三木奎吾の住宅探訪記

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。

【明治開拓使時代の「窓回り」ディテール】

2020-08-26 06:18:38 | 日記


明治初年札幌の永山武四郎邸シリーズ第3弾であります。
明治10年代の初めという時代の建築で、住宅以外にも北海道庁本庁舎とか、
豊平館、清華亭、時計台など「洋造」建築が実験場のように多数作られた。
和風住宅と「洋造」住宅の決定的な違いはやはり「窓」。
ガラス自体は江戸期にも日本で製造されていたそうですが、
欧米のように住宅建材として使うという考えは全くなかったようで、
ギヤマン細工で繊細な工芸品としてしか考えられていなかった。
住宅建材としてのガラスは欧米人が日本に住むようになって、
かれらの住宅で、透明な建材として「舶来趣味」的に受容されていった。
明治初年段階では、本州地域では居留外国人住宅以外ではそれほど普及しなかった。
しかし、先日も触れたように「気密性」を空間に確保するという
きわめて寒冷地らしい合理主義が北海道移民たちの間でブーム化した。
いや、気密であることで室内の暖房効率が高まるという
きわめて即物的な、いわば背に腹は代えられないみたいな需要で
高価な輸入健在のガラスが、生活の見通しすら不明な北海道でもてはやされた。
ガラスは半紙大の大きさの規格寸法で流通して、
写真のように桟木で嵌め込まれてガラス建具・窓として作られていった。
この住宅はいわば「高級住宅」であり、窓回りの「モールディング」の重厚さには
いかにも「見よう見まね」にまっすぐな日本人的職人気質を感じる。
ディテールを研究し咀嚼する職人的倫理観、それを生む社会倫理が存在した。
それまでの日本住宅建築では木製建具+桟木など+紙障子で
窓が組成されていたが、このような本格的なガラス窓が北海道標準になった。
今日でも北海道は「高断熱高気密」という性能面での先進性が大きいけれど、
そういった素地、事始めは明治開拓期から一貫していたといえる。

引き違いに比べて外部からの操作性、防犯性が高いことが理由なのかどうか、
欧米には「引き違い」という窓の開閉形式は少ないようで、
まだ「見よう見まね」の住宅「洋造」段階だったことから、
この明治初年段階では、写真のような「上げ下げ窓」形式が採用された。
一方で、和洋混淆の和室側では下の写真のような開口部。
きのうも触れたように、縁側外周が2重のガラス建具で覆われている。
このスタイルがどこまで「一般化」していたかどうかはよくわからない。
ただ、清華亭でも縁側外周はガラス建具仕様になっているし、
先般ご紹介した大正末年の上富良野でも同様の仕様になっていた。
このシリーズを読んだ読者のAさんから、現代の高野山の「宿坊」でも
同様にガラス建具で縁側が仕切られていたと言う情報。
まぁ高野山も近畿圏とは言っても高地なので、北海道と同様の気象条件か。
この写真の「雨戸」的なガラス建具はみんな「突き付け」仕様のようで
雨戸として戸袋に収納されることのみで「開閉」される仕様。
だけれど右側の薄い「戸袋」では1−2枚しか収納不可能だと思います。
1−2枚だけ戸袋に収納した後、残ったガラス建具は外側から外したのではないか。
ただきのうも書いたように、やがてこの「常設」状態で固定され、
ほとんどガラス建具を取り外すことはなくなったのだと推測。
だいたい、スムーズに取り外し作業が可能なのは、北海道では
6−9月くらいが限度で、それ以外の時期にはそもそもガラス建具を
「動かす」こと自体、けっこうな重労働であったに違いない。
冬期には当然積雪し、結氷凍結が避けられなかったことは自明。
春秋もその危険性がつねに迫っていて、いわば季節の「模様替え」習慣には
とても至らなかったのだろうと思われます。

