には、外野で観戦している仲間の元へ挨拶がてら顔を出すようにしているけれど、それ以外の時は、チケットと見ている場所がもったいないとばかりに、意固地でも内野から動かないというのに、この頃は内野にいても、結局誰か知人がいたりして顔出しがてらお邪魔したりしていたから、ロハ(←死語)で球場に入れるということをさっ引いたら、何のための内野自由席招待券なのか分からなくなるくらいww
今じゃ、さすがにそんなもったいないことはできないなあ…。
あ、今更ながら思い出したが、ファンクラブの自由性招待券もどこかで使わなければ。どうせ内野2階席でしか使えない代物(一応1階3塁側も使えるが、早くから席が埋まってしまうから、ほとんど行ったことがない)だから、今の今までほったらかしにしていた。
この頃のシーズンチケットなんぞも一枚。
これは多分、一軍の試合では初めて入ったネット裏。
正確にはネット裏よりわずかに切れているところだけれど、バックネットが視界を遮らない分、還って見やすかった記憶がある。
このチケットこそ、何を隠そう、事ある毎に水道橋の某チケット屋のネタになる度に書いているのだけれど、あの某○-1で1000円で投げ売りされていたチケットそのものなのだ。
今じゃこんな所、とてもじゃないが、1000円で投げ売りする人なんていないよ~。この頃のパリーグ、この頃のロッテ対近鉄戦だったからこそ、1000円で投げ売りしても買い手すら付かない状況だったとも言えるのだ。おいらみたいな物好きが有り難く引き取らせて頂きましたとも。
この試合も強烈に覚えていて、0対0で迎えた7回裏2死1、2塁でダブルスチールを敢行したら、キャッチャー的山がピッチャー高村の投球を後逸、3塁に達した酒井が悠々ホームインし、高村がグラブを叩きつけて悔しがっている間に2塁ランナー堀様までホームイン。バッテリーエラーで2点をもぎ取り、投げてはなんと武藤潤一郎が零封して勝利という、波に乗っているからこその勝ち方だった。
この日の試合は日刊とスポニチが一面に持ってきて、もちろん当時のロッテがスポーツ紙の一面だなんて考えられない時代だったから、つい嬉しくて2紙とも買ったなあ。
ちなみに、家に残っていた片一方の日刊スポーツが、これ。
写真に寄ると…。
ヽ(゜∀゜)ノヤマモトーマリーンズ!ドンドンドドド!
ヽ(゜∀゜)ノヤマモトーマリーンズ!ドンドンドドド!
ヽ(゜∀゜)ノヤマモトーマリーンズ!ドンドンドドド!
ヽ(゜∀゜)ノヤマモトーマリーンズ!ドンドンドドド!
今でこそいろんな意味で( ´エカ`)様…と崇め奉ってしまうけど…。
ちなみに右に写るのはウォーレンですよ。
当時はまだ中指は突き立てない人でした(笑)。
ウォーレンもファン思いの選手で、球場入りするととにかくみんなに笑顔でサインしまくっていたっけ。
当時は今より客と選手の距離がかなり近かったし、近くても全く問題がなかったし、問題を起こす客は自浄作用で消されていった時代だったから、そういう意味では幸せな時代だった。
今なんか、サインの貰い方すらウイングビジョンで流さないといけない時代、どれほどゆとり教育なんだと。
浦和ももはや目も当てられない状態で、お陰で週末の浦和にはまったく近寄らなくなってしまった。
これが5年前なら、こんな雰囲気だったのにね。
@nifty;デイリーポータルZ:ロッテ浦和球場に行こう
この記事、すげえ。
浦和時代の西岡や今江の記録が残ってる。
この年(2003年)だったか前の年だったかは忘れたが、同じ頃、初芝ネ申も当時2軍だったはずで、メチャクチャ豪華な布陣だこと。
っつーか、薮田様までいるwwww
さすが5年一昔。
しかもこの記事、何が凄いって、西岡の写真の後に、「近所のオリジン弁当で買い込んで見物したい…」云々の事が書かれてあるが、まさか本当に西岡が誰かと一緒にオリジン弁当で云々とネタにされる日がやって来ようとは(笑)。
