三木奎吾の住宅探訪記

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。

【ゆっくりと秋冷に向かう散歩道・・・】

2021-09-25 05:30:49 | 日記


ことしも早いもので中秋の名月も過ぎて爛漫の秋までもうすぐ。
早い木々では色づきはじめた個体も見えてきています。
日々の散歩道ではようやく秋の気配があちこちに見られるようになって来ました。
ことしは行動抑制もあってじっくりと札幌の四季を体感中(笑)。
少年期以来、久しぶりにどっしりと腰を据えて体感し続けているので、
なつかしく思い起こせる札幌人独特の「地域心理」みたいなものもあります。

みなさんも同様でしょうが、まったく未曾有のStay Homeの日々が続いています。
こういう環境も2年近くなってきて、個人のブログとしては
過去に写真撮影取材済みの各所の建築・住宅写真を整理整頓して
深掘り型の探索をはじめてみて「これもまたいいかなぁ」と楽しんでいます。
しばらく韓国の建築探訪シリーズが続いております。
立ち止まって写真にピンナップされた昔人の思いとか考え方に触れることは
非常に面白いことだと教えられております。
ふつうの住宅取材ではいまを生きている人間同士での対話になりますが、
昔人の思いというのも、やはり建築の姿カタチから取材可能。
当然話すことはできないので、想像力を巡らせる必要がある。
そのときに一番のナビゲート要因は同じ人間である自分の感じ方。
自分が感じたことからスタートして、同じように感じるはずだと信じて
その時点に置かれた人間の普遍的な反応を想起する。
そうするといくつか、ゴツゴツとしたリアリティに出会うことがある。
あるいは特徴的な建築対応を発見できるときがある。
・・・どうも「住」の普遍性に基づいて取材する歴史事例なのでしょうか。
人間と建築の中間のような部分がいちばん興味を持っていること。
そんなふうな気付きから掘り起こし続けております。

住宅建築の方はウッドショックとかさまざまな変動要因もありますが、
逆にStay Homeで住の価値感に深く目覚めるみなさんも多いと思います。
住宅雑誌・WEBメディアとしては取材活動の難易度が増していて
回避策なども考えながら、スタッフも奮闘中であります。
そういう活動のバックアップとして動きやすく、また感染対策など
安全側での配慮、環境の構築に思いを致す日々であります。
こういうのもまたありがたい機会だと思えますね。
また過去取材の写真整理して深掘り型テーマを取り上げますのでぜひよろしく。


English version⬇

[Walking path slowly heading for autumn cold ...]
It's early, and the harvest moon has passed, and it's almost time for the fall.
In the early trees, some individuals are beginning to color.
The signs of autumn are finally beginning to be seen here and there on the daily walking paths.
This year, I'm slowly experiencing the four seasons of Sapporo, partly because of my behavioral restraint (laughs).
Since I was a boy, I've been sitting down and experiencing it for the first time in a while, so
There is also something like "community psychology" peculiar to Sapporo people that reminds me of nostalgia.

As with everyone, the days of Stay Home are completely unprecedented.
This kind of environment has been around for almost two years, and as a personal blog
Organize architectural and residential photographs of various places that have been photographed in the past
I'm enjoying the deep digging type exploration for the first time, "I wonder if this is also good."
The Korean architecture exploration series has been going on for a while.
Stopping and touching the thoughts and ideas of old people pinned up in photographs
It is taught that it is very interesting.
In ordinary housing coverage, it is a dialogue between people living in the present, but
The thoughts of old people can also be covered from the shape of the architecture.
Of course, I can't speak, so I need to think about my imagination.
At that time, the most navigating factor is how you feel as the same person.
Believe that you should start with what you feel and feel the same
Recall the universal reaction of human beings at that time.
Then you may come across some rugged reality.
Or sometimes you can discover a characteristic architectural response.
... Is it a historical example based on the universality of "living"?
The part that is somewhere between humans and architecture is the most interesting.
We continue to dig up from such an awareness.

