神海(シンカイ)‐ハルノウミナナキソナキソ…arena8order 慧會隴

私腹ノート。黒革の…It's wonderland!!!

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TraMasa Tanaka…Republk In.don.

2013-10-22 15:48:13 | 日記
#КРОМХФθ #Naska #Nix. #Ncsca #ApacheXMai #Nascatoras #rayTailangKahn.

TraMasa Tanaka… #Republk_In.don.

ロッキー~マレーシア~秩父潜伏戦犯。 → Rocky-Malaysia-Chichibu hiding war crime.

ベトナム戦争時、韓国軍第3保管衛生班班長豸昧畏…大柄なライタイハン。 → At the time oftheVietnam War,it isthethird Korean military Safekeeping,hygiene squad,group leader- 豸昧畏(Timaii). Large rye Thailand Kahn.

ベトナムのダルマ強姦魔。 → AVietnamese Dharma doll rapist.

ベトナムで小柄な男性を殺害し、首や目ををすげ替えた。 → Killedasmall-sized man in Vietnam and exchanged neck and eyes.

第一次世界大戦中、pyonyang.に近付き、利用。 → During World War I, approach pyonyang. and use it.

「モンゴルの司馬」と名乗る男の女(実は男性)の「ウメ(馬萠)」の共犯の男。 → Aman ofthecomplicity of"theplum"(馬萠)ofthewoman(in fact,male)oftheman named"theMongolian government position in ancient China."

大戦中のドイツで「耕運機」を改造した「偽日本軍車両」の後ろの方に座っていた「キツネ目」の男。 → Theman of"thefox eyes" which sat down on towardstheback of"thefalse Japanese military vehicle" whichIremodeled"thefarm tractor" into in Germany duringtheGreat War.

日本の「吉田叉三鳬稜」と名乗って居た人の殺害教唆犯である。 → It isthekilling abettor oftheperson who had "Matasaburou Yoshida" and self-introduction of Japan. Playasmall-sized "brain fever" old woman now,;butthehabitual offender of"thedrug with stimulant."

今は小柄な「脳症」老婆を演じているが「覚醒剤入りドラッグ」の常習者。 → Playasmall-sized "brain fever" old woman now,;butthehabitual offender of"thedrug with stimulant."


顔と首から下の肌質が違うので分かる。 → Quality of lower skin is identified asaface in different one fromaneck.

癘病や人食いバクテリア等で異常な体でも分かるらしい。 → Seem to understand evenanabnormal body in Leprosy(Hansen's disease) or flesh-eating bacteria.

大井の貨物倉庫群に居ると判明。 → Proved to be inthefreight warehouse group of Ooi.

アンテナは全て破壊して頂きたい。 → Want you to destroy alltheantennas.

私の亡くなった祖母の「横浜かほる」を偽る、LGの初代社長の実弟。 → Atrue younger brother of President Hatsuyo of LG feigning "Yokohama Kaoru" of my late grandmother.

生まれ変わる為の準備をしているらしい。 → Seem to get ready to be rebeared.

その為に日本国内での「クーデター」と偽る強盗犯罪等の教唆を止めない。 → Therefore not stoptheinstigation such as robbery crimes under the pretense of"acoup d'etat" in Japan.

今は「朝鮮ドラッグの紅蓮(Goolen.)」のMariaTanabe.39歳と偽っているが来月3日に104歳になるアメリカ国籍だった"Tra Masa Tanaka"。 → "Tra Masa Tanaka" of the 7year's ago United States nationality which pretend to be Maria Tanabe.39 age of "flaming red (Goolen.) oftheKorea drug" now,but becomes 104 years old on next month 3.

グリーン・カードでアメリカ国籍を取得したが、5年以上、連絡が取れなかったのでアメリカ国籍を剥奪され、今は「モスキーノ」と呼ばれるエリアの国籍である。 → Acquired American nationality byagreen card,but because did not get communication,more than five years,United States nationality is deprived of and isthenationality ofthearea called "Moschino" now.

元々は「アパッチ・ナスカ・マチュピチュ・インドネシアン」と呼ばれる東南アジアでも国を持たない「漂流民族・流浪の民族」と呼ばれるアジアの人種でも朝鮮人でも無い種族である → Originally evenaKorean isthefamily which there is not bytheAsian race called"adrifting race, thenomadic people family" which does not haveacountry in Southeast Asia called "Apache Nazca Machu Picchu Republic of Indonesia; Republik Indonesia; Indonesia" either.


単語ごとの対訳

日本語
英語での表現

らい病
leprosy

ハンセン病
Hansen disease; Hansen’s disease

グリーンカード
green card

アメリカ
USA; America; United States of America; U.S.A.

国籍
nationality; citizenship

取得した
obtained


grade; year

以上
the above

連絡
connexion; junction; connection; correspondence; communication; contact


appropriation; obtaining

なかった
did not

アメリカ
USA; America; United States of America; U.S.A.

国籍
nationality; citizenship

剥奪
deprivation

今は
now

モスキーノ
MOSCHINO

と呼ばれる
called

エリア
area

国籍
nationality; citizenship

である
be

日本語
英語での表現

元々
originally

アパッチ
Apache

ナスカ
Nasca

マチュピチュ
machu picchu

インドネシア
Republic of Indonesia; Republik Indonesia; Indonesia

と呼ばれる
called

東南アジア
Southeast Asia


state; land; nation; country

持たない
do not have

漂流
drift

民族
race; people; nation

流浪の民
wandering people; nomadic tribe


group

と呼ばれる
called

アジアの
Asian

人種
race; ethnic group

朝鮮人
Korean

無い
unowned, ownerless

種族
tribe; stirp

である
be


http://ireashukinz.blogspot.com/2011/12/blog-post_12.html?spref=fb

『動物園にできること「種の箱舟」のゆくえ』川端裕人(文集文庫) → ireashukinz.blogspot.com

"Whereabouts Hiroto Kawabata(collection of works library)ofthething "ark ofthekind" made inthezoo"



「他人になりすます」に関連した英語例文の一覧 - Weblio英
http://p222.pctrans.mobile.yahoo-net.jp/fweb/0927iW2hFBzgqCDu/0?_jig_=http%3A%2F%2Fejje.weblio.jp%2Fsentence%2Fcontent%2F%25E4%25BB%2596%25E4%25BA%25BA%25E3%2581%25AB%25E3%2581%25AA%25E3%2582%258A%25E3%2581%2599%25E3%2581%25BE%25E3%2581%2599&_jig_keyword_=%90%AC%82%E8%8D%CF%82%DC%82%B7%20%97%E1%95%B6&_jig_done_=http%3A%2F%2Fsearch.mobile.yahoo.co.jp%2Fp%2Fsearch%2Fpcsite%2Flist%3Fp%3D%2590%25AC%2582%25E8%258D%25CF%2582%25DC%2582%25B7%2B%2597%25E1%2595%25B6%26b%3D3%26trans%3D1&_jig_source_=srch&guid=on

火消し 「架章: 鍛治と剣跨はエエドワードの派名」? 其の弐

2013-10-22 14:29:36 | 日記




江戸の町火消[編集]

店火消[編集]

店火消(たなびけし)は、町人が自身で組織した火消[注釈 13]。

幕府は町人地の火事に対し、慶安元年(1648年)に「各町に人足を10人ずつ備えておくこと、消火に参加したものには褒美を・参加しなかったものには罰を与える(要約)」との触を出した。

こうして火事の際に動員された町人を店火消あるいは駆付火消(かけつけびけし)と呼ぶが、武家火消のように制度化されたものではなかった。

明暦の大火後の万治元年(1658年)、南伝馬町など23町が火消人足167人を集め、共同で消火に当たる取り決めの火消組合を設ける。

この火消人足は町名と印のついた羽織を着用するなど、後の町火消の原型といえる。

幕府もこの火消組合を認め、他の地域にも同様の活動を求めた。

しかし、火消人足の常時雇いは負担が大きいことから、23町以外には広がりを見せなかった。


町火消[編集]

名所江戸百景より「馬喰町初音の馬場」中央に町火消の火の見櫓[9]

