唯物論者

唯物論の再構築

ヘーゲル大論理学 本質論 解題(第三篇 第一章 絶対者)

2020-11-08 16:34:13 | ヘーゲル大論理学本質論

 力の内面と外面は、絶対者の否定として現れる属性、およびそれを否定する様相において統一される。しかし様相におけるその統一は、個々の契機が持つ全体性を維持する反省の自己復帰でなければならない。この篇はスピノザおよびライプニッツの実体論批判を巻頭にして、本質と実存の排他的統一に留まる本質的相関の現実的な統一の在り方を論じる。ただしここで展開される論述は、前章で示された同一性の自己展開の復刻である。そこでの論理展開は、物体における物自体の特性と物体性が此の物に統一されるものとして示されていた。しかし此の物の即自存在は本質ではないので、その反省の対自存在は現象とならざるを得なかった。この理屈から言えば、此の物に代わる実存と本質の統一は、個物から種、そして類に達するまで同じ分裂と統一を繰り返さなければならない。それは一般化と抽象化の過程を経て個物を力にし、実存と本質はその力の内面と外面の対立の統一においていよいよ実現する。そこで次第に明らかになってくるのは、その統一が単なる意識の運動を超越するような現実世界の運動だと言うことである。一見するとヘーゲルにおいてそれを行うのは神である。そしてその単純な前提は、果たして誰がその統一を行うのかの問いを隠蔽している。ただしヘーゲルによるこの隠蔽は、意図的なものなのかは判らない。さしあたりヘーゲルは、世界精神としての現人神の出現でそれが実現すると考えていたようである。

[第二巻本質論 第三篇「現実性」の第一章「絶対者」の概要]

 力の内面と外面の統一を、絶対者の自己限定としての属性、およびそのさらなる限定としての様相において捉え直した一般的な本質と実存の統一に関する論述部位
・開示      …絶対者の外に立ち絶対者を観察せんとする外的反省ではなく、絶対者自身が自己限定する内的反省。
・有限者     …全体性を保持する個々の契機。自らの没落により絶対者の中に還帰し、根拠としての絶対者を開示する媒体。
・属性(様式)  …同一性の限定が表現する一般的な無であり、現象に対抗する本質として現象する相対的絶対者。
・様相      …属性の限定が外化した全体であり、内容限定に無関心な自己。絶対者の外面として表出した本来の自己同一性。
・啓示      …絶対者の即自かつ対自存在。すなわち絶対者の外化であり、なおかつ外化した絶対者である。反省する絶対者の表出した自己自身。
・スピノザ式実体 …反省の自己復帰が欠けた様相。思惟と延長が無関心に統一しただけの運動の無い実体。
・ライブニッツ単子…反省と個別化を原理に持つ分散した啓示形式としての純粋能動。ただし単子の制約者は他者であり、その形式と内容は統一されていない。


1)現実性の推移の素描

 現実性は本質と実存の統一である。形の無い本質と支えの無い現象は、現実性において真理を持つ。その最初の現実性は、外化した力の内面としての絶対的現実性である。しかし絶対的現実性に対する反省は、反省それ自身が現実性であるにも関わらず、絶対的現実性から離れた外的なものである。それは絶対者の否定的な自己復帰に留まる。そこで現実性は、最初の現実性から可能性、および必然性を形式的契機にして本来の現実性となる。またそれが絶対者の本来的反省である。この絶対的相関としての絶対者と反省の統一が、絶対者を実体として表わす。


2)絶対者の限定

 絶対者の純粋同一性は無限定である。したがってそれは中身の無い主語であり、その意味で現象論の始まりに現れた物自体と同じものである。一方で絶対者は全ての述語を擁立する根拠と見られる。そこで絶対者に対する表現に恣意が持ち込まれる。しかしその恣意は、絶対者の外に立ち絶対者を観察せんとする外的反省である。絶対者に対する表現は、絶対者自身に語らせなければならない。それは外的反省ではなく限定する内的反省としての開示Auslegungである。