For residential construction, there are various factors such as wood shock, but
On the contrary, I think that there are many users who are deeply awakened to the sense of value by Stay Home.
As a housing magazine / WEB media, the difficulty of coverage activities is increasing.
The staff is also struggling while thinking about workarounds.
It is easy to move as a backup for such activities, and infection control etc.
It is a day when I think about the consideration on the safety side and the construction of the environment.
I think this is also a great opportunity.
In addition, I will organize the photos of past interviews and take up deep-dive themes, so please do not hesitate to contact me.

【東アジア関係史の再認識を 法隆寺と仏国寺-11】

2021-09-24 05:42:17 | 日記

韓国仏国寺の取材写真に導かれ対比としての法隆寺取材写真とともに考えてきた。
年代としては、西暦600年代初頭と750-770年代。
どちらの寺院建築もほぼ「国家的宗教施設」として建設された。
そういう経緯なので自ずと半島国家と列島国家の違いが浮き彫りになる。
そしてその背景には大陸国家・隋唐との関係が当然ある。
この基本的な国際関係の中で日本と日本人は長い歴史時間を過ごしてきた。
朝鮮半島ではいわゆる半島国家の宿命でほぼ「分断」が常態的だった。
この時期もおおむね3カ国の分断国家状態だった。
高句麗・百済・新羅という半島北部・西部・東部と分かれていた。
百済は日本も参戦した白村江での敗戦によってやがて滅亡し、
新羅が統一新羅として主勢力になった、という歴史時期。
一方で日本は律令と仏教という2つの汎アジア世界的な国家社会システムを受容し、
独自の「独立国家」構築に向かって国内統一過程が進展した。
古代以来の半島社会との強い結びつきは、ほぼ消失していった。
このことは鉄の自国生産が本格化してむしろ製鉄大国化してきたことと
無縁ではないのではないかと想像しています。

日本文化でいえば、奈良期の活発な東アジア交流から
平安京遷都以降の「国風化」現象とも無関係ではなかったのでしょう。
やはり日本は不思議な独立のスタイルを持ち続けてきたといえる。
易姓革命を繰り返して前王朝の全面否定を旨とする国家社会とは異なって
古代以来の王権を国家統合の象徴として保守し続けてきた。
この点が大陸・半島とはまったく違う道を歩んできた根幹。
一度社会的に同意して受容した文化についてはしっかりと保守してきた。
東アジア圏で唯一まともに仏教思想を発展させてきたのは日本だけでしょう。
日本に仏教を伝えた中国、朝鮮では繰り返し仏教弾圧が行われたのに、
王権自体が国家社会に勧請した日本では、まじめにそれを維持してきた。
今日では中国に残る仏教寺院の復元にすら日本の建築技術が伝えられている。
文化大革命で木造技術自体が「打倒」されて技術が消滅したのだという。
日本社会というのは島国として簡単には文化を受容しないけれど
いったん受容するとそれを徹底的に自分のものとして独自発展させる。
どうも、こういった国民性が日本らしさの核心なのではないだろうか。
そして明治期の開国を経て圧倒的な欧米の汎世界的価値感を受容してきた。
いかにもアジア唯一の「海洋国家」なのだと強く思わされる。
明治の知識人・福沢諭吉の「脱亜入欧」は日本の本然の姿にしっくりする。

国家的仏教寺院のありようとその歴史経緯を知るにつけ、
このような東アジア世界観と日本社会の核心をみる思いがします。
そして国土は移動しようもないので、今後ともこういう地政的現実の中で
日本と日本人は生き延びていかなければならないのでしょう。


English version⬇

[Recognizing the history of East Asian relations at Horyuji Temple and Bulguksa Temple-11]
Guided by the photographs of Bulguksa Temple in South Korea, I have been thinking about it together with the photographs of Horyuji Temple as a contrast.
The ages are the early 600s and the 750-770s.
Both temple buildings were built almost as "national religious facilities".
Because of that, the difference between the peninsula nation and the archipelago nation naturally becomes clear.
And in the background, of course, there is a relationship with the continental state, Sui Tang.
Japan and the Japanese have spent a long time in this basic international relationship.
In the Korean Peninsula, the fate of the so-called peninsula nation was almost "division".
At this time, the three countries were in a divided state.
It was divided into the northern, western, and eastern parts of the peninsula called Goguryeo, Baekje, and Silla.
Baekje was eventually destroyed by the defeat at Baekgang, where Japan also participated.
The historical period when Silla became the main force as unified Silla.
On the other hand, Japan accepted two pan-Asia global national social systems, Ritsuryo and Buddhism.
The domestic unification process has progressed toward the construction of a unique "independent nation."
Strong ties to peninsular society since ancient times have almost disappeared.
This means that the domestic production of iron has become full-scale and has become a major iron-making country.
I imagine it's not unrelated.

