毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

ゆだねる

2014年07月26日 08時21分18秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


あれはもう10年以上前になるのかな。。。。

とあるワークショップに参加したときのこと。

いくつもの小ワークが組み合わせられた 半日がかりのプログラムだったのですが、その中に、二人一組で 片方が目隠しをし、もう片方が相手をエスコートして 公園の決められた範囲を一周するというのがありまして。

ポイントは、言葉を一切発しないこと。

だから、介添役は 声によらないなんらかの合図方法を工夫して伝えながら 相手を導かないとならないわけ。

私はまず先にエスコート側になって、スマートとは言えないながらも なんとか無事にお相手をゴールまでお連れし、続いて自分が目隠しをして 先導してもらうことになったのですが、これが想像以上に不安で怖くて。

いえ、相手の方のフォローはしごく的確で 私よりはるかにわかりやすく なんの問題もなかったのですが、じゃあ なにがそんなに不安だったのかといえば、ひと言で言うと 信頼が足りなかったんですね。

日ごろ使い慣れた五感の中でも 特にウェイトの大きい視覚を塞がれ、その状態に適応できないまま 自分でなんとかしようとあがき続けて、せっかく 「進んでOK」 の合図をもらっているのに、怖くて次の一歩が踏み出せない。

ふと、そんな自分のあり方のおかしさに氣づき、そして思ったのです、こんなに上手に誘導してもらっているのだから、自分でどうにかしようというそのがんばりを放棄して、万事お任せすればいいんだ、と。

で、頑固に抵抗して突っ張っていたものを 思い切って外し、素直に導かれるにまかせてみたら。





すぅっと怖れが遠のき、力が抜け 氣が楽になって、すっかり楽しくなってしまったのです。

あの氣分は、親を信頼して すべてを預け切って遊ぶ 幼い子どもそのままでした。

そして、ゆだねるというのが これほどまでにうっとりくつろげることだというのを、きれいさっぱり忘れていた(知らなかった?)自分に氣づかされました。

そこからは 無性にうれしくて、すっかりお母さんに甘えた子どもに返って、口元がほころびっぱなし。





そして、これはあとから聞いたのですが、相手の方は、私がにこにこ微笑んでいるのを見て、もっともっと楽しませてあげたいという思いが募ったのだそうです。

この方、自己紹介のときに ご自身の特徴を 「お母さん」 とひと言でおっしゃっていましたが、まさにそのとおり、母性愛溢れるフォローで、とりあえず一周すればそれでいいのに、わざわざ水道まで連れて行って 手に水を垂らしてくれたり、ブランコに座らせて そっとこいでくれたり、と、いろいろなくふうで彩りを添えてくれたのでした。

なによりも、その優しい思いやりが伝わってきて、じ~んとなったのを覚えています。






自分でも元をたどれないほど 記憶にないところで当然のように長年居座っていた不安。

デフォルトだと思い込んでいたそれに取り巻かれているときは、無意識のうちに 常に氣を張って身構えていました。

うっかり氣をゆるめると いつどこで どんな災難に見舞われるかわからない、それが人生だと思い込んでいて、緊張を解くことができなかったのです。

そんな自分を、行動ではなく あり方から変えようと心に決めて、これと思うことを片っ端から実行していく中で、からだの感覚に集中する という情報に出会い、ひたすら試すうちに、当然のごとくつきまとっていた不安が 次第に薄らいできて、そこで初めて 身も心も 力を抜くことを覚えました。

