唯物論者

唯物論の再構築

労働至上主義

2015-04-18 12:14:51 | 失敗した共産主義

 共産主義は、ヘーゲルが「精神現象学」で描いた歴史の弁証法を、その観念的色彩を脱して唯物史観へと結実させた。ヘーゲルと共産主義における歴史把握の違いは、前者を観念論、後者を唯物論へと煎じ詰めるのが最も明快かつ妥当な捉え方であろう。前者が歴史を抽象的意識の内的矛盾解消の経緯に留めたのに対し、後者は歴史を具体的人間の階級闘争の記録へと置き換えたからである。ヘーゲルの歴史認識は、思想の史的発展を人間社会の政治機構の変遷に被せるところに特徴がある。さらに言えば、意識の変遷が現実世界の変遷を規定する観念論こそがヘーゲルにとっての歴史である。言うなれば、共産主義における歴史観が唯物史観であるなら、ヘーゲルの歴史観はイデオロギー史観となっている。またそれへの反発があるからこそ、ヘーゲルにおける歴史についての弁証法記述を継承するにあたり、マルクス/エンゲルスはヘーゲル特有の文明評論型記述を排し、代わりに歴史を規定する暗部に階級闘争を鎮座した。なるほど唯物史観の生誕の契機は、このようなヘーゲルへの唯物論的批判にある。ただしそれでも、唯物史観の原型はヘーゲルの歴史観であることに変わりは無い。逆にヘーゲルと共産主義の間の歴史観の繋がりを見ることで、共産主義がいかなる点でヘーゲルを克服し、いかなる点でヘーゲルから後退したのかを考察することも可能である。以下では共産主義において、ヘーゲルの継承でありつつ、実態としてヘーゲルからの後退に終わった労働至上主義に焦点を当てる。
 なおここでは共産主義とヘーゲルの間の歴史観の連携を、ヘーゲルにおける主人と奴隷、私的共同体と公的国家のそれぞれの相克についての弁証法、および個人の社会に対する紐帯的役割を果たす労働の積極的評価の三点で取り上げる。それは、マルクス/エンゲルスがヘーゲルの歴史観を継承した部位も、逆にヘーゲル批判となる部位もこれらの三点に集約していると筆者が考えるからである。