見かけとしては、ガラスの寸法に合わせた規格的な木枠構成。
これはこれで非常に正直な姿を見せていてデザインに好感を持ちますね。

【140年前、縁側は北海道で「窓・開口部」に変容】

2020-08-25 05:24:49 | 日記



きのうの「旧・永山武四郎邸」の探訪シリーズその2。
明治10年代初めということでおおむね140年前という住宅建築であり、
当時盛んに作られた「洋造」を基本としている。
しかし生活スタイルとしては武家出身者でもあり伝統的な貴賓空間、
床の間付きの「座敷」が最優先された「格式」的建築スタイルを踏襲している。
その前室として洋室の「応接室」がある「和洋混淆」スタイル。
床の間や書院といった格式重視の空間がしつらえられて、
壁にはきちんとした土壁も塗り上げられて、天井高も高い。
そして当然のように、南面する庭の眺望を楽しむ「縁側」が造作されている。
しかし写真でわかるように、本州以南地域のように板戸の雨戸で
夜間や雨天時だけ遮蔽して通常的には開放されている「縁側」ではない。
庭との境界部分にガラス建具が2重に装置された特異な「縁側空間」。
日本建築のこういう空間では、縁側をガラスで閉じるという発想はあり得ない。
しかし日本から開拓のためにこの北海道に移住してきた人間にとって
その寒冷気候は想像を絶したものであったことは言うまでもない。
縁側で、陽だまりに佇んでそのぬくもりを愛でられる季節時間は
北海道では夏場の数カ月間に過ぎず冬の吹雪の室内浸入の怖れもある。
温熱的な「陽だまり」をそこに期待することは諦めざるを得なかった。
そうすると住宅建築としてはどう対応すべきか、いろいろな可能性がある。
そのなかで明治の文明開化とともに欧米から住宅用の「ガラス」が輸入され
開拓使のごく初期のモデル的な建築「ガラス邸」で新規建材として推奨された。
輸入建材で高価であるにもかかわらず、北海道ではガラスが積極的に使われた。
内陸部の開拓民ですら、こぞってガラスを購入して建材利用した。
規格寸法で作られたガラス単体が大量消費されたという。
むしろその規格寸法に合わせ「建具」造作された。日本初の「寸法規格化」でもある。
そこまで北海道の人々がガラスを受容したのは、その気密性要素から。
この当時どんな他の建材よりも、ガラスは密閉性が優れていた。
輸入ガラスの市場占有率で北海道はダントツだったのだと言われる。

そのガラス建具が、この縁側空間を2重に覆った。
ガラス建具で縁側の1要素である庭の視界確保だけがなされ2重化が進んだ。
本州地区でつい最近まで、いや今でもガラスは単板が優勢と考えると、
まるで奇跡のように「開口部ガラス」の2重化が140年前から実現していた。
いま、この2重のガラス建具空間をチェックすると、
室内側は引き違いで半分開放仕様であり、屋外側はいわばガラス建具「雨戸」。
雨戸の収納・戸袋は数枚分しかなくて、たぶん1枚だけを「寄せて」
そのほかのガラス建具戸は、外部側から外すことを意図したと想像される。
(永山邸説明員の方からも取り外し方法は未解明の様子)
たぶん、使い続けるウチに季節に応じての「取り外し」は面倒になって、
ほぼ常時2重ガラス建具で閉じられた空間になっていたのではないか。
6月になっても朝晩の冷気はきつく、9月にもなれば肌寒くなる気候条件では
本来的な「縁側」として楽しみ、機能できる期間はごく限られ、
やがて常時閉鎖する2重ガラス建具空間に変容したことが容易に想像される。
縁側という「中間領域」空間ではなく、2重ガラス建具の「窓・開口部」と呼ぶ方が
この空間の機能性をより明確に表現しているのではないか。
そうした日本住文化からの離脱が、明瞭に表現されていると思える。

こんな経緯が北海道住宅の「流れ」だったことが伝わってくる。
しかし、北海道では現代にいたってウッドデッキ文化が盛んになっている。
寒冷地住宅建築本体としてはこうして「閉じ」ざるを得なかったけれど、
そこに暮らしてきた北海道民は、気質としてはきわめて「開放的」。
隣居からの目線を気にするよりも、短い開放的な季節を思い切り楽しむのに、
ウッドデッキなどの生活文化もまた盛んになったと想像される。
日本的な縁側空間は、まったくカタチを変えて受け継がれているのだと思う。

