振り向けば大宮の夜が明ける。 少し変わった角度から眺めるの!

大宮在住。
伸び行く大宮市、
その時々の目に留まったことなどを楽しくユーモアも交えて
書きたいと思います。

明治の工学教育はお雇い外国人が活躍した。

2018-08-01 23:56:48 | ブログ

 

 こんにちわ、酷暑が続いていますがお元気ですか?

 

 

 今回は、遅れましたがまた文明開化の続きをお送りしたい思います。

 要点だけでとてもわかりやすい国立科学博物館の資料です。

 

 

 

 

 

 明治初期の殖産興業の中心人物は、

1871年(明治4年)11月から1873年(明治6年)5月まで岩倉具視使節団に加わり、

米欧の近代産業を実見した大久保利通であった。

 

 

 

 

 

内務卿として実権を握った大久保は「国の強弱は産業生産の量による。

政府は、人民が工業に従事し生産を増やすことを奨励しなければならない」

と産業振興の重要性を述べた。

 

 

 

 

 

 木から鉄へ、道具から機械へと移行した近代工業に向けた新たね取り組み。

江戸時代、鉄砲などの一部を除けば生産技術の中心は木材加工であったが幕末になると、

欧米諸国から鉄を材料とする蒸気船や大砲などが伝えられた。

明治維新後、官営工場を中心に多くの機械が輸入され、新たな製造知識や加工技術が

導入され、鉄を主体とする近代工業への取り組みが進められた。

 

 

 

 

 

 明治政府は日本における近代工業の確立ため、欧米からさまざまな分野の近代技術を

積極的に導入した。

 

 しかし、設備や工業製品や指導者の多くを海外に依存した状況で、急速な工業の

自立化や技術の国産化が進められたため、材料や工作機械のような工業の基礎分野は、

模倣だけではうまくはいかず、おおきく立ち遅れた。

 

 

 

 

  池貝鉄工作所製大1号旋盤

1889年(明治22年)池貝庄太郎、喜四郎氏により造られた。

 

現存する国産工作機械では最も古い物のひとつである。

当時は官営の機械工場で製作される以外は、ほとんど輸入に頼っていた。

民間の工作機械は珍しく当時の一般の工学技術は素晴らしかった。

 

 

 
 

 

 

 

 

 

 

 

日本の近代化は日本人の手でしよう、その基礎は一づくりだ。

明治政府は国づくりを担う人材育成のために、いわゆるお雇い外国人を欧米から招聘し

世界でも初めての本格的な工学系の大学を設立した。

そこでは理論ばかりではなく、実践も重視した教育が行われ、差だった学生の多くは、

大規模な土木工事や発電所建設を指導するなど国つくりに励んだ。

 

 

 

 

 

 

 まず第一に工学教育のシステムの整備をした。

近代工業の確立を目的とする工部省は、世界に通用する優秀な人材の育成を目指し、

工学寮工学校を設立した。

 

お雇い外国人教師

明治政府は近代化を目指し、多数の欧米人を教師、技師として雇い入れた。

日本の科学技術教育の礎を築いた。

これは1899年(明治32年)外国人雇い入れ規則の撤廃まで約30年間続いた。

 

 

 

 

 

 

 

設立者山尾要庸三(やまおようぞう)は、

1873年(明治6年)ダイヤーを初めとする9人のイギリス人教師を招き、工学教育を

スタートさせた。

工学寮工学校は1877年(明治10年)工部大学校となり、

1886年(明治19年)東京大学と合併、帝国大学工科大学(現東大工学部)となる。

 

 

 

 

 

 ★Charles Dickinson West(1847-1908)

チャールズDウエストは機械工学と造船学、日本の工学教育の基盤を固めた。

帝国大学工科大学でもなくなるまで教師を続けた。

 

 

★Josaiahconder(1852-1920)

ジョサイアコンドルは、日本の建築学の父と呼ばれ、教職を退いた後は日本の各地

に建築作品を残した。

 

 

★James Alfred Ewing(1855-1935)