 ヘーゲルが示した主人と奴隷の弁証法は、奴隷の支配者のはずの主人が、自ら非生産者であるがゆえに、最終的に生産者としての奴隷に逆に支配されるようになると言った一種の寓話である。短くまとめると一文に収まるこの寓話は、共産主義革命理論の骨子そのもののように読める。すなわち、主人を資本家に置き換え、奴隷を労働者に置き換えるだけで共産主義の革命理論の出来上がりである。ただしヘーゲルがこの寓話を思いついたのは、彼がフランス革命に失望するより前ではないかと筆者は推測している。ギロチン・テルミドールからナポレオンの台頭に至る経緯において、ヘーゲルはその民衆反乱を無媒介な単なる直観主義にみなし、革命それ自体の意義を否定するからである。一方でそのヘーゲルの諦念に無関心なマルクス/エンゲルスは、主人と奴隷の弁証法をそのまま是認したであろうし、さらに進んでその弁証法が抱えた観念性に着目したはずである。ヘーゲルにおいて人口を二分した主人と奴隷への分離は、無前提に必然的な分離として扱われている。つまり人間が二人いれば、そこには主従関係、さらに言えば、所有の分断が自然に発生している。言い方を変えれば、ヘーゲルにおいて、人間社会の始まりに原始共産制は存在しない。ただしこのような見解は、実際にはへーゲルに特有のものではない。共産主義が登場する以前の思想世界では、ホッブズやカントなどに見られるように、自然状態を万物が全方向に戦い合う場として理解するのが一般的だからである。この理解が前提にある限り、存在者相互の共存も主従隷属の一形態にすぎない。しかし万物相互の戦いが必然であるなら、主人と奴隷の弁証法も、ヘーゲルが考えたように主人に対する奴隷の勝利で終わることができない。勝利した奴隷は新たな主人となるだけであり、他方に再び新しい奴隷が生み出されるだけだからである。それは入れ替わりで主人と奴隷の役割が交替するだけの無限循環に過ぎず、悪無限にほかならない。真無限が成立するためには、奴隷の勝利が主従関係そのものの死滅で終わるべきである。そして歴史の結末が主従関係の死滅を目指すのなら、当然ながら歴史の始まりもまた、主従関係の欠落から始まらなければならない。加えて問題なのは、存在者相互の共存が不可能であることは、存在者に自由が存在し得ないことと同義だと言うことである。存在者の相互関係が常に必然的な規定関係にあるなら、規定者は被規定者の主人となり、被規定者は必ず規定者の奴隷になるからである。そして存在者相互の自由な関係は現実に存在している。つまり明らかに存在者相互の共存は、可能なのである。したがってここで生まれ出る疑問は、次のことである。所有の分断はどのように発生し、そしてそれはどのように解消されるのか? このような疑問から共産主義は、ヘーゲルにおいて欠落していた寓話の前半部分、すなわち主人と奴隷の人口分離の発生経緯を語り始めたわけである。共産主義はヘーゲルの寓話を整備して遠大なドラマへと転換しただけでなく、物語の結末部分の実現まで目指すに至った。しかし実態としてかつての共産主義は、奴隷の勝利がいかなる形態になるかを見取り図として描けていなかった。そのことが暴露したのが、ロシア共産主義の失敗である。もちろんそのような欠落は、ヘーゲルの寓話にしても然りである。それどころかロシア共産主義の失敗は、ヘーゲルにおけるフランス革命に対する否定的評価を肯定するものでさえある。そのことが示すのは、共産主義がヘーゲルの寓話が抱えた欠落を全面的に補填できていなかった事実である。
 一方でヘーゲルはギリシャから近代に至る社会形態の変遷、およびヘーゲル自らに至るまでの哲学の紆余曲折の歴史の全てを、意識が成長する姿に捉える。しかしここでの歴史記述も、先の主人と奴隷の寓話と同様に、またはそれ以上にその弁証法の動因が欠落している。そしてそれゆえにこれらの一連のヘーゲルの記述も、各時代の単なる文明評論に留まるだけの代物となっている。むしろこれらの内容は、知恵熱に浮かされながらヘーゲルが書いた哲学的覚書のような内容である。随所にかなりの触発的な見解が搭載されているのだが、全体として見ると筆者にはこれらが出鱈目な内容にしか見えない。当然ながらこの一連のヘーゲルの歴史評論は、一点を除くと、唯物史観と全く連携していない。この例外的な連携は、ギリシャ人倫社会の崩壊を描く記述に現れるヘーゲルの国家観である。ヘーゲルはギリシャ人倫社会の崩壊を、それが私的共同体にすぎない非公式の国家だったことに起因すると見ている。すなわち、ヘーゲルの観点におけるギリシャ社会は、国家に成りきれなかった共同体なのである。このヘーゲルにおける国家と共同体の違いは、前者が国家を私的生活より優位に立てるのに対し、後者が私的生活を共同体より優位に立てることに置かれている。したがってここは、ギリシャ人倫社会の崩壊を国家と私的生活との対立軸で描くところに、ヘーゲル国家主義が顔を出している記述でもある。ただしヘーゲルは、私的共同体と公的国家の差異を一種の量的な差異でしか見ていない。つまりヘーゲルにおいて、個人は家族に、家族は村に、村は町に、町は共同体に、共同体は国家に包括されるだけである。