【明治10年代永山武四郎邸・和室の出窓】

2020-08-24 05:54:01 | 日記




灯台もと暗しというコトバがありますが、
札幌にいてしかも建築と歴史にけっこう興味がある人間なのに、
ふしぎと足を運ばなかった建物があります。
旧永山武四郎邸。新型コロナ禍出来以来、明治初期北海道の建築探訪、
「高断熱高気密事始め」みたいな北海道住宅の歴史掘り起こしは休止状態。
ときどき復活させて記事紹介していますが、また時事の話題に振れる、
そういう繰り返しで、札幌市内中心部に残るこの建物は放置してきていた。
昨日、ようやく宿題のようになっていた探訪を果たせた次第。
・・・なんですが、周辺駐車場の値段の高さには呆れた(笑)。
1時間900円って、ここは東京都心か?であります。料金事前明示がなく、
まったく空いていたのでつい入庫しましたが、あれでは確かに誰も利用しない。
お隣の商業施設駐車場がはるかにコスパがいいのでみんなそっち利用で行列。
全国企業の駐車場大手の管理でしたが、ああいうのは独占企業の
弊害がモロに出ちゃっていると思われます。きっと単価は上げても
利用率は激減し、オーナー側は大きく不利益だろうと推測。
おっと、大きく横道ズレまくり(笑)。

永山武四郎というのは、明治開拓期の北海道史で名高い軍人・政治家で
黒田清隆と同郷・薩摩出身の軍閥で西南戦争に「屯田兵」を率いて南下した。
出陣したが、戦地に赴く前に東京で西郷軍の敗北を知って
実際の戦闘は交えなかった。軍司令部内部で同郷軍との戦い最前線配備に
ややためらいと配慮があったものかも知れない。
軍人事跡はこうしたことが知られているけれど、長く北海道庁長官受任。
この写真の「邸宅」が明治初期の開拓使時代の住宅建築の象徴的存在として
ながく札幌の地で残り続けたことで住宅史的に名高い存在。
建築当時、いまのこの地域(札幌市中心部・サッポロビール園隣接)は、
開拓使による殖産事業実験の最先端地域だったとされている。
そういう時代の雰囲気、空気感のなかで「寒冷地住宅」が試行されていた。
同好の好事家Tさんから、この和室の「出窓」について聞かされていたので、
興味深く見学させていただいた次第。
和室と出窓という組み合わせは、いかにも「和洋折衷」住宅らしいデザイン。
あした以降触れますが、隣の本格的和室では「縁側」を介して庭を見る仕様。
日本住宅建築の定型パターンで、日本住文化そのものだったと思われる。
そうした主室に対して、こちらは東側に面して庭景観も考えられる配置ながら、
写真のような「出窓」が開口されている。
和室なのにやや腰高程度の高さがあって、しかも上部にはカーテンボックス。
そして出窓は左右押し出し型で全面ガラス建具となっている。
中央部もたぶん左右に観音開きのようで内側には網戸も仕込まれていたけれど、
こちらは建築当時の仕様かどうかはやや疑問。
建具の造作金物を見るといかにも「洋式開口部材」が使われている。
洋式の開口部仕様が和室に導入されている。明治初期と考えるといかにも実験的。
設計者の詳細な記録は存在しないようですが、当時の状況を考えれば、
開拓使の建築部局が関わっていたことは明らかで技術者・安達喜幸が想像される。
「和室だけど、南面もしていないし防寒優先で出窓にしますか!」
といったノリで建て主・設計者が意気投合しこの仕様が採用されたものか?
夜に防寒のためもあってカーテンを閉めると、和の空間が洋で閉ざされた。
で、布団で寝て、朝カーテンを開放して出窓越しの朝日を見る暮らし。・・・
寒冷地での日本人の「新常識」ライフスタイルを探った明治の革新。
一種独特な「寒冷地住宅」ライフスタイル事始めを実感したかも知れない。

この時代の「日々革新」といった開拓初期の空気感が
かなりの迫真性で感じられた次第であります。
作り手と建て主の日本建築「常識からの離陸ぶり」に共感を持つ。

【モダンアート 美的価値と社会性】

2020-08-23 09:05:08 | 日記


わたしはどっちかというと伝統的な美感・感受性の方が好きではある。
そういうことなので、毎朝の散歩も北海道神宮とかの
長い時間、民族的感受性が込められた「集合芸術的空間」ともいえる
神社空間などの方に魅せられる方だと思っております。
散歩道途中神宮のごく近くに毎朝、意識せず鑑賞せざるをえないモダンアート。
ま、キライではないけれどすごく共感するタイプでもない作品。
で、この建物。写真は横長すぎるのでちょっと加工して
上下で2枚の写真を重ね合わせています。
別に上下写真での「間違い探し」ではありません、悪しからず(笑)。