ジェイムスAユーイングは東大理学部で機械工学と物理学を教えた。

水平振り子の地震計発案、日本地震学会創立。

日本で磁気の研究を初めで

帰国後大きな成果をあげた。

 

 

 

★William Edward Ayrton(1847-1908)

初代電信科教授

ウイリアムEエアトンは、日本の電気工学教育を始めた人。

1878年(明治11年)日本で初めて公開でアーク灯をともした。

 

 その他1000人ぐらいのお雇い外国人が来日した。(感謝)

 

 

 

 

 

 

専門学科は、土木、機械、建築、電信、化学、冶金、鉱山の7学科。

 

 

 

 

 

 

工部大学校の教育は、工学(技術の理論体系)を学問として教えた世界でも最先端の

学校だった。

6年制で、最後の2年間は日本各地の官営工場などでの現場実習に充てられた。

 

 

 

 

 

 授業はすべて英語で行われ、学生は寄宿舎で暮らし、生活も食事もすべて欧米式

だった。

 

 

 

 

 

 ◎高峰譲吉は高峰 譲吉は、富山県高岡市生まれ工部大学校卒。

名誉工学博士・薬学博士。

理化学研究所の設立者の一人。

日本の科学者、実業家。

タカジアスターゼ、アドレナリンを発明し、アメリカで巨万の財を成した。

三共創業者。

 

 

 ◎辰野金吾は、建築家、工部大学校卒業。

工学博士、帝国大学工科大学学長、建築学会会長。

設計の頑丈さから「辰野堅固」と呼ばれた。

 東京駅デザインで有名人。

 

 

 

◎田辺朔郎は、日本の土木技術者・工学者。工部大学校卒業。

日本の近代土木工学の礎を築いた人。

琵琶湖疏水や日本初の水力発電所の建設、関門海底トンネルの提言を行なった。

北海道官設鉄道敷設部長として北海道の幹線鉄道開発に着手、狩勝峠を名づけた。

 

以上ウキぺディアより

 

 

 

 

 

日本の産業教育振興と工業教育

明治新政府の殖産興業せいさくにより、文部省や工部省各地の近代官民工場などで、

さまざまな産業振興や工業技術教育が開始された。

明治30年代には、全国に実業高校、実業補習学校が設立された。

 

 

 

 

 

 

 

内燃機関の研究

1890年代にオットーが高効率のガスエンジンを開発。

1880年代にダイムラーがガソリンエンジンを開発。

1890年代にディーゼルが重油を用いることのできるディーゼルエンジンを開発。

 

まさに19世紀は末は内燃機関の夜明けだったが欧米に遅れることなく日本でも研究が

進められていた。

研究者の講義ノートが本として出版され、現場の技術者に体系的な知識を与えた。

 

 

 

 

 

明治時代のハイテク。

石炭から作ったガスで動くエンジンだよ。

 

 

 

 

 

 ここに、後で解説が来ます?

 

 

 

 

 

 すみません後姿になってしまって、この写真しかできませんでした。

 

 

 

 

 あまりの強い光に写真が写っているとは思いませんでした。

 上野不忍池の蓮の花ははただいま満開です。

 

  上野の森にある国立科学博物館の写真と資料をほんの一部ですがそっくり書きました。

ありがとうございます。

この殖産産業時期の後はつらいことになりますが、やはり良きにつけ悪しきにつけ、

海に囲まれた小さな島国であったということかしら。

 

地方にいて東京に来られない方も夏休みを利用して是非国立科学博物館へ来て下さい。

外国に比べますと狭くて小さな建物でびっくりします。

独立行政法人なのだそうです。

もっと大きな箱物は是非政府に作っていただきたいですね。

 

 

 

 

 午後1時、もう40度位に気温が上がっていたと思います、ほんの少しの写真を撮った

だけで逃げてきました。

目も頭も暑さでジンジンなのですが、セミのうるさい鳴き声が聞こえてこないのです。

こんなに花が咲いているのにハチや虫はほんの少し蝶ちょもいないのです。

 

 

 


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