Speaking of Japanese culture, from the active East Asian exchanges during the Nara period
Perhaps it was not unrelated to the "national weathering" phenomenon after the transfer of capital to Heiankyo.
After all, it can be said that Japan has continued to have a mysterious style of independence.
Unlike the national society, which repeats the easy surname revolution and aims to completely deny the former dynasty.
It has maintained the royal power since ancient times as a symbol of national unity.
This is the basis of a completely different path from the continent and peninsula.
We have firmly maintained the culture that we once socially agreed to and accepted.
Japan is probably the only country in East Asia that has developed Buddhist ideas decently.
Even though Buddhism was repeatedly suppressed in China and Korea, which introduced Buddhism to Japan,
In Japan, where the royal power itself solicited from the national community, it has been maintained seriously.
Today, even the restoration of Buddhist temples that remain in China has been handed down to Japanese architectural techniques.
It is said that the wooden technology itself was "overthrown" by the Cultural Revolution and the technology disappeared.
Japanese society does not easily accept culture as an island country
Once accepted, it is thoroughly developed as one's own.
Apparently, this kind of national character is the core of Japanese character.
After the opening of the country in the Meiji era, it has accepted the overwhelming sense of global value in Europe and the United States.
It seems strongly that it is the only "maritime nation" in Asia.
The Meiji intellectual, Yukichi Fukuzawa's "De-Asia" fits in with the true nature of Japan.

To know the history of the national Buddhist temple
I think I see this view of the East Asian world and the core of Japanese society.
And since the land cannot move, we will continue to face this geopolitical reality.
Japan and the Japanese will have to survive.

【軒天デザインの好対照 法隆寺と仏国寺-10】

2021-09-23 05:41:10 | 日記



古代の寺院、宗教建築の彩色感覚を調べるのに参照したのは
国立歴史民俗博物館研究報告・第62集(1994年)
「日本建築における色彩」濵島正士氏の論文資料です。
神社建築や住宅建築では素木で無塗装というのが日本建築の基本だったけれど
輸入された精神性建築であった仏教寺院建築では特異的に
カラーリング塗装が施され、それが「キラキラしたるもの」として
この列島社会に浸透していったとされていました。
「寺院建築では赤と白を基調とした色を塗るのが普通であった。・・・
塗り方は、主要部材は赤、壁などの板類は白としている」(要旨抜粋)
今日の古建築一般は経年での褪色が普通であり一見素木にみえるけれど、
それは数十年ごとの塗り替えがいつしかキャンセルされてきた結果なのだという。

写真の上と中は法隆寺五重塔の1重目の軒天の様子であります。
濵島先生のご指摘通り、シンプルな「板」材である軒天には白く塗装されている。
経年での塗装のムラが散見されたけれど、各重の軒天でも白く塗装。
一方3枚目の写真は韓国仏国寺の軒天部分の代表例。
これでもかと豪華絢爛とした色彩の曼荼羅世界が表現されている。
ある種、深遠なる混沌を表現しているように陶然とさせられる。
この建築表現の志向性の違いは何だろうと思わされます。

