川内の歴史
御小人組について(1)
川内は、伊達政宗公が、慶長5年(1600年)幕府の許可を得て仙台城普請の縄張りを行い、慶長6年に普請を開始し、慶長7年頃に岩出山より家臣団や商人・住民等を移した地区の一つです。
そのとき川内の地には、家臣団(門閥、平士、組士)と、下級家臣(卒)としての小人が大工衆達と共に居住しました。寛文4年(1664年)の古地図、「仙台城下絵図」には、川内に御小人屋敷の記載があります。
御小人は、伊達家古文書によりますと、文禄元年、政宗公が朝鮮出兵に岩出山を出発の時、御供之衆の中に御小人を見いだされます。この事により、御小人は岩出山の時代以前から編成されていた組織と推測されます。また、仙台城普請の時にも作業をしたとの記述があります。
仙台藩の小人は、「戦国時代の百姓徴発が次第に常備兵の職制に組み込まれてきたもの」と言われています、ただ、起源については不明です。
小人は、鑓術に優れた者達の集団で、戦時には御鑓奉行支配に編成されていたようです。伊達家古文書によりますと、戦国時代後期には、鑓組奉行の配下に組み込まれていましたが、平時の時は、目付の支配に属し、雑務や警備を主な任務としていたと言われています。
小人は、禄高は低いが、殿様から直接指示を受けて活動もしていたようです。
伊達家四代の時代になると、目付の支配となり、惣組頭・御用差引組頭・並組頭、の3役の下に、川内御小人・大橋脇御小人・御霊屋下御小人の3組の編成で、合計436人(寛文10年史料)が属しておりました。
また、明治32年(1905年)に出版された「奥州史料 伊達家世臣録」には、御小人として、川内中ノ町344人、御霊屋中丁164人、合計508人の記述はあります(この奥州史料は、いつの頃の御小人を記したかは不明)。
明治4年7月(1871年)に、廃藩置県にて伊達藩が無くなるまで、川内中ノ町御小人衆は川内大工町一帯に居住しておりました。 (参考文献 仙台市博物館調査研究報告 第18号)
川内町内会は、町内の歴史について調査収集しておりますが。江戸時代の御小人については町内のみなさんから次のような情報が寄せられています。
イ、大工町 木村俊一さんの家に伝わる古文書の記載。
木村家の御先祖、三代木村太治右衛門氏は、大番組にご奉公し、「道坤多宮流居木太刀並関東棒」の師範で、肴町に居合の道場を持ち、家臣に居合の指導をしていました。その門人で、御小人並組頭御網頭兼役 冨澤安之助に対し、「一、居合目録 一、許 一、極意」を伝授し皆伝させたとの記載があります。
ロ、 川前丁 錦織尚一郎さんの家に伝承されている話。
錦織家の御先祖、錦織萬五郎氏は、現在の登米市東和町錦織の出身で、登米の伊達家家臣でしたが、川内の御小人組組頭を拝命し赴任の折り、登米の殿様より「錦織の姓名を賜った」と伝承されています(旧姓は菅原)。
御先祖は、馬術に長けた方で、御前にて流鏑馬を披露したり、御小姓となり御奉公した事も伝えられています。
ハ、大工町 永幡正博さんの家に伝わる古文書に記載。
永幡家の御先祖は、元禄年中(1688~1704年)に伊達家にご奉公したと伝承されています。元禄時代の文書等は喪失した為、詳細は不明です。ただ、永幡万之丞氏が、天保10年(1839年)に書き置いた古文書があり、その中に記述されている御小人に関する項目では、御小人並組頭としての御奉公や、御小人目付で精勤した事、また、定廻番江戸御町横目兼役での奉公の言葉など、他の御小人の職務と併せた記述があります。
ニ、「広瀬川上稲荷大明神社」の資料の中にあった記載事項。
神社は、御小人衆 寒河江家の先祖が建立したが、転居の時に神社を引き継いだとの記載あり。また、明神横丁の寒河江藤九郎氏の記述があり、調査したところ、伊達家世臣録の中「御小人 川内中ノ瀬」の項目に記載がありました。また、同資料の中には、他に、二家の寒河江家が記載されています。
川内の御小人衆について、町内の引き続き情報を収集し、町内歴史として加筆して行く予定です。
川内大工町 永幡正博