三木奎吾の住宅探訪記

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。

【移動の革命と「住む」魅力の変容】

2020-09-30 06:45:57 | 日記

きのうは、日本の道路と移動距離について考えてみました。
人間歩行という移動の基本手段がモータリゼーションという大革命に置き換わった。
わたしの生きてきた時間の中で大きく進展してしまったのだと思います。
考えてみたらわたしは小学校時代から兄の運転するクルマで移動していた。
つねにモータリゼーションが身近な存在であり、歩くという営為よりも
クルマでの移動というものが肌感覚的だった最初の方の世代。
革命のただ中にいるとその大変化を自覚的に考えることに気付かない。
歩行を基本とした社会というのは、たぶん明治くらいから変化し始め
戦後になってクルマ社会が一気に大衆化するなかで、
たぶん人間の意識の中から相当変容してきたのだろうと思います。
それをよく見つめていくと、今度はさらに「住む」ということの変容にも気付かされる。

住むということは生きること、生産手段と不可分な関係であり、
それの随伴的なことで自ずと決定されていくもの。
旧石器時代が終わって定住の始まった狩猟採集、縄文的暮らしようでは
家というのは、海での海生動物の採取に適した地域に住み処は定まった。
「人類の定住革命」で家という概念が始まったと言えるのでしょう。
そこから自然を改造して農地を管理する暮らしが始まってのムラ社会的共生。
生産手段たる田畑の管理の必然性からの生産管理のために家があった。
そういったムラ社会共同体が人々の「大きなマユ」である社会が長く続いた。
家というコトバには、そのような共同性への従属というような要素も存在した。
狩猟採集では縦型の血縁意識は希薄だろうけれど、
農耕社会によって土地が絡む「所有概念」が強まったことと「家系」意識が高まった。
そのような在地性の強い社会から、資本主義的な生産活動が主流になると、
農家の次男3男たち、自分では家を持てない層が都会に出て
「一戸建ての家」を持ちうるという社会が実現した。
大都会で就職し、郊外ベッドタウンの新興住宅地にハウスメーカーの家が建った。
そして現代では人々は資本主義的な生産活動主体・企業を一種のムラとして
共生しているけれど、それ以前の社会と比較して「在地性」は薄らいでいる。
企業は企業戦士に対して転勤を命令し、住む土地への回帰性よりも
会社ムラ社会への帰属性の方を優位と見なしてきた。

しかしこういった社会変容の中で、住宅の「価値感」も揺らいできた。
「とにかく戸建ての家を持つ」という大都会会社勤務者のモチベーション自体
やや停滞感があるのではないかと思われる。
高度成長期そうして取得した「新興住宅地」の過疎化が話題でもある。
そもそも終身雇用で自動的に給与水準が上がるシステムは先行き不透明。
しかし一方で「住宅金融公庫システム」とでも呼べる住宅取得システムは
「財産形成」の仕組みとして社会に根付いている部分がある。
せっかくあるこの仕組みを有効に使いたいという部分も存在する。
そうしたときに、移動の革命が非常な勢いで起こっていて
定点居住ということの意味合いも変化する可能性がある。
ひょっとすると移動の自由の高まりで「居住」の複数化というすら想像可能。
一方で「居住性・いごこち」という価値感にも社会は目覚めつつある。
移動の革命で数日で世界旅行も可能だけれど、
そういう時代に「住む」魅力ははたしてどう変容していくのか。
いまがこうした状況がどこに向かうかの分水嶺でもあるかも知れない。

【古代から明治まで歩行移動距離「1日40km」】

2020-09-29 05:43:33 | 日記

北海道は国土でもっとも遅く明治に道路開削された。
モータリゼーション直前期。基本的に移動手段が人間歩行だった最終期。
日本の道路交通で具体的にその移動距離基準を表す事例を探してみた。

