万葉集巻二の草壁皇子の死を悼んだ舎人たちの「慟傷作歌」二十三首の最後に次の歌がある。左注がすぐ後ろに付いている。
(皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首)
八多籠良我夜晝登不云行路乎吾者皆悉宮道叙為(万193)
右日本紀曰三年己丑夏四月癸未朔乙未薨
一句目と四句目の訓読には諸説違いがある。
はたこらが 夜昼といはず 行く道を われはことごと 宮道にぞする
役民たちが夜昼の別なく行く道を、私たち舎人はみな宮仕えの道にしている。(新大系文庫本172~173頁)
畑子らが 夜昼といはず 行く道を 我れはことごと 宮道にぞする
墓造りの人々が夜昼となく通う道、その道を、われらは終始ひたすら宮仕えの道にしたものだ。(伊藤2009.128頁)
畠子らが 夜昼といはず 行く道を 我はさながら 宮道にぞする
農夫たちが夜昼となく通い行く道なのに、私はさながら宮仕えの道にすることだ。(多田2009.171~172頁)
畑子らが 夜昼といはず 行く道を 我はことごと 宮道にぞする
畑で働く農民たちが昼夜かまわず行き来する道を、私たちはそのまま宮への道として通っていることだよ。(阿蘇2006.446~447頁)
はたこらが 夜昼と言はず 行く路を 吾はことごと 宮道にぞする
農夫たちが夜も昼も通る道を自分はいつもいつも宮道として通っている。(稲岡1997.119頁)
はたこらが 夜昼といはず 行く道を 我はことごと 宮道にぞする
畑子たちが 夜昼となく 行く道を われわれ舎人はそのまま 参道にしている(新編全集本126頁)
はたこらが 夜昼と言はず 行く路を われはさながら 宮道にぞする
農夫らがいつも行き来する道だのに、私はさながら宮道のごとくに行くことだ。(中西1978.137頁)
やたこらが 夜昼といはず 行く道を 我はことごと 宮道にそする
墓造りのため労役に従っているヤツコたちが昼となく夜となく行き来する道を、舎人であるわたしは、そっくりそのままお墓に参る道にすることだ。(その道を通って草壁皇子のお墓に参ることである。)(吉永1969.103頁)
畑子らが 夜昼と云はず 行く路を 吾はことごと 宮道にぞする
畑仕事のお百姓たちが夜も昼も通ふ路を自分はすつかり宮仕への道としてゐることだ。(澤瀉1958.335頁)
はたこらが 夜昼と言はず 行く路を われはことごと 宮道にぞする
農夫たちが夜昼といわずに、往来する道を、私は宮道にして毎日通うことである。(大系本103頁)
畑子らが 夜昼といはず 行く路を われはことごと 宮道にぞする。
農夫等が、夜とも昼ともいわず、行く路であつたものを、今は自分が全く出仕する道とする。(武田1956.514頁)
畑子らが 夜昼といはず 行く道を 吾はことごと 宮道にぞする
農夫達がひつきりなしに行き通ふ田圃道を私は全く宮道として通つてゐる(橋本1953.58頁)
やたこらが 夜昼といはず 行く路を 吾はことごと 宮道にぞする
皇子のみ墓造りの奴たちが、夜といはず昼といはず往来して居る道を、吾はすべて宮仕の道として居る。(土屋1949.176~177頁)
一句目の「八多籠」を「はたこ」と訓んで畠子(畑子)、それは「田子」という田を耕す人の対となる畠(畑)を耕す人の意とする考え、また、「はたこ」と訓んで徴子、それは労役に徴発されることを「徴る」ということから労役者のこととする考え、また、「やたこ」と訓んで「奴」の母音交替形であるとする考えがある。
このうち、陵墓造営に携わっているとする人のことと考えるのは、少々飛躍した考え方である。この歌の前にある他の舎人たちの歌22首は、生前に暮らしていた宮との関わりのなかで皇子の殯宮に仕えることを歌っている。かりもがりの次は本葬儀、埋葬だから陵墓を造っているとするのは、近代的な合理性から推し測った考え方である。
四句目の「皆悉」は「ことごと」と訓む説が多いが、「さながら」と訓む説もある。「ことごと」と訓むと、どの道も皆、の意に、「さながら」と訓むと、まるで……のように、の意になる。
このように意見が分かれているのは、この歌の修辞方法について理解できていないからである。三句目に「夜晝登不云」と、ことさらに夜昼と断られているのにはそれなりの理由があると考えられよう(注1)。
夜昼と いふ別知らず 吾が恋ふる 心はけだし 夢に見えきや(万716)
常世にと 吾が行かなくに 小金門に もの悲しらに 思へりし 吾が児の刀自を ぬばたまの 夜昼といはず 思ふにし 吾が身は痩せぬ 嘆くにし 袖さへ濡れぬ かくばかり もとなし恋ひば 古郷に この月ごろも ありかつましじ(万723)
