毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

取り急ぎしたためます

2016年04月18日 19時04分36秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


たったいま読んだ このブログ記事




ミスリードしたがっている存在というのがほんとうにいるのか、いるとしたら誰なのか、はわからないし、確かめようもありません。

そこにはあまり重きはおきませんが、ただ 故意か無自覚かはともかく 今の地震報道を見ていると、ここに書かれているような現象が起きやすくなっていると感じます。




私たちは、言葉の及ばない世界については ほとんど何も教えられず、マインドでの反応ばかりを刷り込まれてきました。

感じるまま素直に振舞うことは認められず、社会規範に照らして 広く世間から認められるような言動をとることを 幼いころから要求されてきました。

そうして習い性になった反応は、ほんとうの自分が望むものではないゆえに どこかしっくりこず 落ち着き悪く感じられます。

あまりにも慣れてしまっていて なかなか氣づけませんが、内面を観察する習慣がつけば 感じとれるようになってくるはずです。




災害のニュースに不安を募らせる、それも自然なことと思われるかもしれませんが、私は 怖れや不安は マインド ・ 表層意識の反応だということを、からだの感覚をとことん観察して知りました。

だから、見つめ続ければ やがて消えてゆきます。

持ち続けなければならないものではないのです。

でも、消える間を与えず、おおぜいのそれが集まって 強大なパワーを持てば、それこそが 第二第三の被災地 (もしくはそれに匹敵するようなネガティブな出来事) を生むと感じます。

私たちの世界は、私たちの意識が創っている。

今ほど こう大声で呼びかけたいと思ったことはありません。




内面をよく見つめ、いったんゼロに戻すことで、私たちは 自由な選択ができます。

突き動かされるまま 怖れたり悲しんだりするのが 自分の一番の望みだろうか、自身の選ぶ言動が どのような結果に結びつくだろうか、と冷静に見極めるゆとりが生まれます。

私たちの心に暖かい灯がともり続けてこそ、つらい思いをしている人に 手を差し伸べることができるのではないでしょうか。




すでに終ったことに 過剰に反応する必要はありません。

未来への不安は 単なる想像に過ぎません。

落ち着いて 柔らかくしなやかな心を保っていれば、悲観的な空氣に目を曇らされることなく 必要な情報をキャッチして、フットワーク軽く行動に移せます。

被災された方々の心の痛みに寄り添い、起きてしまったことに対処する 一番いい方法を思いつき 実現できます。

無事だった私たちまでが 心情的に巻き込まれてパワーダウンしてしまわず、準備万端整えてスタンバイしていることが、被災された方々のこれからに 何よりの支えになるのではないでしょうか。



















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取り戻す道

2016年04月18日 10時31分03秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


先日書いた 「かもめのジョナサン ・ 完成版」 第四章で、憧れのアイドルから神にまで祀り上げられたジョナサン。

子どものころから親しんできたあのジョナサンに これほど似つかわしくない座もない氣がしますが、それは私がずっとジョナサン目線で ひたむきに純粋に自分のワクワクを追求し続けただけの “普通のカモメ” の彼の心情を見てきたから。

通常はどうしても まずは外側しか目に映らないので、「誰それがステキ」 ということになり、「ステキ」 は 自分ではないその人にあることになって、自分からどんどん離れていってしまいます。

そして、手が届かない憧れの人となった相手も、自分の頭の中で その実像からどんどんかけ離れた姿に変換されてしまいます。




でも。

外に見える人はみな 自分の内面の投影、欠点のみならず 憧れの一面も、実は自身の要素の一部なのです。

そして 目についたということは、これからその部分を大きく育て 開花させていきましょうという合図でもあるのです。

「あの人みたいになりたい!」 と精進して 大成したスポーツマンや芸術家、職人などの方々、おおぜいおられますよね。

ただ、そのとき花開くのは あくまでも自身の資質。

羽生くんが どれほど高橋大輔選手に憧れようと、トップ選手に上り詰めた羽生くんの演技は あくまでも羽入くんならではのオリジナルです。

憧れも うまく使えば、自分の隠れた資質を引っ張り出すいいきっかけになるんですね(^^)




が、これが五感を超えた世界のこととなると、話がややこしくなります。

肝心の憧れの対象が、見えも聞こえもしないからです。

スポーツや芸術と違い、具体的に何に打ち込めばいいのかが よくわからない。

「あの人の言ってること、なんかいいよなぁ」 というとき、「いい」 と感じるのは その言葉の本質部分のはずですが、それがピンとこないと 「いい」 が その人の外側に貼りついてしまう。

肝心の本質を 自身の中に育てる代わりに、他者に投影し 崇めて どんどん遠ざけてしまう。

憧れの人を真似るにも、うっかりすると 外側の形ばかり真似ちゃうんですね (^_^;)

その深い意味がよくわからないまま 言ってることを口移しで真似てみたり、態度を真似てみたり。

でもそれは 形ばかりの空っぽなので、空々しく聞こえたり、尊大でこっけいにしか映らなかったり。

・・・・・・って これ 白状すれば、すべて貴秋自身の身に覚えのあること

今なお思い出すと 穴があったら入りたい氣持ちになります (- -;)




そのころの私の最大の目標は 「悟ること」 でした。

師と仰いだ人が そのような体験について語っていて、「私もあんなふうになりたい!」 という氣持ちが そこにいっちゃったんですね。

しかし、脳内のおしゃべりを止めることさえできなかった私に 慣れ親しんだ思考パターンの壁は厚く、できない、またダメだ、の積み重ねが 憧れの人をいよいよ高みへと押し上げるばかり、今振り返れば その人にしがみついている限り それ以上の前進は望めない状態だったことがわかります。




運が味方してくれてか その人の下を離れるチャンスと 手を貸してくれる人に巡り会い、その先をひとり手探りで進んできた今、悟りへの憧れなどはどこへやら、自分を突き動かす根源は 「幸せになりたい、満ち足りていたい」 というシンプルな思いだとわかりました。

どんな望みも、一番の根っこは そこにたどりつくようです。

そしてこれこそまさに青い鳥、幸せも充足も どうやら本来の私たちのありようそのものらしいと知りました。

何かになろうとする必要なんてまったくなく、もともとの自分を思い出すだけでよかったのです。

これだけのことにたどりつくのに なんてまあ大回りをしたことか。。。。。。完成版ジョナサン第四章の カモメたちの壮大な “スピリチュアル史” に溜息をつきたくなる理由は ここにあります (*^-^*)ゞ




でも、道を外れたからこそ見えるものもある。

憧れの対象を外に求めるのをやめ、内へ内へと探究を深めるにつれ、スピリチュアルという言葉が指し示す世界は、決して浮世離れしたものでも いかがわしいものでもなく、ちっぽけなかけらの自分と “おおきなひとつ” の領域をつなぐ 見えない根っこだと思うようになりました。

スピリチュアル、精神世界、魂の領域、五感を超えた世界、どのようにも言えるし、そのどれも そのものずばりを表すことはできないというやっかいな世界ですが、だからといって存在しないことにはならない。

そして それを取り戻す道こそ、あらゆる人の 一番の望みを叶える道でもあるのです。





















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