唯物論者

唯物論の再構築

産業の国有化(2)

2015-06-07 13:12:18 | 失敗した共産主義

 共産圏における産業国有化の失敗は、官僚による公的資本の私物化、およびその私物化を排除するための政治システムとしての民主主義の欠落において決定づけられた。しかし官僚主義の発生が無いとして、もともと公的資本は単位資本あたりの利益捻出や生産効率の面で、私的資本よりも分の悪い条件を抱えている。簡単に言えばそれは、組織としての代謝不全と意思の欠如である。民主国家における公的資本は、社会規範に則って業務の全てを運用しなければならず、不要化した資本の転用や廃棄もままならない。またそれは当然ながら、労働法などの社会規範に従う形で労働者を人間として扱わざるを得ない。それに対して私的資本は、労働者を労働力商品として扱い、生産性の低い労働者を逐次放出し、場合によっては事業所どころか会社全体を意図的に清算する形で資本効率の維持と増進を図る。このような私的資本に比べると明らかに公的資本は、不要化した労働力商品や資本を排泄する機能に劣っている。また私的資本では、資本の所有者は、組織における無産者の支配権を有し、自らの責任において資本の運命を決める。特に資本規模の小さい会社の場合、正しい判断も間違った判断も社長の独断で即決できる。もちろんこのような小資本の長所は、逆に小資本の短所でもある。小資本の従業員は、社長の場当たりな思いつきに自らの人生を左右されることになる。一般に資本規模の小さな会社では、資本規模の大きな会社に比べれば、社内の状態把握や意思決定を迅速に行い易い。また大企業は、組織の肥大化に伴い管理権限が分散して複雑化しており、運用責任の三遊間を生む傾向がある。そして公的資本は、私的資本との比較で見ると、もっぱら実際の資本規模以上に大きい会社である。したがって公的資本における意思決定の速度も、やはりもっぱら遅い。そもそも公的資本の所有者は、国家ないし共同体であり、私的資本に見られるような人格的な資本の所有者ではない。組織における無産者および資本の命運を決定するのは、国家ないし共同体が取り決める法規である。したがって公的資本は、社内の状態把握や意思決定の権限が社外にあるので、実際の資本規模以上にさらに大きな会社として現れてしまう。このことは、運用責任の三遊間をさらに拡げて、公的資本の意思決定の速度をさらに遅延させ、公的資本の意思欠如と無責任を形成する。
 加えて私的資本は、商取引においては場合により法的規制を無視する形で厳格に価値法則を貫徹させ、飽くなき利益獲得を目指す価値の塊りでもある。一方の公的資本は、私的資本との比較で言えば、運用効率を二の次にして利用者サービスに専念し、商取引においても殿様商売を基本にして利益捻出に関心を持たない。当然ながら私的資本にとっての公的資本は、国富を吸い出すためのポンプのような存在として現れる。したがって公的資本は、公共事業に群がる土建業界に見られるように、私的資本の格好の餌でもある。行政サービスを自らの任務とする公的資本には、商品価格に価値法則を貫徹するための動機づけが基本的に欠落している。言い換えるなら、私的資本の行動を規定するのが交換価値であるのに対し、公的資本の行動を規定するのは使用価値となっている。公的資本は自らの本来の姿を、価値法則を廃棄した世界の中に求めていると言っても良いかもしれない。地域共産主義の不可能性は、資本主義内部においてもその法則を貫徹しているわけである。したがって共産圏における産業国有化は、仮に民主主義の回復において官僚主義を克服できたとしても、今度は資本主義式の商品価格の抑制や商品の新規開発と世代交代の実現において、公的資本が本来から抱え持つ困難と向き合わねばならない。ただし実際の共産圏における産業国有化では、官僚主義における利害関係が組織としての代謝不全と汚職をもたらし、恐怖政治が無産者全体に意思の欠如と無責任を生み出していた。それらはいずれも、公的資本が抱え持つ弱点が、民主主義の不在においてよりさらに増幅して現れたものである。