●奈良の都が造営されたとき、諸国に国家事業として道路が作られた。
国ごとに「国分寺」も造営されたほど物資やひとの流通は常態化した。
奈良の都から東北の仙台のさらに奥の多賀城まで道が整備された。
約1,000km。
時速4kmで仮に10時間歩き続けるとしても40km。25日かかる計算。
この距離の移動が頻繁に行われたというのは信じがたい。
往復2ヶ月掛かっていては、気軽に「往復」できるものではない。奥の細道。
この多賀城に国家支配構造が常駐していたのだからカネがかかる。
ながく王朝文学で「松島」や「宮城野」が読み継がれたのには、
この「常ならざる」移動距離の長さ、日数が都人の社会に「遠国感」をもたらし
「異国情緒」にも似た特異な地域文化性を醸成したのか?
●時代は下って戦国期の「中国大返し」の事例が驚異として語られる。
<6月7日から8日、沼城(岡山市)から姫路城に移動。約70km。>
これが驚異的な速度として歴史に伝えられてきている。
前述のように時速4kmは概算でよく使われる距離時間尺度。
70kmというのは、17.5時間歩き続けるということになる。
まぁ、秀吉軍の中国大返しは乾坤一擲の戦争作戦計画であり、
非日常的な作戦遂行目的があった、特異な事例とも思われる。
●江戸時代の移動交通と言えば「参勤交代」が有名。
調べると、福井藩の例では東海道が使われた場合は1日平均約9.4里、
中山道使用の場合は約9.8里、1日あたり40キロ程度の移動。
朝の出発は午前5時から6時、途中昼食や小休止をはさみながら
「約10時間」を踏破し、夕方5時頃に宿泊先本陣・脇本陣<ホテル>に入った。
休日などなく、それぞれ割り当ての荷を負ってなのでかなりハードな行軍。
ということで、遠隔地・松前藩などは特例で5年に1度と配慮されていた。

●さらに京都食文化の「鯖寿司」原材料、サバを日本海岸・小浜から京都まで
運搬する道路、「鯖街道」という情報にも行き当たった。
産地・小浜で塩をふった鯖を背負って1昼夜歩いて京都にたどりつくコース。
この歩行移動の間、適度な「体動」に揺られて塩味が鯖にほどよくこなれ、
甘酢味付けして独特の鯖寿司文化が育ったのだという。魅力的情報(笑)。
この距離が公称で76kmなのだという。峠越えが数カ所ある難行。
鯖寿司は京都食文化を代表する食べ物なので需要は大きく、
この人力輸送はほぼ職業化された移動交通だったに違いない。
そのフィーと往復頻度はどれくらいで、さらに「帰り」にはどういう物資が
京都から日本海側地域にもたらされたかも興味深い。一度ぜひ取材したい(笑)。
しかし移動距離としては、たぶん限界に近く職業的運搬業の世界なのだろう。

モータリゼーション前、古代から明治くらいまで、日本人の移動概念は
やはり1日40km程度が移動距離限界だった。
これが常識範囲だったのではないか。ひとつの歴史のモノサシでしょうね。

【富士山環状? 本州中部広域の9/27地震】

2020-09-28 05:44:55 | 日記

なんとも不気味な9月27日昼過ぎの地震の情報ですね。
ここまで広域の内陸地域での地震というのは、あんまり記憶がない。
今回地震は広域ぶりを見ると富士山火山活動と関係しているのではと不安。
日本史にかなり大きな影響をもたらせた富士山の噴火。
気になって、WEB検索でいろいろ地震と噴火自然災害を調べて見た。
直近では東日本大震災時、平安期の貞観地震・大津波が記憶再生された。
その当時、先行して富士山の噴火記録が歴史に記されている。
富士山・貞観の大噴火が864年-866年で貞観地震が869年7月9日。
このときには富士山噴火が先にあって3年後東北沖で大地震が発生した。
大津波は、現在仙台駅のごく近くの「国分寺」まで襲ったとされる。
現在は東日本大震災から10年程度というスパン。連動性への素朴な不安。
以下、調べた古記録では富士山噴火は781年以後17回の記録とのこと。
噴火は平安時代に多く、800年から1083年までの間に12回の噴火記録。
歴史時代の「富士山三大噴火」は、延暦の噴火(800-802年)
前述の貞観の噴火(864-866年)と江戸期の宝永の噴火(1707年)。
『日本紀略』に記録の「延暦の噴火」は、山頂から激しい爆発と溶岩の流出。
いちばん近い大噴火は1707年12月16日(宝永4年)宝永大噴火。
大量のスコリア(火山噴出物の一種で、塊状で多孔質・暗色の岩滓)や
火山灰を噴出。この噴火は日本最大級の地震・宝永地震の49日後に始まり、
江戸市中まで大量の火山灰を降下させるなど特徴的な噴火とされている。
宝永地震は東海道沖から南海道沖を震源域とした日本最大級巨大地震。
南海トラフのほぼ全域にわたってプレート間の断層破壊が発生した。
以後、現在に至るまで富士山は大きな噴火はしていない。

