知りたい宮島

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知りたい宮島 8 大願寺 大聖院他

2024年06月05日 09時30分51秒 | 貴方の知らない宮島
大願寺
正式名を「亀居山方向院大願寺」と言い、真言宗高野山派です。開基は不明で鎌倉時代の建仁年間(1201-1203年)総本山は「金剛峰寺」です
僧了海により再興されたと伝えられています。
大願とは、厳島神社を護る「大願」を意味する、ことで普請奉行として寺社の修理造営をしていました。
明治時代の神仏分離令では、厳島神社をはじめ九州の「筥崎宮(はこさきぐう)」や「宇佐八幡宮」など、多くの寺社の
修理造営を掌っていました。(本願職としては全国を托鉢する許可を受けていました
「戦国時代以来、厳島の寺社造営の任にあたり、江戸時代には、棚守・座守、と共に重要な役割を果たしていました」
大鳥居修復にあたって、大願寺には修復に関わった「古文書」があり
現在の住職 平山真明(しんめい)氏の説明によると、現在のクラウドファンディングにより再建した事が解る
嘆願書として「大鳥居が久しく断絶しているので建立したい」とある。
永禄4年(1561)毛利氏の時代には、大願寺が大鳥居再建時に、大名、小早川、吉川 堺商人 商人
などからお金を集めた、との古文書が現存している。

本堂には国の重要文化財である仏像が四体あり、その中の「本尊薬師如来」は弘法大師の作と伝えられています。
また神仏分離で千畳閣から移された、行基作と伝えられる「釈迦如来座像」と「阿難尊者像」「摩詞迦葉尊者像」、さらには
五重塔から移した、「釈迦如来座像」「文殊菩薩」「普賢菩薩」の三尊像があります。

大願寺の「厳島弁財天」相模の国の江ノ島(江ノ島神社)、近江の国の竹生島(宝巌神社)と供に日本三大弁才天の一つです。
島弁才天大祭は毎年6月17日に開催されます。秘仏とされる弁才天は一年に一度のこの大祭の時にご開帳されます。

2006年(平成18年)4月には「護摩堂」が140年ぶりに再建されました、中には「1丈6尺(約4m)の総白檀(そうびゃくだん)
の本尊「不動明王半迦座像」があり、この像の開眼式が行われました。
「この仏像は仏師・松本明慶(まつもとみょうけい)、が先代住職・平山真明より依頼を受けて4年半年かけて製作したもの」
左足は乳児の足をイメージしたもので、台座はインドネシア産の「桂化木」です。
桂化木・・・・・木が化石化したものを言う

不動明王半迦坐像・・・・・・仏師、松本明慶の作品
1945年(昭和20年)生まれ、100年に1人と言われる天才
「慶派(けいは)」の流れを汲む。仏師・野崎宗慶に弟子入り
「慶派(けいは)は、平安時代末期から江戸時代の仏師の一派」、運慶・快慶 などの仏師
1980年(昭和55年)  京都仏像彫刻展で、京都市長賞を受賞する
1985(昭和60年) 京都仏像彫刻展で、京都府知事賞を受賞する。
1991年(平成3年)  大仏師の称号を受ける。
その工房は、松本工房という名称で、京都市西京区大原野の、善峰寺や十輪寺の近辺にある。
京都仏像彫刻家協会会長。

白檀(びゃくだん)
熱帯性常緑樹。爽やかな甘い芳香が特徴、香木として利用される
紀元前5世紀頃にはすでに高貴な香木として使われていた。     白檀は仏の宿る木、香は煩悩を絶つ といわれる

雌雄異株で周りに植物がないと生育しないことから
栽培は大変困難で、年々入手が難しくなっており、
インド政府によって伐採制限・輸出規制が掛けられている。


戦国時代の天文7年(1538年)、尊海上人が、山口の大内義隆の援助にて「一切経(いさいきょう)」を求めて、当時の
李朝であった朝鮮国に渡りました。
この時の日記が大願寺所蔵の「瀟湘八景図」の裏面に記録されており、当時の朝鮮国の様子を記した貴重な資料で
尊海渡海日記(紙本墨書尊海渡海日記)」として国の重要文化財に指定されて居ます。
一切経・・・・・高麗版大蔵経。厳島の神を「観世音菩薩の化身」と記している。 観音は海難を救ってくれるとされている
尊海・・・・・・・天文年間1532年から1544年、芸州平良の庄(現在の廿日市市平良のあたり)の生まれである
        当時の李王朝の都、漢城(現在のソウル)に尊海は行く
        室町時代の160年間は、経済・文化の上で李朝と日本は密接な関係を維持していた。

当時は「五重塔」「千畳閣」「多宝塔」をはじめ、境内にあった、さまざまな堂宇(建物)を含めて「厳島伽藍」と称し、その中心を
大願寺」が占めていました
ちょっと珍しい、五重塔の修復工事の写真です

厳島合戦後から10年後の永禄7年(1565年)、大願寺の裏手にあった「大湯屋の再興」がありました。
大願寺の裏手には「千石門」といって、満潮時には「千石船」が着船で切る入り江があり、そこに舟を着け大願寺に参詣後
清めの「風呂」に入り、真新しい白足袋や履物に取り替えて「西廻廊」入り口から入っていました。
右手には手水鉢(文化10年1800年)があり身を清め、すがすがしい気持ちで参詣していたと言われています。

大願寺の書院では江戸時代の末期、慶応2年(1866年)9月2日第二次長州戦争の際、幕府方の勝海舟と長州藩
広沢真臣・伊藤馨・木戸孝允(桂小五郎)らが和平会談を行ないました。書院には「伊藤博文」の扁額があります。
「8月21日軍艦奉行・勝海舟が来広し、9月2日には広島藩の辻将曹・植田乙次郎の仲介にて、大願寺書院にて、長州藩の
広沢兵助(1865年に広沢真臣に改名)・春木強四郎(井上馨)らと会見した}

書院の軒の下には「錦帯橋の模型が飾ってあります」、これは明治29年(1896年)に「岩田三郎左衛門より寄進されたもので
19世紀末にパリ万国博覧会に出品した1/25の模型です。(この時・徳川一行が行く団長は徳川昭武