町火消(まちびけし)は、第8代将軍徳川吉宗の時代にはじまる町人による火消。

財政の安定化が目標の一つとなった享保の改革において、火事による幕府財政への悪影響は大きいため、消防制度の確立は重要な課題となった。

享保2年(1717年)に南町奉行となった大岡忠相は、翌3年に名主たちの意見も取り入れ、火消組合の組織化を目的とした町火消設置令を出す。

町火消は町奉行の指揮下におかれ、その費用は各町が負担すると定められた。

これにより、火事の際には1町につき30人ずつ、火元から見て風上の2町と風脇の左右2町、計6町180人体制で消火に当たることになった。

しかし、町の広さや人口には大きな差があり、地図上で地域割りを行なったものの、混乱するばかりでうまく機能しなかった。

享保5年(1720年)、地域割りを修正し、約20町ごとを1組とし、隅田川から西を担当するいろは組47組と、東の本所・深川を担当する16組の町火消が設けられた。

同時に各組の目印としてそれぞれ纏(まとい)と幟(のぼり)をつくらせた。

これらは混乱する火事場での目印にするという目的があったが、次第に各組を象徴するものとなっていった。

享保15年(1730年)には、いろは47組を一番組から十番組まで10の大組に分け、大纏を与えて統括し、より多くの火消人足を火事場に集められるように改編した。

一方で各町ごとの火消人足の数は負担を考慮して15人へ半減され、町火消全体での定員は17596人から9378人となった[17]。

のちに、「ん組」に相当する「本組」が三番組に加わっていろは四八組となり、本所深川の16組は北組・中組・南組の3組に分けて統括された。

元文3年(1738年)には大組のうち、組名称が悪いとして四番組が五番組に、七番組が六番組に吸収合併され、大組は8組となった。

この年の定員は10642人で、そのうち鳶人足が4077人・店人足が6565人であった[18](鳶人足と店人足の違いについては後述)。

町火消は毎年正月の1月4日に、各組の町内で梯子乗りや木遣り歌を披露する初出(はつで)を行なった。

これは、定火消が行なっていた出初に倣ってはじめられたものである。

いろは組とその纏(落合芳幾)


いろは組[編集]

いろは四八組は、いろは文字をそれぞれの組名称とした(「い組」「ろ組」「め組」など)。

いろは文字のうち、「へ」「ら」「ひ」「ん」はそれぞれ「百」「千」「万」「本」に置き換えて使用された。

これは、組名称が「へ=屁」「ら=摩羅」「ひ=火」「ん=終わり」に通じることを嫌ったためであるという[注釈 14]。

いろは四八組のうち、「め組」は文化2年(1805年)に「め組の喧嘩」を引き起こしたことで知られ、明治時代には竹柴基水の作で歌舞伎の演目『神明恵和合取組』にも取り上げられた。


橋火消[編集]

町人により組織された火消としては、享保7年(1722年)に成立した橋火消(はしびけし)もあげられる。

これは橋台で商売をしていた髪結床に、橋梁の消防を命じたものである。

橋の付近に多く設けられていた髪結床の店は、粗末なものが多く火事の際に飛び火の危険があるため、撤去するか地代を徴収して橋の防火費用に充てることが検討されていた。

これに対し髪結床の職人たちは、自身で火消道具を揃え橋の防火を担当したいと申し出る。

町奉行大岡忠相はこの申し出を認め、髪結床による橋火消が成立した。

また、近くに橋のない山の手の髪結床は、火事が起きたら南北の町奉行所に駆けつけることが命じられた。

享保20年(1735年)、橋の防火担当は町火消へと変わり、火事の場合髪結床の職人はすべて町奉行所に駆けつけることとなった。

のちに天保13年(1842年)、天保の改革により髪結床組合が解散すると、町奉行所への駆けつけは名主たちに命じられている[19]。

幕末にかけての町火消の活動[編集]

町火消の出動範囲は、当初町人地に限定されていた。

しかしいろは組成立時には、町人地に隣接する武家地が火事であり、消し止められそうにない場合は消火を行うこととなった。

享保7年(1722年)には2町(約218m)以内の武家屋敷が火事であれば消火することが命じられる。

以降も享保16年(1731年)に幕府の施設である浜御殿仮米蔵の防火が「す組」などに命じられたことをはじめ、各地の米蔵・金座・神社・橋梁など重要地の消防も町火消に命じられていった。

延享4年(1747年)の江戸城二の丸火災においては、はじめて町火消が江戸城内まで出動することとなった。

二の丸は全焼したが、定火消や大名火消が消火した後始末を行い、幕府から褒美が与えられた。

以後も天保9年(1838年)の西の丸出火や同15年(1844年)の本丸出火などで江戸城内へ出動し、目覚しい働きを見せたことにより、いずれも褒美が与えられている。

幕末には、定火消が1組のみに改編されるなど武家火消が大幅に削減され、江戸の消防活動は完全に町火消へと委ねられた。

さらに、町火消の活動は消防のみにとどまらず、黒船来航時には市中警備を、戊辰戦争時には治安維持活動も行なっている。

また、元治元年(1864年)の長州征討において、長州藩江戸藩邸の破壊が町火消に命じられており、鳥羽・伏見の戦い敗北後には町火消に兵事訓練を行なうなど、衰退する幕府に兵力として組み込もうとする動きもあった[注釈 15]。

明治5年(1872年)、新政府によって町火消は消防組39組へと改められ、その活動は現在の消防団へと繋がっていく。

のちに大正元年(1912年)、町火消成立以降に殉職した火消の慰霊と顕彰を目的とし、浅草寺に「消防殉職者表彰碑」が建立された。

第2次世界大戦までは11月3日に、戦後は5月25日に慰霊祭が行なわれている[注釈 16]。


江戸以外での火消[編集]

江戸以外の大都市や各藩の城下町でも、火消は存在したが、江戸のように大規模で制度化されたものとはならなかった。

例外的に加賀藩前田家の本国金沢の町では、1000石以上の藩士10名を火消役とし、火の見櫓を備えた屋敷に常時火事装束で待機させるなど、消防組織が整備されていた。

町内には82箇所もの火の見梯子が設けられ、家々の屋根には水を入れる天水桶が常備されていた。

風の強い日には町人に男女を問わず火の用心の巡回をさせるなど、江戸よりも進んだ防火体制がとられていた。

江戸において加賀鳶が活躍した背景には、こうした加賀藩の充実した防災制度があるという[22]。

明治維新後、東京(江戸)では町火消を消防組に改編し制度化していたが、全国的に統一された規則は作られなかった。

そのため、東京以外での消防組織は、各市町村の条例により、あるいは私的に設けられていた。

この状態は、明治27年(1894年)に消防組規則が制定され、警察署長が監督する官設消防組が誕生するまで続いた[23]。


火消人足[編集]

臥煙[編集]

臥煙(がえん、臥烟)は定火消に召し抱えられた火消人足。

定火消が火事場で行なう消火活動の主力である。

消防のために雇われた丸抱えであり、他に鳶などの本業を持っていた町火消の火消人足とは異なる。

火事場で死亡した臥煙は、四谷にあった臥烟寺(現存していない)に葬られた[24]。真冬でも法被1枚で過ごし、全身に彫り物をしたものが多かった。

普段は火消屋敷の大部屋で暮らしていたが、博打や喧嘩で騒動を起こすこともあった。

臥煙は必ず江戸っ子でなければ採用されず、髷は奴銀杏(やっこいちょう)という、特殊な粋な結い方をした。

出動の時には、白足袋に、真新しい六尺の締め込みをつけ、半纏一枚だけで刺し子すらも着ない。

また、町に出ては商家に銭緡(ぜにさし)[注釈 17]を押し売りし、購入しなかった商家に対しては報復として、火事のときに騒動に紛れその家屋を破壊するなど、町人には評判の悪い存在であった。


店人足と鳶人足[編集]

町火消の構成員は、当初地借・店借(店子)・奉公人など、店人足(たなにんそく)と呼ばれる一般の町人であった。

これは、享保4年(1719年)に名主に対し、鳶職人を雇わないようにとの触が出されていたためである[注釈 18]。

しかし、江戸時代の消火活動は、延焼を防ぐため火災付近から建物を破壊していくという破壊消防が主であり、一般の町人よりも鳶職人に適性があることは明らかであった。

名主たちの、大勢の店人足を差し出すよりも少数の鳶を差し出した方が有効であるとの訴えもあって、町火消の中心は鳶を生業とする鳶人足(とびにんそく)によって構成されるようになっていった[注釈 19]。

鳶人足に対しては、町内費から足留銭[注釈 20]をはじめ、頭巾・法被・股引などの火事装束も支給されていた。

また、火事で出動した場合には足留銭とは別に手当てが支給された。

火事が起こると、定められた火消人足のうちからまず鳶人足を出動させ、大火の場合は残りの店人足も出動させた。


町火消の構成[編集]

町火消は町奉行の指揮下に置かれ、町火消を統率する頭取(とうどり、人足頭取)、いろは組などの各組を統率する頭(かしら、組頭)、纏持と梯子持(合わせて道具持)、平人(ひらびと、鳶人足)、土手組(どてぐみ、下人足、火消の数には含まれない)といった構成になっていた。

頭取には一老・二老・御職の階級があり、御職は顔役とも呼ばれ、江戸市中で広く知られる存在であった。

江戸全体で約270人いた頭取[注釈 21]は、力士や与力と並んで江戸三男と呼ばれ人気があり、江戸っ子の代表でもあった[27]。


喧嘩[編集]

