いけませんねぇ…。
先日、中山平温泉は「仙庄館」の露天風呂に入っていた時に考えていたことを書いてみます。
露天風呂なので当然ですが、外のノイズが遠慮無く聞こえて来ます。
それらをそれとなくそれなりに耳を傾けていると…
バイロンの言葉を思い出してみる。
「小川のせせらぎにも、草の葉のそよぎにも、耳を傾ければそこに音楽がある」。
ドビュッシーがこんなことを言っている。
「言葉で表現できなくなったとき、音楽がはじまる」。
私は(彼らに遠く及ばないが)時として、
露天風呂に入っている時に聞こえるノイズの中に音楽を聴き、
ドライブ中に聴いている音楽を、単に耳に心地よいノイズとして聞いている事がある。
それがノイズだろうが音楽だろうが、耳から入ってくる「音」には違いない。
それらを峻別するのは、自分の感受性、つまり「心」なのだろう。
であるならば、「音楽」はきっとその「心」の中にあるのだろう。
しかし「心」のありようはその時々で変わるし、人によって大いに違う。
だから「好きな音楽」なんて、時によって人によって違うのが当たり前なのだろう。
こんなことを考えている内に、すっかりのぼせてしまった。
先日、中山平温泉は「仙庄館」の露天風呂に入っていた時に考えていたことを書いてみます。
露天風呂なので当然ですが、外のノイズが遠慮無く聞こえて来ます。
それらをそれとなくそれなりに耳を傾けていると…
バイロンの言葉を思い出してみる。
「小川のせせらぎにも、草の葉のそよぎにも、耳を傾ければそこに音楽がある」。
ドビュッシーがこんなことを言っている。
「言葉で表現できなくなったとき、音楽がはじまる」。
私は(彼らに遠く及ばないが)時として、
露天風呂に入っている時に聞こえるノイズの中に音楽を聴き、
ドライブ中に聴いている音楽を、単に耳に心地よいノイズとして聞いている事がある。
それがノイズだろうが音楽だろうが、耳から入ってくる「音」には違いない。
それらを峻別するのは、自分の感受性、つまり「心」なのだろう。
であるならば、「音楽」はきっとその「心」の中にあるのだろう。
しかし「心」のありようはその時々で変わるし、人によって大いに違う。
だから「好きな音楽」なんて、時によって人によって違うのが当たり前なのだろう。
こんなことを考えている内に、すっかりのぼせてしまった。
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