徳川昭武(1853年9月24日生)、11代水戸藩主。慶喜の異母兄弟
慶応3 (1867) 年パリ万国博覧会の日本代表として15代将軍慶喜の名代に派遣され,
外国奉行・竹本隼人正,渋沢栄一 ら幕臣を連れて渡仏(ナポレオン3世に会う),14歳(一行は28名)
渋沢栄一、・・・日本資本主義の父、理化学研究所の創設
昭和25年(1950年)のキジア台風により錦帯橋が流されてしまいますが、この時再建するにあたりこの模型を参考にしたとも
言われています。(橋脚は残ったが橋は流されてしまった)
「錦帯橋は延宝元年(1673年)岩国第三代領主・吉川広嘉の時に完成。石の橋脚は吉川公が「穴太衆」の所に配下の者を
2年間研修に行かせ、石組みの勉強をさせ、現在に見られる石の橋脚を組んだといわれています」
*残念なお知らせですが、以下に述べる「松」は松くい虫により枯れ、切り倒されてしまい、現在は9本の根っこが残っているのみです。

境内には、変わった「松」が生えています、根っこが一つで上には木が九本生えています、高さは18mあります。
これは初代内閣総理大臣・伊藤博文がお手植えしたものです。
旧宮島町の天然記念物に指定されています)
広島の原爆ドームの高さが25メートルなので、7メートル程低い(原爆ドーム 旧宮島ホテル(現在の国民宿舎杜の宿)がチェコの
ヤン・レツルが設計した建物です)


伊藤博文は弥山山頂にある、三鬼大権現を深く信仰していた為、何度もここを訪れています。
弥山登山道の一つ「大聖院登山コース」は彼が整備したものです、
当時のお金で7000円、現在(2021年)のお金では2億円くらいと言われています

三鬼大権現  ① 時眉鬼神(大日如来の化身) ②追帳鬼神(虚空蔵菩薩の化身) ③摩羅鬼神(不動明王の化身)
          と言われており、山頂の三鬼堂には、伊藤博文の「扁額」が掲げられています。


入り口には「楼門」があります
「楼門」が建てられるのは大変格式の高い寺社のみで、江戸時代には広島藩で許された寺社は4社のみである
 ① 大願寺 ② 大聖院 ③ 福王寺(広島市可部) ④ 西国寺(尾道市)
門の横には「仁王像」がおりますが、これはもともとは、桟橋前の小高い丘の上に、「仁王門」がありその横にあった「像」ですが
仁王像(金剛力士像)とは 共に仏を守護する、「夜叉神」である
金剛は那羅延金剛(ならえん)の事、力士は密迹(みっしゃく)力士の事
金剛杵(しょ)を持って仏法を守護する神。大力をもって悪魔を降伏(ごうぶく)する。寺門の左右に置かれる。
門の向かって左が那羅延(ならえん)金剛、右が密迹(みっしゃく)金剛。仁王。金剛手。金剛神。
阿形の開口は「私達の心の眼を開け」と教え、吽形の閉口は「口の門を閉じ、煩悩による一切の悪魔を遮断しなさい」
と教えている。と言われている

明治のはじめに仁王門が取り壊しになろ、「仁王像」のみがこの楼門の横に取り付けられたものです、したがってよく見ると
楼門の内側の柱と外側の柱の時代差を感じると思います、よく見てください。
向って左が「那羅延金剛」、右が「密釈迹力士}像で、金剛杵を持って仏法を守護する神、大力をもって悪魔を降伏する為
なお、広島不動院に桃山時代の楼門があるが、正しくは二重門(屋根が二重の門)で、楼門ではありません。

江戸時代の「厳島図会」を見ると、楼門の向きが変わっています。元は宝物館の方角に、入り口がありました。 その後前面の道路拡幅工事に伴い、現在のような入り口に変わったようです。

山門と三門の違いは?
浄土宗の総本山「知恩院」は、三門。「山門」は中国でお寺を「○○山」と山号(さんごう)で呼んだことに由来する。
知恩院の三門には「華頂山」の額がある。
「三門」は?、 「三解脱門(さんげだつもん)」の略である>。「空(くう)」、「無相(むそう)」、「無願(むがん)」を表すと言う
悟りに通じる三つの解脱の境地を門という形で表している
「空(くう)」・・・・・・・愚かさ、物事にこだわらない
無相(むそう)」・・・怒り 、差別しない
無願(むがん)・・・欲望 欲望を求めない
この三つの迷いから抜け出すことを「三解脱」して、心すっきりしてお参りをする。
東福寺の三門、 禅宗の東福寺三門は「大仏様(だいぶつよう)などが混じっている」
知恩院の三門、 禅宗様式の典型的な門
この二つの門の違いは、①大仏様は白塗りの組物が柱に差し込まれ手前にせり出している
     ②禅宗様式の門は手前にせり出していない、普通の門形式である

そもそも「三門」は中国から禅宗と共に伝わり、特に本山級の寺院、五山で大型の門が建てられる様になった
共通するのは「五間三戸二階二重門(ごけんさんこ)」である事で、
「柱で5つの間に仕切りされた中に3つの扉があり、2階建てで屋根が2つある門」 のことを言う
門は何気なく通るが、本来「三門」をくぐるのは、それなりの重みがある

余談ですが、お寺の門柱等に貼ってあるお札について感じたこと

山門に張り付けてある「お札」について、「千社札」と言います。
千社札(せんじゃふだ)とは、神社や仏閣に参拝を行った記念として貼る物で
自分の名前や住所を書き込んだ札のことである

神社仏閣に納札する為の単色刷りで、屋号や土地名、模様と名前をスミ刷にした貼札
(はりふだ)と呼ばれる題名札と、色を何色も使い、デザインにも凝った色札(いろふだ)
と呼ばれる交換納札が有る。

「題名を記した札(題名札)が貼られている間は、参籠(さんろう:宿泊参拝)と同じ功徳がある」
と言う民間信仰での風習から、日帰り参拝者が参籠の代わりに自分の札を貼った事から始まり、
神社仏閣の許可をもらって御朱印を頂いた上で千社札を張るのが本来の慣わしである。