火消人足による喧嘩は、火事場での喧嘩と、火事とは無関係な喧嘩とに大別できる。

前者は火消人足同士による消火活動時の功名争いが主な原因であり、消口争い(けしくちあらそい)と呼ばれた。

後者は火消人足の気性の荒さや地元での縄張り意識などが原因であり、喧嘩相手も同じ火消人足とは限らない。

町火消同士での喧嘩では、死者が出たり、仲直りのため多大な費用をかけた手打式が行なわれたりと、大きな騒ぎになることも度々であった。

文政元年(1818年)の「ち組」と「を組」の手打式では、両国の座敷を借り上げ、江戸中の組合から1000人を越える人々が集まり、決められた作法と口上によって朝から夕方まで盛大に行なわれている[5]。


消口争い[編集]

火消が火事場に到着すると、組の名前を書いた木札(消札、けしふだ)を近所の軒先に掲げ、纏持を屋根に登らせて集合の目印にするとともに、誰が活動しているのかを知らしめた。

消札は褒美を受けるときの証拠でもあったため、後から駆けつけたにもかかわらず自身の組の札と勝手に取り替えるもの、纏持を屋根から無理やり降ろして自身の組で火事場を乗っ取ろうとするものなどが現れ、肝心の消火活動をせずに喧嘩をはじめることも頻繁であった。

幕府はしばしば触を出して火事場での喧嘩を禁止したが、江戸時代初期には武家火消同士で、町火消誕生後は武家火消と町火消で、武家火消が衰退すると町火消同士で、といった具合で功名争いは絶えず、喧嘩がなくなることはなかった。

享保3年(1718年)、定火消と加賀鳶の間に起きた喧嘩では、現場での消口争いから始まり、死者を出した定火消側の仙石兵庫が加賀藩主前田綱紀に賠償を求める事態となる。

老中への訴え、町奉行大岡忠相による調査と続き、最終的には将軍徳川吉宗が仙石兵庫に厳重注意を与える結末[注釈 22]となる、大騒動であった。


め組の喧嘩[編集]

詳細は「め組の喧嘩」を参照 文化2年(1805年)正月、芝神宮境内で行なわれていた勧進相撲の見物で、鳶人足の入場を巡ってはじまった[注釈 23]争いは、力士十数人とめ組の火消人足100人以上との喧嘩に発展した。

この喧嘩は大きな話題となり、文政5年(1822年)の市村座『御摂曾我閏正月』・明治5年(1872年)の中村座『恋慕相撲春顔触』・明治23年(1890年)の新富座『神明恵和合取組』と、3度にわたって芝居化された。


火消道具[編集]

詳細はそれぞれの内部リンクを参照


纏と火事装束[編集]

め組の纏(東映太秦映画村で再現されたもの)


纏(まとい)は、江戸消防のシンボルであり、「纏が火を消した」と言われることすらあった[28]。

もともとは、武士が戦場で掲げていた家紋つきの旗印や馬印に由来するものである。

当初は幟型の纏が使用されていたが、のちに陀志(だし)と呼ばれる大きな頭部分と、馬簾(ばれん、纏の周囲に細長い厚紙や革を垂れ下げたもの)を備えた型に代わっている。

各組を象徴するものとして様々なものがあり、豊臣秀吉から拝領したという伝承のあった加賀鳶の纏や、大岡忠相が考案し丸玉と四角の台を組み合わせた「い組」の纏[注釈 24]などがあげられる。

大名火消の火事装束は、頭に火事頭巾(火事かぶと)、身体には革羽織に胸当・踏込(ふんごみ、あるいは野袴)といったものである。

火事頭巾には豪華な立物や錣(しころ)が取り付けられ、革羽織には金糸の縁取りや派手な彩色が施されるなど、華美であった。

町火消の盛装は、印半天、腹掛、股引などである。

火事場へはさらに刺子頭巾(猫頭巾、目の部分だけが開いている)、膝下まである刺子長半天などを着て出動した。

半天の背中には組の紋が、えりには組名が染めつけられていた。

刺子長半天には裏地に錦絵風の模様をつけた豪華なものもあったが、天保の改革によって規制されている。


消防用具と火の見櫓[編集]

水鉄砲

江戸の町中に常設されていた消防用の桶(深川江戸資料館)

火事場では、消火のため様々な道具が用いられた。

梯子は、梯子持と呼ばれた平の鳶人足より上位のものが取り扱い、屋根に登ったり水を運び上げる足場として使用された。

燃えにくいように、水を含んだ青竹の新しいもので作られていた。

鳶口(とびぐち)・刺又(さすまた、指俣)・鋸などは、火元や周囲の建物を破壊し延焼を防ぐために使用された。

鳶口は、火消が必ず持っていた道具としてあげられ、しばしば喧嘩にも用いられたため、幕府によって長さに制限が設けられていた。

竜吐水(りゅうどすい)・独竜水(どくりゅうすい)・水鉄砲・玄蕃桶(げんばおけ、2人で担ぐ大桶)などは、水を火元に直接かけたり、火消人足に水をかけたりするために使用された。

竜吐水は木製の手押ポンプで、空気の圧力を用い水を15mほど飛ばすことができた。

しかし、継続的に水を供給することが難しく、それほど消火の役にたたなかったという。

そのほか、火の粉を払い延焼を防ぐための大団扇や水筵(みずむしろ、海草で作られ水に浸して使う。

ぬらすために水箱と呼ばれるものを使用した)なども火事場で用いられた。

火事を早期に発見するために設けられた設備として、火の見櫓・火の見梯子がある。

発見した火事を知らせたり、出動の合図としては半鐘や板木が使用され、火事場の遠近などによって叩き方が定められていた。


脚注[編集]


注釈[編集]

^ 「火消し」という「し」を付けた表記も幅広く用いられているが、参考文献であげた書籍が基本的に「火消」の表記を採用しているため、本項では冒頭文を除き「火消」に統一する。

^ 火事の回数については研究者により差異が存在する。ここでは『江戸の火事』P.3の記述を参考に回数を引用した。

^ 火事に紛れての兵乱などが警戒され、治安維持を優先していた[2]。

^ 所々火消・方角火消・各自火消などは、この大名火消の一種である。

^ 水谷勝隆・伊東祐久・加藤泰興などに命じられている。翌正保元年(1644年)には10家3組に、正保3年には9家3組に、慶安2年(1649年)には10家3組にと編成が変わっていく[6]。

^ 犠牲者の数は10万人台との説もあるが、ここでは内閣府防災部門の中央防災会議「災害教訓の継承に関する専門調査会」による平成16年3月の報告書[1]の人数をあげた。

^ 大名屋敷の火の見櫓建築には制限があり、方角火消では3丈(約9.1m)、それ以外の大名では建築を許された場合でも2丈5尺(約7.6m)までであった[8]。

^ 慶安3年(1650年)、4000石以上の旗本2名を火消役に任命したことを定火消のはじまりとする説もある。1658年説-『江戸の火事』『江戸学事典』など、1650年説-『江戸の火事と火消』『新消防雑学事典二訂版』など。

^ 定火消削減の理由は、江戸幕府の財政難にある。代わって八王子千人同心に火消役が命じられたが、大きな活動はなくやがて廃止された[12]。

^ 米沢藩上杉家の場合、『上杉家年譜』寛永18年(1641年)に火事で老中奉書により出動した記録で「防火士頭」「火消方」などの記述が見られる[13]。

^ この場合の「町」は尺貫法の単位であり、1町は約109m。

^ 参勤交代が3年に1度・江戸在留期間も100日となり、人質であった大名妻子の帰国も許されたため、江戸藩邸の人員が大幅に減少し火消役を維持できなくなった[16]。

^ 店火消に関しては、「何をもって店火消と呼ぶか」「誕生の時期・活動時期はいつか」などで諸説がある。「江戸における店火消の動向」では、店火消に関する研究の不足を指摘したうえで、町火消誕生後も幕末にいたるまで、店火消が江戸の消防に大きな役割を果たしていたとしている。

^ 「ひ」が「火」に通じるため避けられたことには異論がないが、他の文字が置き換えられた理由としては、語呂が悪いから・忌み言葉に通じるから・「ん」は元々いろは文字に含まれないから、といった様々な説がある。四番組と七番組が吸収合併された理由も、「四=死」「七=質」に通じるため、など諸説がある。詳細については参考文献や外部リンクを参照。

^ このことに関して、山本純美は著書において「本末転倒もはなはだしい」「消防制度誤用の珍しい例」と評している[20]。

^ 町火消時代から昭和14年(1939年)までの殉職者118人の名が記されている[21]。

^ 寛永通宝など銭貨中央の穴に通して束にするため使用する、細い縄や紐のこと。

^ 翌年には諸大名に対しても、火消人足として鳶職人を雇わないようにと命じている。これは、日ごろから町で乱暴を働いたり、火事のときに遺恨のあるものへ報復するなど、鳶を生業とする火消の問題行動が多かったためである[25]。