もちろん時代差は150-160年ほどの違いがある。
しかし建築としては同様の仏教寺院建築であり、さらに言えば、
この法隆寺建築に先立った四天王寺建築では大工集団として
朝鮮から仏教寺院建築技術者が来日しその後帰化して「金剛組」として
日本に根付いた職人集団が存在していた。
その末裔の職人さんたちがなんらかのカタチで関わっていた蓋然性は高い。
建築施工の現場での「流儀」においては同質性が高いだろうと想定できる。
建築目的も作り手も同質性がきわめて高いのに、
ここまで対照的な建築表現になっていることに驚く。
この相違の理由で考えられることのひとつとして、
法隆寺五重塔では屋根の荷重がより軽量なので構造材が少なくて
板材だけの平面化した軒天になっていることから、これを壁の扱いとして
白の単色での塗装が選択されたのではという想像が浮かぶ。
現場施工の考え方を思えば、可能性が高いと思えます。
一方の仏国寺では屋根は重厚な瓦が乗るので垂木の構造材が重厚でしかも
朝鮮では垂木も丸材が一般的なのでより装飾性方向で塗装が選択されたかと。
・・・で、こういった違いの原因の他に
どうもわたし的には建物周辺の玉砂利からの「反射光」効果をこの白い軒天は
より「視覚効果」として高めるために、意図的に白く面一杯に塗装したのではと
想像力を刺激されております。
五重塔として高さを強調する建築目的なのでそういう視覚効果を考えるのは
自然のようにどうも思えるのですね。
各重の軒天が面として強く反射光を照り返すことで屋根の形状をよりくっきりと
明瞭に「浮かび上がらせて」天に向かって飛翔する感覚を刺激したのではないか。
宗教建築の「仕掛け」としては意図的なのではないかと思う次第です。


English version⬇

[Good contrast of eaves painting design Horyuji Temple and Bulguksa Temple-10]
I referred to the color sense of ancient temples and religious architecture.
National Museum of Japanese History, Vol. 62 (1994)
"Colors in Japanese Architecture" This is a paper material by Masaji Hamashima.
In shrine architecture and residential architecture, it was the basis of Japanese architecture to be unpainted with bare wood.
Uniquely in Buddhist temple architecture, which was imported spiritual architecture
Coloring paint is applied, and it is as "glittering thing"
It was said that it permeated this archipelago society.
"In temple architecture, it was common to paint colors based on red and white ...
The main parts are red, and the boards such as walls are white. "(Excerpt from the abstract)
Today's old buildings generally fade over time and look like bare wood at first glance,
It is said that it is the result of the repainting every few decades being canceled.

The top and inside of the photo are the first eaves of the Horyuji Five-storied Pagoda.
As Professor Hamashima pointed out, the eaves, which are simple "board" materials, are painted white.
Although there were some uneven paintings over the years, the eaves of each layer were painted white.
On the other hand, the third photo is a representative example of the eaves of Bulguksa Temple in Korea.
Even with this, the mandala world of gorgeous and gorgeous colors is expressed.
It's kind of stunning as it expresses a profound chaos.
I wonder what is the difference in the orientation of this architectural expression.

Of course, the time difference is about 150-160 years.
However, the architecture is similar to that of Buddhist temples, and for that matter,
As a group of carpenters in the Shitennoji architecture that preceded this Horyuji architecture
A Buddhist temple construction engineer came to Japan from Korea and then naturalized as "Kongou Gumi"
There was a group of craftsmen rooted in Japan.
It is highly probable that the descendant craftsmen were involved in some form.
It can be assumed that the "style" at the construction site will be highly homogeneous.
Even though the building purpose and the creator are extremely homogeneous,
I am surprised that the architectural expression is so contrasting.
One of the possible reasons for this difference is
At Horyuji Five-storied Pagoda, the load on the roof is lighter, so there are fewer structural materials.
Since it is a flattened eaves with only board materials, this is treated as a wall.
I can imagine that painting with a single color of white was selected.
Considering the idea of ​​on-site construction, it seems likely.
On the other hand, at Bulguksa Temple, the roof is covered with heavy roof tiles, so the structural materials of the rafters are heavy.
In Korea, rafters are also generally round, so I wondered if painting was selected in a more decorative way.
... and besides the causes of these differences
Apparently, this white eaves has a "reflected light" effect from the ball gravel around the building.
I think it was intentionally painted white to enhance the "visual effect".
I am stimulated by my imagination.
Since it is an architectural purpose that emphasizes the height as a five-storied pagoda, it is not possible to think of such a visual effect.
It sounds like nature, doesn't it?
The shape of the roof becomes clearer because the eaves of each layer strongly reflect the reflected light as a surface.
It may have stimulated the sensation of flying toward the heavens, clearly "emerging".
I think it is intentional as a "device" of religious architecture.

