毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

探究 ・ 実験 ~ こころとからだの相関関係  その8

2016年08月30日 08時18分28秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


私たちの意のままにならない思い込みは、まだ脳の配線が未完の幼いころ (おおよそ三歳未満と言われています) 、まわりの大人を介して 無条件に刷り込まれた情報が基になっています。

そしてその情報は、明確な言葉や文章としてキャッチされてはいないのです、まだ自在に言葉を操れない年頃のことなのだから。




「ネガな思い込みの根っこには 強い自己否定が埋まっている」 とは たびたび見聞きしていたことですが、長い間ぴんとこなかったのは、「私なんてなんの価値もないんだ、存在する値打ちがないんだ」 なんてことをつぶやく自分が いくら捜しても見当たらなかったから。

そして、ついに捜し当てたときは 愕然としました。

たしかに深い無価値感がありましたが、それは そのような言葉としてではなく からだの不快な感覚として存在していたからです。

その感覚に言葉を当てはめれば、たしかに「価値がない、存在する値打ちがない」 というようなものになる氣がしますが、それはあくまでも後付けの物語であって、自己否定の根源そのものではないのです。

根源を求めて そんなセリフをどれだけ捜しても 見つからなかったはず。。。。それは からだに刻み付けられた ある種の感覚の記憶にありました。




私たちは 日常のさまざまな問題を解決するのに、交渉 ・ 説得 ・ 哀願等々 状況に応じて さまざまに言葉を使います。

が この手馴れた方法が、心の問題、それも根本的なところを解決したいときほど 役に立ちません。

うれしくない思い込みを マインドがいくら言葉で説得して書き替えようとしても うまくいかないのです。

赤ちゃんや幼児を 理詰めで納得させられないのと 同じこと。

そこで大きな手がかりとなるのが、からだに残る感覚なんですね。




思いや心という 五感で捉えられないあいまいなものに 言葉なしで取り組むのに、感覚というたしかな手応えが存在するのは、なんてありがたいことなんでしょう。

今回の取り組みで、つくづく こころとからだはひとつものだと感じさせられました。

からだの痛みやこわばりが解消されると こころにも変化が及ぶのがわかりますし、こころが楽になると その分からだの痛みが消えたり 柔軟度が増したりという変化となって 現れます。

言葉で変えられない思い込みも、感覚にフォーカスし 感じ尽くせば 解消され、結果 おのずと自分の言動が変わっていることに氣づかされます。




今回の試みの発端となった からだの柔軟性への突然の関心は、感覚フォーカスを こころのみならず からだに (痛みやこわばりの形で) 残るわだかまりにも適用することで より効果が上がるようだ、と氣づかせるために用意されていたのかもしれません。

いつもなら、もっと時間が経って いったい何が起きていたのか、どういう意味があったのか が腑に落ちてからでなければ 文章にしなかったであろうところを、まとまりなく長いものになると承知で あえてリアルタイムで書き進めたのも なんらかの理由がありそうですが、現時点では それは真我しか知らないことのようです。

その1を書き始めたとき、この話がどういうところに帰結するのかはもちろん、自分のからだがどういうふうに変わっていくのかも まったくわかっていませんでした。

かのラジオ体操の青年のように 立位体前屈で 手のひらまでべたっと床につけられるようになったのも 書き出してしばらく経ってからのことだし、前回の記事の 「突然現れた幸福感」 は つい前日体験したばかりの話、いつも 「この記事 いったいどういう結末になるのかなぁ」 と 書き手自身が思いながら ほぼリアルタイムで書き進めておりました (^_^;)

真我を主役にすえるとは、小我はいつも目隠し状態で 勇氣を振り絞って 先の見えない道に飛び込み、ときには引きずり回される (笑) こと。

そんな迷走に 一ヶ月ものあいだお付き合いくださったみなさま、ほんとうにありがとうございました m(__)m

この試みには まだまだ続きがありそうだし、そこから見えたものは これからもちょくちょくブログに登場することでしょうが、このタイトルでのお話は 今回でおしまいにさせていただきます。

いつになく長い長い とりとめない文章をお読みくださって ありがとうございました。

























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