さて、他球場へ目を転じてみよう。
この年と言えば、このチケット抜きでは語れまい。
同じようなチケットがもう一枚残されているのだけれど、もう一枚は7月6日のみ有効の招待券だったから、7日に入った入場券は間違いなくこれのはず。
首位がかかっていたので、6日に負けた(はず)のも相まって、「こんな時に家でのほほんとしていられる場合じゃねえだろう」と、仕事後に急遽東京ドームまで駆けつけたんだっけ。知人に「今日は来れないんじゃなかったの?」と言われ、「こんな日に来れなきゃ男じゃないだろう」みたいなことを言った記憶がある。
そしてこの日はマリーンズがリード。
他球場の途中経過で、福岡でホークスが負けていると伝えられた瞬間、レフトスタンドは祭りのような大歓声。このままいけば、七夕の今宵、マリーンズが一躍首位に躍り出るのだ。
この日を境に、天国から地獄へと叩き落とされることも知らずに。
そして、地獄へ叩き落とされるのが決定的になったのが、所沢のこの試合。
↑「割引料金」のスタンプは、マリーンズファンクラブ割引。
金曜日からの連戦を連敗し、西武に3タテされたら、間違いなくそれは優勝争いからの脱落を意味していた。
そして…。
何にも出来ず3タテ。
その瞬間、友人は芝生席にうずくまり、子供のように大声で嗚咽した。
「ちきしょおおおおおお!ちきしょおおおおおおおお!!!」
そんな彼を抱きかかえ、泣きたい気分をグッと堪え、必死に諭すこちらの立場も相当辛かったのは、どうかお察し頂きたい。
「泣いているヒマなんかあるかバカヤロー。俺たちゃひたすら前向きに声を上げていくしかねえだろって」
「だって、だって、西武相手に何にもさせてもらえなかったじゃねえかよう…ちきしょう、ちきしょう…」
結局、その年は4位に終わったマリーンズ。
あの七夕の日に、ほんの一瞬だけつかみかけた「夢」は、その後、6年も待たされなければならなかった。その日のことを思うと、6年という日の月日が、長かったのか、短かったのかは、分からない。
ただ、あの年があったからこそ、2005年にあれだけ弾けられたのかな…とも思うのだ。いや、間違いなくそうだろう。
東京ドームで掴みかけた「夢」。
西武ドームで汗と涙と共に、もろくも崩れ去った「夢」。
ひょっとすると、あの体験があったからこそ、おいらは今の今まで、ロッテ一筋バカになり、果て無き修行をまっしぐら…で来られたのかもしれない。
チケットの半券にも、ファンそれぞれの思いが、重いほど詰まっている。
今度の試合のチケットを、また10年後に笑いながら振り返るために、取っておくとするか。
「1999年 パシフィック・リーグ選手権」と書いてある。
俺もこのボウズのために、今日使ったチケットを入れておくとするか」
語り継がれ、ネタにされ続ける名門のプロ野球球団、千葉ロッテマリーンズ。
…とゆーわけで、部屋の中をごそごそしていたら、昔使っていたチケットホルダーが出てきまして、ホルダーの中に貯めておいた昔のチケットがごっそり出て参りました。
これを使っていたのは1999年の1シーズンだけだったので、ホルダーの中にあったチケットはこの年のものだけなのだが、当然の話なのだけれど、それぞれチケットには日付が入っていて、この年1999年は、印象に残る試合が数多く残っていることもあって、日付を見ているといろいろと思い出しては感慨にふけることも多々あるわけで…。
っつーか、どうせなら10年近く前のチケットもネタにしてしまえ…ってーことで、いろいろと今のチケットと見比べてみようじゃないかと。
この時代のチケットとなると、いろいろと残されていることは残されているから、資料的には大した価値はまるでないのだけれど、ヤマモトマリーンズ元年の1999年は、いろいろと思い出が詰まっているから、ネタにするには申し分ない。
まずは、最初は外野席のチケットから。
この日は今でも強烈に覚えている。