したがって共同体が私的とみなされる理由も、共同体が国家の成員にすぎないことだけに依っている。このようなヘーゲルに対してマルクス/エンゲルスは、逆に国家を私的存在に扱い、ヘーゲルの国家主義の代わりに共同体を前面に立ててプロレタリア国際主義を謳い始める。とは言えこのような共産主義からの批判は、おそらくヘーゲルにとって心外なものである。と言うのも、ヘーゲルにおいて私的な国家は、国家ではないからである。そして実際にヘーゲルの国家主義とプロレタリア国際主義の間にそれほど差異は無い。両者はともに成員全体の有機的連繋において全体主義の正当性を納得しており、そして両者ともに成員全体の有機的連繋を人間の営む労働の中に見出している。労働の有機的連繋こそが、成員の存続を可能にしており、またそれ自体が成員の証でもあり、連繋全体の正当性を保証する。もちろんこの労働至上主義の出所は、実際には共産主義ではない。ヘーゲルこそが労働至上主義の出所であり、マルクス/エンゲルスはそれを継承しただけである。それどころか彼らを含めて共産主義は、むしろ労働至上主義をドグマへと後退させたのが本当のところである。
 社会の総体において個人は労働を介して総体と関わり合い、労働の私的性格にも関わらず無私な存在として社会の中に自らを位置づける。このようなヘーゲルにおける労働に対する肯定的評価は、主人と奴隷の弁証法において労働者自らの政権樹立を擁護する役割を果たす。ヘーゲルは自己否定した無私な良心に人倫および国家の最終形を見出しているからである。しかしこの無私な個人は、無私であるがゆえに自由な個人ではない。それは総体の中の一つの駒に過ぎず、総体に従属して総体に埋没した単なる点である。フォイエルバッハによるヘーゲル批判は、このような肉体を欠落した人間規定への反発である。そしてそれと同じ反発が、キェルケゴールに始まる実存主義を哲学世界にもたらした。一方で総体への個人埋没を是認することが、国家による人間収奪を隠す煙幕になっていることを暴いたのが共産主義である。そこで共産主義が示したのは、総体が私的国家として現れる限り、労働者の自己否定は強制された自己疎外にほかならず、総体への個人埋没も単なる人間否定として現れる事実である。ただしマルクスは、ヘーゲルの人間観を批判したフォイエルバッハを批判したことで、ヘーゲルの人間観に回帰していることに自ら気付いている気配が無い。フォイエルバッハ・テーゼにおいてマルクスは、人間を社会的諸関係の総体として描き、個人をその網の目の結び目だと捉えている。従来の共産主義では一般にこの人間規定は、フォイエルバッハによるヘーゲル人間論批判をマルクスが完成させた姿だと捉えられている。なるほどヘーゲルにおける抽象的人間は、フォイエルバッハにおいて肉体を与えられ、マルクスはそれに社会的役割まで与えている。ところが実際にはヘーゲルにおいて欠落していた人間規定の最重要事項は、フォイエルバッハ・テーゼにおいても修復されていない。その最重要事項とは、自由の問題である。もちろんフォイエルバッハ・テーゼの眼目は、フォイエルバッハの人間論批判であり、その目指すところは社会における個人の権利問題にあり、人間論自体の開陳ではない。したがってここに自由の問題が記載されていないと文句を言うのは、筋違いの批判かもしれない。またマルクスが終生にわたり問題にしたのは、人間の自由を奪い取る社会の在り方であり、その体制の廃絶である。その点でマルクスが自由の問題について無関心であったはずもない。ところが実態としてマルクスにおける自由論は、ヘーゲルと同水準である。両者ともに自己の喪失に真の自由を見出し、そこに無私な良心を期待している。違いがあるのは、両者における無私な良心の生まれ方だけである。ヘーゲルは観念論の原則に従い、個人の実存主義的決意における自己否定を期待する。それに対してマルクスは、社会から強制された自己喪失が、階級意識として実存主義的決意を労働者にもたらすと考える。一方で両者において眼目となる共通点は、労働に自己否定的人倫の基礎を見出すことである。ただしこれは共通点と言うよりも、マルクスがヘーゲルから踏襲した事柄に過ぎず、マルクスがヘーゲルの真の後継者であることを示すキーワードである。そこで明らかになるのは、ヘーゲルにおける人間論の欠陥がマルクス/エンゲルスに受け継がれ、共産主義において労働至上主義のドグマとして定着したことである。この欠陥は、労働が人間を生むとみなす誤った理屈を共産主義にもたらしただけではなく、労働矯正収容所に象徴されるような共産主義国家における自由の具体的欠如として顕在化するに至っている。
 ちなみに共産主義におけるヘーゲル由来のドグマには、自己批判の強制と言う悪しき伝統がある。独我論や不可知論と同様に、自己批判は論理における暗黙の可能的前提であろう。しかしこれらの理屈はいずれも、口に出して語り始めた段階で腐臭を放つ理屈であり、他者に開陳して威張るものではないし、まして他者に強制すべき事柄ではない。
 
(2015.04.18)


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