書体
千社札に使われる文字の書体は、江戸文字の「籠文字」が用いられる。小さく入れる場合は、
「寄席文字(よせもじ)」も使われる。錦絵と同じ江戸木版画によって印刷される。
   江戸文字(えどもじ)とは、江戸時代に盛んに使用された図案文字の総称である。
   寄席文字(よせもじ)は、寄席で使用される文字の字体。江戸時代の「ビラ字」に端を発し、
   芝居文字・相撲字などとともに江戸文字に属する。通称は橘流(たちばなりゅう)。
概要
寄席文字は、寄席の看板や高座のめくりに用いられる、独特の太い筆致の文字として知られる。
これは、従来「ビラ字」と呼ばれていたものが、もと噺家の「橘右近」によって改良されたものである。
寄席文字は、番付やビラ、千社札にも使用されている

笑点の番組タイトルは、2011年(平成23年)6月5日までは「橘右近」によって書かれたものが使用されていた
同年6月12日以降は橘左近によるものを使用している。

寸法
千社札(一丁札)の紙寸法は、幅一寸六分(4.8㎝)、高さ四寸八分(14.4㎝)


伊能忠敬が1806年(和平会談の行われる60年前)の3月に来島し、大願寺を本陣として島の測量を行う。

伊能忠敬、
56歳から72歳までの16年間、日本国の海岸線を歩く。(二歩で一間の歩幅)
当時は楽隠居してもおかしくない56歳の時、蝦夷地測量のたびに出る。
35000キロ(8900里)(4000万歩)に及ぶ。
忠敬の師匠が、後に述べる、堀田仁助である

堀田仁助(1799年)蝦夷地の測量にあたり地図を完成
廿日市佐方八幡に仁助の寄進した(1808年)、碑文入り石灯籠あり
1747年(延享4年)津和野藩御船屋敷に生まれる、15歳で城下町津和野に移り、勘定書見習として勤める。
江戸幕府天文方となる、仁助の蝦夷航路測量により、「伊能忠敬」の蝦夷地測量が実現した
仁助の弟子が「伊能忠敬」と言われている

山門」と「三門」の違いは
山門は中国ではお寺を「○○山」と山号(さんごう)で呼んだ事に由来する
三門は、「三解脱門」の略で、「空(くう)」、「無相(むそう)」、「無作(むさ)」と言1いるい悟りに通じる三つの解説の境地を門と云う形で表している。
「空」・・・・・・・物事にこだわらない
無相」・・・・・見かけで差別しない
「無作」・・・・・欲望のまま求めない

門は何気なく通っているが、本来「三門」をくぐるのは、それなりの重みがあると思います。
知恩院の三門、東福寺の三門等大型の門がありますが、共通するのは「五間三戸二階二重門」で
柱で5つの間に仕切りされた中に3つの扉があり、2階建てで屋根が2つある門」と云う意味

大聖院
正式名を多喜山水精寺大聖院(たきざんすいしょうじだいしょういん)と言い、真言宗御室派の大本山です。総本山は仁和寺です
大同元年(806年)に弘法大師が唐からの帰途、弥山において求聞持の百日修法を修め開創されたと伝えられています。
明治維新までは十二坊の末寺を有刺、厳島神社の法会祭事を司る「別当職」でした。
別当職」・・・・・寺務を統括する長官にあたる僧職の事

観音堂・魔尼殿・勅願堂・・遍照窟・大師堂・霊宝館などがあり
① 観音堂は元は厳島神社の本地仏で十一面観音菩薩像が安置されている他、チベット密教の僧によって製作された
  曼荼羅、弥山開山1200年の記念事業の一環として平成18年秋に建立された「金色の弥勒菩薩」公開されています。
  また、明治18年7月31日には「明治天皇の行在所」として使用され、その事が左の柱のあたりに掲げてあります。
  したがって、屋根瓦を見ると、「金色色の菊の紋」が入っています。「十六葉八重表菊紋」
宮島は瀬戸内で一番多くの「水晶」が獲れました、ここには、透明に近い巨大な水晶が展示してあります。参考までに

もともと獲れていた水晶は「茶褐色」の水晶で、約30㎝位ある大きな物でした

  戒壇めぐり・・・・・母親の胎内の様な暗闇の中に入って、今一度本質に立ち返り生まれ変わって出てくるという。

② 魔尼殿は弥山の守護神・三鬼大権現の本坊御祈祷書。弥山の三鬼堂に同じく、時眉鬼神・追帳鬼神・摩羅鬼神の三鬼神
   をお祀りしている。
   三鬼大権現は大小の天狗を従え、強大な神通力で衆生を救うとされる全国唯一の鬼神で、初代内閣総理大臣の
   伊藤博文も篤く信仰したといわれています。
   「魔尼」は、福寿とも訳し幸せな日々の暮らしと健康・長寿などを願う参拝者が絶えません。

③ 勅願堂は鳥羽天皇勅願道場として創建されたと伝えられるもので大聖院の本堂。
   豊臣秀吉が朝鮮出兵の文禄の役(1592年-1596年)の折に、海上安全を祈る為に祈願した念寺仏で、天下統一後
   に奉納された「波切不動明王」を本尊としてお祀りしています。堂内では毎日、家内安全・心願成就等の護摩祈願が行われて   います。

④ 遍照窟は大師堂の地下にあり、四国八十八箇所の本尊が安置されています
   「遍照窟」とは、世の中を平和にする為、幸せの火を「あまねく(遍)てらす(照)道場(窟)」の意味です。
   本尊の前には四国八十八箇所霊場の砂が埋めてあり、お砂踏みをすると四国霊場巡りと同じご利益があると言われている

⑤ 大師堂は本房最古の建物で、大同元年(806年)弥山を開基されたと伝わる弘法大師(空海)を祀った大師堂   その周りには、西国三十三観音・一願大師・稚児大師等が祀られた小さなお堂が取り囲むように建って居ます。
   本坊境内や瀬戸内海を見下ろす高台にあり絶景ポイントでもあります。

⑥ 霊宝館は弥山開創1200年の記念事業のいっかんとして平成18年に秋に完成した建物
  仁王門をくぐり、御成門へとつながる階段脇にあり、かつては弥山大日堂に祀られていた。
  重要文化財の不動明王や平成16年の台風で倒壊した弥山仁王門の仁王像などをここに一時収蔵していました
  現在、弥山仁王門は再建されています。