前夜4月14日に、この年入団初年度だったボーリックが、初打席初本塁打という偉業を達成、突然降って沸いたボーリックの一振りに、マリーンズファンが沸きまくっていた。
その中で、この日のボーリックに打席が回ってきたのか、代打だったのかは覚えていないのだが、同点だったかの9回裏にボーリックに打席が周り、打球は右中間スタンドに吸い込まれるサヨナラホームラン。
この時、今年のマリーンズは何かが違うと、今と比べても圧倒的に数が少なくって、どこにでも座れたマリンスタジアムにいたファンの誰もが感じ始めていたことだろう。
そして、ボーリックのサヨナラホームランもさることながら、確か9回表に投げたのが近藤芳久だったから、スタンドのファンは狐につままれたような顔をしながら、「…これって勝ちが近藤につくんだよなあ…」とささやきあっていたのも、ボーリックサヨナラ弾と合わせて強烈に残っている(笑)。
このボーリック弾が、この6日後に松坂千葉マリン初登板で売り切れ札止め、そして7月にかけての快進撃へ繋がって行くのである。
では、内野自由席のチケットなんぞも。
当時はおいらもまだまだ若いというか血気盛ん。
ファンクラブの内野自由席引換券でまったり見ていたはずなのに、いつの間にか外野で声を嗄らしていたのだから、今となっては考えられぬほど若かった。
今でこそ内野で見ていても、最終回か、そうでなくても試合終了後には、外野で観戦している仲間の元へ挨拶がてら顔を出すようにしているけれど、それ以外の時は、チケットと見ている場所がもったいないとばかりに、意固地でも内野から動かないというのに、この頃は内野にいても、結局誰か知人がいたりして顔出しがてらお邪魔したりしていたから、ロハ(←死語)で球場に入れるということをさっ引いたら、何のための内野自由席招待券なのか分からなくなるくらいww
今じゃ、さすがにそんなもったいないことはできないなあ…。
あ、今更ながら思い出したが、ファンクラブの自由性招待券もどこかで使わなければ。どうせ内野2階席でしか使えない代物(一応1階3塁側も使えるが、早くから席が埋まってしまうから、ほとんど行ったことがない)だから、今の今までほったらかしにしていた。
この頃のシーズンチケットなんぞも一枚。
これは多分、一軍の試合では初めて入ったネット裏。
正確にはネット裏よりわずかに切れているところだけれど、バックネットが視界を遮らない分、還って見やすかった記憶がある。
このチケットこそ、何を隠そう、事ある毎に水道橋の某チケット屋のネタになる度に書いているのだけれど、あの某○-1で1000円で投げ売りされていたチケットそのものなのだ。
今じゃこんな所、とてもじゃないが、1000円で投げ売りする人なんていないよ~。この頃のパリーグ、この頃のロッテ対近鉄戦だったからこそ、1000円で投げ売りしても買い手すら付かない状況だったとも言えるのだ。おいらみたいな物好きが有り難く引き取らせて頂きましたとも。
この試合も強烈に覚えていて、0対0で迎えた7回裏2死1、2塁でダブルスチールを敢行したら、キャッチャー的山がピッチャー高村の投球を後逸、3塁に達した酒井が悠々ホームインし、高村がグラブを叩きつけて悔しがっている間に2塁ランナー堀様までホームイン。バッテリーエラーで2点をもぎ取り、投げてはなんと武藤潤一郎が零封して勝利という、波に乗っているからこその勝ち方だった。
この日の試合は日刊とスポニチが一面に持ってきて、もちろん当時のロッテがスポーツ紙の一面だなんて考えられない時代だったから、つい嬉しくて2紙とも買ったなあ。
ちなみに、家に残っていた片一方の日刊スポーツが、これ。
写真に寄ると…。
ヽ(゜∀゜)ノヤマモトーマリーンズ!ドンドンドドド!
ヽ(゜∀゜)ノヤマモトーマリーンズ!ドンドンドドド!
ヽ(゜∀゜)ノヤマモトーマリーンズ!ドンドンドドド!
ヽ(゜∀゜)ノヤマモトーマリーンズ!ドンドンドドド!
