毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

時間もチャンスも十分に♪

2015年05月30日 12時13分04秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


最近、これだけ世界のあちこちで 噴火だの洪水だの渇水だの高温だのと聞くと、やはりこのままでは・・・・と不安が増すのでしょう。

変化を促すのに 「もう時間がない!」 というような 焦りを含んだ表現を、あちこちで見かけます。

うんうん、のんびり構えている場合じゃないのはわかる。

あすなろ状態の先延ばしで、マズイとわかっていながら 砂に頭を突っ込んだダチョウみたいなことはすまいと思います。




その一方で、時間ってなに? という氣がするのも、これまた事実。




前にも書いたような氣がしますが、時間というものに 初めて 「?」 がともったのは、エーリッヒ・ショイルマン著 「パパラギ」 を読んだとき。

一日を 時だの分だの秒だのと切り刻み、自ら生み出したその物差しに追い立てられて、いつも時間がないと不平不満でいっぱいの白人たちへの、サモアの酋長 ・ ツィアビの素朴な疑問。

時間も時計もあって当たり前と思い込んでいた私には、かなりの衝撃でした。

さらに10年ほどのち、時間泥棒たちによって そんな物差しに がんじがらめに管理される人々と、彼らのために時間を取り戻す戦いに挑む ひとりの女の子の物語、ミヒャエル・エンデ作 「モモ」 に 時間についての新たな視点を開かれ、そのまた10年後ぐらいに、ニール・ドナルド・ウォルシュ著 「神への対話」 や リチャード・バック作 「ONE」 で、過去も未来もすべて 今という一点に 同時に存在する、という新しい概念を吹き込まれ。

そして 昨年出会ったのが、このブログ記事

時間に振り回されるのでなく 自分時間のオーナーになるという、この発想。

それ以前の情報で 直線的時間概念が かなりぐらついていた貴秋、この記事のインパクトに多大な影響を受け、続くその2その3、さらにはこれこれも読みました。

そして、折りよく就いていた仕事の中で、さっそくこの概念を取り入れて 実地研修。

からだが3つ欲しいほどの めまぐるしい忙しさの中で、自分の捉え方ひとつで 時間に対する感覚を変えられるか。




時間に追われている氣分のとき 一番問題なのは、自分から焦りや苛立ちに身を投じて 被害妄想を繰り広げては エネルギーをダウンさせ、さらに直観が働かなくなって、ミスやトラブルが増えること。

この状態に落ち込まないために、時間の経過を極力意識せず、「時計の針に関係なく 私の意識が時を生み出すのだ」 「起こることすべて必然だから、しなければならないことがダブったとしても、どちらにも必ず当てはまる場があるのだ」 という氣持ちで、心を乱さず (乱れたときは 感覚フォーカスで対処)、今 ・ ここにい続けるようにしてみました。

そうしたら、たとえしなければならないことが 二つ三つと重なっても、焦らず 目の前のことから順次対応というのが けっこうでき、時間のロスも エネルギーのロスも 最小限に抑えられ、プラス直観が働きやすくなることで 物事の順序がつけやすくなり、ラッキーに助けられる率も上がり、また こちらのエネルギーに呼応するように、お客さまをお待たせしてしまっても、苛立つことなくゆったり待っていてくださったりして、苦情の出ることが ほぼなくなったのです。

時間をコントロールできるようになったというよりも、時間そのものが 意味を持たなくなったような。

時間についての厳しい制約の下でさえも、すべては 外側の時間感覚や 時計の針の進み具合に関係なく、自分の思い方ひとつで いかようにも変わるのだ、との思いが強まりました。

自分の意識の持ちようひとつで、以前の 「時間がない、足りない」 という焦燥から解放され、まわりも含めて 物事がスムーズに運ぶ手応えを 強く感じたのです。




時間とは、今と 今でないところの距離を測る 人為的な物差し。

今でないところに意識を向けるのをやめて、いつも今 ・ ここで、ふと浮かぶことや 目の前に現れることを 淡々とこなし続ける限り、もはやその物差しは ないも同然。

「時間がない」 という状況を具現化させるかどうかは こちらの氣持ちひとつ、 物事を決める主体は 時間ではなく 私たちの意思、だから、私たちがダメだと思い込まない限り、地球を回復させるチャンスも時間も 十分にあるのです























コメント
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