塔の岡と龍髭の松(りゅうぜん)
五重塔・千畳閣のあるこの塔の岡は、亀居山とも宮崎(平安時代)とも言われ、この尾根は社殿を風や波から守る
重要な山です。厳島合戦の折には、勝山城から移った、陶軍の本陣が敷かれた所です。
(廿日市の西行寺には蓮華松「樹齢300年」、草津の浄教寺の「臥龍山の松、左右20m、原のえんこう松)
3 「龍髯の松」、2本の黒松からなる
空に向かった幹が 2段(多宝塔)、5段(五重塔)に剪定されている。
江戸時代後期の、寛政12年(1800年)に 松岡文右衛門が植えたものである。
又此の地には料亭「遠翠楼(えんすいろう)」がありその主でもあった。


  来迎壁に書かれている
五重塔   (重要文化財)
1407年(応永14)7月の造立です(芸藩通志第15巻)。 4代将軍「足利義持」の時代に建立。
高さ約27.6m、檜皮葺、和洋と唐様を融合した見事な建造です。
内部は非公開ですが、天井や周囲の板壁には彩色されて蓮池図と白衣観音図、瀟湘八景図、真言八祖図、
が描かれています。神仏分離令までは大願寺厳島伽藍の塔で、本尊は釈迦如来像で脇士は普賢菩薩像
と文殊菩薩像でしたが現在は大願寺に移されています。内部は彩色がしてあり豪華絢爛。内陣の天井には龍が、
外陣の天井には葡萄唐草の模様が描かれています。その他壁板には迦陵頻伽や鳳凰が極彩色で描かれている
迦陵頻伽・・・・極楽にいて、美しい声で鳴くと言う想像上の鳥。
内陣天井には「龍」、 外陣天井には「葡萄唐草」、 来迎壁の、表には「蓮池」、裏には「白衣観音像」
さらに、周囲 八面の壁には「真言八祖図」「瀟湘八景図」 が極彩色で描かれている。

一層の柱は16本あり、1本ごとに寄進者の名前が書かれている(14本は女性で2本は大願寺・大聖院の僧)
擬宝珠には文正2年(1819年)の紀年名あり、2層・5層は蓮の花を逆さにした「逆蓮」で、3層・4層は蓮の花が
開いている「開花蓮」になっている、又斗束も蓮の形をしているので「握蓮(にぎりばす)」と言われる
組物から突き出る尾垂木(おだるぎ)。 これ程までに濃厚な唐様の塔は
① 尾道の天寧寺(てんねいじ)の五重塔(今は三重塔)  ②向上寺(こうじょうじ)の三重塔しかない 
他県では 長野県上田市の安楽寺(あんらくじ)の八角三重塔 しかない
風が当たると、木材は100年で3ミリ目減りすると言われており、五重塔は600年前の建物なので柱
が「貫」と交差する部分をよく見ると2センチほど、風食で目減りしているのが確認できる。
心柱が2層目で止まっていて、下まで達していないのが珍しく、2層目で止まっていることで、
振り子のように横揺れに強く、台風の風にも耐えられる構造になっています、
ここで言う「心柱」を「擦(さつ)」と言う全国で5例のみ。
①明王院(福山) ②最勝院(弘前) ③羽黒山(山縣) ④海住山寺(京都) ⑤宮島五重塔
柱上部には金欄巻(きんらんまき)と言う装飾絵あり、下を朱漆柱として1本づつ寄付者の名がある



地・・大地・地球を意味し、固い物、動きや変化に対して抵抗する性質。
水・・流動的な性質、変化に対して適応する性質。
火・・力強さ、情熱、何かをするための動機づけ、欲求などを表す。
風・・成長、拡大、自由を表す。
空・・虚空とも訳される。仏教の思想
五大を表している、
五大・・・宇宙(あらゆる世界)を構成しているとする
      五つの要素の事
日本三大名塔
①法隆寺五重塔 ②醍醐寺五重塔 ③瑠璃光寺五重塔


日本に現存する「国宝」「重要文化財」の五重塔(屋外建立)は総数で22塔ある。   巻末資料参照
国宝 9塔・・・・・屋内にある小塔を含めると11塔
重要文化財 13塔・・・屋内にある小塔を含めると14塔
小塔を含めた数では、総数25塔ある


室町時代の創建と言われる五重塔は、戦国時代に大規模な修理が行われた。初重(しょじゅう、1階部分)には釈迦如来像が安置され
周囲の板壁には空海(弘法大師)など真言宗において重要な8人の僧侶の画像が取り付けられ、また16本の柱には朱色の色彩が施され、
釈迦三尊像と朱柱の寄進者の名前が黒色文字で記されている。

初重柱銘については以下の通り
① 応永14年(1407年)7月創建、 文政8男(1825年)成立の「芸藩通史」、巻十五に記載
➁ 天文2年(1533年)3月九輪(くりん 相輪そうりん の事)の再興そして、檜皮による屋根
   の葺き替え藤原興藤(大永3年4月・1523年~藤原広就(天文10年4月・1541年)の時代

五十の塔初重の16本の、朱柱に黒い文字。
 釈迦三尊像の寄進者名。慶応4年(1868年 明治元年)神仏分離により大願寺に移される。

四枚の板扉の両脇の壁に2枚づつ計8枚の真言八祖図(シンゴンハッソズ、空海を含む)
 8人の僧侶の背景には瀟湘八景図(ショウソウハッケズ、禅宗絵画の定番)
 釈迦三尊像の本尊奥の壁壁面には白衣観音図(ビャクエカンノンズ)が描かれている。

柱の寄進者は16名の者で14名は女性・女人往生(ニョニンオウジョウ)の強い願望のもと
 女性信仰の高まりの表れ。女性は、社家(シャケ)、厳島島内の有力町民(町衆)
 廿日市の町衆(商人・職人)、社領衆(神主家の一族や家臣)