日本史を知るほどに、社会の動向には天変地異が決定的誘引と気付く。
ヤマト政権成立時期、群馬県に関東の中心勢力が存在したけれど、
榛名山の巨大噴火、泥流でその本拠地地域が壊滅的被害を受けて
関東の経済的発展、政治的発展が大きく遅れたとされる事態。
その惨状は近年の発掘調査で明らかになってきている。
また、のちに天下を掌握した徳川家康の運命に非常に大きく関わった事態。
小牧長久手戦後の秀吉—家康の緊張関係の高まりの状況下での大地震。
のちに天下を取ったからすべて家康がやったことが正鵠を穿っていたかというと
けっしてそうではなく、秀吉の謀略戦によって家康はかなり追い詰められていた。
秀吉側からの包囲重圧が加速していて重臣石川数正による離反も起きていた。
この時期は家康は対秀吉強硬姿勢一点張りだったとされるけれど、
まさに絶体絶命で、強気に出るしか家内をまとめられなかったのだと思える。
秀吉側は徳川攻撃のために最前線城郭に大量武器弾薬・兵糧を集積させたが
攻撃直前になって当時の大型地震で秀吉側に大被害が出て
攻撃作戦がやむなく中止になり、和議の方向に政局転換していったとされる。
その後の秀吉施政下でも伏見大地震があり、当時は地震の活発期だったよう。
歴史にもしもは考えても仕方ないが、事実としてはこのような事例があった。
もし現代で噴火による火山灰が大都市に降り注いだ場合、どのような
被害状況に立ち至るか、あるいはそうした事態への備えは? と考えると不安。
その後、多少の噴火記録はあっても比較的平穏な状況が続いているけれど・・・。

人知の及ばぬことであり、注意深く暮らすしか対応のしようもない。
もし発生すれば社会変動は避けられない。用心は不可欠。
日本火山列島の中核・富士山の火山活動の平安を祈念したいと思います。

【明治帝と近代国家建設 象徴としての北海道】

2020-09-27 06:07:00 | 日記

<明治天皇山鼻屯田通輦図>

<明治天皇北海道上陸から札幌行程図>


北海道は開拓から150年ほどと、もっとも新たに国家に組み込まれた。
それまでの日本歴史での最北の地・東北は「まつろわぬ」人々の地として
「土地沃壌えて広し、撃ちて取りつべし」という意識から不幸な歴史時間を持った。
東アジアの「国家」意識にとって「中華」思想は抜けがたい基本思想であり
征夷ということが自らの存在意義であるという潜在意識があったのだと思う。
中央集権的なヤマト朝廷体制が列島社会に伸長していくためには
外敵の存在が必要でありそうした歴史営為の結果、国家が成立したともいえる。
そのような「征夷」概念の延長線で、武家による政権も成立し、
アジアとしては奇跡的で純粋な「封建社会」も実現した。
・・・そういう国家意識からさらにそれを再度、高める必要があったのが、
幕末明治の歴史時代だったのだといえる。
そのときもっとも喫緊な地域と認定されたのが、対ロシアの防衛ラインとしての
北海道の地。東北地域とはまったく違うカタチで日本史最前線に登場した。
このようなことは日本国家の中央集権化「統一」時期以来のことであり、
開国・近代国家建設が国家政治での中核的関心事になった。
その歴史時期にあたって青年天皇・明治帝は優れた素質を持たれていたと思う。
伝統的な京都御所の御簾のなかに神秘的に存在する天皇から
近代国家建設の象徴としての君主像にふさわしい行動的資質であった。
薩摩藩の政治指導者・大久保利通が、幕末にこの若き君主を行幸として
はじめて大阪湾での海軍艦艇閲兵に連れ出したときその目の輝きを見て
「この君なれば・・・」と万感のよろこびを感じたとされる。
その大久保の感慨の意味合いは、こういう政治目的だっただろうことはあきらか。
国家建設に行動する君主像を民に刷り込んでいくことが、近代日本の基礎。
・・・そしてシンボル化した北海道の国土経営開拓の明治帝による視察とは
明治の政権にとって重要なターニングポイントだったと思う。