自分で人生をコントロールしないと、という張り詰めた氣持ちを、初めてゆるめることができたのです。

そんな変化が、前回書いた「 内側と外側の調和」 にも反映されて、からだ本来の力が よりいっそう発揮できるようになったんですね。





ゆだねているとき、もっとも力が抜けていて、ゆえに もっとも力が出しやすいと感じます。

どんなに頑張るよりも、すっかり力を抜き切っているとき、もっとも強く、もっとも守られているみたいです。

赤ちゃんは、世話をしてくれる大人がいなければ 生きていくことができない立場なのに、そんな不安を感じている様子は みじんもありません。

いつも満ち足りて 氣持ちよさそうで、見ているこちらまで 幸せな氣分になって、ついつい大切にお世話してあげたくなってしまう。

なんの力みもがんばりもなく、まわりを自然とその氣にさせて、しかも双方心地よくいられる、これが 「ゆだねるものの強さ」 なんじゃないかな。

成長するに従って ついつい忘れてしまうけれど、そろそろ再び 思い出して吉、なのかもしれません。





今でもまだ、うっかり緊張のスイッチが入ってしまうことは ままあります。

でも、そんな自分の引っかかりを見つめつつ、あのワークで味わった ゆだねて甘える幸せを思い出して、再び力を抜き、やってくるすべてを受け止めようと思いなおすのです。

私たちが長年 ゆだね切れず抗うことで作り出してきた、負の副作用を伴う社会システムや 便利さの数々、それらをクリアに戻して 壊れかけた環境を整え、迎えつつあるピンチを救うのは、そんな試みのもと取り戻す、無垢な赤ん坊のようなやわらかい心なのかもしれません。









p.s.


パワフルママさんへ

こんなところからですみません。

いただいたコメントにお返事さし上げたいのですが、けさから欄の調子がおかしくて、文章が途中までしか反映されず うまくアップできません。

会社に問い合わせていますので、もうしばらくお待ちくださいね m(__)m
























内と外

2014年07月26日 01時18分00秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


きょうは。。。。いや、もうきのうになっちゃったけど、全国的にかなりの暑さだったようですが、こちらもこの夏一、二を争う高氣温だったんじゃないかな。

特に午後からは、薄曇りになった分、湿度が上がって、すごい蒸し暑さ。

でも そんな中、相変わらずクーラーなし生活で、貴秋は元氣いっぱいなのです \(^o^)/





心の変化に伴って からだのほうも変わってきているみたいです。

昨夏は 氷を使わず、飲食物は冷蔵室で冷やすに留めていましたが、今年はなんと 冷蔵すらせず、常温でいただいています (≧▽≦)

クーラーなしの部屋で 熱々の料理も食べるし、飲み物も 水からお茶、コーヒーまで すべて常温。

これがなんかいいみたいなんです♪





今年は梅雨明けが遅く、7月に入ってからも けっこう涼しい日が続いたので、梅雨明けから一転猛暑になると聞かされて、一時はビクついていたんですね。

そんなとき ふと思ったんです。

なんのかんの言っても、二昔前ぐらいまでは、冷房も冷蔵庫もなくたって、みんな当たり前に夏を過ごしていたんでしょ?

たしかに ここ数年は異常氣象で 温度の上がり方も半端ないし、都会ではヒートアイランド現象なんかもあるから、一概には言えないけれど、ならば 50度近い砂漠で暮らす民族の方々はどう?

そんな過酷なところでも、やっぱり冷房・冷蔵庫なしで、人間ってちゃんと生きられるものなんだよね?





こういうことを考え出すと、ついつい 人間本来の身体能力をどこまで取り戻せるか、挑戦したくなっちゃうのが サガなんだなぁ ( ̄∇ ̄*)ゞ





映画 「ガイア・シンフォニー」 の監督・龍村仁さんの著書 「地球(ガイア)のささやき」 に、こんな話があります。

撮影のため 50度を越える高温のアフガニスタンの砂漠を車で移動中、いっそこのすさまじい暑さと仲良くなってやろう、この暑さこそ 砂漠のメッセージであり、それをからだの全感覚を開いて受け止めることこそ、砂漠と付き合う第一歩なのかもしれない、と心に決めて、ひたすら耐える龍村さん。

たどり着いたオアシスの茶店で、旅人たちがわざわざ熱い紅茶を飲んでいるのを見て、奇妙に思いつつも試してみたら、道中でもう出切っていたと思われた汗が噴き出し、身も心も軽やかになって、耐え難かった暑ささえ 心地よく感じるようになった、というのです。



      外の世界から吹き込んできた “風” が私のからだの中を吹き抜けてまた、外へ出てゆく。

      自分のからだが砂漠の “風” の通り道になってしまったような、そんな氣分だった。



そんな時、スタッフのひとりが突然苦しみ出します。

車の中でも さかんに冷えたコーラを飲んでいた人で、さらにオアシスの井戸水を頭からかぶったところ、急に息ができなくなってしまった、というのです。

本来スムーズに循環するはずの 内側の自然と外側の自然が、彼が外側の自然(暑さ)を怖れて 冷たいものを飲み続けたことで うまく順応できず、さらに冷水をかぶったことで、毛穴が開きっ放しの状態になって、皮膚呼吸ができなくなってしまったのでした。