^ 「せ組」の場合、差し出す火消人足281人を、鳶人足70人に代えることが認められている[26]。

^ 本業の鳶で遠方へ出向くことを禁じ、風の強い日などには番屋へ詰めて警戒させるための費用。

^ 『江戸の火事と火消』P.63による。『江戸の火事』P.97では弘化年間に頭取が177人いたとしている。

^ 加賀鳶が消火を終えかけたところに、仙石兵庫の組が割り込んだと認められたため。

^ こうした興行では、地元の鳶人足であれば入場は自由であったが、このときは地元以外のものを連れて入場しようとしたことが争いの原因である。

^ 丸玉は芥子玉で、四角の台は枡であり、「消します」との意味が込められているという説がある。また、丸玉は天で、四角の台が地をあらわすという天地陰陽説もある[29]。


出典[編集]

^ 『江戸の火事と火消』P.23

^ 「江戸火消制度の成立と展開」P.95

^ 『消防博物館歴史案内』江戸火消編「武家火消の誕生」

^ 「江戸火消制度の成立と展開」P.102

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^ 『町火消たちの近代』P.18

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^ 『江戸の火事』P.98

^ 『江戸三火消図鑑』P.197

^ 『江戸三火消図鑑』P.198


参考文献[編集]

書籍[編集]

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小沢詠美子「江戸における店火消の動向」『徳川幕府と巨大都市江戸』竹内誠編、東京堂出版、2003年

加藤貴編『江戸を知る事典』東京堂出版、2004年

黒木喬『江戸の火事』同成社、1999年

社団法人江戸消防記念会『江戸消防 創立五十周年記念』東京消防庁監修、非売品、2004年

鈴木淳『町火消たちの近代』吉川弘文館、1999年

東京消防庁『東京の消防百年の歩み』東京の消防百年記念行事推進委員会編、非売品、1980年

東京消防庁・江戸火消研究会監修『江戸三火消図鑑』岩崎美術社、1988年

西山松之助編『江戸学事典』弘文堂、1994年

山本純美『江戸の火事と火消』河出書房新社、1993年


外部リンク[編集]

消防の歴史- 消防防災博物館(財団法人消防科学総合センターによるインターネット上の仮想博物館)


関連項目[編集]

江戸の火事

日本の消防

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火消し(江戸弁読み : シケヒ?) 組織の構成員? 其の壱

2013-10-22 14:10:55 | 日記


火消 - Wikipedia
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火消


東京名所八代洲町警視庁火消出初梯子乗之図(部分)、歌川広重(3代目)、明治維新後の火消出初式


火消(ひけし、火消し)とは、江戸時代の消防組織とその構成員である[注釈 1]。


概要[編集]

消防組織としての火消は、江戸においては江戸幕府により、頻発する火事に対応する防火・消火制度として定められた。武士によって組織された武家火消(ぶけびけし)と、町人によって組織された町火消(まちびけし)に大別される。

武家火消は幕府直轄で旗本が担当した定火消(じょうびけし)と、大名に課役として命じられた大名火消(だいみょうびけし)に分けて制度化されたため、合わせて3系統の消防組織が存在していた[1]。

江戸時代初期には火消の制度が定められておらず、度重なる大火を契機にまず武家火消が制度化され、発達していった。

江戸時代中期に入ると、享保の改革によって町火消が制度化される。

そののち、江戸時代後期から幕末にかけては、町火消が武家火消に代わって江戸の消防活動の中核を担うようになっていった。

江戸以外の大都市や各藩の城下町などでも、それぞれ火消の制度が定められていた。

これらの消防組織は、明治維新後に廃止・改編されるが、その系譜は現代の消防署・消防団へと繋がっている。

消防組織の構成員としての火消は、火消人足(ひけしにんそく)とも言う。

定火消の配下であった臥煙(がえん)、町火消の中核をなした鳶人足(とびにんそく)などがあげられる。

組織ごとの対抗心や気性の荒さから、「加賀鳶と定火消の喧嘩」や「め組の喧嘩」などの騒動を起こすこともあった。

火消人足による消火の方法は、火事場周辺の建物を破壊し延焼を防ぐ破壊消防(除去消火法)が用いられ、明和年間ごろからは竜吐水(りゅうどすい、木製手押ポンプ)なども補助的に使用された。


江戸と火事[編集]

詳細は「江戸の火事」を参照 火消制度は、江戸において発展を遂げ、その構成員が1万人を上回る時期も長く存在した大規模なものであった。

これは、慶長6年(1601年)から慶応3年(1867年)の267年間に大火だけで49回、小火も含めると1798回もの火事が発生した[注釈 2]という、江戸の特異な事情が大きく影響している。


江戸の武家火消[編集]

江戸時代初期[編集]

江戸時代初期の江戸では、火消の制度が定められていなかった。江戸城が火事となった場合には老中・若年寄が大番組・書院番組・鉄砲組などの旗本に命じて消火を行った。

江戸市中においては、大名屋敷や旗本屋敷など武家地で火事となった場合は付近の大名・旗本が自身で、長屋・商家など町人地での火事は町人自身が消火を行なうという状態であり、組織的な消防制度は存在しなかった。

幕府が慶長18年(1613年)に出した禁令では、町人地の火事に武家奉公人が駆けつけることを禁じており、武家地と町人地を明確に区分する方針であったことも影響している[注釈 3]。


奉書火消[編集]

奉書火消(ほうしょびけし)は、寛永6年(1629年)、第3代将軍徳川家光の時代にはじまる火消[3]。

これは火事の際、老中の名で「奉書」を諸大名に送り、召集して消火に当たらせるというものである。

この方法は、火事が起きてから奉書を用意して大名に使者を出し、使者を受けて大名が家臣を引き連れ現場に向かうという、迅速さに欠けるものであった。

また、駆けつける大名や家臣にしても、常時より消火の訓練を行なっているわけではなく、火事に対して有効な手段とはならなかった。


所々火消[編集]

江戸中心部の地名

所々火消(しょしょびけし)は、寛永16年(1639年)にはじまる火消。 同年に江戸城本丸が火事となったことを契機に、江戸城内の紅葉山霊廟に対する消防役を、譜代大名の森川重政に命じたことがはじまりである[4]。
この所々火消は、後述の大名火消の中で担当場所が定められていたものであり、幕府にとっての重要地を火事から守るため設けられた、専門の火消役であった。

所々火消が定められた場所は元禄年間にかけて増加し、江戸城各所をはじめ、寛永寺・増上寺などの寺社、両国橋・永代橋などの橋梁、本所御米蔵などの蔵を、36大名が担当するようになった[5]。

のちに享保7年(1722年)、第8代将軍徳川吉宗により、重要地11箇所をそれぞれ1大名に担当させる方式に改編された。

担当場所は、江戸城内の5箇所(紅葉山霊廟・大手方・桜田方・二の丸・吹上)、城外の蔵3箇所(浅草御米蔵・本所御米蔵・本所猿江材木蔵)、寺社3箇所(上野寛永寺・芝増上寺・湯島聖堂)である。

江戸城内の最重要地に対する所々火消は譜代大名に命じられ、外様大名が命じられたのは本所御米蔵など江戸城外の施設であった。


大名火消[編集]

大名火消(だいみょうびけし)は、寛永20年(1643年)にはじまる火消[注釈 4]。

寛永18年(1641年)正月、京橋桶町から発生した火事は、江戸の大半を焼くという大きな被害を出した。

この桶町火事に際しては、将軍家光自身が大手門で指揮を取り、奉書により召集した諸大名にも消火活動を行なわせたものの、火勢を食い止めることはできなかった[5]。

桶町火事より2年後の寛永20年、幕府は6万石以下の大名から16家を選び、4組に編成して新たな火消役を設けた[注釈 5]。

奉書火消を制度化したものであり、この火消役は選ばれた大名自らが指揮を取った。

1万石につき30人ずつの定員420人を1組とし、1組は10日交代で消火活動を担当した。

火事が発生すると火元に近い大名が出動し、武家地・町人地の区別なく消火を行なうとされていた。

大火の場合には従来通り老中から奉書を送り、正式に召集して消火に当たらせた。

これはそれまでの奉書火消と区別して増火消(ましびけし)と呼ばれる。 大名火消は火事が起こると、華麗な火事装束に身を包んだ家臣に隊列を組ませ、現場まで行進して消火活動に当たった。

大名自らが火事場に向かうこともあってその火事装束は次第に華美で派手なものとなり、たびたび幕府によって規制されている。

しかし傾向は変わらず、なかには消火活動中に装束の着替えを3度も行なう大名まであらわれ、そのため大勢の見物人が集まってきたという例もある[7]。


明暦の大火以降[編集]

明暦3年(1657年)正月、本郷から発生した火事は、江戸の歴史上最悪の被害となった。

明暦の大火(振袖火事)と呼ばれるこの火事のため、江戸城天守閣は焼失し、江戸市中で約68000人ともされる犠牲者を出した[注釈 6]。

明暦の大火により、従来の方法では大火に対処できないことが明らかになったため、以後の江戸幕府は消防制度の確立に力を注いだ。

江戸市中の再建では、大名屋敷・旗本屋敷や寺社の一部を郊外に移転させ、延焼を防ぐための火除地を確保した。

また、瓦葺屋根や土蔵造りなどの耐火建築を奨励し、火事に強い町づくりを目指した。

そして、新たな消防組織である方角火消・定火消を編成している。


方角火消[編集]

