気まま日記

私の音楽での生活、その他日常生活などの、思いついたときの気ままな日記です。

新潟県中越大震災からちょうど10年 ~ 当時の思い出など

2014-10-23 09:59:37 | Weblog
 本日の平成26年10月23日で、あの新潟県中越大震災からちょうど10年を迎えます。

 私はあの日に地震が発生した時間(午後5時56分)は、家の居間で今は亡き母親と一緒にくつろいでいました。そうしたところ、突然非常に大きな揺れが来て大変驚き、その直後にそれを含めて、大きな揺れが3回起こりました。外出していた弟と今は亡き父親が帰ってきて、家族4人で対応を話し合ったところ、すぐ近くの総合高等学校が避難所になりましたが、うちは幸いにして家が鉄骨造りで頑強なので、そのまま家にいることにして、柱やふすまの近くなどの崩れる可能性があるところを避けて、部屋の中ほどへ身を寄せました。

 大地震の直後は停電して水道が断水し、ガスは調整が必要となって危険で使えませんでした。ただ、電話は地震に強いと言われ、自宅の電話の中で親機(うちは家の中に何台かあり、居間のメインの電話機)だけは通じたので、何とか無事ということを父親が遠くの身内と電話で話しました。なので、電気が復旧するまでは夜は大きな懐中電灯で過ごし、ガスが安定するまでは家の中の小型のガスボンベで炊飯したりしていました。

 私は実は翌日に、当時の新津市(今は新潟市へ合併)というところの小学校の文化祭で、リコーダーのコンサートを依頼されていました。なので翌朝に交通手段を求めて奔走し、高速バスのバス会社やJRの駅へ行ったところ、まだ翌日の段階でしたので、バスは地震が大きすぎて道路が寸断されて運転できず、駅へは人がいませんでした。なので止むなく諦めてその学校の校長先生宅へ電話して事情を話し、11月頃に延期いただくことになりました。

 少し経つと、電気、水道、ガスが復旧して電話も子機が通じ、ライフラインが安定したのでホッとしました。地域で当時の町内組長さんが、全国から届いた支援物資ということで、食べ物を持って来てくれていました。今思うと、全国の皆様方からのご支援に大変感謝しております。

 家の中で風呂場の壁が少し崩れ、JAの建物共済(損害保険)へ入っていましたので保険金で修理できましたが、あれだけの大震災でどこの家も程度の差はあっても修理が必要でしたので、大工さんへ頼んでも来てくれるまで日数がかかってしまいました。他にも天井の壁へひびが入ったりしたところがありましたが今でもそのままで(風呂場は危険なので直しましたが)、そこを見ると当時を思い出します。ただ、うちは父親が新築するときに「地震に強い家を建てたい」という意向があり、鉄骨造りにしたことが新潟県中越大震災で大きく助かり、それで被害が少なかったほうでした。父親は、「近所で大震災の当日に避難所へ行かず、自宅でそのまま過ごしたのはうちだけかもしれない」と言っていました。

 新潟県中越大震災は、小千谷市や旧・山古志村(今は長岡市へ合併)などの、鯉や牛を育てている地域を襲ったので、サラリーマンとは違って自営でそこを離れられない人が多かったのが大変と言われています。ただ、そういった自営の方々の懸命な努力により、鯉は大地震の期間は遠くへ避難させ、落ち着いたら戻して復旧させたところがあり、牛は落ち着くまでは止むなく置き去りになりましたが、落ち着いて人が戻ってきたら飼育を再開し、地域の伝統芸能としての闘牛(牛の角突き)が復活しました。

 10年経った今では完全に落ち着きを取り戻しましたが、改めて同震災でお亡くなりになられました68人の方々のご冥福をお祈り申し上げます。平成23年3月の東日本大震災で、被害が甚大であった宮城県石巻市へ私の音楽仲間がいて、同年6月に避難所へリコーダーの復興演奏をお願いされたので私は迷わず行きました。これは自分も新潟県中越大震災を経験して支援物資などで助けられ、お気持ちが通じるところがあるからで、避難所へいらっしゃった方々から、心の癒しの面で大変喜んでいただけて幸いで、困ったときはお互い様と感じます。今年は特に台風が多く、最近は大きな災害があって大変ですが、「備えあれば憂いなし」で、できるだけ備えていざというときに身を守りましょう。

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