      人間のからだ、すなわち内側の自然は、本来、外側の自然、すなわち環境に順応するための、神技としか思えないほど見事なシステムを持っている。

      だからこそ人間は、氣温五十度を越える砂漠地帯でも、マイナス四十度の氷原でも、平均体温を三十六・五度に保って生きてこられたのだ。

            (中略)

      外側の自然の変化を怖れ、それに抵抗しようとすればするほど、内側の自然の順応力が低下する。

      まず心を開けば、からだが開く。

      からだが開けば、内側の自然は、しぜんに外側の自然への順応力を高める。

      砂漠の民が、冷たいものを飲まず、熱い紅茶を飲むのも、外側の自然との長い付き合いの中から生まれた知恵なのだ。

      心を開いて現地の人々の知恵を学べば、私たちも氣温五十度の砂漠で生きることができる。





この話が、ずっと心に残っていたんですね。





これまでずっと、いつも怖れに取り巻かれて暮らしていた私。

氣候に対しても例外ではなく、猛暑だ厳冬だと聞けば、ついつい身構えて 立ち向かう姿勢になっていました。

そうやって抵抗するほど、「相手は大きくなる」 。

これはもう 万事に言えること。

だったら、私も龍村さんのように 暑さに心を開いて 順応して、持って生まれたからだの力を目一杯高めて、たとえ地球の異変から起こる暑さであっても 乗り切れるんじゃないかな?

禁糖のときもそうでしたが、こういうことをふと思いつくと、あとはちょっとしたノリやきっかけで ひょいと始めちゃうのが、私のクセ





実際やってみて思ったのは、自分がこれまで 冷たい飲み物や食べ物を欲しがるたびに、あのスタッフさんのように、やはり暑さを怖れて抵抗する氣持ちが働いてたんだな、っていうこと。

そのせいで、私の内側と外側に 文字通りにも比喩的にも 「温度差」 が生じ、暑さをいっそう際立たせ、苦にさせていた。

でも、これまでもずっと思ってきたように、真夏の外氣も 私のからだも、同じ夏のエネルギーが作用しているんだよね?

だったら、炎天下で 刈っても刈ってもたちまち伸びる草々のように、私もこの強烈なエネルギーに負ける代わりに 生かされることもできるのでは?

と そんな期待をひそかにしてみたんですが。





ここ2~3日の高温の中で 実感しました。

たしかに 暑さを感じてはいるのです。

きのうなんか、この夏一二を争う氣温なのが はっきりわかったし。

でも、暑いと思うことと、それを辛い苦しいと思うことは、別のことなんですね。

暑いなぁと思いつつも、その中で ちゃんと発汗機能で調節しながら、動くときには動いて、休むときには休んで、普段どおりの暮らしが 自然にできる。

これまでのどの夏よりも、暑さを苦にせず過ごしている自分がいる。

早く温度下がってくれないかなぁ、とか、一雨くればいいのに、とか、イライラと考えることもなく、他の季節と同じように 淡々と一日が過ぎてゆく。

からだ以上に、そんな抗わない心が 日々を過ごしやすくさせてくれているんですね。

たぶん、内側の自然が 本調子で作用していて、外側の自然との調和が取れているんじゃないかな♪





もちろんこれは、豊かな自然に囲まれて、朝晩はぐっと氣温が下がるこの土地だからこそ、うまくいっているのかもしれません。

誰もみな 同じようにすればいいなんて、極端なことを言うつもりは毛頭ないです。

ただ、実験してみて、砂漠の民ほどまでとはいかずとも、人の持って生まれた身体機能って やはりかなりのハイスペックらしいとわかったよっていうことを、ちょっとご報告したくなりました。

からだと心をうまく調整できれば、自分の中にも まだまだ思いがけないほどの強さがそなわっているんだって想像するだけでも いい氣分になれて、毎日の暑さが ちょっとでもしのぎやすくなるんじゃないかなぁ、って思って、ね☆





普段は 文明の利器を愛用していても、それぞれの環境・状況に応じて 少しずつでも内と外の調和をはかっていって、いざというとき、眠っていた自分本来の力のすごさに感動していただければ なによりです