三木奎吾の住宅探訪記

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。

【2020夏・コロナ禍での息苦しい人間関係】

2020-08-16 06:19:46 | 日記

お盆休暇もきょうまで。みなさんいかがお過ごしでしょうか?
写真は先日報道された、東京から「帰省」者に対する青森市内の
近隣住民からと思われる「投げ込み」の殴り書きメッセージ。
2020年夏の息苦しさを端的に表すものとして、こころに焼き付いた。
このような心ないコトバを投げつけられたことに深く同情すると同時に
しかしこういうことに配慮もせねばならない息苦しい現実も感じる。
逆に匿名とは言えここまで他人に、その心理を想像せずに投げることにも驚く。
いまわたしたちすべては、こういう心理環境に「追い詰められている」。
この両方の気分が重なって、気分が重く沈殿してしまう。

昨日もある温泉施設で入浴中、浴槽のなかでわたしを挟んだおふたりが
わたしの方向に向かって大声で喚き合うように話し込まれていた。
ツバキが飛んでくるような笑い声を交わし合って、間のわたしはいごこちが悪い。
その位置にはわたしが先にいて、おふたりは後で位置を占められた。
その後で、お互いに顔見知りと気付いての話し込み。
普段であれば気さくな会話として、他者であるわたしは聞き流しているシーン。
しかしやはり、3密というコロナ対策マナーからは困った事態。
やむなくこちら側で、場所を移動せざるを得なかった。
ただ、まるで非難と受け取られないよう「さりげなさ」も装うように気も遣う。
なんとも言えない、誰も悪くないこういう気まずさが本当にイヤだ。
お互い他者に無用の迷惑を掛けないよう、いまは気をつけるべきではある。
しかし一方こうした普通のコミュニケーションが失われることにも残念感は募る。
ごく普通の自然な人間会話に罪などあろうハズがない。

こういった「関係性」が永続する可能性もありえる。・・・
というような絶望感もだんだん現実的になって来たと言えるのだろうか?
しかしいま毎日のように「感染者数」が発表されている割には
「重症患者数」は伸びていないともされている。
公知にもとづいた「常識」的行為規範がまだ形成されていない段階では
まるでオオカミ少年のように不安だけを社会にまき散らすことを
だれにも制止させることはできない。
写真の他者への非難のコトバの書き手も、こういった感情にかられての行為でしょう。
心配なのは、こういう行為が常態化すること。
このような人間不信連鎖からは、社会に悪影響が出るのではないか。
2020年夏の息苦しさを忘れられるときが来ることを強く祈念したい。

【中共党海軍連携の民兵「漁船団」尖閣へ?】

2020-08-15 05:55:38 | 日記

イラストは古日本列島居住の化石人骨から推定される「生態」。
生業としての潜水漁法の結果、耳骨が発達して環境適合していたという。
本日はトピずれですが終戦記念日関連の時事テーマです、あしからず。

日本はお盆最中ですが、日本の南西端・尖閣では緊張が高まっている。
中国が勝手に決めている「禁漁期間」が16日に開けるということで、
漁船団が大挙して尖閣海域に「入漁」してくるのではと危惧されている。
その漁船団とは、事実上「民兵組織」であり、
それを「保護」する名目で「海警」船団も尖閣海域に入域する可能性が高い。
さらには、中国共産党の私兵・中国海軍艇も遠巻きに進出してくる可能性。
そもそも海警も中国共産党海軍の指揮下の組織なのだという。
中国軍とは天安門で自国民を戦車でひき殺した中国共産党私兵軍が本質。
露骨な「侵略」行為を世界の耳目が集中する中で強行する可能性がある。
昔人は環境適合の結果での耳骨発達だったけれど、現代の中共は
世界にまったく「耳を貸さず」侵略・現状変更に邁進してきている。
このあからさまな蛮行に対して、日米共同対応の可能性も報道されている。
結果として新型コロナウィルスを世界に広め、その混乱を利用しての傍若無人。
一方で、ミサイル防衛についての発表での河野防衛相へのマスコミの質問。
「周辺国・中韓の理解が得られていない」発言。東京新聞記者だという。
それへ防衛相「(対日ミサイル増強の国に)なぜ理解を得る必要があるのか」発言。
日本の防衛に対してこれら日本メディアは端的に阻害になっているのではないか?
世界できわめて特異な「自虐憲法」を金科玉条として、その無防備ぶりを
礼賛している。危機はむしろそれを好き放題に利用する「周辺諸国」の動き。
絶対に攻撃されない「憲法」保証に基づいて無謀のふるまいを続ける中国などに
「理解を求める」姿勢をこれらメディアは自国政府に高声で強要している。
すでに沖縄県の漁船に対して執拗な攻撃的追尾を繰り返され
危険にさらされる現実が進行しているのに。「進歩派」という自己陶酔の病。
そうした現状体制の根拠である「敗戦」から75年目の記念日。

