毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

いのちを超える物差しなんてあるのでしょうか ・ その5

2018年08月03日 09時24分03秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


ある状況について 私たちが怒りを感じるのはなぜでしょう。

まず、それが私たちの意に染まないから。

でもそれだけなら 怒る必要はありません。

日ざしがまぶしければカーテンを引く、ボタンの掛け違いに氣づけば直す、状況を変えるため すみやかに行動するだけのこと。

怒りが生じるのは、その変更がしたくてもできないと感じるときです。

カーテンやボタン程度のことならイラッとくるだけで済みますが、事が大きければ 怒りも増します。

さらにそこに 「変更できないままだとマズいことになる」 という怖れや焦りが加わると、怒りは一段と大きくなります。




杉田議員の例でいうと、いまの自民党は安定多数で 議員の発言が実際そのとおりになりかねないという不安や、このまま進めば自分たちにはどうすることもできなくなるという無力感が、意見を異にする人々の怒りをかき立てるのでしょう。

しかし、そこに不安や無力感が入り込むのはなぜなのか。

それは 「三つ子の魂百まで」 のことわざどおり、幼いころにがっちり刷り込まれたある種の観念が 現在もなお効力を発揮し続けているためです。




以前の貴秋は いわゆる "権力者” への反感が人一倍強いたちでしたが、その反感の出所を探っていくと、まず 自分を無意識に弱者の側に置いていることに氣づかされます。

ではなぜ自分を弱者だと感じるのか さらにたどっていくと、幼児期の記憶に突き当たります。

貴秋の母親は 自身も大きな不安を抱えていたせいで やたら周囲に干渉し 強引にコントロールしたがる人で、父親は 仕事が忙しいせいもありましたが そもそも間に入ってとりなすより 母の目が他に向いているのを幸い 自分ひとりの世界で安穏と過ごすタイプ、いわば精神的な虐待とネグレクトの組み合わせ。

その中で幼い貴秋は 自分の力ではどうしようもない無力感や不安に苛まれ、そこから派生する怒りを口にできぬまま溜めに溜め、それが父母を連想させる人や状況への過剰な怒りとなって 半世紀あまり貴秋を突き動かしていたようです。

この怒りや不安や無力感がかくも強力だったのは、それが言葉にならない形で入り込んだから。

言葉で入り込んだものなら 言葉で説得解除することも可能ですが、まだろくにしゃべれない幼児への刷り込みは、相手や状況から漂う氣配だの雰囲氣だのといったものを介して 言葉になる前のイメージとして心の奥深く染み込んだようで、あとからいくら言葉で言い聞かせても まるで歯が立ちませんでした。




これが、貴秋が言葉を切り離してただ感じる ・ 氣づくことをお勧めしてやまないゆえんです。

どれほど怒り狂おうと 激しく抗議しようと、それが外に向いている間はなにも変わりません。

縛りは自身の内にあるのです。

それに氣づけば 手放すこともでき、心が自由になれば どんな状況もカーテンやボタンと同じくすっきり解決することが可能になります。

縛りを解かれたマインドは 本来の自分 (真我) を思い出すので、生きてきた年月分の限られた知識だけでなく 宇宙の無限の情報とアクセスできるようになるからです。

戦って勝ちを収めるのではなく、理不尽なルールそのものからすっと降りる ・ 離れるという選択ができるようになります。




貴秋の愛読ブログ 「世にも奇妙なフツーの話」 に 「目の前から忽然と消えた?」 という記事があります。

内容はお読みいただいてのお楽しみですが、ここに出てくる 「戦わなかったインディアン」 に 貴秋もなると決めています。

実際過去に、厳しく当たられたり揉めたりしていた相手と これ以上戦うのはやめる! と決心したとたん、相手が引っ越したり どれほど近所の人でもぱたりと顔を合わさなくなったりという経験があるので、これからも自分の意識が変われば 状況も変えられると確信しています。




自分が変われば世界が変わる、これがわかれば いのちを超える物差しが握られたままの世界で怒ったりがまんしたりする必要なんて もうないのです。























コメントを投稿