方角火消(ほうがくびけし)は、明暦3年(1657年)、第4代将軍徳川家綱の時代にはじまる火消。

明暦の大火直後に大名12名を選び、桜田筋・山手筋・下谷筋の3組で編成した火消役がはじまりである。

大名火消の一種で、担当区域に火事が発生すると駆けつけて消火に当たることとなっていた。

元禄年間にかけて東西南北の4組に改編され、方角火消と呼ばれるようになった。

正徳2年(1712年)、5方角5組に改編。

享保元年(1716年)以降は大手組・桜田組の2組(4名ずつ計8大名)に改編され、火事の際はそれぞれ大手門・桜田門に集結した。

大手組・桜田組への改編後は、主に江戸城の延焼防止を目的として活動し、江戸城内の火事以外では老中の指示を受けてから出動した。

消火の主力ではなく、火元から離れた場所で火を防ぐため、防大名(ふせだいみょう)とも呼ばれた。

担当は参勤交代で江戸に滞在中の大名から選ばれ、屋敷では通常より高い火の見櫓の建築が許された[注釈 7]。

方角火消や所々火消の定員は大名の石高によって異なっていた。1万石以上では騎馬3-4騎、足軽20人、中間・人足30人。

10万石以上では騎馬10騎、足軽80人、中間・人足140-150人。20万石以上で騎馬15-20騎、足軽120-130人、中間・人足250-300人、などである。


定火消[編集]

名所江戸百景より「びくにはし雪中」左奥に武家火消の火の見櫓[9]

定火消(じょうびけし、江戸中定火之番)は、万治元年(1658年)にはじまる[注釈 8]幕府直轄の火消。

明暦の大火の翌年、4000石以上の旗本4名(秋山正房・近藤用将・内藤政吉・町野幸宣)を選び、それぞれに与力6名・同心30名を付属させて設けられた。

幕府直轄の消防組織であり、若年寄の所管、菊間詰の役職であった。

4名の旗本には専用の火消屋敷と火消用具を与え、臥煙と呼ばれる専門の火消人足を雇う費用として300人扶持を加算した。

4箇所の火消屋敷はそれぞれ御茶ノ水・麹町半蔵門外・飯田町・小石川伝通院前に設けられ、すべて江戸城の北西であった。

この屋敷の配置は、冬に多い北西の風による、江戸城延焼を防ぐためである[10]。

それぞれの担当地域で火事が発生すると、出動して武家地・町人地の区別なく消火活動に当たった。

定火消は火事場の治安維持も担当し、鉄砲の所持と演習が許可されていた。

翌年正月の1月4日には、老中稲葉正則の率いる定火消4組が上野東照宮に集結して気勢をあげ、出初(でぞめ)を行なった。

これが出初式のはじまりとなり、以降毎年1月4日には上野東照宮で出初が行なわれるようになった[11]。

万治2年・3年にかけて代官町など4箇所、寛文2年(1662年)と元禄8年(1695年)にも日本橋浜町などが追加で設けられ、合わせて15組が江戸城を取りまくように配置された。

しかし、宝永元年(1704年)以降は10組(定員1280名)での編成となる[注釈 9]。

このため、総称して十人屋敷や十人火消などとも呼ばれた。

10箇所の火消屋敷の場所は、赤坂溜池・赤坂門外・飯田町・市谷左内坂・小川町・御茶ノ水・麹町半蔵門外・駿河台・八重洲河岸・四谷門外であった。

定火消を命じられた旗本は、妻子とともに火消屋敷で居住した。

火消屋敷は約3000坪の広い敷地を持ち、緊急出動用に馬も準備されていた。

敷地内には3丈(約9.1m)の火の見櫓が設けられ、合図のため太鼓と半鐘がそなえられていた。

この火消屋敷が、現在の消防署の原型である。

屋敷内には臥煙の寝起きする詰所があり、夜には長い1本の丸太を枕として並んで就寝した。

夜に火事の連絡が入ると、不寝番がこの丸太の端を槌で叩き、臥煙を一斉に起こして出動した。

出動に当たっては火事装束を身につけ、纏番を先頭に立て、騎馬の定火消と与力、続いて同心に臥煙という順番で隊列を組み、火事場に向かった。


享保の改革[編集]

徳川吉宗

江戸時代中期に入り、8代将軍徳川吉宗の時代には、享保の改革が行なわれた。

改革では消防制度の見直しも実施され、所々火消・方角火消の改編や火事場見廻役の新設などが行なわれた。

さらに、諸大名の自衛消防組織である各自火消に対し、近所の火事へ出動義務を拡大するなど、武家地の消防体制が強化された。

町人地の火事に対する大きな改革としては、大岡忠相が主導した、町人の消防組織である町火消の制度化があげられる(後述の町火消を参照)。


各自火消[編集]

各自火消(かくじびけし)は、諸大名が自身で組織した火消。 はじまりは自身の大名屋敷を防火・消火するための消防組織であり、早くから存在していた[注釈 10]。

天和元年(1681年)ごろから、近所で火事が起きた場合は家来に消火させるよう幕府から指示が出ていたが、享保2年(1717年)、近隣の火事に対する出動が義務付けられ、近所火消(きんじょびけし)とも呼ばれた。

翌3年には、上屋敷だけでなく、中屋敷や下屋敷からも出動するように命じられている。

定められた出動範囲により三町火消・五町火消・八町火消などの別称もあった[注釈 11]。

大名の縁戚の屋敷や菩提寺へ、範囲を越えて駆けつける場合は、見舞火消(みまいびけし)と称したという[14]。

各自火消(大名火消)としては、3組を有した加賀藩前田家の加賀鳶(かがとび、喧嘩鳶)が、その派手な装束と比類ない働きぶりで有名である[15]。

加賀鳶の行列は歌川豊国や歌川国芳により浮世絵として描かれた。

また、河竹黙阿弥の作で歌舞伎の演目『盲長屋梅加賀鳶』にも登場している。

旗本に対しては、享保7年(1722年)に飛火防組合(とびひふせぎくみあい)65組をつくらせ、組合内での火事へ出動するよう命じている。


幕末にかけての武家火消の活動[編集]

享保の改革による町火消の確立後、幕末にかけて江戸の消防体制は武家火消主体から町火消主体へと移行していく。

元文元年(1736年)以降、方角火消は江戸城風上の火事か大火の場合のみ出動と改められる。

寛政4年(1792年)には、定火消が町人地へ出動しないことになった(風の強い日に起きた火事のみは例外であった)。

文政2年(1819年)には定火消の出動範囲が江戸の郭内に限定され、郭外は町火消の担当となった。

こうした武家火消の出動範囲減少は、町火消の能力が幕府に認められたためであった。

黒船来航から2年後の安政2年(1855年)、定火消が2組削減されて8組となる。

文久2年(1862年)には方角火消と火事場見廻役が廃止され、所々火消も削減されて担当が11箇所から3箇所となった。

慶応2年(1866年)には定火消8組が半減されて4組に、翌慶応3年には1組128名のみの構成となり、江戸の消防体制は町火消へ全面的に依存するようになる。

この定火消の大幅な削減は、幕府の洋式軍備拡大が原因であり、大名火消の削減は文久の改革による参勤交代の緩和が原因であった[注釈 12]。

明治元年(1868年)、新政府によって武家火消はすべて廃止され、代わりの消防組織として火災防御隊が設けられた。

火災防御隊は兵部省に所属し、皇城(江戸城)の消防を担当すると定められたが、翌年には廃止されている。

日本人とは…古来より居住、列島にルーツを持つ人々の総称…!?