3)開示の媒体としての有限者

 第二編の最後に現れた本質的相関は、力の外面と内面を排他的な相関で統一した。しかしそれが相関である限り、その統一も同一性に復帰していないし、その統一の根拠もまだ擁立されていない。とは言え絶対者がその統一であるなら、絶対者はその統一の絶対的形式として限定される。すなわち絶対者は全体である。ただしそれは、個々の契機が持つ全体性を保持するような全体である。したがってその同一性は、形式に無関心な内容の全てである。しかもその内容の多様は、相互否定的な形式関係にある。絶対者における個々の限定存在は、それ自身一つの全体でありながら、擁立された存在において消滅する単なる印象(仮象)として現れる。それゆえに絶対者において区別と形式の全ては消滅する。しかしその一方で絶対者はそれらの区別と形式の全てを含むので、それらの全てを擁立せざるを得ない。ただし絶対者は全体なので、絶対者自身の中に生成するものは無い。また絶対者の外面と内面は同一なので、絶対者は脱自して外化することもない。したがって反省は絶対者に対立し、絶対者において廃棄される。それゆえに反省における多様や区別の受容は、それらの没落でもある。それらの没落の全ては、絶対者の中に還帰し、根拠としての絶対者を開示する。ただし印象された絶対者が印象である限り、印象は印象に留まる。有限者は絶対者が表出するための媒体である。とは言えこれらのことは、絶対者にとって開示の端緒ではなく、開示の終端にすぎない。


4)相対的絶対者としての属性

 絶対者は、反省と限定の彼岸に立つ絶対的同一性である。しかしその同一性の限定が表現するのは、一般的な無である。その無はその一般性において、限定一般に潜む絶対者である。ただしそれは外的反省に現れる相対的絶対者にすぎない。この相対的絶対者は、属性である。それは形式規定にあるだけの絶対者であり、形式を内容と同等にする絶対的絶対者ではない。それゆえに属性は、超感覚的世界と同じものである。ただしそれは、現象世界の没落により擁立されただけの絶対者である。ここでは超感覚的世界に対峙する現象世界は、本質と異なる印象に留まる。ところが一方で、属性の内容は絶対者である。このことから属性も、やはり印象として擁立される。そもそも印象を内容とする限り、属性も自ら印象にならざるを得ない。しかしこのような開示は、属性と区別の働きを元の単純な絶対者へと沈没させるものである。それゆえに区別の働きが、再び属性を擁立することになる。ただしこのときに擁立される属性は、既に外的な印象、または単なる様式にすぎない。


5)絶対的絶対者としての様相、および現実性

 属性はまず単純な自己同一性であり、そして形式的自己反省としての無である。すなわちそれは、絶対者であると同時に限定としての無であり、その中間点である。しかし属性を絶対者の内面と捉える限り、属性の限定は絶対者の自己を形式および内容限定に無関心な全体として外化する。様相とは、この絶対者の自己を喪失した自己外存在であり、絶対者の外面として表出した本来の自己同一性である。ただしその同一性は、絶対者の反省の自己復帰としてのみ真である。そして絶対者はこの反省により自己を喪失することで絶対的に存在する。それゆえに属性と様相はあたかも絶対者の外に現れる。しかしそれらは最初にあった無関心な同一性としての絶対者の現れである。すなわち属性は反省の前の最初の絶対者であり、反省された絶対者が様相である。ここでの絶対者の自己同一性は、反省の運動として擁立されており、反省がその自己同等性を擁立する。それゆえに反省の運動としての絶対者は、絶対的な存在としてその内面と外面が一致している。したがって絶対者において形式と内容の区別は消失する。ここで開示される内容は、絶対者による自己啓示である。つまり開示自体が、ここで開示された内容である。したがって絶対者は、開示の運動の絶対的自己同一性の様式であり、すなわち表出である。その表出は、別の何かの内面の表出ではないし、別の他者に対する表出でもなく、自己自身に対する自己啓示である。したがってそれは絶対者の即自かつ対自存在である。それゆえに絶対者は現実性である。


6)スピノザにおける実体

 スピノザにおける実体では、反省が進行するのは実体の外である。また実体以外の自立する存在は、擁立された存在にすぎない。なるほどスピノザは限定を無として正しく捉える。しかしその無の自己否定について論究していない。したがってその無は単なる無であり、存在を含まない。しかし存在と無を互いに無関心に完全分離すると、両者は相克することが無い。当然ながらその両者は運動もしない。一方でスピノザは、この存在に外的な無と別に、存在の内に無を用意する。それが延長と思惟の絶対的統一である叡智的実体である。しかしその無は既に思惟である。すなわちその思惟は、脱自した延長ではないし、また延長へと復帰することも無い。つまりその思惟は、延長に対して無関心である。このような運動の無い思惟は、せいぜい物理特性にすぎない。それゆえにスピノザ哲学には、人格性が欠けている。またスピノザにおける実体の外で進行する反省は、認識を実体に対して外的な悟性に留める。しかしそれは、諸限定を所与として受容するのと同じである。それがもたらす認識論は、認識と存在の間に深淵を立てたまま放置する。それゆえにスピノザにおける自己原因としての実体の限定も、その主張の正しさに関わらず、独断に留まる。


