川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

ぼくの学生運動 (3)社会主義・構造改革派

2009-01-31 17:41:36 | 父・家族・自分
 ぼくが入学した頃(1961年)の学生運動は社会主義を目指す政党の指導下にありました。教育大は戦後一貫して共産党(民主青年同盟)の勢力範囲にありましたが、安保闘争敗北後、その指導部は共産党を離れ(除名・離党)、構造改革派(構革派)と呼ばれていました。当時の様子を手短に解説した文章があります。 


 東京教育大学は学生運動のセクト的分類からいえば、60年安保闘争においては全学連反主流派(共産党・民青系)の拠点校であり、その後においては東京における数少ない構造改革派(そのうち「社会主義革新運動」=「共産主義青年同盟」~「社会主義労働者同盟」=「共産主義学生同盟」系)の拠点校でありつづけた。
(構改派は東京では圧倒的少数派であったが、60年代には関西・中国地区においてそれなりの勢力を持ち、大阪府学連、兵庫県学連は構改派の指導下にあった。また、全国大学生活協同組合連合会は60年代中頃まで、全日本学生新聞連盟は60年代後半まで、構改派の指導下にあった。)

 東京教育大学新聞会も、大学全体のこの流れと同じであり、概して構改派系の会員が多かった。しかしながら、構改派は原則として、大衆団体のセクト的私物化に反対しており、構改派系の会員が多かったからといって、新聞会が構改派によって私物化されていたというわけではない。事実、入会を希望してくる学生は無条件で入会させており、セクト的判断によって、入会を拒絶するようなことはなかった。したがって、構改派系はもとより、民青系、ブント系、革マル派系、ノンセクト、ノンポリと称される会員もおり、その構成員の傾向は種々雑多であった。要するに新聞会は、何らかの意味で新聞を作りたいと思って集まった者の集団であり、特定のセクト、特定の思想によって集まった者の集団ではない。
 
  70年代に入って、セクト間の抗争が激化し、内ゲバが多発した時代を経験した者がみると、当時の状況はあまりに牧歌的であり、理解不可能なものかもしれない。新聞会員にとって、新聞会はいわばゲマインシャフトであり、セクトはゲゼルシャフトであったと言えば、感じが分かってもらえるだろうか。入会時点ではノンポリ、ノンセクトであった者が、会活動を通じての経験や外部的影響によって、特定セクトを支持するようになっていくケースが多く、その逆ではなかったということである。

 しかし、筑波移転問題をめぐる闘争が一段落すると、かつて学内においてあれほどの隆盛を誇った構改派も雲散霧消してしまい、以前は数十名の会員を擁した新聞会もわずか2名の会員によって細々と運営されるような状況になっていた。そのような状況の下、71年春、革マル派系の学生が数名入会してきたため、その後の「教育大学新聞」は革マル派色が強まった。最後に残った以前からの会員1名もやめてしまい、ここにおいて、「教育大学新聞」の全学連反主流派・構改派的伝統は断絶したわけである.

出典 東京教育大学略年表http://members.jcom.home.ne.jp/lionsboy/index.htm


 入学した頃のぼくは社会主義については何も知りません。先輩たちが開催してくれる読書会で『空想より科学へ』(フリードリッヒ・エンゲルス)『賃労働と資本』(カール・マルクス』などを読んで行くうちにぐいぐいとその世界にひきこまれていきました。とくに『経済学・哲学草稿』というマルクスの本を読んで深い感動を覚えたことを記憶しています。自分に見えなかった世界の全貌が見えてきたような、霧がどんどん晴れていくような感動です。
 その後もぼくはマルクスの初期の作品に引きつけられ、深い影響を受けました。それは今でも人生の大切な宝です。しかし、ロシア革命の指導者レーニンの著作などは好きになれずほとんど読んでいません。よくいうマルクス=レーニン主義者には縁が遠く、自分ではマルクス=マルクス主義者かと思ったことがあります。
 高校生の時にハンガリー事件にかかわる『文藝春秋』の特集記事を読み、「自由なハンガリーを助けてください」というハンガリーのナジ首相の悲痛な叫びを聞いたりしていましたから、ソ連共産党を始め共産党のファンではなかったのです。

 構造改革派の人たちはイタリア共産党の指導者・アントニオ=グラムシの闘いに学び、資本主義社会のあらゆるところ(企業や学校・地域など)で共産主義者が「知的道徳的ヘゲモニー(Hegemonie主導権。指導的立場。)」を確立する闘いをすすめ、社会の構造改革を通じて社会主義への平和的移行(革命)を実現することを主張していました。また、キューバ危機を教訓にして、フルシチョフの唱えるアメリカを中心とする資本主義体制とソ連を中心とする社会主義体制の平和的共存政策を支持していました。社会主義の優位性が徐々に立証され世界革命につながると考えられていたようです。
 日本共産党からは「反党修正主義」と罵倒されていましたが、ぼくは自然にこの考えを受け入れていきました。民主主義と人権、非戦非武装の憲法のもとでそれを全面的に受け入れていたぼくにとって何の矛盾もなかったのです。
 そんなぼくでしたが「共産主義青年同盟(共青)」の一員になるなどということは考えたことがありません。自分を束縛する組織というものにはなじめなかったのでしょう。
 ところが3年生になって編集長をやることが決まった直後(?)にMくんがやってきて「共青」に入ることを求められました。嘘かほんとかわかりませんが編集長は入ることになっていると言うのです。親戚に警察関係者はいるかとも聞かれました。Mくんは同学年ですがぼくが何かといえば対立した人です。最初はソ連のことを「ソ同盟」と言うので気になって批判しました。ぼくから見ると「党」の人だったのでしょう。
 詳しいことは忘れてしまいましたが結局ぼくは書類にサインして「共青」の一員となりました。そのことによって何かが変わったという記憶はありませんが、編集長を終わったとき、その「共青」サイドの文学部自治委員長候補に推される一因にはなったのです。
 

 

 
 

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