大変珍しい、五重塔を修復している写真です。私も初めて見ました



3月17日 桜尾城  3月18日厳島神社参詣、19日岩国
豊国神社(通称 千畳閣)  (重要文化財) 明治5年から千畳閣、以前は大経堂と言い、この辺りは「宮崎」と呼ばれていた
「豊国神社」は秀吉の神号(神としての名前)の豊国大明神からきている。     ようほえけい
桁行41m、梁間22m、単層本瓦葺入り母屋 木造の大径堂  安国寺恵瓊=瑶甫恵瓊が正式名
1587年(天正15)、豊臣秀吉が島津攻めの途中、厳島に参詣し将兵の戦没者供養の為、
月に一度、千部教の転読供養(読誦)をする為に大径堂を建てる様、発願し、毛利輝元の使僧
安国寺恵瓊(えけい、此の時は造営奉行)に命じ、その費用1万石を与え(今の10億円に相当する)
建てさせるが、11年後1598年8月18日、秀吉公の死(伏見城にて死去)により未完成のまま現在に至る。
(1592年文禄の役 1597年慶長の役 秀吉朝鮮出兵).
入り母屋造りの大伽藍で857畳の畳を敷くことが出来、完成していれば、金箔瓦に見られるように
豪華な桃山文化を取り入れた大径堂になっていたと思われる。金瓦(漆で金箔を押した瓦)
明治8年に大鳥居が再建された時に使われた、尺杖(しゃくつえ)があり、長さ16mあり「華表尺度」
と書かれている。この「華表」は大鳥居を表している。16mは大鳥居と同じ高さである。工事の際に、
おやつ代わりに餅をつき、きな粉をまぶしたものを「太閤の力餅」といって宮島の名物でもありました。
明治維新の神仏分離までは、ご本尊が釈迦如来像で脇士に阿難尊者と摩詞迦葉尊者が祀られていましたが、
大願寺に遷されています、現在は秀吉と加藤清正が祀られ、豊国神社となっています。
(明治5年4月に秀吉を祀り豊国神社に改める、厳島神社の末社となる)、内部には絵馬が掲げられています、
絵馬は明治33年の台風災害に遭うまでは祓殿や廻廊に掲げてありましたが、流失(33枚の扁額)や損壊の
被害を受けた為、翌年(明治34年)、千畳閣に移されました。流出は8月19日の事
厳島神社、春日大社、成田山新勝寺(千葉県)と並んで日本三大絵馬場所とされているが、   119本の柱がある
正しくは質・量・共に日本一です(170個の絵馬がある)   当初柱94本、その内
廻り縁の床は上下2段に縁板があり「二重廻縁」になっており、全国でも珍しいものである   大正6年18本根継柱
安国寺恵瓊は、毛利元就によって攻め滅ぼされた安芸国守護武田信重の遺児で、   楠24本 杉31本
毛利家・豊臣家の外交僧として活躍した。秀吉からは、九州征伐後に伊予6万石の大名に   栂(つが)39本
抜擢された人です。 安芸安国寺(不動院)の安国寺から取っている   大正年間交換柱22本
  材は檜木
国内の仏堂では唯一床下通路がある
中の神社の祭殿の横にある、2本の大きな柱は他の柱に比べ「キズ」が多く付いている、これは昔、戦争に行く人達が
「戦勝祈願」のため杓子に願い事を書き、柱に打ち付けたために付いた傷で、昔の「写真」にも残っている。
手前の大きな二本の柱には「天保15年」と読み取れる、落書きがある(現在では落書きは不許)
ここが本来なら入り口になるであろうという場所の近くの柱を見ると判るが、色は塗っていない為、
年輪と年輪の間が腐食(風化)している、これは100年で3ミリ腐食(風化)していくといわれている。床板を見ると、
「埋め木」が数多く見られる、これはこの場所が広い為昔からいろいろなことに使用されたことを物語っている。
廻縁の床は上下2段に縁板が敷いてある「二重廻縁」で、全国でも珍しいものである
風が当たると、木材は100年で3ミリ目減りすると言われており、千畳閣は400年前の建物なので柱下をよく見ると
1センチほど、風食で目減りしているのが確認できる。明治の神仏分離令により、仏を取り払い「神」を取り入れた。
     こぶしばな 38
祭壇の横を見ると、横木は「ぞうの形」に成形してある、(木鼻・掛鼻・拳鼻)、
横木は頭貫(かしらぬき)とも虹梁(こうりょう)とも言う明治5年以降、堂内の仏像は大願寺
へ移され又、木鼻2個が切り取られたことが、(右側の2つの木鼻のうち、1つの木鼻が基の位置に戻された)、
明治24年1月24日(1892)銘の墨書板に書かれている。
三つの船の舳先があるが、これは「居管絃際(いかんげんさい)」のときに使用する
昭和5・16・35・54・62年に居管絃祭が行われている(旧暦の6月には2回の閏月がある)
屋根瓦(軒丸瓦のきまるかわら)の「丸王」の金箔が張ってあるものである。 桃山時代の建物である
伏見の桃山城や聚楽第(じゅらくてい)は軒瓦に金箔を押して飾ったと伝えられる。金瓦(漆で金箔を押した瓦)。
豊国神社の軒丸瓦の模様のある所には金箔を押した痕跡があった。これに基づいて昭和60年(1985年30年前)
からの、修理工事では「金箔押しの軒瓦」が復元された。「王」の字が配せられているが、「国」の字の図案化
したものと聞いている。平瓦には桐葉の紋章あり、丸瓦を貫ける鉄釘の長さ1尺5寸(約45cm)あり。
鬼瓦には、天正17年(1589)の刻銘が読み取れる。(2年後の1591年に屋根が載っている)
424年前 1587年から4年後にあたる
昭和60年(1985年)からの修理工事で金箔押しの軒瓦が復元、平成元年(1988年)屋根修理工事が竣工し、軒丸瓦
が金箔瓦となる(3年後)
大径堂」「千畳敷
」と呼ばれる
③ 明治5年4月から「千畳閣」と称す
④ 明治43年特別保護建築物に指定され「豊国神社本殿」と称す


秀吉の造った経済都市
秀吉の行った最大の事業は、貨幣経済(又は流通経済)について徹底的な合理化を行った事
国内の重要な商品(米・木材)の市を「大阪」に置いた。あらゆる重要商品の取引は大阪で行わなければならなかった。
大阪せ「相場」が立ち、それが全国の値段になった。 日本最南端の米も、最北端の米も「大阪」に運ばれ相場が立ち
再び全国に配られた。その為「海運業」が発展した。
この様に、秀吉は全国経済の唯一つの「核」を大阪に沖事によって日本中を支配した。