7)スピノザにおける属性と様相

 スピノザにおける属性は、無限定な多である。ただし彼はこの無限定な多を、延長と思惟の二属性へと還元する。その対立する二属性の区別は、経験的に得られる視覚形状の有無である。そしてこの二属性を統一した様相が、絶対者である。ただしその絶対者を捉えるのは、絶対者の外的反省としての悟性である。したがってその属性の運動は、絶対者の外に現れる。しかしこの絶対者の外面に現れた運動は、外化した絶対者であり、本来の様相である。そしてこの本来の様相において二属性は統一される。ところがスピノザの場合、悟性はそのまま属性と区別の働きを統一するので、両者は元の絶対者へと沈没する。これによりそこでの思惟の運動は延長へと統一され、延長と思惟の対立は消失する。それは絶対者から運動を奪い去り、属性と様相をも消失させる。もちろんそれは思惟の消失でもある。それゆえにスピノザ哲学に対し、汎神論または機械的唯物論だとの評価が生まれる。もともと属性は外的反省から捉えられるのではなく、反省が自己復帰した様相から捉えられる。また属性がそのようなものでなければ、その属性の擁立は無根拠な恣意に従う。そしてその属性と様相の無関係は、両者の対立と運動を単なる偶然に変える。それが示すのは、全体が実は全体ではない不合理である。それと言うのも属性と様相は、両方が全体だからである。ところがこの無限定な多の汎神論は、間違っているわけではない。この不合理は、反省の脱自において説明される。すなわち反省において自己の全体は、属性の自己自身と様相の自己に分裂する。ここで全体の自己を擁立するのは、全体の自己自身の脱自である。そして両者が無関係ではないからこそ、両者の間に運動がある。この対立の同じ相関が、延長と思惟の間にある。しかしスピノザは、延長と思惟をそのような対立に捉えていない。スピノザは一覧表的悟性により絶対者と属性と様相を並べるだけである。しかしその様相は、属性の否定を否定する生成の契機を含まない。


8)流出説とライプニッツ単子

 東洋的観念における流出説では、絶対者は自己自身を照らす。しかしその照射は照らすだけで、自己自身に復帰しない。すなわちその脱自した自己は、先行する自己自身の不完全体である。そこでライプニッツは、これらのスピノザと流出説における反省の欠如を単子で補う。単子論は一者を多数の反省する単子に分散する。単子は純粋な能動であり、擁立された存在ではなく、受動性をもたない。しかしそれぞれの単子は他の単子と区別されているので、個々の単子が表わす啓示も異なる。それは個々の単子の制約であり、個々の単子の宿命である。そもそも単子間の多様な内容は、単子の外側に現れる。それらの多様な内容は、単子以外の何者かに調停されなければいけない。結局その調停は、そのまま個々の単子の制約になっている。単子は啓示を形式とする無限定な本質である。それは限定された内容と区別される。それゆえに反省と個別化を原理に持つ単子論は、有限性の根拠も示している。しかしその反省には形式と内容の絶対的統一が欠けている。このために単子論は、自己自身に反発する自己の創造性に論究しない。ライブニッツは、この多様な内容の調停者が神であり、それらの制約が神の中で消滅すると自覚している。しかし単子論においてその自覚を概念に展開していない。その個別化の原理の不徹底は、単子論全体を独断に変えている。

(2019/10/21) 続く⇒(ヘーゲル大論理学 第二巻本質論 第三篇 第二章) 前の記事⇒ヘーゲル大論理学 第二巻本質論 第二篇 第三章)

ヘーゲル大論理学 本質論 解題
  1.存在論と本質論の対応
    (1)質と本質
    (2)量と現象
    (3)度量と現実性
  2.ヘーゲル本質論とマルクス商品論
  3.使用価値と交換価値


ヘーゲル大論理学 本質論 要約  ・・・ 本質論の論理展開全体
  1編 本質 1章   ・・・ 印象(仮象)
        2章   ・・・ 反省された限定
        3章   ・・・ 根拠
  2編 現象 1章   ・・・ 実存
        2章   ・・・ 現象
        3章   ・・・ 本質的相関
  3編 現実 1章   ・・・ 絶対者

        2章   ・・・ 現実
        3章   ・・・ 絶対的相関


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