<お召し列車「開拓使号>

時限的に設立された「中央省庁」開拓使のその最終期にあたって、
炭坑の発見経営に乗り出しており、同時に活発な殖産興業政策で
札幌では数多くの官営工場が稼働してきていた。
近代国家建設にとって、まことに中核的な事業の推進だった。
この明治帝の「巡幸」にあたって、青森から船で小樽・手宮に上陸され
このためにわざわざアメリカに発注した「お召し列車」を、開通なった鉄道に走らせ
明治帝を開拓の首府・札幌にお迎えした。
たぶんお召し列車はこのような風景の中を走って天覧に供したのだろう。
新橋-横浜路線とはまったく違う、国家意志による大自然を克服しての鉄路。
そして上の絵「明治天皇山鼻屯田通輦図(1881年)」のように藻岩山の麓、
札幌の開拓の様子を馬上からご覧いただいた。
明治帝にとっても死後、北海道神宮に神体として祀られたことが不自然でないほど
この地のことを深く思われたことは間違いがないだろうと思われます。
日本と北海道とは、たぶんこのような出会いと歴史経緯だったように思える。
坂の上の雲を追った時代が確実に存在したのだ。



【少女作品:路上アートに魅せられて】

2020-09-26 05:53:23 | 日記

毎朝の散歩道、札幌のイマドキは12-3度程度の日も増えてきます。
昨日などすっかり肌寒いほどの気温低下ぶり。
しかし、高齢のみなさんを中心に、そのお孫さんとおぼしき年代も
毎朝、北海道神宮前でお掃除ボランティア、ラジオ体操と元気な姿が見られる。
そういうけなげでかわいい様子にすっかりゾッコンのわたしであります。

で、いつもの散歩道にはドングリなどの落果が目立つようになって来た。
また、それを狙ってたくさんのリスたちがあちこちで俊敏にうごめいている。
ヘタをすると足蹴にしてしまうかもしれないほどにたくさん見かけます。
そんなふうに足下に注意を払いながら歩いているとふと写真のような光景。
「おっとっと・・・」と蹴飛ばさないように咄嗟に道を横に取っておりました。
わたしの散歩目的は運動量確保なので一定速度が習慣づいている。
で、なにげに通り過ぎてから、その光景の残像が目に焼き付いて離れない。
20-30mほど過ぎてからやはり気になって引き返してみた次第。
即座に「これはだれかが表現したものではないか」という判断があった。
そうですね、小さい子どもたちにとって落果の季節はそのオドロキから
それを拾い集めるのが一般的・人類初源的反応パターン。
たぶんネイティブに近い人間精神の発露なのではないかと思います。
で、それは「アート」の起源に近い行為であるに違いない。
戻ってみて、その「作品」を謹んで写真に撮影させてもらった。
基本の構図はドングリで表現されているけれど、
なんだかよくわからない堅果類が左側に流れるように配置されている。
ドングリたちはどうも「流動線」を意識したような配置のされ方をしている。
堅果類を囲むようにも配置されている。
そして、右手側には可憐な白い花々が添えられているではありませんか(!)。
見た感じではハート型を意図したようにも受け取れる。
この全体の配置バランスは、なかなか惹き付けられる(笑)。
白い花と茎の緑が、ドングリ・堅果の色と対比的でお互いを引き立ててもいる。
この「表現」の仕方にはなぜか強く「女性的感受性」も感じさせられた。
「おお、いいじゃんこれ」であります(笑)。

ちょっと立ち去りがたい思いもあったけれど、後ろ髪を引かれながら離れた。
想像すれば、たぶんいたいけな少女がドングリの姿カタチに魅せられて
それを夢中で集めて、堅果もついでに発見ゲットした。
で、その感動のままに道路をキャンバスにして配置する原初アートに取り組んだ。
「こうしたらカタチがオモシロいかなぁ・・・」と考えながら。
で一応の構図が固まったけれど、そこにふと視線の先に白い可憐な野花があった。
ドングリとその白い花のコントラストが彼女の表現意欲を刺激した。
夢中で花を摘み、「どこに置こうかなぁ・・・」
というプロセスで、このアートは完成を見たのではないか。
この表現に向けた素材収集・配置での構想持続力はまさにアートパワー。
わたしは朝7時前くらいにそこを通りかかったので、たぶん制作はその前日日中。
少女はたぶん完成を見届けた後、お母さんに呼ばれて現場を去ったに違いない。
それから約半日以上、ここを歩いた人たちはこれを目にしただろうけれど、
わたしと同様に、注意深くこの作品をリスペクトして残置させた。
誰も足蹴にすることなく、作品は一定数の人々に鑑賞の機会を与えたに違いない。
そんな風に考えると、朝から「いいものを見た」気分に浸ることが出来た。
さすがに翌日朝には跡形なく作品は姿を消していたけれど、
見知らぬ少女と楽しく対話できたようなうれしさがこみ上げてくる。
作者が大きくなってからもしもこの写真を発見したら、という想像も楽しい(笑)。