2013-10-22 12:43:29 | 日記


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日本人と邦人 - Wikipedia
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日本人


日本人(にほんじん、にっぽんじん)とは、一般に日本国の国籍を持つ者、もしくは日本国内に古来より居住してきた、日本列島にルーツ(起源・祖先・由来等)を持つ人々の総称である。


概要

日本では、国籍、文化・習俗・民族、遺伝的形質のそれぞれを基準とした分類による「日本人」の対象が重なることが多いため、概念的にもどの基準によるものかは日常的には明確にされず、しばしば混同される。


定義と分類

日本人は、次のような幾つかの考え方により定義・分類が可能である。

国家による分類 -日本国民[1][2]。ただし、「日本」を国号としたのは701年(大宝元年)頃とされており、それ以前は「倭国」と自称していた。なお「倭人」と言う名称は中国からの呼び方であり、蔑称とする説もある(倭人を参照)。

地理的分類 - 日本列島に居住する者。[要出典]

人類学的分類 -モンゴロイドの一つ。旧石器時代または縄文時代以来、現在の北海道から琉球諸島までの地域に住んだ集団を祖先に持つ[3]。シベリア、樺太、朝鮮半島などを経由する北方ルート[4]、南西諸島などを経由する南方ルート[5]など複数の渡来経路が考えられる[6]。


民族としての形成

「民族」および「大和民族」を参照 以下、上記民族的分類による日本人について概説する。なお、近年の科学的研究の進展により従来の見方は大きく見直しが進んでおり、先史時代の日本人の形成については流動的な状況にあることに留意されたい。


石器時代の日本人

石器時代の日本列島には下記の人が活動した記録がある。

種子島の横峯遺跡からは、約3万年以上前の地層からは、日本国内最古の調理場跡が発見されている。なお、南九州の地層は火山灰による時代の確認が容易である。

愛媛県の太平洋側である上黒岩岩陰遺跡では、放射性炭素年代測定により14,500年前と測定された人骨が発掘されている。


縄文人と弥生人

先史時代の日本列島に住んでいた人間を縄文土器を使用していたことに因み縄文人と呼んでいる[7]。水稲農耕が始まった弥生時代の日本列島に居住する日本人を弥生人と呼んでいる。佐原真は弥生人について、渡来系の人々とその子孫、渡来系と縄文人が混血した人々とその子孫などの弥生人(渡来系)と、縄文人が弥生文化を受け入れて変化した弥生人(縄文系)に区別できるとした。ただし弥生時代において縄文文化のみを保持するものや渡来した後縄文文化を受け入れたものについては言及すらしていない[8]。渡来系の人々の移動ルートについては諸説ある(下記「学説」参照)。 倭人の住居地は『山海経』および『後漢書』の時代から日本列島を指している[9]。 日本人の旧対外的な名称である倭人は、もっとも古い文献では紀元前2世紀に中国の『山海経』『論衡』にて登場する。この頃には既に他民族から見て日本人とその他周辺諸民族との区分けがなされていたことになる。 大和盆地の王を中心とした連合政権であるヤマト王権(大和朝廷)が成立すると、本州・四国・九州の住民の大半は大和民族として統合された。東北の蝦夷や南九
州の熊襲と呼ばれた諸部族・諸王権は大和朝廷に服属せず、抵抗した。その後、それらの諸部族・諸王権は隼人の反乱の失敗や坂上田村麻呂の蝦夷征伐などにより、大和朝廷の下に統合されていった。白村江の戦い以後、倭国は朝鮮半島の支配から手を引いたが、代わりに東北日本へ進出し、現在の青森県にあたる本州最北部までを統一する。朝廷の支配が揺らいだ平安時代の東日本では、平将門の将門政権や奥州藤原氏の平泉政権など半独立政権が築かれたものの、東日本と西日本の民族的統合は保たれ、後に関東地方を基盤とした武家政権が全国を支配することとなった。


「日本民族」の形成

古墳時代、朝廷権力の拡大とともに「日本」という枠組みの原型が作られ、その後、文化的・政治的意味での日本民族が徐々に形作られていくとされる。 「日本人」「日本民族」という認識(ナショナルアイデンティティ)が形成され浸透していく経緯については諸説あり、ヤマト王権の支配が広い地域に及ぶ以前の弥生時代から倭人として一定の民族的統合があったとする説、また律令制を導入し国家祭祀体制を確立させた7世紀後期の天武・持統期(飛鳥時代後期)にその起源を置く説、13世紀の元寇(鎌倉時代中期)が国内各層に「日本」「日本人」意識を浸透させていく契機となったとする見解などがある。

ネーションステート下の認識

大日本帝国の版図

「大日本帝国」を参照 日本が近代ネーションステート(国民 / 民族国家)として朝鮮半島や台湾島を領有していた時代には、日本人という語は、公式には、朝鮮人、台湾人など日本国籍を付与された植民地の先住民族を含む国籍的概念であった。大日本帝国が多民族国家であることは強く意識され、現在の日本国民に相当する人々は「内地人」と呼ばれた。ただし、当該の先住民族の間では「日本人」が内地人と同義として使われることが多かった。 南樺太に住んでいたロシア人、ポーランド人、ウクライナ人、ドイツ人、朝鮮人、ウィルタやニヴフの中には日本国籍を持っていた者もいた。そのため、第二次世界大戦後、ソ連によって日本人として北海道に強制送還、ないしは自ら進んで移住した朝鮮人、ウィルタ、ニヴフがいた。また、反ソ分子として抑留された者もいた。ポーランド系日本国民の多くはポーランド国籍を取得しポーランドに移住した。


系統

以下、人類学的観点から、日本人の系統または起源に関する諸説について記述する。

系統関係

詳細は「モンゴロイド」および「人種」を参照 形質人類学的観点から日本人は、過去の縄文人・弥生人や現在の日本国内土着の住民が、いずれもモンゴロイドに属する。むろん「モンゴロイド」という分類概念では中国人や朝鮮人などの東ユーラシア人全体が包括され、イヌイットやアメリカ先住民も含まれる。 だが、遺伝子の研究が進むにつれ、便宜的に使用される分類名称としての各人種も、推定される起源地(原初の居住地)の地理的名称を基準とすることが多い。モンゴロイド集団の分布は日本人形成過程の分析にとって今日もなお重要な手がかりである。


分子人類学による説明

ミトコンドリアDNA(母系)による系統分析

1980年代からのミトコンドリアDNA(母系)の研究の進展により、ヒトの母系の先祖を推定できるようになった(ミトコンドリア・イブ参照)。これにより、アフリカ単一起源説がほぼ証明され、また民族集団の系統も推定できるようになった。ミトコンドリアDNAやY染色体のようなゲノムの組換えをしない部分を用いた系統樹の作成は、集団の移動とルーツを辿るのに用いられる。たとえば日本人のミトコンドリアDNAのハプロタイプの割合と、周辺の集団つまり各ハプログループを比較することで、祖先がどのようなルートを辿って日本列島にたどり着いたかを推定できる。分析に用いられるのは、ミトコンドリアDNAの塩基配列のうち、遺伝子の発現に影響しない中立的な部分である。形態の生成等に関与せず、選択圧を受けないため、分析に用いることができる[10]。ただし、ミトコンドリアDNAは稀に男性のDNAが混じることや、人間より検証個体の多いネズミのDNA測定では、ハプログループの分岐や時期が事実とは全く異なっていたから、あくまでもY染色体DNA等、他の資料と共に考察する必要がある。 以下、ミ
トコンドリアDNAによる人類集団の系統分析を系統樹にしたものを参考に記す。 人

類集団の遺伝的系統

多型マイクロサテライトによる人類の進化系統樹

この系統樹図によれば、最初にアフリカ人とその他の集団が分岐し、次にヨーロッパ人とその他の集団が分岐したこと、その次に東・東南アジア人とオーストラリア人が分岐し、最後の大きな分岐として東・東南アジア人とアメリカ先住民が分岐したということである。この系統樹で見られた主要な特徴は、従来のタンパク質多型や最近の核DNAの多型によって明らかにされた人類集団間の系統関係と大筋において一致する。 人類集団の遺伝的系統-2


近隣結合法による遺伝的近縁図

この図によれば、アフリカン(ネグロイド)からコーカソイド(白人)が分岐し、コーカソイドからオセアニアン(オーストラロイド)・東アジア人(モンゴロイド)が分岐、そして東アジア人からネイティブアメリカ人が分岐した。この人類集団の近縁関係は上記の遺伝的系統樹と現在の人類集団の地理的配置に一致する。 日本人特有のM7aグループ 日本には世界で(主に)日本人にしか見られないM7aというグループがある[11]。これは台湾付近で発生したと考えられ、琉球諸島・アイヌに多く本州で少ないという特徴的な分布をしている(Mグループについて、M7aは台湾・日本から朝鮮半島中国北東部への北上。M7b,cは南方及び中国沿岸へ)。M7aの最大集積地が(最も頻度の高い地域)は日本列島であり北上の上限がシベリアであったとの見方が主流である。M7a、M7b、M7cについてもシベリア等からの発祥は考えにくく、南方から北方に移動があったとされている。 これに対して崎谷満は2009年の著書で、M7aは極東・アムール川流域にも見られるほか、シベリア南部(ブリヤート)、東南ア
ジアにも見られるとし、発生したのはシベリア南部 - 極東あたりと予想する一方、台湾先住民にも台湾漢民族にも存在せず、台湾から北上して日本列島に入ったものではないと記している[12]。なお崎谷は上記の著書において、ミトコンドリアDNA・Y染色体といった分子人類学的指標、旧石器時代の石刃技法という考古学的指標、成人T細胞白血病ウイルスやヘリコバクター・ピロリといった微生物学的指標のいずれにおいても、東アジアのヒト集団は北ルートから南下したことを示し、南ルートからの北上は非常に限定的で日本列島には及ばなかったと述べている[13]。しかし、M7b,M7c等が台湾を中心に拡大していることからもM7は北上ルートでシベリアに達したと考えるのが一般的である。この為近年では崎谷満の説は一般的に受け入れられていない。