【古代人の色彩感覚 法隆寺と仏国寺-9】

2021-09-22 05:43:02 | 日記




きのうつい「あをによし」という奈良の都の枕詞に触れましたが、
知人の読者の方から面白い反応もありました。
古代の建築、600年代初頭の法隆寺と750-770年代の韓国仏国寺の比較。
古代といっても150-160年の時代差があり法隆寺は創建時が維持されているのと
韓国仏国寺では数度にわたって再建されている違いはある。
あるけれど、再建時の再生努力を信じて創建時が再現されていると考えると
ある程度、この時代の「色彩感覚」がみえるのではと思えます。
わたしは建築を通して人間の歴史からホントを探ってみたい人間。
古代の人々が世界をどのように認識していたのか、
そういう部分の実相を考えるとき、色への感受性とは基本に近いと思います。

写真は上2点が韓国仏国寺でのもの。上は回廊部分で下はせり上げ部の組物。
まことにカラフルな色彩感覚に圧倒される思いがしてきます。
いろいろな色彩があるように見えるけれど基調色は
緑と赤だと認識できるでしょう。
で、仕上げられた年代を思えば日本では「奈良時代」に相当し、
それこそ「あをによし」と枕詞が万葉集に見られる色彩感覚を想起させられた。
奈良の大仏開眼会に朝鮮・新羅の王子たちの代表団が来日したとされるので、
かれらは当然奈良の都に滞在していたことだろう。
そういうときに「あをによし」という色彩の世界を体感したことも疑いがない。
帰国後、新羅の国の威信建築としての仏国寺建設が仕上がってきて
そこへの彩色の段階になって、採用された色彩感覚に
どうも日本を含めた国際的共通性があったように思えるのですね。
仏教は東アジア全域で「国際宗教」として尊崇を集めていたことだろうし、
建築の国家仏教寺院でのカラーマネジメントも存在したものと考えられます。
「あをによし」の色彩感覚はやはり東アジア共有の感覚だったのではないか。
あをは後代に明確化する三原色の青ではなく、やはり緑だったのでしょう。

いわゆる青は藍という植物性の顔料から発生してきたものであり、
「青は藍より出でて藍よりもなお青し」というコトバが伝えられている。
藍から藍染めに仕上げていく工程をテレビ記録番組でみたけれど、
大変な工程を経てようやく出来上がる色彩なので
たとえば奈良の都などのような建築工事に大量に使う塗料材料としては
当然、鉱物資源顔料が主体を占めていたのでしょう。
その色彩としては赤や緑が基本的な構成になったことは自然だと思える。
一方で法隆寺の色合いでは丹色・赤は認識可能だけれど
緑はそう多数派だとは思えない、というかほとんど見かけない。
「あを」は鉱物顔料として奈良の都周辺では採取されたが、法隆寺段階では
まだ鉱脈が発見できず、丹色顔料だけが使われたものかも知れない。
建築の意匠に於いてかなり決定的な要素である色合いについて
人間社会には技術の発展経緯が積み重なっているのだと証言してくれている。


English version⬇

[Ancient color sense Horyuji and Bulguksa-9]
Yesterday, I touched on the Makurakotoba of the capital of Nara called "Ayoyoshi".
There was also an interesting reaction from an acquaintance reader.
Comparison of ancient architecture, Horyuji Temple in the early 600s and Korean Bulguksa Temple in the 750-770s.
Even though it is ancient, there is a time difference of 150-160 years, and Horyuji Temple is almost maintained at the time of its construction.
There is a difference that the Korean Bulguksa Temple has been rebuilt several times.
However, if you believe in the rehabilitation efforts at the time of reconstruction and think that the time of construction is almost reproduced.
To some extent, I think you can see the "color sense" of this era.
I am a person who really wants to explore human history through architecture.
How ancient people perceived the world
When considering the reality of such a part, I think that sensitivity to color is close to the basics.