 このような公的資本に対して施政者は、私的資本式に生産性の低い労働者を逐次放出する形での運用効率の維持と増進、商取引における厳格な価値法則の貫徹、飽くなき利益追求を義務付けることも可能である。その場合に私的資本と公的資本の間の差異は消失し、施政者は公的資本が生み出す利益により国富を直接に拡大再生産させることになる。またその気があれば、私的資本より巨大な公的資本が、法支配を通じて私的資本より優位に立ち、自ら巨大独占資本として私的資本を逆に食い物にすることも可能である。かつての共産主義者が産業の国有化を是認した背景も、国営企業と言う究極の巨大資本が登場するなら、資本家と言う名の中間搾取者の除去を通じて、より合理的で健全な経済体制を世界に構築できると考えたことにあった。実際のところ労働者にとって自らの職場が公的資本なのか私的資本なのかは、その福利厚生面を除くなら、あまり差異を持つ事柄ではない。すなわち労働者は、いずれの職場にあっても自らの職務を全うするだけである。民間企業で働くなら一生懸命だが、公共機関で働くなら怠けるようなことを、基本的に労働者はしない。ただし現実には資本主義社会では、公的資本が民業を圧迫するのを許されない。また資本主義社会を擁護する施政者が、そのような公的資本の誕生を是認することもない。
 レーニンは、公的資本が抱える組織としての代謝不全と意思の欠如の弱点を承知しており、この弱点に対抗するために国家官僚に対して公的資本の独裁権を与えている。スターリンの恐怖政治との比較で言えば、レーニンは権能の分散に努めて、産業の自発的発展を促そうとしたように見える。しかし肝心の政治的民主化をなおざりにして、経済だけが自発的発展を遂げることはできない。結果的にレーニンの試みは、国家官僚の特権階級化を助長し、官僚主義のさらなる悪化へと帰結した。先に述べたように資本所有者は、組織における無産者の支配権を有し、自らの責任において資本の運命を決める。したがって正しい判断も間違った判断も資本所有者の独断で即決できる。この小資本の長所は、従業員の人生を社長の場当たりな思いつきに左右させる。同じように国家トップによる公的資本の私物化は、公的資本の支配者による間違った経済政策を即決させ、国民の人生を国家所有者の場当たりな思いつきに左右させる。中国の大躍進運動に代表される出鱈目な経済施策は、実際には共産圏において私物化された行政機関の各レベルで実施された。例えばソ連では、漁獲高増進を目指すダイナマイト漁や電撃漁により、そこここの湖沼の魚貝類が死滅する事態を招いた。そもそもレーニンが進めたこの中途半端な経済改革は、彼自身の暴力革命唯一論とも矛盾している。レーニンは公的資本の一般的弱点を懸念したわけだが、一方で共産圏における共産党幹部による公的資本の私物化の実態が露呈したのは、産業の国有化が持つさらなる危険性である。共産主義における産業の国有化の道は、前にも後ろにも困難が待ち受けている。したがって現代にあって、かつての共産主義者が持っていたような産業の国有化に対する絶対的な信頼と楽観は、既に崩壊しているのが事実である。筆者は現代社会の各先進国共産党、および個々の共産主義者たちが、この現実をどのように自覚し、どのように対処しようとしているのかを知らない。と言うよりも、一般に共産主義者がこの自覚に達していないように見える。第二次大戦後の共産主義運動が直面したのは、スターリン主義に代表された共産圏の非人間的な現実である。これに対して戦後新左翼運動は、世界革命の不在にその原因を見出そうとした、または見出した気になったらしい。しかし実態としてそれは、レーニン同様の革命第一主義でしかなかった。当然ながらそれは、共産党幹部による公的資本の私物化を、労働者独裁の美名のもとで是認せざるを得ない代物である。そして実際に戦後新左翼運動は、自ら批判した共産圏における人間否定と腐敗を、むしろ積極的に自らのうちに移植して癌化させ、最終的に自滅していった。一方の先進国における各国の公認共産党は、暴力革命論を背景に追いやり、議会主義に転身したまでは良いのだが、官僚による私物化を避け、公的資本の弱点を克服し、なおかつ市場の私的資本を吸収可能な産業の国有化をどのように実現するのかについて展望を示せていない。すなわち共産圏の失敗を受けた現代の先進国革命の道筋を描けていないように見える。もちろんそれは、各国共産党が共産圏の失敗を単なる民主主義の不在、または官僚主義による共産党の堕落に押しとどめて他人事のように理解し、自らの革命論から切り離していることに由来している。しかし簡単に言えばそれは、反省不十分な態度である。