例として、九州「島津」をあげると、
九州全州を支配していた「島津」を秀吉は全力を挙げて討つ。
やり方は相手の息の根を止めるのではなく、あくまで「戦争」を外交の手段として使い、相手に致命傷をおわせる事無く
戦争終結させる「名人」であった。
島津を元の領地(鹿児島)に閉じ込めてしまうが、島津は秀吉を恨まなかった。なぜか
島津は実は経済的に困っていた、大きく膨張した家臣団たちを、鹿児島一つで、養うのは無理であった為。
秀吉の、奉行の一人「石田三成」が島津に対する事務的な終戦処理をおこなった。
内容は「財政思想を転換すれば、小さな領土でもやっていけます」と言って、大きな方法と、小さな方法を教える。
大きな方法
   米等の重要な商品は、領内での消費分を除くすべてを、大阪の市場に運んで現金化する

小さな方法

   帳簿の作り方。近代的な簿記の様に精密なものではなかったが、その祖形とも言うべき帳簿思想を島津に教える

吉の城造りにおいて、完成後にはそこには、城下町が出来ていた。
作事人には、当時としては珍しい、「銭」によって労働の対価を支払った。すると、そこには店が出来、店が出来ると
更に人が集まり、商人が集まり、町が出来上がっていた。

城の構造の基礎は「石垣」であり、石垣をさまざまにめぐらす事で外郭を作り出す。
この外郭は当時(1600年代秀吉の時代)の建築用語で「惣構(そうがまえ)」と呼ばれた
当時は、土木の事を「普請(ふしん)」と言い、建築の事を「作事(さくじ)」と言った。
土木技術の方が建築よりも高度とされた。
当時の秀吉は「土木家」と言われて良いほどに十分な経験を持っていた
「大阪城」のマスタープランは「秀吉」が作った。なお秀吉の政権が誕生したのは1582年である。

大元公園 モミの原生林  弥山の登山コース  厳島八景の一つ  大元桜花

大元神社 重要文化財 ・摂社 ・三間社流れ造り ・板葺、
本殿の玉殿は嘉吉3年(1443)の造立、本殿は大永3年(1523年)の再建
ご祭神は、国常立尊、大山祗尊、保食神(うけもちのかみ)などで3神で、厳島神社よりも一番古くからお祀り
している神社。(地主神と言われている)。屋根は杮葺(こけらぶき)で大変珍しい、六枚重三段葺「大元葺」
と呼ばれている。壇葺・・・杮板の屋根面に木の桟が打たれ壇葺になっている
中世の絵巻物の中でしか見られないもので、現存する唯一の建物である。
毎年1月20日、百手祭が行われ、神餞(しんせん)は古い形式を残し、熟餞(じゅくせん)である餝飯(ほうはん)を
お供えします。百手祭の中で「鬼射」がおこなわれ、終わると直会(なおらい)がおこなわれる、「直会」に
「餝飯ホウハン」を食べる。流鏑馬神事が行われる。厳島八景の一つ「大元桜花」として、名所になっていた所
御島巡りを無事成就したお礼に、大元神社に額「報賽額(ほうさいがく)」を奉納する慣わしがある。
大元神社の奥にはあせ山(血山)があった。他にも不動堂の山側にあった。厳島服忌令が発布される
1684年江戸幕府による「服忌令」が発布、26年後の1710年には「厳島服忌令」が発布される(喪に関する法令)
1710年2月 江戸服忌令あり



宮島歴史民俗資料館(旧江上家住宅) 国指定登録文化財
江上家は醤油の醸造販売を営み、幕末には島内でも並ぶ者がないほどの豪商で
あったとされる。厳島神社廻廊の出口の石橋や、もと国民宿舎みやじまの杜の宿前
の石灯籠は江上家の寄進によるものである。
主屋は1840年代に建てられたと言われている、江戸時代の特徴ある宮島の民家
の姿をよく伝えている。(170年前の建物)
二位の尼像、色楊枝 誓真が作った「杓子」
江上家の「玄関・旧台所」にも、台所の天井に「エツリ」を見ることが出来る
竹割りを編んで要所要所を垂木に釘打ちで打ち付ける工法

粟島神社 末社
滝小路にあり、商業・醸造・医薬の守護神で、諸々の病気平癒・家内安全の神です
男神ですが、女性の守護神で特に安産の神として信仰が篤く、5月3日に例会が行われる
御祭神は「少彦名命すくなひこなのみこと」で安産、家内安全で、女性の信仰が
篤い神社。例祭は5月3日で参拝客が絶えない。
神社裏から大聖院に至る白糸川に沿う、滝町は宮島で最も早く家が建ったと
言われ、石垣のある道路の山側には神社に仕える神職の屋敷や寺院が並んで
いた。上卿屋敷など


上卿屋敷 国指定重要文化財建造物 入母屋造 江戸時代の神職の屋敷 鹿戸
上卿は棚守、祝師(ものもうし)などとともに、厳島神社を司る主要な神職の一人であった
石段を上がると表門があり、このもんの形式を「薬医門やくいもん」と呼ぶ、門に打ち付けられた
祈祷札から17世紀元禄期に建てられたことが判る。この庭は江戸時代中期の
「池泉鑑賞式」の庭園と云われ、広島県内の名園の一つに数えられている。

元禄16年(1703)頃建てられたもの、
昭和48年宮島町は林家住宅を「町文化財」に指定。
昭和53年1月21日に敷地と共に国の重要文化財に指定
昭和58年に復元整備が完成する
がんぶりがわら
屋根は桟瓦葺である、棟は瓦を積み上げないで、大きな「雁振瓦」
を伏せてあるだけである。かつては宮島の民家ではよく見られた
棟工法であったが、今ではほとんど見ることは出来ない。
入母屋の中の妻飾りは「扠首(さす)」と「扠首束(さすずか)」である。
民家でこれを設ける事は珍しい。(神職の屋敷であるからかも知れない)
懸魚は「切懸魚」で寺社のものとは違っている。
玄関上には千鳥破風があり、懸魚は「蔐懸魚(かぶらげぎょ)」である
鰭(ひれ)はかなり込み入った若葉の絵菜の彫刻で「室町時代末期」の風格がある。
台所の天井には「エツリ」を見ることが出来る
竹割りを編んで要所要所を垂木に釘打ちで打ち付ける工法
江上家の「玄関・旧台所」にも見ることが出来る