自衛隊の「防衛」出動は現状では難しい中で、
むしろ米国側から「共同作戦」的な提案がなされていると聞く。
そのこと自体が「抑止力」として働いて、中国の無軌道な行動が抑制されることを
期待したいけれど、予断は決して許されない。
16日を翌日に控え、水面下で熾烈な情報戦が行われていることは間違いない。
日本の平和状況に、底流で危機が迫っているのではないか。

【稲荷社「連続鳥居」 ジャパンカラー・デザイン感覚】

2020-08-14 05:33:13 | 日記



写真は昨日記載の「中富良野神社」境内に併存している「稲荷社」の様子。

神社とは、日本固有の宗教である神道の信仰に基づく祭祀施設。
その性格は産土神、天神地祇、皇室や氏族の祖神、偉人や義士などの霊などが
神として祀られる。 文部科学省の資料では日本全国に約8万5千の神社がある。
そのうち、稲荷社の本宮とされる伏見稲荷大社のHPでは全国に約3万社の
「稲荷社」があるとされています。
ただし、一般的には神さまはひとつの神社に複数が併存しているのが実態。
なので、主祭神神社で稲荷神社は2970社で、
32000社が境内社・合祀など全ての分祀社とされます。
いかにも「八百万の神々」への分け隔てのない精神性は日本人的。
わたしがごく身近に接している神社、播州英賀神社、相模原鹿島神社でも
本来の産土神、鹿島さんと併存して稲荷社があります。
そのそれぞれの神さまの得意分野を「勧請」するのが地域信仰のありよう。
五穀豊穣・商売繁盛というのが稲荷社の本旨で御利益期待ということでしょう。
そういう意味では境内社として勧請されているのが32,000社という数は
稲荷社の人気の高さを表している。4割近くに勧請されている計算になる。

さらに伏見稲荷大社のHPには
「なぜ「お稲荷さん」には鳥居がいっぱいあるの?」
という素朴な疑問に対してQ&Aで以下のような答えの記載。
A:願い事が「通る」或いは「通った」御礼の意味から、鳥居を感謝のしるしとして
奉納することが江戸時代以降に広がった結果です。現在は約1万基の鳥居が
(伏見稲荷大社の)お山の参道全体に並んで立っています。〜ということ。
現世利益の結果として、どんどんと「増えていった」ということなのでしょう。
まことに「欲望自然主義」を感じさせてくれる(笑)。
しかし建築デザインとしてこの丹塗りの鳥居の連続感は特徴的。
水銀である丹は木材の防腐剤としてジャパンカラーの中核を形成してきた。
そういえば日の丸も、この丹色が真ん中に鎮座している。
同様の利用途が出自とされる北欧スウェーデンの住宅外壁塗料の色合いとは、
その明度において、あきらかに日本の丹色の方が鮮やか。
なので住宅にはそう使われず、宗教的建築に限定利用されてきたのでしょう。
江戸期自然発生ということなので、日本人の心性を深く捉えている証明。
先日「厳島」の丹の基調色が特徴的な社殿写真を掲載しましたが、かなり好評。
こういうカラフルさに日本人は深く癒されるのか、興奮するのか、
とにかく、大好きであるから長く続いてきているのでしょう。
そのカラーが鳥居という形態で屹立し、それがハーモニーとして連続する。
こういった風景が日本の四季感覚に深く融合していっているのでしょうね。

【北海道神宮奉納フラヌイ注連縄:中富良野取材】

2020-08-13 05:06:23 | 日記




開拓初期には北海道では米作は不可能と思われていた。・・・
注連縄という宗教文化には、その素材として稲ワラが不可欠なので、
開拓三神を祀った北海道神宮では最初、この注連縄はどうしていたか?
もちろん伊勢神宮など注連縄のない神社もあるけれど・・・。
麻縄という選択肢もあるけれど、やはり米作と日本社会は底深く根がらみ。
残念ながら、最初期の様子を伝える鳥居や社殿の写真でも
注連縄の様子をうかがえる写真は見当たらない。
それどころか開拓初期には北海道では「縄」が主要な販売品とされていた。
本州以南社会では、縄というのは水田耕作の必然で発生するありふれたもの。
昔のテレビ番組などでよく見かける米作農家「夜なべ仕事」現金収入の定番。
北海道ではそれを高価な輸送費をかけてわざわざ本州から移入していた。
そういう北海道で開拓三神は首を長くして、注連縄を待っていたかも知れない。
北海道の神社建築と注連縄歴史についての研究はあまり聞かないので、
当面は想像を巡らすしかないでしょうね。