 少し話題が変わるが、私的資本と公的資本の間の差異を醸成しているのは、資本運用者の資本収益に対する立ち位置にある。私的資本の運用者が自らの資本収益を重視して公益を重視しないのに対して、公的資本の運用者は公益を重視して自らの資本収益を重視しない。結果的に公的資本は、社会規範に則って労働者の権利を承認せざるを得ない。このおかげで公的資本の配下にいる労働者は、民間企業の労働者よりも比較的に安心して労働争議をできることになる。一方で独占的な行政サービスに特化した公的資本の場合、管理労働者や現場労働者を含めた資本全体が、収支悪化を通じて管理団体による清算を受けるのは、政治的に避けなければならない事態である。と言うよりも、そのような公的資本に対し、管理団体による清算を受けさせ、そこでの管理労働者や現場労働者を含めた資本全体を解散させることは実際には不可能である。それは、電気やガスなどのライフラインが、供給停止を許されないのと同じである。いかなる形にせよ、国家の政治経済の心臓部や循環器が停止するような事態は、政治家だけではなく、国民も許容できない。逆に言えばそのような行政サービスでは、労働争議以外に業務停止する事態は想定し得ないわけである。当然ながらこのことは政治家に対して、そのような行政サービス停止の完全排除を動機づけることとなる。もちろんその完全排除の対象は、労働争議による業務停止である。そしてその目指すところは、争議を指導する左翼的労働組合の排除にほかならない。このとき政治家の目には、公益を重視する公的資本の性質それ自体が、逆に公的資本を公益に対立させたものとして現れている。奴隷は奴隷らしくすべきだと言うことである。そこで施政者は、例えば収支を無視した行政サービスを公的資本の貨物部門で意図的に実施して累積赤字を生み出し、それをもって当の公的資本を清算に追い込み、政治的指導の元で分割民営化するなどの巧妙な手法を遂行することとなる。もちろん行政サービスを行う公的資本を分割民営化したとしても、それだけで行政サービスの利用客が増えることはない。そのことは、全ての公立学校を民営化して私立学校に変えたところで、利用者数(=学童数)が増えないのと同じである。施政者の目論見は、公的資本の労働組合に陣取る左翼支配の排除であり、公的資本の収支改善ではない。
 ちなみに日本における国鉄の分割民営化の主眼は、左翼つぶしではない。ここでの施政者の目論見は、次のような役割を国鉄に果たさせることにある。それは、公的資本における超黒字企業の電電公社を、民間に払い下げるための煙幕としての役割である。そしてこの目論見は完全に成功し、世間の注目は自民党政権と国鉄労組の対決だけに注目して、電電公社の民営化の存在は全く無視された。したがって国鉄時代の負債は、国鉄がJRに分割民営化されてもさほど解消されておらず、JR経営の大きな負担になっていることは、驚くに値しない話である。とは言え国鉄と違ってJRは、行政サービスとしての公的役割から解放されている。つまり赤字路線の廃止など、各種の行政サービスの停止をもって、JRは経営効率の改善を図ることができる。この点で国鉄時代の負債解消を含めて、JRにおける経営改善の将来は、必ずしも暗いものではない。そもそも地方の道路整備が進んだ現代では、国鉄の役割も既にかつてほど重要ではないと考えることもできる。その観点に立てば、分割民営化により憂き目を見たのは、行政サービスの停止で生活を切り捨てられた僻地の国鉄オンリーの利用者とその路線に興味を持っていた鉄道旅行マニアくらいとなる。ただし国鉄時代の負債解消と労組解体が完了したなら、その身軽になったJRを施政者が再び国有化する可能性は十分にある。もちろんそのような展開が今後あったとしても、かつて僻地を走っていた赤字路線を施政者が再び国鉄路線として復活させることは、おそらく無いであろう。
(2015/06/07)




(前の記事:産業の国有化(1))

唯物論者:記事一覧

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 産業の国有化(1) | トップ | マッドマックス怒りのデス・... »

コメントを投稿

失敗した共産主義」カテゴリの最新記事