ただ、毎日見ることが重なってくるので、
それほど共感はできないまでも、一応「これどんな建物なのか」という
疑問は持ち続けておりました。
どうも「美術館」らしくて、教会も併設された庭園美術館で、
そういう結婚式もできますよ、というコンセプトのようなのです。
ということで、目に触れてから数千日経過後、ついにアートの概要書きを見た。
それが2枚目の写真であります。
どうやら高名そうな海外現代画家によるビル壁面絵画だそうであります。
説明書きでは、このアートが描かれたのは2011年なので、
「数千日」というわたしの認識はそうおかしくはなく、約9年の歳月。
しかしこの間、札幌の人々の人口に膾炙した記憶は残念ながらないと思います。
敷地はけっこうクルマ通りの多い幹線道路に面している一等地。
興味に惹かれ「一回は見学してみようか」と思っていたけれど、
いつその気になっても展示会開催などの案内は表示されない。
玄関入口に行っても、その手の開館情報はまったく明示されていない。
どうも現在は「閉館」しているそうで、今後どうしようかという段階とのこと。
先日ふと気付いたら、工事関係車両のようなものがあり、
声掛けしたら、「・・・検討中みたいですよ」とのこと。
市場原理というもので、社会評価が定まりつつあるように思われます。

現代というのは、個人という存在が非常に重んじられる社会。
なかでもアートというものは、そのことが過重なまでに尊重される。
しかし当然、社会はさまざまな個人による複眼的な価値感の世界でもある。
壁面絵画、それも長期間人目にふれる絵画というものに対しては、
「公共性」という概念も大きくならざるを得ないのではないか。
またそれ以上に「市場原理」という風圧も絶対に避けられない。
どうも芸術と社会との関係が迷路に差し掛かっている危惧を感じる。

【テレワーク体制下「社長食堂」夏バテ撃退篇】

2020-08-22 05:54:04 | 日記



さてきのうの札幌は2日連続でのさわやか気候。
朝の散歩時点ではなんとクルマの外気温表示では「18度」。
オドロキの涼しさで、早くも季節は秋の気配といったところ。
散歩の途中、北海道神宮境内などでも薄手のジャンパー着用の人が目に付く。
しかし、本州以南地域では軒並み35度以上の酷暑が続いている。
季節感が完全に1ヶ月くらいはニッポンと乖離しております。
でも週末から来週にかけてはまた暑さぶり返しの予想。

というところですが、散歩から帰って久しぶりに手料理を作り始めたら、
どうもスイッチが入ってしまって、その量がどんどん多めになってしまった(笑)。
最近、北海道の味・ジャガイモ料理で「シャキシャキジャガ」にハマっている。
それが思いのほか原材料のジャガイモの量が多かったので、
「えい、こうなったら」ということで、職住一体事務所キッチンワーク、
ゲリラ出撃「社長食堂」特別編に突入してしまった次第。
そうは言ってもいまはテレワーク体制なので、人数がよくわからない。
っていうか、確認していなかった。
いまのところ、おおむね50%の常時出勤率に設定しているのですが、
スタッフの仕事の進行状況で、適時勤務状況が変わるのであります。
で、朝のミーティングで「え〜っと、お昼食堂やります!」と宣言したら
「じゃぁ出社します(笑)」というスタッフも現れて、総勢十人前後。
あ、仙台のスタッフには申し訳ない、今度全社会議の時に・・・。
ということで、若干の食材を買い足しに近所のスーパーに行ったら、
「朝もぎ2Lサイズ」の北海道産トウモロコシに目がテン。
まぁ、朝もぎというのは、同じトウモロコシでもまったく違う食感なので、
即決でメニュー追加という展開に。
で、メインの「シャキシャキジャガ」が一番上の写真であります。
豚肉とかが入るので、まぁ肉野菜炒めというのが本性でありますが、
とにかくスライス棒状に主役のジャガ君をはじめ、ピーマンなど
「仲良くしようぜ」という野菜たちを渾然一体と炒めまくるのであります。
このジャガ君の食感、歯ごたえが独特の味覚訴求。
カミさんからは「◎」マークをいただいている(笑)。
しかしさすがに10人以上分量なので、朝の作り置きともう一回追加調理。
同時並行で6合の炊飯でおにぎり適当量。
そしてトウモロコシの「茹で上げ」全6本。

まぁ男の「家庭料理」なので、美味しいかどうかはわかりません(笑)。
でもまぁ、夏バテしないようにまずは体力をしっかり涵養して
新型コロナにも負けずに、元気よく仕事してもらいたい。
健康に十分気をつけて、本州以南のみなさんも暑さとコロナに負けず
せめて写真からでも食欲を盛り立てていただきたいと。美味しい北海道だぜい!