で、北海道神宮にフラヌイ注連縄を奉納している地元の中富良野神社に取材。
情報をいただいた好事家のTさんは「氏子でもないので・・・」と内気に
神社の神主さんにこの注連縄について尋ねられなかったそうですが、
わたしは、年来の「神札収集」趣味を活かして1,000円なりを出資するカタチで
お礼もお支払いし、根掘り葉掘り質問攻めにしておりました。
最初は境内周辺で子犬を散歩に連れていた女性に問いかけたのですが、
どうも話が通じやすく弾んでいたら、社務所に案内された。
どうやら、神主さんご一家の方だったようで、神主さんに質問バトンタッチ。
「あの、失礼ですが鳥居には注連縄ないですね」
「そうなんです、あれは野外に掛けるので1年持たず、降ろすんです。
ことしは、9月4日に注連縄が新規に奉納される予定」ということ。
氏子の「俵御輿同志会」が毎年制作して、奉納されるのだそうです。
北海道神宮への奉納の契機は、昭和28年7月に旭川の「上川神社」に奉納し、
昭和34年北海道神宮の前身、札幌神社に同じデザインの注連縄が奉納された。
この奉納がテレビなどで放映されることで話題が集中したとされます。
「で、この注連縄デザインは岩木山神社と瓜二つなんですが?・・・」
「それは、この中富良野には津軽からの農民集団移住があって・・・」
という想像通りの由縁だそうであります。
津軽農民としてやはり米作への思いが強く、入植以来コメ生産に勤しんできた。
「注連縄400kgの材料の稲ワラはその倍くらい必要なんですね。
コメは品種改良が進んでイマドキは背丈が短くなっている。材料確保がたいへん」
というような制作状況のようですし、さらに俵御輿同志会の高齢化も進んでいる。
中富良野神社では第1鳥居にフラヌイ注連縄が据えられる。
北海道神社は本殿前の屋根付き「神門」に備えられているので持ちがいいようです。
4年に一度の北海道神宮注連縄交換はつい昨年できたそうですが、
今後の「文化継承」には、やはり危機感があるようです。

ちなみにこちらの本殿は鉄筋コンクリート製で、社殿には注連縄はない。
敷地内に勧請されている稲荷社は一般的な「中太り」の注連縄でした。
津軽と北海道、氏子たちの崇神の思いが海を越えた岩木山to北海道。
稲作と注連縄in北海道。日本人の精神性の中核・民俗性も確認できた次第。

【大正末北海道住宅・洋室の「白樺格子」天井】

2020-08-12 05:47:57 | 日記



現代住宅ではほとんどデザイン的にはワンパターン化している天井。
「高級住宅・個性化住宅」ではごくわずかにデザイン挑戦がある、
というのがいまの状況ではないかと思います。
8日取材の「上富良野町開拓記念館」(旧吉田邸復元)では、
玄関横の「応接間」とおぼしき部屋が「洋室」になっておりました。
当時は上富良野町長だったので、来客も多かったと推測できます。
で、こちらの天井仕上げを見て、白樺の自然木が格子組みされてデザインされ、
その格子の間には、面材として木目の残る板材が使われておりました。

こういったデザイン仕上げというのは、わたしははじめて遭遇した。
大正期、いまから96年前の住宅建築ですが、
非常に革新的なこころみが、出窓や2重ガラスの開口部、
さらにガラス戸での「雨戸」造作などで行われている。
いったいどんな作り手が? という疑問に応えてくれるのが「棟札」。
<これは建築好事家・Tさん撮影の写真(幅広加工)>

大工棟梁として「高原権平」と読み下しうる名前が確認できる。
大正14年8月25日に起工して、9月18日に「建前」
しかし「竣工」年月日の記載がない。
噴火泥流は大正15年5月なので、それまでには出来上がっていたハズだけれど、
その前、2月くらいから噴火の前兆は気象庁の記録にあるので、
十勝岳噴火の影響で工事自体も「竣工」に至らなかった可能性がある。
この時代の建築確認などがどのようであったか、調べていないけれど、
棟札を遺す気風の大工棟梁にしてきちんと記載しなかったのには
なにか、理由があるように思われる。ましてや「村長邸」でもある。
しかしいま、WEBで検索してもこの名前では他の記録に尋ね当たらない。
まぁ大工という職業の社会的地位はこの時代、必ずしも高いとは言えない。
職業としてはあまり人気はなかったのだと言われる。
しかし、棟梁としては遺っていく建築として気合いは入っていたと推測できる。
そういう気合いと、この建物での「革新的こころみ」にはある符号を感じる。
木の素材として白樺は、どういう樹種ランク位置にあるかは知らないけれど
それを製材せずに自然木として使って、その曲がり具合に合わせて
板材を仕上げていったに相違なく、手業は十分に丹精されていると思う。
たぶん板材は1枚1枚微妙に寸法が違っているかも知れない。
こういう仕上げについて、棟梁の技量発揮の檜舞台と考えて作ったのか、
あるいは、施主・吉田氏の強い思い入れや希望があったのか。
いわゆる伝統的な和の大工技量で白樺自然木を使う流儀はあまり見ない。
和洋混淆の住宅の「洋間」の内部仕上げで「いっちょ、やってみるか」と
実験的に採用してみたのだろうか。
天井を見上げつつ、さまざまな想像力が膨らんで止まなかった。