いろいろありまして、前の記事からほとんど二ヶ月空いてしまいました。
続きを待っていて下さった方、ほんとうに申し訳ありませんでした。
では、遅れに遅れましたが 「その③」 です。
貴秋が初めて 人という集合体の1パーツとしての自分を強く意識したのは、運転免許取り立てで 南紀の自宅と奈良の実家を行き来していた頃のこと。
最初は怖かったくねくね山道の運転にも徐々に慣れ、対向車もめったにない山中のドライブは景色もよく楽しかったのですが、奈良市街地へと向かう国道に入ると、道沿いの飲食店などから強引な割り込みをしてくる車がちょいちょいいて、そのたびにカリカリしていました。
車が途切れることなく続く大通りに合流する難しさがわかるようになったのは ある程度経験を積んでからのこと、初心者マークの頃は人氣の少ない山里ばかり走っていて、混雑だの渋滞だのというものを体験したことがなかったため、無茶な割り込みをされるたびにムカッときて、駐車場から強氣にせり出している車を見るたび 「もう絶対割り込ませてなんかやらないからね」 と意地になっていました。
そんなあるとき、不意にあるイメージがひらめいたのです。
血管のように枝分かれしながら複雑につながり合う道路と、そこを血液のように流れ動いてゆく車の群れ。
血液がスムーズに流れることで 人体が健康を保てるように、車全体の流れがスムーズであることが 道路状況の良さにつながる。
これまでは自分の都合や損得ばかり考えていたけど、自分も流れの一部と見れば、自分のことだけ考えるよりも 流れ全体をよくすることを考えた方が、巡り巡って自分のためにもなるんだ。
ならば、状況次第では 流れに入りたがっている車を先に通してあげる方がいい場合もある。
そう氣づいて、それからは運転のたびに 「全体のスムーズな流れ = 自分のスムーズな前進」 という意識を持つように心がけたら、ストレスがぐんと減り、また 自分が譲った方がいい場合と先に行った方がいい場合の見分けがつきやすくなり、流れを見定める目を養うことができました。
今にして思えば、あれが新しい意識のあり方を掴むための最初のレッスンだったのです。
これまでにも書いていることですが、私たちの顕在意識と潜在意識の関係については、氷山に喩えられることが多いようです。
顕在意識は 氷山の海面から上の島々のように個別に分かれているけれど、潜在意識は水面下の見えないところで一続きになっている 全人類共通の領域、と。
つまり、顕在意識は 源から分け出された私たち個人個人の意識で、潜在意識は 神 ・ 宇宙 ・ ワンネスなどと呼ばれる源、もしくは源とつながった生物すべての集合意識ということのようです。
顕在意識の動きは四六時中キャッチできますが、潜在意識は五感では知覚できず なにをやっているのかまるでわからないため、私たちはこれまでずっと 自分 = 顕在意識 だと思い込み、潜在意識の働きを度外視してきました。
結果、この勘定に入れてこなかった潜在意識に巣くった “バグ (言葉を持たない幼い頃に入り込んだ否定的概念)” の横やりのおかげで、望みが叶わなかったり計画が頓挫したりなんてことが頻発し、人類全体のセルフイメージが大きく落ち込んでしまったんですね。
そんな自身のネガティブな思いを判断解釈抜きで見つめ続けて “バグ” の手放しがある程度進むと、それまでに蓄えてきた知識の範疇を超えて、思いがけないものの見方や想定外の答え、斬新なアイデアなどが頻繁にひらめくようになり始めます。
「教わったことしか知らない、わからない」 とする常識など飛び越えて、必要に応じて必要なときに それはやってくるのです。
貴秋は、これこそが潜在意識と顕在意識の連携を取り戻した証と捉えています。
知覚はできないけれど、顕在意識のリクエストを潜在意識の導きで実現すべく 両者が手を携え事を運んでいる証拠。
そして、これまで思い通りにいかなくて普通だと思い込んでいたものが 望んだ通りに実現して当然と思えるように、意識のありようが徐々に変わっていきます。
自身をちっぽけで非力な個だとばかり思い込んでいた私たちは、これまでずっと この時空を超えて現れる大きな知恵や力を 「神」 として自分の外に置き、畏れ敬ってきました。
が、この不安定な時代を逆手に取り、外へ外へと向いていたフォーカスを自身の内に向け ネガの縛りを解くことで、この無限で全知全能の大きな意識が 実は自身のもうひとつのありようでもあったことを思い出す、それが 前回お話しした 貴秋言うところの 「二項対立を超えて自由になる、新しい意識」 です。
新しい意識を我がものとした私たちは、エゴ全開でハンドルを握り締めていた貴秋が 全体の一部としての自分に氣づいたように、全体の一部としての自分をそれとなく意識し、ためらわず「最高の自分」 を生き始めます。
細胞ひとつひとつが健康であるほど 総体としてのからだの健康度も上がり、からだが健康であるほど 細胞それぞれの働きもスムーズで効果的なように、私たちひとりひとりが幸せで輝いていることが 健やかで平和な世界の実現とつながっていることが おのずとわかってくるからです。
個の枠を超えて源からやってくる知恵に従って生きるとき、一見個人個人が好き勝手に動いているように見えても、そこにはいのちとしての調和があります。
これまで私たちが好き勝手に動くとバランスが崩れて争いが起こり傷ついてばかりいたのは、この 「源である自分」 「いのちである自分」 を忘れていたから。
私たちひとりひとりが 人生という物語の登場人物であると同時に書き手でもあることを思い出したとき、最高の自分を追求し実現することが 世界平和となんら矛盾しないニューワールドが誕生します。