父母が 成しのまにまに 箸向ふ 弟の命は 朝露の 消やすき命 神の共 争ひかねて 葦原の 瑞穂の国に 家無みや また還り来ぬ 遠つ国 黄泉の界に 延ふ蔦の 各が向き向き 天雲の 別れし行けば 闇夜なす 思ひ迷はひ 射ゆ猪鹿の 心を痛み 葦垣の 思ひ乱れて 春鳥の 音のみ泣きつつ あぢさはふ 夜昼知らず かぎろひの 心燃えつつ 嘆き別れぬ(万1804)
ますらをの 現し心も 吾は無し 夜昼といはず 恋ひし渡れば(万2376)
思ふらむ その人なれや ぬばたまの 夜昼といはず 吾が恋ひ渡る(万2569或本)
吾が恋は 夜昼別かず 百重なす 情し思へば いたもすべなし(万2902)
これら「夜昼」の例では、多くの場合、恋に関連して歌われている。恋は共寝を連想させるから夜を先にした言葉が使われているようである。そしてまた、ただ体だけが目当てではないと言おうとして夜昼の別なく恋していると歌っている。
舎人が今、「宮道」にして皇子に仕えようとしているのは殯宮である。殯の儀式は夜に行われることがメインである。今、通夜として名残りをとどめている。「皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首」の前に位置しているのは、「日並皇子尊殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首〈并短歌〉」である。「殯宮」は「あらきのみや」と訓まれている。アラキはまた、「新墾」という意をも表す。新しく開墾して田圃にしたところが「新墾田」である。「殯宮」へ行くということは、「新墾田」へ行くことと同等である、というのが、言葉と事柄とが相即な関係になるようにものごとを考えていた上代の人たちの思考に沿っている。つまり、「殯宮」へ宮仕えに夜昼問わずに赴くことは、新しく開墾して作った田へ常ながらに行くということと同じこととされることになる。その意味深い言い方を導くためには、「田人」を思い起こさせる「畠子」という造語がふさわしいことになる。
夜間農作業(大蔵永常・除蝗録、松明をともし或は田の中に火をたきて蝗を集めてとる図、国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200021676/34?ln=jaをトリミング)
田圃へ夜昼と見に行く必要はそれほどはない。鳥獣から苗や作物を守る必要があると言っても、収穫期になって特に山間部で見張り小屋で一晩中、火を焚きながら見張ることはあっても、ふだんは鹿猪垣、案山子、鳴子、ししおどし、オオカミの糞を混ぜたものを置いて寄せ付けないといったことが行われる程度であった。収穫期以外の夜間作業としては、大雨が降った時に灌漑設備を点検したり、イナゴ、ウンカ、いもち病が大量に発生した時に虫送りの松明を焚くことが行われた。一方、畠(畑)のほうが獣害がつきものである。昼間は雑草を抜き、水をかけ、枝や蔓を誘引固定し、夜間はイノシシ、サル、シカ、タヌキなどを追い払わなければならない。畑は水田に向かないところに耕される傾向があり、山に近いところに作られたことも災いしたかもしれない。成ったものから順次収穫する畑は、ほぼ常時収穫期であるから、夜昼と見に行く必要があった(注2)。
つまり、今、夜昼問わずにアラキ(殯)へお仕えに行くことは、一般的にアラキ(新墾)(田)へ行く「田人」よりももう少し頻繁に、夜でさえも耕作地へ通うことに相当するということで、「八多籠」=「畠子」に登場願ったということになる。
以上、万193番歌の訓みと解釈を検討し、確定した。
(注)
(注1)「夜昼」について検討された論考は管見に入らない。
(注2)近世の農書に詳細が記されているわけではないが、農薬の進歩を除き、今日の作物管理とさほど変わらないと考える。
(引用・参考文献)
阿蘇2006. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第1巻』笠間書院、2006年。
伊藤2009. 伊藤博『新版万葉集一 現代語訳付き』角川学芸出版(角川ソフィア文庫)、平成21年。
稲岡1997. 稲岡耕二『和歌文学大系 萬葉集(一)』明治書院、平成9年。
澤瀉1958. 澤瀉久隆『萬葉集注釈 巻第二』中央公論社、昭和33年。
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
新編全集本 小島憲之・木下正俊・東野治之校注・訳『新編日本古典文学全集6 万葉集①』小学館、1994年。
大系本 高木市之助・五味智英・大野晋校注・訳『日本古典文学大系 萬葉集一』岩波書店、昭和32年。
武田1956. 武田祐吉『増訂 萬葉集全註釈 三』角川書店、昭和31年。
多田2009. 多田一臣『万葉集全解Ⅰ』筑摩書房、2009年。
土屋1949. 土屋文明『萬葉集私注 第二巻』筑摩書房、昭和24年。