宝蔵 重要文化財 寄棟造 桧皮葺
校倉造りの建物、当初から「神庫」と称して神社に奉納された宝物を収蔵していた。日本で31棟ある(国宝11棟)
校倉造りの巧みな防湿効果によって宝物を守ってきた、壁を形成する「校木」は外気の乾湿の度合いによって、
その重ね目が開閉する、こうして内部の空気の流れを良くし、湿気を防いできたのである。東大寺の正倉院と同じ
1168年には既に出来ていた(平家納経は1164年に奉納されている)その他、多くの美術工芸品などの宝物
は、平安期以来800年間この中に大切に保存されていた。
昭和40年に厳島神社収蔵庫が出来るまでは、国宝「平家納経」をはじめとする、数多くの珍宝の類がこの中に
厳重に管理されていた。江戸時代には前面に「拝見所」が設けられ、参拝者が宝物を拝観していた。
7月7日の虫干しの日に際しては、本社に宝物が並べられ参詣の人々は拝観する事が出来た。
また、この日が夏市の最終日であった
校倉造 現在日本では31棟ある その内「国宝の校倉造は11棟」ある、
奈良時代はこうそう(校倉)と呼ばれていたが、やがて訓読みで「あぜくら」となる

正倉院(756年6月21日建立)、今から約1260年前
100年ぶりとなる大修理が平成26年10月に終わる(3年2ヶ月かかる)。瓦35、000枚の内、8世紀の
瓦が843枚残っていた。その内状態の良い瓦279枚はそのまま使用する。

「校倉造り」
湿度により壁が伸縮し、内部の湿度を保つと言われているが、近年は「実際には伸縮しない」との説は一般的だ。
しかし、今回の修理で梅雨時に埋めた壁の隙間が、秋には開いているのが確認された。
「1200年以上たっても木は生きている」、定説の復権につながると思われる・
宝蔵
室町時代初期(14世紀ごろ)の造営と思われ,
天正16年(1588)に毛利輝元が,慶長15年(1610)に福島正則が修理している。
昭和9年(1934)に現在の宝物館(登録有形文化財)ができるまで,
国宝平家納経をはじめとする神社の宝物が収蔵されていた。

校倉造 現在日本では31棟ある その内「国宝の校倉造は11棟」ある、
奈良時代はこうそう(校倉)と呼ばれていたが、やがて訓読みで「あぜくら」となる
「校倉造り31」の時代別内訳は以下の通り
奈良時代  7棟 室町時代  5棟 また31棟のうち 13棟が不等辺六角形。  
平安時代  2棟 桃山時代  3棟 18棟が不等辺五角形 となっている
鎌倉時代  2棟  江戸時代  12棟
鎌倉時代は六角形で(厚さが薄く)、
室町時代になると五角形で(厚さよりも高さが高くなる)
厳島の宝蔵は、五角形の断面をした木材を組み合わせた校倉(あぜくら)としては最古の建物であ
藩主や幕府の巡見使などの来島社参に際しても「宝蔵」の宝物拝観が定例化していた
長崎奉行は任地への往路・復路で厳島に来島し、社参・宝物拝観をする事が慣わしと成っていた。
元禄10年(1697年)7月7日の虫干しの日に際しては、本社に宝物が並べられ参詣の人々は拝観する事が出来た。
明治30年(1897年) 現在の社務所付近に「宝物陳列館」が建設される
昭和9年(1965年)には現在の宝物館が竣工する
昭和40年(1934年))には厳島神社収蔵庫が完成、宝蔵にあった物が移される

三翁神社 摂社
一間社流造の桧皮葺、 桃山時代の様式を持った本殿三社が並び、
入り口には宮島で唯一の銅製の明神鳥居
平安時代清盛が、比叡山延暦寺の鎮守の山王社(日枝神社)から勧請したと伝えられている
当初の祭神は、佐伯の翁・岩木の翁・所の翁であったと伝えられている。
祭礼は毎年10月23日で祭典中に舞楽が奉奏される(舞楽を見ることの出来る陸上の神社)。この場所は
昔「坂本」と呼ばれていて、比叡山の山の麓「坂本の山王」「明治以前は、山王社といわれていました」を
勧請したといわれています。江戸時代には傍らに常設の芝居小屋があり、大変賑わっていました。常設になる
のは元禄期からと云われ、「御垣ヶ原(みがきがはら)」と呼ばれていた神社裏にあった。大芝居と称した歌舞伎
ばかりでなく、曲芸や人形浄瑠璃などの演じられ、神社にちなみ「明神座」と呼ばれていた
ご祭神は以下のとおり

中央 佐伯鞍職、所翁(ところのおきな)、岩木翁、安徳天皇、二位の尼、
大綿津見命(だいわたつみのみこと) (いわのきのおきな)、
左殿 大巳貴命(おおなむちのみこと)、猿田彦神(瓊瓊杵尊が天孫降臨した時、道案内した神様)
(向かって右)
右殿 竹林内侍(たけばやしないし)、徳寿内侍(とくじゅないし)  御子内侍(みこないし)
(向かって左) 上﨟順では
1番竹林内侍 2番徳寿内侍 3番御子内侍 となる

内侍の中では一番トップの内侍である
現在の久保町(神社を出て左側の商店がある、白糸川が紅葉谷川と合流しているあたりの裏通り辺りを言う)に①竹林内侍 ➁御子内侍 の住まいがあった