続きを待っていて下さった方、ほんとうに申し訳ありませんでした。
では、遅れに遅れましたが 「その③」 です。
貴秋が初めて 人という集合体の1パーツとしての自分を強く意識したのは、運転免許取り立てで 南紀の自宅と奈良の実家を行き来していた頃のこと。
最初は怖かったくねくね山道の運転にも徐々に慣れ、対向車もめったにない山中のドライブは景色もよく楽しかったのですが、奈良市街地へと向かう国道に入ると、道沿いの飲食店などから強引な割り込みをしてくる車がちょいちょいいて、そのたびにカリカリしていました。
車が途切れることなく続く大通りに合流する難しさがわかるようになったのは ある程度経験を積んでからのこと、初心者マークの頃は人氣の少ない山里ばかり走っていて、混雑だの渋滞だのというものを体験したことがなかったため、無茶な割り込みをされるたびにムカッときて、駐車場から強氣にせり出している車を見るたび 「もう絶対割り込ませてなんかやらないからね」 と意地になっていました。
そんなあるとき、不意にあるイメージがひらめいたのです。
血管のように枝分かれしながら複雑につながり合う道路と、そこを血液のように流れ動いてゆく車の群れ。
血液がスムーズに流れることで 人体が健康を保てるように、車全体の流れがスムーズであることが 道路状況の良さにつながる。
これまでは自分の都合や損得ばかり考えていたけど、自分も流れの一部と見れば、自分のことだけ考えるよりも 流れ全体をよくすることを考えた方が、巡り巡って自分のためにもなるんだ。
ならば、状況次第では 流れに入りたがっている車を先に通してあげる方がいい場合もある。
そう氣づいて、それからは運転のたびに 「全体のスムーズな流れ = 自分のスムーズな前進」 という意識を持つように心がけたら、ストレスがぐんと減り、また 自分が譲った方がいい場合と先に行った方がいい場合の見分けがつきやすくなり、流れを見定める目を養うことができました。
今にして思えば、あれが新しい意識のあり方を掴むための最初のレッスンだったのです。
これまでにも書いていることですが、私たちの顕在意識と潜在意識の関係については、氷山に喩えられることが多いようです。
顕在意識は 氷山の海面から上の島々のように個別に分かれているけれど、潜在意識は水面下の見えないところで一続きになっている 全人類共通の領域、と。
つまり、顕在意識は 源から分け出された私たち個人個人の意識で、潜在意識は 神 ・ 宇宙 ・ ワンネスなどと呼ばれる源、もしくは源とつながった生物すべての集合意識ということのようです。
顕在意識の動きは四六時中キャッチできますが、潜在意識は五感では知覚できず なにをやっているのかまるでわからないため、私たちはこれまでずっと 自分 = 顕在意識 だと思い込み、潜在意識の働きを度外視してきました。
結果、この勘定に入れてこなかった潜在意識に巣くった “バグ (言葉を持たない幼い頃に入り込んだ否定的概念)” の横やりのおかげで、望みが叶わなかったり計画が頓挫したりなんてことが頻発し、人類全体のセルフイメージが大きく落ち込んでしまったんですね。
そんな自身のネガティブな思いを判断解釈抜きで見つめ続けて “バグ” の手放しがある程度進むと、それまでに蓄えてきた知識の範疇を超えて、思いがけないものの見方や想定外の答え、斬新なアイデアなどが頻繁にひらめくようになり始めます。
「教わったことしか知らない、わからない」 とする常識など飛び越えて、必要に応じて必要なときに それはやってくるのです。
貴秋は、これこそが潜在意識と顕在意識の連携を取り戻した証と捉えています。
知覚はできないけれど、顕在意識のリクエストを潜在意識の導きで実現すべく 両者が手を携え事を運んでいる証拠。
そして、これまで思い通りにいかなくて普通だと思い込んでいたものが 望んだ通りに実現して当然と思えるように、意識のありようが徐々に変わっていきます。
自身をちっぽけで非力な個だとばかり思い込んでいた私たちは、これまでずっと この時空を超えて現れる大きな知恵や力を 「神」 として自分の外に置き、畏れ敬ってきました。
が、この不安定な時代を逆手に取り、外へ外へと向いていたフォーカスを自身の内に向け ネガの縛りを解くことで、この無限で全知全能の大きな意識が 実は自身のもうひとつのありようでもあったことを思い出す、それが 前回お話しした 貴秋言うところの 「二項対立を超えて自由になる、新しい意識」 です。
新しい意識を我がものとした私たちは、エゴ全開でハンドルを握り締めていた貴秋が 全体の一部としての自分に氣づいたように、全体の一部としての自分をそれとなく意識し、ためらわず「最高の自分」 を生き始めます。
細胞ひとつひとつが健康であるほど 総体としてのからだの健康度も上がり、からだが健康であるほど 細胞それぞれの働きもスムーズで効果的なように、私たちひとりひとりが幸せで輝いていることが 健やかで平和な世界の実現とつながっていることが おのずとわかってくるからです。
個の枠を超えて源からやってくる知恵に従って生きるとき、一見個人個人が好き勝手に動いているように見えても、そこにはいのちとしての調和があります。
これまで私たちが好き勝手に動くとバランスが崩れて争いが起こり傷ついてばかりいたのは、この 「源である自分」 「いのちである自分」 を忘れていたから。
私たちひとりひとりが 人生という物語の登場人物であると同時に書き手でもあることを思い出したとき、最高の自分を追求し実現することが 世界平和となんら矛盾しないニューワールドが誕生します。
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