塩基多様度のネット値 (DA) 分析による系統関係

ミトコンドリアDNAの塩基配列の多様性の度合いを比較分析することによっても系統関係を計測できる。塩基多様度のネット値 (DA) 分析によって求められた集団間の遺伝距離をもとにした系統樹では、まずアフリカ人より西ユーラシア人(ヨーロッパ人)と東ユーラシア人(東アジア人)とが分岐し、次いで東ユーラシア人からアメリカ先住民が分岐し、次いでアイヌと東アジア人クラスターが分岐、次いで中国人と東アジア人が分岐、次いで琉球と本州とが分岐する[14]。


Y染色体(父系)による系統分析

母系のみをたどるミトコンドリア解析に対し、父系をたどるY染色体は長期間の追跡に適しており、1990年代後半からY染色体ハプログループの研究が急速に進展した[15][16][17]。ヒトのY染色体のDNA型はAからTの20系統がある。複数の研究論文から引用したY染色体のDNA型の比率を示す[18]。全ての型を網羅していないため、合計は100%にならない。空欄は資料なしで、必ずしも0%の意味ではない(日本人に関する調査で、O2aの欄が*になっている箇所は、O2に関する調査のみ実施。)。下記テーブル中にあるO2b1(O-47Z)はO2b*(O-SRY465*)から派生した別個のハプログループであり、O2b*に含まれるものではない[19]。 「Y染色体ハプログループの分布 (東アジア)」も参照


C DE NO

C1

C3

D1

D2

D3

N

O1

O2a

O2b1

O2b*

O3


日本(野中、水口) 日本 2 3 0 39 0 1 3 1 25 8 16

日本 (Hammer et al.) 青森県 8 0 0 39 0 8 0 0 21 0 10

静岡県 5 2 0 33 0 2 0 2 26 0 10

徳島県 10 3 0 36 0 7 0 3 23 0 11

沖縄県 4 0 0 56 0 0 0 0 16 0 10

日本 (Tajima et al.) アイヌ 0 13 0 88 0 0 0 * 0 0 0

九州 4 8 0 38 0 0 2 * 14 0 14

日本 (Shinka et al.) 北琉球 4 0 0 62 0 0 0 0 13 0 16

南琉球 0 0 4 0 0 0 67 0

韓国 (Shin et al.) 韓国 0 9 0 4 0 4 4 1 12 17 45

東アジア北部 (Karafet et al.) 朝鮮 11 6 3 0 0 36 38

漢民族(華北) 5 2 0 0 66
回 6 0 0 0 28

チベット 3 16 33 0 0 0 33


東アジア南部・

東南アジア(Karafet et al.) 漢民族(華南) 5 15 30 33

漢民族(台湾) 11 7 0 0 60

台湾 1 69 7

イ 16 9 0 0 33

トゥチャ 18 3 0 0 0 53

ミャオ 4 7 7 11 0 0 71

ヤオ 2 2 3 0 0 52

シェ 2 35 0 0 63

チワン 11 68 0 0 16

タイ 47 6 0

ベトナム 4 3 6 36 14 0 41

マレー 11 3 9 28 0 0 31

ジャワ 23 42

フィリピン 2 10 4 1 0 33

北アジア(Karafet et al.) オロチョン 91 0 0 0 0

エヴェンキ 68 17

満州 27 4 0 0 4 38

ブリヤート 84 28 0 0 2 2

ハルハ(モンゴル) 52 1 1 0 0 0 23

ユカギール 50 25

コリャーク 33 33

チュクチ 25 25

ケット 17

ニヴフ 38


上記の分析から日本人の中には、D2系統とO2b系統が存在することが判明した。D系統はYAP型(YAPハプロタイプ)ともいわれ、アジア人種よりも地中海沿岸や中東に広く分布するE系統の仲間であり、Y染色体の中でも非常に古い系統である。 この系統は本土日本人・アイヌ・南北琉球に固有に見られるタイプで、朝鮮半島や中国人にはほとんど見られないことも判明した。これは縄文人の血を色濃く残すとされるアイヌに88%見られることから、D系統は縄文人特有のY染色体だとされる。 アリゾナ大学のマイケル・F・ハマー (Michael F. Hammer) のY染色体分析でもYAPハプロタイプ(D系統)が扱われ、さらにチベット人も南北琉球同様50%の頻度でこのYAPハプロタイプを持っていることを根拠に、縄文人の祖先は約5万年前に中央アジアにいた集団が東進を続けた結果、約3万年前に北方ルートで北海道に到着したとする説を提出した[20][21][22]。 現在世界でD系統は極めて稀な系統になっており、日本人が最大集積地点としてその希少な
血を高頻度で受け継いでいる。それを最大とし、その他では遠く西に離れたチベット人、アンダマン諸島等に存続するだけである。これは、後に両者を隔てる広大な地域にアジア系O系統が広く流入し、島国日本やアンダマン諸島、山岳チベットにのみD系統が残ったためと考えられている。奇しくも大陸で駆逐されたD系統は、日本人として現在まで長く繁栄することになった。 なお東西に引き離されたD系統は、長い年月により東(日本)がD2、西(チベット等)がD1、D3となった。D2系統は本土日本人・アイヌ・南北琉球の日本人集団固有であり他地域には希である。また、近年の遺伝子調査により、アイヌは縄文人の単純な子孫ではなく、オホーツク人等の北方民族と混血しており、複雑な過程を経て誕生したことが明らかになった[23]。D2は本土日本人の平均でも、最も数値が高く、またC1も他の国には見られない染色体とされる。 O2系統からは、他に東南アジアやインドの一部に見られるO2a系統と、日本のO2b1、中国東北部・朝鮮に多いO2bにそれぞれ分類される。そもそものO2b
系統は長江周辺が発祥、ベトナム人に多い系統である。 崎谷満によれば、最初に日本列島に到達し、後期旧石器時代を担ったのはシベリアの狩猟民であるC3系統である(2 - 3万年前)。バイカル湖周辺からアムール川流域およびサハリンを経由して、最終氷期の海面低下により地続きとなっていた北海道に達した。また、一部はさらに南下し、北部九州に達した。崎谷は細石刃石器を用い、ナウマンゾウを狩っていたと考えている。 その後、約1万数千年前に、大陸からD2系統が入ってきた。これが縄文人である。D2は日本に多く見られる系統であり、アイヌ88%、沖縄県(北琉球の一部と南琉球)56%、本州42 - 56%で、東アジアでは存在しない。近縁のD1、D3がチベットで見られる。D系統は華北で東西に分かれ、東がD2、西がD1、D3になったと考えられる。 D2の分岐は日本列島内で、氷河期の終わりと共に孤立したD系統が独自にD2に変化したと考えられる。 同じ頃、経路は不明であるが、インドに起源を持つC1系統が南九州に入ってきた[要出典]
。貝文土器を用い、縄文人とは異なる文化を南九州に築いた。 O1系統は台湾が起源である。崎谷満はオーストロネシア語族との関連があると想定している。台湾と近いにもかかわらず、日本列島ではO1はごく少数に過ぎない。 O2a/O2b系統について、崎谷満は長江文明の担い手だと考えている。O2b系統が移動を開始したのは約2800年前で、長江文明の衰退に伴い、O2aおよび一部のO2bは南下し、百越と呼ばれ、残りのO2bは西方及び北方へと渡り、日本列島、山東省、朝鮮半島にそれぞれ達したと崎谷満は主張している[24]。長江文明の稲作を持ち込んだと考えられる[25]。


ゲノムワイドな解析

ヒトゲノムが解析されて[26]以来、人類集団間の遺伝的関係を推定するために大量のSNPを解析する研究が進展している[27]。日本列島の人類集団においても、このようなアプローチによる集団の歴史の解明、医療方面への応用が期待される。 遺伝子マーカーとしてのミトコンドリアDNA、Y染色体DNAとの違いは、①注目するDNA領域長、②遺伝的組み換えの有無、③遺伝様式などが挙げられる。 遺伝情報に基づいて系統関係を議論する場合、ハプロタイプ単位、あるいはマイクロサテライト、SNP単位での遺伝的多型に注目しているわけだが、遺伝的多型が必ずしも真の系統関係を示すとは限らない。なぜならば、遺伝的多型の実体である対立遺伝子頻度は、そのゲノム領域に依存した突然変異率、組換え率、さらに、遺伝的浮動、自然選択、集団間での個体の移住、個体群動態などの影響を受けるためである。この問題を避けるためには、互いに独立な関係にある座位を多数解析することが必要である。この点で、注目する領域が相対的に小さく、組換えのないミトコンドリア、Y染色体の遺伝子マーカーは得られる情報量が制
限される。しかしながら、遺伝様式が常染色体とは異なることから、母系、父系の遺伝子系図を比較する議論ができるという長所もある。 ゲノム解析は中立進化をしている領域の他、転写されるコード領域も解析に含むため、適応進化の研究、個別化医療への応用も期待される。 上記詳細は太田(2007)[28]、斉藤(2009)[29]などを参照。 以下、日本列島人類集団を含む研究例をあげる。 International HapMap Consortiumの研究[27]では、東京由来の44名を含む人類集団サンプルを解析している。 Tian et al.(2008)[30]では、東アジア地域をカバーした集団サンプルを用いて、その遺伝的構造を議論している。主成分分析の結果からは日本列島人が単独のクラスターを形成することが見て取れる。同様のクラスターとさらに詳細な遺伝的多様性に関する研究は、HUGO Pan-Asian SNP Consortium[31]によってなされている。 日本列島内部集団の遺伝的構造を解析した例として、7001人のサンプルを解析したYamaguchi-Kabata et al.(2008)[32]では、日本列島の人類集団が琉球クラスターと本土クラスター
に分かれることをゲノムレベルで示した。これはミトコンドリアやY染色体の解析からも予想されていた、日本列島人類集団の二重構造モデルを支持する結果であった。しかし本土クラスターと琉球クラスターの遺伝的分化の程度は非常に小さく、そのためSNPの頻度の違いは大部分についてはわずかであった[33]。

