毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

ノーテンキノススメ

2014年07月23日 23時23分30秒 | ふと思うこと


あれはたしか去年の夏ごろだったか、実家に行ったときのこと。

突然妻に先立たれて まだ1年ちょっとにしかならないというのに、慣れない家事に苦戦しているかと思いきや、けっこうマメに買い物したり ご飯作ったりと しっかり主夫している父。

いや、食生活のみならず、掃除洗濯から 季節のものの入れ替え、ワイシャツのアイロンがけに至るまで、80過ぎての主夫デビューとは思えない行き届いた暮らしぶりに、助っ人に行くたび 感心しきりだったのですが、さすがにまだそうそう万事要領よく・・・とまではいかず、仕事が忙しくなると、予定していた料理を作るひまがなくなり、そのまま冷蔵庫に入れっぱなしの食材を ちょいちょいダメにしてしまうことに。

そこで生活者の先輩としては、長年の研究成果を披露して 冷凍庫の活用を勧めるのですが、なぜか素材を冷凍することに抵抗のある父、使わずじまいでダメにしてしまうほうがよほどもったいない、という私と 論戦することたびたび。

そこで、ダメになるのもさることながら、傷みかけたものをうっかり食べて、食中毒にでもなったらどうするの? との問いかけに、父の答えたひとことが、

         「俺は、胃酸ほどの強力な酸にかかれば、どんな細菌もたいがい死ぬと思ってるから」



ちょっと待ったぁぁぁ~

なんなんですか、その非論理的結論は




以前にも書きましたが、私が子どものころのわが家は、親子の意見が対立するたびに行われる話し合いが とてつもなく理屈っぽく、ほとんどディベートといった様相で、それでいて 最終結論は 決まって親側に軍配が上がるのがお約束という理不尽さに、長年の怒りが溜め込まれて えらいことになってしまったわけなんですが、どちらかというと感情的で 話を都合よくもっていく母に対して、父は几帳面な論理派。

理数系思考に強く、反面 非科学的なことには 聞く耳持たないようなところもありますが、常に冷静で、母の理不尽さとは対照的に、感情に左右されることなく 客観的に話を進める父には、その四角ばった話の運びにげんなりしながらも、いちおう一目置いていたのですが。

その父が。。。。

どんな駄々っ子の言いわけですか? と思いきや、けっこうあっけらかんと そう信じることに決めてます、みたいな顔してるし (^◇^;)

サルモネラ菌だろうが ノロウィルスだろうが、万事胃酸でなんとかなるものなら、毎年この季節に これだけ食中毒が騒がれるわけないでしょうが

と 思いっきり反論しかかったのですが、

ん? ちょっと待てよ?

ふと思ったのです。

この 長年積み重ねてきた緻密な論理思考を 一瞬で吹っ飛ばすような アホな言い分こそ、実は どんな理屈も越えて 最強なんじゃないかなって。





そもそも いのちの世界って、そうそう理路整然と筋道立ったものじゃありません。

不動の固体である岩が、同時にスカスカで 常に動き回る微粒子の集まりでもある、なんていう矛盾が成立しているのが、私たちが生かされている この世界。

ガンにかかっても、なぜか突然ガン細胞が跡形もなく消えちゃう人だっているし、薬と思い込んで飲んだ粉砂糖で 頭痛が治っちゃうとか、熱した鉄の棒だと思い込んだガラス棒で腕をなでられたら 火ぶくれができちゃうとかいう話だってある。

科学や医学がいくら論理的に発達したところで、しょせんは この世の神秘のほんの一部を切り取って 辻褄が合うように話を組み立てているに過ぎないわけで、まだまだ未知の領域の方がはるかに多いのが実情。

どんな細菌でも病原菌でも、同じように取り込んだ人が 同じように発症するとは限らない。

その差を分けるのは、常日頃からの肉体の健康度なのかもしれないけれど、その健康度にしたって 「病は氣から」 なんて言葉があるぐらい、理屈では割り切れないものに左右されているんだよね。

ならば、なんでも自分に都合のいいように考えて それが実現するのなら、これ以上の守りはないっていう話ではありませんか☆





日頃 「自分の世界は 自分の思いが創ってる」 なんて言い続けている私が、非科学的な話は受け付けないはずの父のひと言に、自分の思い込みを氣づかされたっていう逆転の構図がミソなわけですが、ここで いつもどおり理屈通しなさいよって私が父に迫るより、思いがけない父のご都合主義に 私がひょいと乗っかっちゃう方が、なんだかうまくいきそうで 楽しいような氣がしてきたのです (≧▽≦)

まったくどちらも ノーテンキで適当な 似たもの親子だわ(笑)





しかしながら、このところやたら目につくように、世界のあちこちで戦闘だのよくわからない事故だの起こってるわ、政治も経済もややこしいことになってるわ、氣象もなんだか異常だわ、みたいな世の中で、筋道立てて行く末だの身のふり方だの考えたら、悲観的にならざるを得ません。

なにしろ、世の成り行きの方が、これまでの理屈だの予想だのをはるかに超えて おかしくなっちゃってるんだから。

こんな定まらない流れの中でも それなりにうまくやってゆけるのは、なんでも自分に都合よく解釈する したたかでいいかげんな精神の持ち主なのかもしれません。

根拠なく 「自分はだいじょーぶ」 と思い込む お氣楽なノーテンキさこそが、「信じるものは救われる」 明るい未来を生むカギなのかもね♪

悲観的なニュースに律儀に怯えながら身を守ろうとするより、こういう人のほうが 案外しれっとしぶとく生き残るのかもな~、と、妙に感心しながら 改めてわが父親を見直したものでした。