                             ここに平清盛の御霊が祀っててあった・・・今は清盛神社に祀ってある。
話は戻り
この辺りは島内では数少ない平地で「御垣ヶ原」と呼ばれていた
宮島歌舞伎は江戸時代の中期には既に歌舞伎芝居として行われていた.富くじもあり
1682年刊行の、井原西鶴の「好色一代男」に宮島への旅興行の歌舞伎芝居が載っている事から江戸時代の中期には
歌舞伎芝居が行われていた。6月の夏市(管弦際)の宮島芝居は好評を博し、1825年(文政8年)には、全国の芝居を
番付けにした,「諸国芝居繁盛数望(くにぐにしばいはんじょうすもう)」では前頭5枚目に位置づけられていた。
こうして宮島は歌舞伎・浄瑠璃のみならず、瀬戸内海西部地域の芸能文化の中心地の役割を果たしていた。
義太夫の創始者で初代竹本義太夫もここ宮島の小屋で芸道精進したと言われている。
1800年代からの触れ込み番付口上錦絵には、来援俳優の名前があり
天保6年(1835年)市川海老蔵、天保12年(1841年)尾上(おのえ)菊五郎などが来援公演していた。
特に市川海老蔵はたびたび来演し
七代目 市川海老蔵 8代目 団十郎は神社の永代常夜灯を奉納している
千畳閣にはその奉納額が掲げられている。
「厳島絵馬鑑(天保3年1832年刊行)に、初代及び二世の市川団十郎の芝居絵(元禄17年)が
「俳優竹抜五郎の図」として回廊に掲げられていたとあり、これを市川海老蔵が見たと記されている


1682年刊行の、井原西鶴の「好色一代男」に宮島への旅興行の歌舞伎芝居が載っている事
から江戸時代の中期には歌舞伎芝居が行われていた。
6月の夏市(管弦際)の宮島芝居は好評を博し、1825年(文政8年)には、全国の芝居を番付けにした
「諸国芝居繁盛数望(くにぐにしばいはんじょうすもう)」では前頭5枚目に位置づけられていた。
こうして宮島は歌舞伎のみならず瀬戸内西部地区の芸能文化の中心の役割を果たしていた。

反り橋を過ぎた辺りは、昔「お花畑」と呼ばれ、桜の名所であった。


素戔鳴尊(厄払い)
大国主命(縁結び)
少彦名命(病気・平癒)
猿田彦神(交通安全)

春市(桃花祭)  3月1日~4月8日 39日間
夏市(管弦祭)  6月10日~7月7日 27日間
秋市(菊花祭)  9月10日~9月30日 20日間

寛永9年(1632年)の春市において
浅野藩主が、羅紗(厚手の毛織物)、砂糖、虎の皮、などを買い上げている。
当時これらは日本では生産出来ないものばかり、つまり外国の貿易品が流通する程、
宮島では商業が盛んであった



現在の社務所辺りは、昔「明神座」があった所で厳島大明神にちなんで名付けられた。
琴平・出雲・宮島、が西の三大歌舞伎で 宮島で500両、琴平で500両、取って千両役者と言う・・・・・説がある

三季の祭り、 春(桃花祭)、 夏(管絃祭)、 秋(菊花祭)は 祭礼市を継承するもので
羅紗(らしゃ)、虎革(こひ)、繻珍(しちん)、白紗綾(しろさや)、白砂糖等、江戸時代の初期、
船載品が売買されており、鎖国以前には貿易市場となっていた。

宮島奉行所跡   寛永12年(1635)、広島浅野藩は宮島に奉行所を置き、明治維新まで町方として支配した


現在の五重塔の山側前にある大きな古民家があるあたりにあった。
浅野藩の支配は①町と在(ざい)郡村農村(年貢徴収)②浦方(海辺島の郡村、船奉行の配下・船を動かす)
に区別、町政は①広島城下 ②三原 ③尾道 ④宮島の4町  宮島奉行は38名が在任する
(1635―1868年、233年間)

幸神社 厳島神社末社道祖神社   午王社(ごおうしゃ)・・・かっての名前
ご祭神は猿田彦神で道祖神、町も幸町と言い、かつては神社の前の通りに金鳥居があったと言い伝えられ、
「芸洲厳島図会」にその絵が書かれている。 (新暦9月12日)
例祭は旧暦の8月15日である。この日は「ススキ」と「萩」が配られ、神社の中を見ることが出来ます。
神社の裏には「陰陽石・・陰石(女石)  陽石(男石)」があり、道祖神のご神体と云われ道祖神社とも
呼ばれています。子宝の神、疫病や火難・水難を封じる神、日々の幸いをもたらす神,として大切に崇め
られている。導きの神、旅の神、安産子宝、夫婦和合の神(縁結びの神とも言われる)、
鳥居の横には、往来安全・碑(石灯籠)が在り、「往来安全」「天保二(1831)年辛卯(かのと・う)三月吉日」
と書かれている。 (180年前)
一間社流造の本殿と拝殿・幣殿があり、また石造りの四脚鳥居がある、石の玉垣を前面に造っている、
その石段を降りた所に未完成の鉄鳥居(金鳥居?)がある。昔はこの辺りに辻君(立君)がいたと伝えられている。
入り口に明治30年(1896)の石鳥居あり、「芸洲厳島図会」にも同一場所に見ることが出来るが、
笠木の屋根の部分が桧皮葺の様に見えるので、当時は木造の鳥居であったと推測される。
前には「往来安全」と記す「天保2年(1831)」銘の石灯籠1基ある、厳島図会にはこの場所には石灯籠は
描かれていないので他の地点から移動してきている。厳島図会発行は天保13年1842年)
玉垣(天保6年1835年)銘あるが、これも厳島図会には描かれていないので他よりもってきている。

金鳥居(かなとりい)
高さ5丈(15m)、鉄にて、回り8尺(2.4m)、神前より3町(327m)御王前(ごおうまえ)と言う所にあり、
即ち金鳥居の町と云う1800年には幸神社

宮島「幸神社」の中には、木造りの向かって右に「角のない獅子で口を開けた阿形」
「左には角のある狛犬で吽形」,木造りの獅子・狛犬を一対、本殿「大床」に置いて御扉を守るのは、
平安時代の伝統をふまえたものである。
宮島遊郭跡   神社本殿では廻縁の事を「大床」と言う
桟橋前の「潜龍門(センリュウモン)」の入り口辺りに大門があったと伝えられている。
江戸中期の全国遊郭番付けには前頭3枚目にランクされるなど広くその名が知られていた。











































































































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