今でこそいろんな意味で( ´エカ`)様…と崇め奉ってしまうけど…。
ちなみに右に写るのはウォーレンですよ。
当時はまだ中指は突き立てない人でした(笑)。
ウォーレンもファン思いの選手で、球場入りするととにかくみんなに笑顔でサインしまくっていたっけ。
当時は今より客と選手の距離がかなり近かったし、近くても全く問題がなかったし、問題を起こす客は自浄作用で消されていった時代だったから、そういう意味では幸せな時代だった。
今なんか、サインの貰い方すらウイングビジョンで流さないといけない時代、どれほどゆとり教育なんだと。
浦和ももはや目も当てられない状態で、お陰で週末の浦和にはまったく近寄らなくなってしまった。
これが5年前なら、こんな雰囲気だったのにね。
@nifty;デイリーポータルZ:ロッテ浦和球場に行こう
この記事、すげえ。
浦和時代の西岡や今江の記録が残ってる。
この年(2003年)だったか前の年だったかは忘れたが、同じ頃、初芝ネ申も当時2軍だったはずで、メチャクチャ豪華な布陣だこと。
っつーか、薮田様までいるwwww
さすが5年一昔。
しかもこの記事、何が凄いって、西岡の写真の後に、「近所のオリジン弁当で買い込んで見物したい…」云々の事が書かれてあるが、まさか本当に西岡が誰かと一緒にオリジン弁当で云々とネタにされる日がやって来ようとは(笑)。
さて、他球場へ目を転じてみよう。
この年と言えば、このチケット抜きでは語れまい。
同じようなチケットがもう一枚残されているのだけれど、もう一枚は7月6日のみ有効の招待券だったから、7日に入った入場券は間違いなくこれのはず。
首位がかかっていたので、6日に負けた(はず)のも相まって、「こんな時に家でのほほんとしていられる場合じゃねえだろう」と、仕事後に急遽東京ドームまで駆けつけたんだっけ。知人に「今日は来れないんじゃなかったの?」と言われ、「こんな日に来れなきゃ男じゃないだろう」みたいなことを言った記憶がある。
そしてこの日はマリーンズがリード。
他球場の途中経過で、福岡でホークスが負けていると伝えられた瞬間、レフトスタンドは祭りのような大歓声。このままいけば、七夕の今宵、マリーンズが一躍首位に躍り出るのだ。
この日を境に、天国から地獄へと叩き落とされることも知らずに。
そして、地獄へ叩き落とされるのが決定的になったのが、所沢のこの試合。
↑「割引料金」のスタンプは、マリーンズファンクラブ割引。
金曜日からの連戦を連敗し、西武に3タテされたら、間違いなくそれは優勝争いからの脱落を意味していた。
そして…。
何にも出来ず3タテ。
その瞬間、友人は芝生席にうずくまり、子供のように大声で嗚咽した。
「ちきしょおおおおおお!ちきしょおおおおおおおお!!!」
そんな彼を抱きかかえ、泣きたい気分をグッと堪え、必死に諭すこちらの立場も相当辛かったのは、どうかお察し頂きたい。
「泣いているヒマなんかあるかバカヤロー。俺たちゃひたすら前向きに声を上げていくしかねえだろって」
「だって、だって、西武相手に何にもさせてもらえなかったじゃねえかよう…ちきしょう、ちきしょう…」
結局、その年は4位に終わったマリーンズ。
あの七夕の日に、ほんの一瞬だけつかみかけた「夢」は、その後、6年も待たされなければならなかった。その日のことを思うと、6年という日の月日が、長かったのか、短かったのかは、分からない。
ただ、あの年があったからこそ、2005年にあれだけ弾けられたのかな…とも思うのだ。いや、間違いなくそうだろう。
東京ドームで掴みかけた「夢」。
西武ドームで汗と涙と共に、もろくも崩れ去った「夢」。
ひょっとすると、あの体験があったからこそ、おいらは今の今まで、ロッテ一筋バカになり、果て無き修行をまっしぐら…で来られたのかもしれない。
チケットの半券にも、ファンそれぞれの思いが、重いほど詰まっている。
今度の試合のチケットを、また10年後に笑いながら振り返るために、取っておくとするか。
指定席だって当日行っても余裕で買えたのに、今では前売りで買わないといけないですし・・・・。
ロッテ浦和も然りですね。
ボーリックといえば、ペドラザからバックスクリーンへドカンと逆転満塁サヨナラホームランを放った事もありますし、ウォーレンもパイポのCMみたいに「私ハコレ(東尾氏に中指を立てる)デ会社ヲ辞メマシタ」なんてネタを最近ファンになった人に話して解らないでしょうねぇ・・・。
しかしそれは、今までの、牧歌的な雰囲気さえ漂う空気を捨てなければならないという、諸刃の剣でした。
あの頃に実際に外野に通い詰めて、今ではちょいとセミリタイア…というような方が、たまたまこのエントリを見つけて下さり、「もう一丁、スタジアムに足を運んでやろうかな…」と、もし思って下されば、こんなに嬉しいことはありません。
こうした思い出話は、ベテランファン(と言われる人達)の独りよがりと受け止められがちかもしれませんが、こうして昔と今の橋渡しが出来れば…と思っております。