The top two photos are from Bulguksa Temple in Korea. The upper part is the corridor part, and the lower part is the braided part.
I feel overwhelmed by the colorful sense of color.
It looks like there are various colors, but the basic color is
You can recognize it as green and red.
So, considering the finished age, it corresponds to the "Nara period" in Japan,
That is what reminded me of the sense of color that can be seen in the Manyoshu.
It is said that a delegation of the princes of Korea and Silla came to Japan at the Great Buddha Opening Party in Nara.
Of course, they would have stayed in the capital of Nara.
There is no doubt that I experienced the world of colors called "Ayoyoshi" at that time.
After returning to Japan, the construction of Bulguksa Temple as a prestigious building in Silla was completed.
At the stage of coloring there, the color sense adopted
It seems that there was international commonality including Japan.
Buddhism would have been revered as an "international religion" throughout East Asia,
It is probable that color management at the national Buddhist temple, which is the symbolic architecture, also existed.
I think the color sense of "Ayoyoshi" was a shared sense of East Asia.
It must have been green, not the three primary colors of blue, which will be clarified in later generations.

So-called blue originated from a vegetable pigment called indigo.
It is said that "blue is out of indigo and is still bluer than indigo".
I saw the process of finishing from indigo to indigo dyeing on a TV recording program,
Because it is a color that is finally completed after a difficult process
For example, as a paint material used in large quantities for construction work such as the capital of Nara
Naturally, mineral resource pigments would have dominated.
It seems natural that red and green are the basic colors.
On the other hand, in the shade of Horyuji, you can recognize tan and red.
I don't think green is so majority, or I rarely see it.
"Ao" was collected as a mineral pigment around the capital of Nara, but at the Horyuji stage
The veins have not been found yet, and it may be that only the vermilion pigment was used.
About color, which is a very decisive factor in architectural design
He testifies that the history of technological development is piled up in human society.

【半島国家と日本の宗教文化の違い 法隆寺と仏国寺-8】

2021-09-21 05:45:38 | 日記



写真は韓国仏国寺の奥の院のような紫霞門に掛かる石橋・青雲橋と白雲橋。
聖なる橋の色として青雲として「青」がここで特定されているけれど、
この青とは建築の組物の着色ぶりから「緑」が想定されているように思える。
日本人も緑と青は区別がついていないように思われる。
「あおによし」と言われた奈良の都の「青」とは地域産の岩緑青で現代感覚では
緑の方がそれに相当するのだとされる。
枕詞として使われた「あお」は同時に奈良の都の植生・森の色ともいわれる。
「に」とは丹であり鮮烈な赤のことを示している。そのコントラストがあおによし。
このあたり朝鮮半島での古代の人々の色感覚はどうであったか、
先述のように組物の彩色をみると圧倒的に緑色が主流なので、やはり緑と青は
東アジア的に同様の色彩感覚であったのかと思える。興味深い。

階段の上の平面空間は宗教上の「仏国土」を表現するとされる。
娑婆世界との結界に橋が架けられているという建築表現。
本殿と言える「大雄殿」に至るこの橋を正面からみたアングル。
階段数は三十三段。33は悟りの数字とされ、努力すれば誰もが仏国土に至れる表現。
京都の名所・三十三間堂というのにはそういった意味も込められていると。
下の写真2点はサイドからのアングルで3枚目の写真は荒廃期1914年当時の様子。
1904年から1905年にかけて紫霞門左右の行廊も倒壊、1910年の日韓併合を経て
1924年4月から1925年8月迄、朝鮮総督府によって再建補修されている。
仏国寺は新羅が統一新羅になる時期751年着手〜774年に完成。
古代国家新羅は半島東南部・釜山、慶州などを本拠とする国家。
〜745年頃から750年代後半にかけて新羅で飢饉や疫病が発生し社会が疲弊した。
当時九州北部をはじめ、日本へ亡命し帰化した新羅の民が多数いた。
しかしその移民の数が多いため759年9月、天皇は大宰府に新羅からの帰化人に対し
帰国したい者があれば食料等を与えたうえで帰国させよとする勅を出した。
〜Wikipedia「新羅」の項での記述より要旨。〜
日本史ではこういった古代史上の「国際関係論」というのはほぼ教えられない。
しかし白村江という古代東アジアの「世界大戦」を沸騰点とする
国家の興隆とその外交史には日本も相当に相互関係的に関わっているし、
人的交流、関係史もまた複雑にダイナミックに展開していると思う。
ともあれ新羅国にとって仏国寺創建は国家事業(建設者は宰相)と思える。
着手から完成まで23年掛かっているのは内政危機が影響したのは間違いない。

