唯物論者

唯物論の再構築

実存主義2

2011-11-08 23:03:54 | 実存主義

 実存主義における人間は、永遠と瞬間が綜合する場である。キェルケゴールのこの提示に従って、ハイデガーはそれを現存在と呼んだ。キェルケゴールは、永遠を垣間見る充実した瞬間を現実存在と見ており、それから遊離して見える本質一般に虚実性を見出した。彼にとってこのような現実存在と本質の対立は、単独者と通俗的世間の対立の図式に等しい。この図式において彼が理解したのは、真理とは個人に関わるものでなければならないし、そうでない真理はどうでも良い真理だということである。このようなキェルケゴールの本質一般への反発は、ヘーゲルのように媒介者を経て立ち現われるような真理への反発に帰結した。彼にとってそれは、世俗を体現するような無意味な真理にすぎなかったからである。

 現実存在、つまり実存は、実存主義ではもっぱら本来的人間を指すとされている。キェルケゴールでも実存という言葉は登場するが、このように限定されて使われるようになったのは、「存在と時間」でのハイデガーの記述に依っている。ただし実存という言葉は、もともとそのような意味に限定されたものではない。肝心のハイデガーでさえ、著作の後期では実存を人間に限定していない。実際には、現実存在とは、ヒュームの言う印象であり、ショーペンハウアーの言う表象であり、つまりは現象である。現象は現瞬間においてのみ登場する。その登場の場ないしは窓口の役目を果すのが人間である。このキェルケゴールの見解をさらに推し進めるために、ハイデガーは「存在と時間」において、人間自らを含む世界全体の全存在者の実存論的独我論の場として、人間を世界内存在と扱った。世界内存在とは、媒介者なしに概念を成立させるために、フッサールのヒュレー構造を改変してハイデガーが生み出した超特級の哲学装置の名称である。世界内存在では、事物と概念の弁証法的相関が無意味化しており、物質も観念も、直観も概念も、個別も一般も、全てが等しく存在者として登場する。というのも、そもそもハイデガーがこの世界内存在という構造に、久しく悟性認識に比して貶められてきた直観、さらには情念を復権させる役目を要求していたからである。一方でフッサールにおいて志向対象の実在性がヒュレー構造に帰属したのと同様に、存在者の実在性は世界内存在に帰属する。ハイデガーが人間に限定して実存を認めたのは、自らが世界内存在に与えた性質から自ずと帰結したと見て良い。
 なるほどハイデガー以後の実存主義は、現象学を根城にして開花した。しかしキェルケゴールの時代には、まだフッサールは登場していない。キェルケゴールが最初に依拠しようと目論んだのは、シェリング哲学である。キェルケゴールの時代にシェリングは、その直観主義を売りにしており、ヘーゲルの最大の対抗馬とみなされていたからである。しかしキェルケゴールは、シェリング哲学の出来の悪さに失望する。シェリング哲学は、その直観主義を除くと、ヘーゲルと似たり寄ったりの宇宙進化論にすぎなかったからである。最終的にキェルケゴールは、個別者に固着した弁証法を駆使して自らの思想を構築することになる。この弁証法の選択においてキェルケゴールは直観主義の完成を実質的に諦めたと見て良い。一方で世界内存在において直観主義の完成を具現してみせたのが、ハイデガーである。それは両者の思想的到達点の明暗を分けた。しかし不思議なことに、明はキェルケゴールであり、暗はハイデガーである。キェルケゴールは、個別者に固着した弁証法という離れ技により、すでにハイデガーも追いつくことのできない到達点に降り立っていたのである。ただしそれは、その荒唐無稽な弁証法が示すように、キェルケゴールがハイデガーと違い、自らを哲学者とみなしていないことや、彼が教授でもなんでもない、地位や名誉と無縁の単独者だったからこそ可能な到達点なのだとも言える。

 もともと現象学は、直観と概念の弁証法的相関が無意味化した静的体系である。アプリオリに真理は人間にもたらされているのだが、雑念の侵入が人間にその真理を見させなくしていると考えられている。フッサールは、そのような雑念を抑止するために、判断停止という思考方法を考案している。現象学は、本来性からの堕落を人間の一般的な姿とみなしているわけである。つまり真理と誤謬の関係は、本来と非本来の関係となる。そして現象と本質の関係も同じ位置関係に置かれる。現象学では弁証法的な真理到達は無く、それは単なる真理の露呈として現われる。出発点は常に真理であり、本来であり、現象だったのである。現象学では、人間は進歩するのでなく、常に真理からどんどんと遠ざかっている。
 一方で弁証法では、現象学と逆方向に人間は深化を続けて真理に近づくものと考えられている。出発点の真理は低次元の真理にすぎず、本来あったものはただの遺物に扱われ、本質の積分的完結が目的地となる。真理はその到達点に待っていると考えられている。このために弁証法では人間的堕落も、単に低次の存在を指すだけに留まる。真理と誤謬の関係も、現象学と逆に、非本来と本来の関係として現われる。それは本質と現象の関係も、現象学と逆の位置関係に置くのを意味する。もし現象学における人間のキャッチフレーズが堕落だとすれば、弁証法におけるそれは深化である。

 キェルケゴールは「不安の概念」の時点では、本来性からの堕落を描いていた。しかし「死に至る病」の時点では、弁証法を駆使して絶望の深化を描いている。このキェルケゴールの記述方法の変化は、「不安の概念」における自らの直観主義への撞着の放棄を意味する。すでにキェルケゴールの実存主義は「人生行路の諸段階」以後では、人間の原罪的堕落を許す神へと向かっている。それは、キェルケゴールがその神の目線において、人間の可能性に目を向けるように、自らの思想を旋回させたのを示す。彼にとって人間における堕落も絶望もただのエピソードとなり、今では真理への到達だけが人間の使命となった。キェルケゴールの弁証法は、絶望の深化の果てに信仰を登場させるウルトラCで終わるのだが、そのことを差し引いても、その弁証法的記述は、ハイデガーの実存哲学を凌駕している。ハイデガーは、キェルケゴールの思想転回の折り返し地点にようやく到達しただけである。ある意味では、現象学や世界内存在構造という自らに打ち付けた十字架が、ハイデガーの実存哲学の足枷にもなっている。それらはハイデガーを、弁証法的深化と折り合わない悪しき直観主義に陥らせたからである。この点ではむしろヤスパースの方が、キェルケゴールの正当な弟子かもしれない。「不安の概念」で内なる神を追究したキェルケゴールを継承したのがハイデガーだったのに対し、ヤスパースは「死に至る病」で外なる神に向き合ったキェルケゴールを継承しているからである。本人が憤慨するのを無視して言えば、対象の中に真理の声を聞こうとするヤスパースの姿勢は、唯物論とも通じている。
(2011/11/08)


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