毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

愛と赦し

2016年12月23日 18時00分44秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


前回のブログをアップしたすぐあと、いつもの愛読ブログ巡りで見つけたこのお話

初回は読みながら涙ぼろぼろ、その後も折に触れて読み返しています。




貴秋がこの上なく憧れ目指してきた境地、「愛」 と 「赦し」 。

が、これまであまりにもかけ離れたものを真の愛と取り違えてきたため “愛” という言葉は 正直今でもいびつなイメージがつきまとって使いづらく、またそれなら今現在の愛のイメージとはどういうものかと訊かれても まだまだ漠然としていて すっきり答えられるものではなく。

ましてや “赦し” となると、私が知っているのは 「腹は立つけどガマンしてやろう」 的な 「許し」 だけ、この記事にあるような 深く広い慈悲の心なんて 想像も及ばない。

。。。。。のだけれど。




貴秋の内的探究の最近のテーマは、「自分の中に留まること」 。

前の記事で書いた想像力、これはほんとうに重要な力だと思うけれど、使い方を間違えれば害になるのは 他のものと同じ。

小さいころから これを身を護るために使い慣れてきたため、すっかり板についた一方で、具現化への架け橋ではなく 不安や恐れから逃げる道具として はかない空想や妄想に走る道筋がしっかりついてしまい、ここへきてえらいハンデに。

空想や妄想のとりことなっているあいだは 意識が過去や未来に散って “いま ここ” がすっかりお留守になるため、そんなものに夢中になった代償として 意識がからだからふらふら抜け出して 集中力が散漫になり 感情に振り回されてエネルギーダウンするクセがついてしまいました。

このふらついた意識を もう一度しっかりからだに戻してひとつになることがいま必要 というメッセージが来た氣がしたのです。




意識がからだにきちんと収まっているときの感覚は、あの感覚フォーカスのさなかの感触が さらに精度を増した感じ。

さまよい出ては引き戻し を繰り返す中、言葉がぴたりと止まって こころとからだが一体化したとき、不安も焦りも緊張もすっとかき消え ふわ~っとあたたかく溶け出したなにかに優しく包み込まれるような感覚を たびたび味わうようになりました。

そこで思ったのです、ほんとうの自分に戻るとは、弱い (と思い込んでいる) 自分をごまかし護るために 偽りの言葉で長年がちがちに積み固めてきた鎧がすべて剥がれ落ちて ハートが開くことなんだと。

無力で怯えている自分は 言葉で形作った思い込みの虚像、言葉の及ばない “いま ここ” では そもそも存在できないものなのですね。

そしてさらに感じたのが、「愛」 も 「赦し」 も この開いたハートの中にあるらしいということ。

マインドの渦の中しか知らなかったころに いくら探っても見つけられなかったわけだと納得いきました。




今はまだ しつけが悪くすぐ飛び出していってしまう子犬と 追いかけ回しては連れ戻す飼い主のいたちごっこのような日々ですが、子犬が飼い主を全面的に信頼し 従順になったとき、開ききったハートの中に 本物の愛と赦しを見出すような氣がします。

そのとき私も あの先住民族の人たちのように おおらかな心ですべてを赦せるだろうか。

「愛」 も 「赦し」 も 自分に対して なんの否定も言い訳も防御も必要としなくなり すべての護りを解いて あるがままの姿に返って初めて取り戻せる境地なのかもしれません。


“ 今この時に必要なのは、
怖れることでも
心配することでもなく、
どんな時にでも笑いを忘れず、
愛と感謝の気持ちを
ハートに保ち続けること。

一人一人の心の持ちようで
世界は
確実に
大きく変わります。”



ブログ 「ひかたま (光の魂たち) 」 の森井啓二先生のこの言葉が 胸に沁みます。























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