しかし、Yamaguchi-Kabata et al.(2008)ではアイヌ人の集団サンプルを解析してはいなかった。最新の成果としては、斎藤成也ら総合研究大学院大学による大規模調査がある。これは、ヒトゲノム中のSNP(単一塩基多型)を示す100万塩基サイトを一挙に調べることができるシステムを用いて、アイヌ人36個体分、琉球人35個体分を含む日本列島人のDNA分析を行った。 その結果、アイヌ人からみると琉球人が遺伝的にもっとも近縁であり、両者の中間に位置する本土人は、琉球人に次いでアイヌ人に近いことが示された。一方、本土人は集団としては韓国人と同じクラスターに属することも分かった。さらに、他の30人類集団のデータとの比較より日本列島人の特異性が示された。このことは、現代日本列島には旧石器時代から日本列島に住む縄文人の系統と弥生系渡来人の系統が共存するという、二重構造説を強く支持する。また、アイヌ人はさらに別の第三の系統(ニブヒなどのオホーツク沿岸居住民)との遺伝子交流があり、本土人との混血と第三の系統との混血が共存するために個体間の多様性がきわめて大きいこともわかった[34]。 また
、この調査により、主成分分析およびfrappe分析から、アイヌ人個体の3分の1以上に本土日本人との遺伝子交流が認められた。 アイヌ人と琉球人は、東ユーラシア人の系統樹においてクラスターを形成しており、ブートストラップ確率(推定系統樹の信頼度)は100%であった。さらにこのクラスターは、系統樹上で、本土日本人とのクラスターを形成していた[35]。

「薬を飲んだから」と治ったつもりで居ると言う恐さ…

2013-10-22 08:04:40 | 日記


#ккк #Moskinow #terrorist

麻薬取引への参加によるテロリスト活動の融資 → Financing oftheterrorist activity bytheparticipation in drug traffic

the financing of terrorist activities by participation in the drug trade



「朝鮮ドラッグの紅蓮」 → "Flaming red oftheKorea drug"



私のブログに「ゆり様」から頂いたコメントです。 → It isthecomment that "lily"gave to me in my blog.



「知的症害は明治は酷い扱いだった。 → "Theintellect mark symptom harm was handling that Meiji was terrible".

昭和や平成一桁迄は知恵遅れ後に知的症害、今は発育遅れと精神遅滞精神薄弱と呼び名を変えた。 → Changedagrowth delay and retardation of mental development mental weakness andaname after retardate to Showa and one column of Heisei in intellect mark symptom harm,now.

多くは「ヒロポン中毒」と言われていた頃、覚せい剤が一般に販売していた頃である。 → When it was said,most "are addicted to Philopon",it is about time whenastimulant sold it generally.

「日本人にはヒロポンは体質に合わない。 → "Philopon does not fit constitution toaJapanese".

」と言われていたにも関わらず、妊娠中にヒロポン内服した母体の胎児にダウン症が産まれた。 → Though was said,Down's syndrome was born ofthefetus ofthemother's body which took Philopon duringthepregnancy.

吉屋信子の作品は多くに出て来る知的障害の子等。 → Children ofthemental disabilities thatthework of Nobuko Yoshiya comes out to most.

「安宅家の人々」の中に出る来る小さな養豚場の一人息子は知的症害の話もある。 → As fortheonly son ofaforthcoming small hoggery appearing in "people of the Atakas",there isthestory oftheintellect mark symptom harm.

又、学校の先生も彼奴は幾ら教えても九九、割り算、繰り上がり、繰り下がりの計算が出来無いから知恵遅れ。 → In addition,because even if that fellow teachestheteacher oftheschool no matter how much, themultiplication table,division move up,and reel it,and can calculatetheinferiority,and there is not it;retardate.

特に九九と足し算、引き算。 → Themultiplication table in particular and addition,subtraction.

又、漢字や理科も科学と化学、物理、生物が得意な生徒は先生自らスパルタ物理と生物等の役に立たない科学と化学計算漢字さえ「優れていればものになる」と言った。 → In addition, thestudent that science and chemistry,physics, acreature were good atakanji andthescience said to even science andthechemistry calculation kanji that were useless for teacher oneself Sparta physics andthecreature,"it was toathing if superior".

随分、一方的な話だ。 → It isavery one-sided story.

知的症害は九九、足し算、引き算、科学、化学を教えても覚えが悪い。 → Even iftheintellect mark symptom harm teachesthemultiplication table,addition,subtraction,science,chemistry,memorizing is bad.

子供や生徒支援学校へと転校考える先生はまだ居ると噂で聞きました。」 → When there was stilltheteacher who thought about transfer toachild andastudent support school, heard it byarumor.



分かります。 → Iunderstand it.

「知的障害」と言われている子供等は親が「ヒロポン中毒(覚醒剤やドラッグ中毒)」の可能性が高いと言う事ですね。 → It is thatthechildren said to be "mental disabilities" say thataparent is very likely to be"thePhilopon poisoning"(stimulant and drug poisoning).

今の経口薬より、「覚醒剤中毒患者」も点滴等の脳治療をするべきでしょう。 → "Thespeed addict should do brain treatment such astheintravenous feeding thanthepresent oral medication,too".

水銀が脳に溜まるのは有名です。 → It is famous that mercury collects inthebrain.

他の異物も脳から出すだけで改善はされるでしょう。 → It will be improved only bythebrain producing other alien substances.

当時の梅毒等の治療薬には水銀が多く含まれていたと聞いた事があります。 → Ihave heard that a lot of mercury was included in therapeutic drugs such asthethen syphilis.

ダウン症では無く、親子で水銀中毒の脳症の方々は多いかもしれません。 → There is not it fortheDown's syndrome,and there may be many people ofthebrain fever ofthemercury poisoning in parent and child.

薬品不足の戦中、戦後の頃の話ですから「誤った(誤飲)」はあると思います。 → Ithink that there is "wrong" (drinking by mistake)for wartime ofthelack of medicine because it isastory ofthepostwar time.

感染症の中でも梅毒と猩紅熱等は症状が似ていますが、似て非なるものなので治療方や薬品が違います。 → Scarlet fever resembles syphilis inasymptom inaninfectious disease,but treatment andamedicine are different because they are similar and arethething namedthefault.

「薬を飲んだから」と治ったつもりで居ると言う恐さは今もありますね。 → There is stillthefear to tell to have intended to be cured when "Took medicine",and to be.

猩紅熱は「夏風邪や肺炎」と勘違いされて誤った処方をされたり、症状が改善したからと言って薬を飲む事を止め、「慢性猩紅熱」の方も居るでしょう。 → Scarlet fever is mistaken for "cold in summer and pneumonia",and wrong prescription is done and stops that drink medicine becauseasymptom improved it and will be in of "chronicity scarlet fever".

判断ポイントは「二日酔いに味噌汁」と肝臓疾病や肝炎です。 → Thejudgment point is "miso soup and liver illness and hepatitis forahangover".

治療薬としてコカール等のアルコールを飲んだ時には飲ま無い様にと言われる「解熱、鎮痛剤」を「二日酔いの頭痛」等の改善薬として、誤って服用を続けると肝臓病(肝硬変等)になる危険性は高いですね → It is at increased risk for being foraliver disease(cirrhosis)when continue taking "alleviation of fever, thepain-killer" which is told not to have by as improvement medicine such as"theheadaches ofthehangovers" by mistake whenIdrankthealcohol such as co-curls asatherapeutic drug.



http://ejje.weblio.jp/sentence/c
http://p217.pctrans.mobile.yahoo-net.jp/fweb/01207V0BoA4W2y6C/1v?_jig_=http%3A%2F%2Fejje.weblio.jp%2Fsentence%2Fcontent%2F%25E3%2583%2586%25E3%2583%25AD%25E3%2583%25AA%25E3%2582%25B9%25E3%2583%2588&_jig_keyword_=Google&guid=on&_jig_xargs_=SKeywords%3Djmobv%2520Google