旅行の途中で我が家に立ち寄った甥が、旅の途中ずっとサクラを眺めてきて、「たった一週間ぐらいのためにこんなにも植えてるんですね」と言っていましたが、私たちは、幼年期のチューリップのように遺伝子に埋め込まれてしまったようなサクラ好きなんでしょう。
サクラと言えば、梶井基次郎の短編が有名ですが、伊藤桂一にも次のような良い詩があります。
天神山へ桜を見に行った
山口県都濃郡久米村の天神山へ
ただ単に桜を見るために出かけた
天神山の桜の中に立つと
眼下に一列になって久米尋常高等小学校へ通う子供らの
中に小学五年の小生の姿もみえる
おおい と呼びかけたい懐かしさだ
その行列の中のテルヒコ ノブオ シゲオ スエキチも
みんな戦争で死んで
天神山の頂の忠魂碑に祀られてしまった
七十を越えた小生ひとりがいま桜ふぶきの中で涙ぐむ
小生が天神山の桜をなぜ見に来たかを
天神山の桜だけが知っている
もはや人に何を語ることも煩わしい
春のひと日 衝動的に
わがうちなる少年に 桜ふぶきを浴びさせたくなってや
ってきたのだ
伊藤桂一「桜」 [1]
この詩のように、哀切な記憶と結びついているサクラの花もあることを忘れないように、写真の整理を続けましょう。
道の南側の西公園は、たくさんの出店やテント席まで設けられた花見会場になっていますが、朝はアルコール臭や独特の饐えた匂いがしてあまり近寄りたくありません。 30年以上もこの公園を横切って勤務先へ通っていたのですが、花見の時期の朝は気分のいいものではありませんでした。それでも、よくしたもので、帰宅時頃には匂いが薄まっていて、大勢の花見客は気分よく花見を味わうことができるようでした。
なければないで、さくら咲きさくら散る
種田山頭火 [2]
[1] 『日本現代詩文庫6 新編・伊藤桂一詩集』(土曜美術社出版販売 1999年)p. 127。
[2] 『定本 種田山頭火句集』(彌生書房 昭和46年)p.165。