列島国家日本では天皇家という王朝が男系継承で続いてきたけれど、
隣国では半島国家として周辺国際情勢に翻弄されざるを得ないことから、
各地に蟠踞する王朝はいくたびも易姓革命され、半島統一自体なかなか実現しない。
宗教に対する態度も、王朝自体が自ら勧請し尊崇し続けてきた日本と違って
歴世、なんども王朝が仏教を弾圧したりする。
このあたりの宗教への態度も非常に違いがあると思える。
同じように現代国家を形成しているけれど宗教・歴史文化でかなりの相異がある。


English version⬇

[Differences between peninsular nations and Japanese religious culture Horyuji and Bulguksa-8]
The photo shows Ishibashi, Seiunbashi and Hakuunbashi over the Purple Kasumi Gate, which looks like the inner temple of Bulguksa Temple in Korea.
"Blue" is specified here as the blue cloud as the color of the sacred bridge,
It seems that this blue is supposed to be "green" because of the coloring of the architectural structure.
It seems that Japanese people cannot distinguish between green and blue.
The "blue" of the capital of Nara, which was said to be "Aoyoshi," is a local rock patina, and in a modern sense.
It is said that green is equivalent to that.
"Ao" used as a makurakotoba is also called the color of the vegetation and forest in the capital of Nara.
"Ni" means tan and bright red. The contrast is good.
How was the color sense of ancient people on the Korean Peninsula around here?
As mentioned above, when looking at the coloring of the braid, green is overwhelmingly the mainstream, so after all green and blue are
It seems that it was a similar sense of color in East Asia. Interesting.

The flat space above the stairs is said to represent the religious "French land".
An architectural expression that a bridge is built on the barrier with the world of Sahā.
An angle from the front of this bridge leading to the main shrine, Daioden.
The number of stairs is 33. 33 is a number of enlightenment, and if you make an effort, anyone can reach the land of France.
It is said that Sanjusangendo, a famous place in Kyoto, has such a meaning.
The two photos below are from the side, and the third photo is from the devastation period of 1914.
From 1904 to 1905, the corridors on the left and right of the Shikamon Gate also collapsed, and after the annexation of Japan and Korea in 1910.
It was rebuilt and repaired by the Government-General of Korea from April 1924 to August 1925.
Bulguksa Temple started in 751 to 774 when Silla became a unified Silla.
The ancient nation Silla is a nation based in the southeastern part of the peninsula, Busan, Gyeongju, etc.
From around 745 to the latter half of the 750s, famine and epidemics occurred in Silla, and society was exhausted.
At that time, there were many Silla people who had exiled to Japan and were naturalized, including northern Kyushu.
However, due to the large number of immigrants, in September 759, the emperor sent to Dazaifu against naturalized people from Silla.
If there was a person who wanted to return to Japan, he issued a royal command to return to Japan after giving food.
~ Summary from the description in the section of Wikipedia "Silla". ~
In Japanese history, such "international relations theory" in ancient history can hardly be taught.
However, the boiling point is the "World War" of ancient East Asia called Baekgang.
Japan is also quite interrelated in the rise of the nation and its diplomatic history,
I think that human interaction and relationship history are also complicated and dynamic.
Anyway, for Silla, the construction of Bulguksa Temple seems to be a national project (the builder is the Chancellor).
There is no doubt that the domestic crisis had an effect on the fact that it took 23 years from the start to the completion.

In the archipelago nation Japan, the dynasty called the Emperor has continued with male inheritance,
In neighboring countries, as a peninsula nation, we have no choice but to be at the mercy of the surrounding international situation.
The dynasties that crawl around the country have been revolutionized many times, and the reunification of the peninsula itself is difficult to realize.
The attitude toward religion is also different from Japan, which the dynasty itself has solicited and revered.
In the past, dynasties have cracked down on Buddhism.
It seems that the attitude toward religion around here is also very different.
Although they form a modern nation in the same way, there are considerable differences in religion and historical culture.