実際 こんな時代だからこそ、「正しいかどうか」 にこだわるよりも、「いい氣分でいられるかどうか」 を大事にして、みんなで明るく乗り切っていけたらいいですよね♪

以来、「胃酸でたいがいなんとかなる」 というこの考え方、ありがたく採用させていただいております
























名づける ・ その3

2014年07月23日 07時46分58秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


その昔、「アッシー」 なんて言葉が流行ったことがありましたが、仲間内で アッシーくんの報われない尽くしぶりや 傍目にこっけいな姿などを 揶揄的に取り上げて盛り上がっていたとき、横で冷静に聞いていた人の 「で、ほんとうにそういう人に会ったことあるの?」 というひと言に、ハタとわれに返って バツの悪い思いをしたことがあります。

面白半分で、ありもしないものに実体を持たせるようなことを 無自覚にやらかしていた自分の危なっかしさに氣づいて。

そんなことをしてまで 目を背けたかった、自分の心の貧しさをつきつけられて。

流行り言葉を ノリやテンションだけで使うことの意味を思い知らされた瞬間でした。

内容のない空っぽのイメージに 名前をつけて さも実在するかのように語ることは、自分もまわりも欺いて、エネルギーを無駄遣いさせたり、ひどいときには 悪意のこもったものをわざわざ生み出してしまったりするのですね。





「はてしない物語」 の幼ごころの君の 「正しい名だけが、すべての生きものや事がらをほんとうのものにすることができる」 というのは、こういうことも含んでいるのかな、と思ったりします。

その本質や役割を正しく表す名前をつければ、正しい働きをしてくれるけれど、誤った名をつければ、本来ないはずのものがあるように見えたり、善意から生まれたはずのものに 否定的な意味合いが生じたりしてしまう、と。

これは、名前をつけた人だけでなく、使う人にも当てはまることなんですね。

ジョークや軽いノリで使う言葉に いちいち目くじら立てることもないけれど、それが大切なこと・重要なことであればあるほど、名を持つものの本質的な部分をちゃんと理解して 感じ取って使うかどうかで、自分の周りの世界が大きく違ってくる。

自分の愛するものによかれとの願いを込めて それに見合う名前をつけることも大事だけれど、それ以上に慎重になったほうがいいのは、好きになれないもの、力を与えたくないものに名づけるときなのかもしれません。





たとえば、「嫌韓」 なんていう言葉にしても、人それぞれにいろいろな過去があるのだし、そこから好き嫌いの感情が生まれてしまうのは ある程度仕方がないことなのかもしれない。

ただ、自分にとっての 「韓」とは 具体的になにを指すのか、「嫌」 とは どういう感情を表すのか、ちゃんとその “現地” をわかったうえで使うのならまだいいけれど、なんとなくのキャッチフレーズみたいなものに うっぷんばらしのエネルギーを乗っけて言い放ってしまうとしたら、それは怖いことのような氣がします。

なんといっても、自分が発したものは、自分に返ってくるのだから。

自分で責任持って受け止められないエネルギーを 八つ当たり的に野放しにしてしまうのは、誰にとってもいい結果になろうはずがない。

今の世の中で なにかとフラストレーションが溜まりやすいのはわかります。

でも、ほんとうに解消したいと願うのなら、そのできる限り元の部分をしっかり見つめるしかない。

でないと逆に、自分がフラストレーションの製造元になってしまいかねません。

「抵抗すれば、相手は大きくなる。見つめれば、消える」 なのですから。

どちらも ( 特に前者を多く ) やってみた身として、まったくそのとおりだと思います。

イヤなもの、なくなってほしいものに わざわざ名前をつけて 憎しみや非難の的にするのは、その存在にはっきりした形や居どころを与え、エネルギーを注いで強化して、怒りや苦しみを大きくするだけ。

もちろん、なにを選択するかは それぞれの自由だけれど、自分の捉え方、意識の向け方が、ほんとうに自分の望む結果に結びつくのか、名づけることの意味と考え合わせて よぉく観察する方がいいんじゃないかな?





自分が名づけて分け出したもので、自分の世界が創られる。。。。ある意味 神的といってもいい創造行為。

せっかく与えられた力なら、自分のほんとうの望みどおりの世界を創るために うまく使うほうがよくないですか?

私たちみんな、“ 大いなる ひとつ ” のひとかけら、いわば神の分身なんだもの。





自分が世界を創っているなんてあり得ない、って思います?

でも、私たちみんな ひとり残らず その力を持ってるし、現に生まれたときから 今この瞬間に至るまで 日々刻々使ってもいます。

自分のまわりの世界と、自分の心をじっくり照らし合わせて見つめてみれば、きっと思い当たることがあるはず。

あとは、その力を無自覚に使うか、意図して望むものを創るのに使うか、その選択だけ。

今いる世界が氣に入らないなら、創り変える力を 誰もが持っているんですよ \(^o^)/





名前と聞いて もうひとつ思い浮かぶのが、この曲、ゴダイゴの 「ビューティフルネーム」。




      名前 それは燃える命

      ひとつの地球に ひとりずつひとつ

      Every child has a beautiful name

      A beautiful name,a beautiful name

      呼びかけよう名前を すばらしい名前を




そう、子どもたちだけじゃなくね。

名づけられた誰もが、なにもが、みんな命を吹き込まれて この世界に息づいている。

そこに どんなエネルギーを乗せるかな? 入れるかな?





あなたは どんな世界を 創りたいですか? (*^ー^*)






長文をお読みくださって ありがとうございました。