中西1978. 中西進『万葉集 全訳注原文付(一)』講談社(講談社文庫)、1978年。
橋本1953. 橋本四郎「「八多籠」」『萬葉』第9号、昭和28年10月。萬葉学会ホームページhttps://manyoug.jp/memoir/1953
百姓伝記 古島敏雄校注『百姓伝記(下)』岩波書店(岩波文庫)、1977年。
吉永1969. 吉永登『万葉─通説を疑う─』創元社、昭和44年。
(皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首)
八多籠良我夜晝登不云行路乎吾者皆悉宮道叙為(万193)
右日本紀曰三年己丑夏四月癸未朔乙未薨
一句目と四句目の訓読には諸説違いがある。
はたこらが 夜昼といはず 行く道を われはことごと 宮道にぞする
役民たちが夜昼の別なく行く道を、私たち舎人はみな宮仕えの道にしている。(新大系文庫本172~173頁)
畑子らが 夜昼といはず 行く道を 我れはことごと 宮道にぞする
墓造りの人々が夜昼となく通う道、その道を、われらは終始ひたすら宮仕えの道にしたものだ。(伊藤2009.128頁)
畠子らが 夜昼といはず 行く道を 我はさながら 宮道にぞする
農夫たちが夜昼となく通い行く道なのに、私はさながら宮仕えの道にすることだ。(多田2009.171~172頁)
畑子らが 夜昼といはず 行く道を 我はことごと 宮道にぞする
畑で働く農民たちが昼夜かまわず行き来する道を、私たちはそのまま宮への道として通っていることだよ。(阿蘇2006.446~447頁)
はたこらが 夜昼と言はず 行く路を 吾はことごと 宮道にぞする
農夫たちが夜も昼も通る道を自分はいつもいつも宮道として通っている。(稲岡1997.119頁)
はたこらが 夜昼といはず 行く道を 我はことごと 宮道にぞする
畑子たちが 夜昼となく 行く道を われわれ舎人はそのまま 参道にしている(新編全集本126頁)
はたこらが 夜昼と言はず 行く路を われはさながら 宮道にぞする
農夫らがいつも行き来する道だのに、私はさながら宮道のごとくに行くことだ。(中西1978.137頁)
やたこらが 夜昼といはず 行く道を 我はことごと 宮道にそする
墓造りのため労役に従っているヤツコたちが昼となく夜となく行き来する道を、舎人であるわたしは、そっくりそのままお墓に参る道にすることだ。(その道を通って草壁皇子のお墓に参ることである。)(吉永1969.103頁)
畑子らが 夜昼と云はず 行く路を 吾はことごと 宮道にぞする
畑仕事のお百姓たちが夜も昼も通ふ路を自分はすつかり宮仕への道としてゐることだ。(澤瀉1958.335頁)
はたこらが 夜昼と言はず 行く路を われはことごと 宮道にぞする
農夫たちが夜昼といわずに、往来する道を、私は宮道にして毎日通うことである。(大系本103頁)
畑子らが 夜昼といはず 行く路を われはことごと 宮道にぞする。
農夫等が、夜とも昼ともいわず、行く路であつたものを、今は自分が全く出仕する道とする。(武田1956.514頁)
畑子らが 夜昼といはず 行く道を 吾はことごと 宮道にぞする
農夫達がひつきりなしに行き通ふ田圃道を私は全く宮道として通つてゐる(橋本1953.58頁)
やたこらが 夜昼といはず 行く路を 吾はことごと 宮道にぞする
皇子のみ墓造りの奴たちが、夜といはず昼といはず往来して居る道を、吾はすべて宮仕の道として居る。(土屋1949.176~177頁)
一句目の「八多籠」を「はたこ」と訓んで畠子(畑子)、それは「田子」という田を耕す人の対となる畠(畑)を耕す人の意とする考え、また、「はたこ」と訓んで徴子、それは労役に徴発されることを「徴る」ということから労役者のこととする考え、また、「やたこ」と訓んで「奴」の母音交替形であるとする考えがある。
このうち、陵墓造営に携わっているとする人のことと考えるのは、少々飛躍した考え方である。この歌の前にある他の舎人たちの歌22首は、生前に暮らしていた宮との関わりのなかで皇子の殯宮に仕えることを歌っている。かりもがりの次は本葬儀、埋葬だから陵墓を造っているとするのは、近代的な合理性から推し測った考え方である。
四句目の「皆悉」は「ことごと」と訓む説が多いが、「さながら」と訓む説もある。「ことごと」と訓むと、どの道も皆、の意に、「さながら」と訓むと、まるで……のように、の意になる。
このように意見が分かれているのは、この歌の修辞方法について理解できていないからである。三句目に「夜晝登不云」と、ことさらに夜昼と断られているのにはそれなりの理由があると考えられよう(注1)。
夜昼と いふ別知らず 吾が恋ふる 心はけだし 夢に見えきや(万716)
常世にと 吾が行かなくに 小金門に もの悲しらに 思へりし 吾が児の刀自を ぬばたまの 夜昼といはず 思ふにし 吾が身は痩せぬ 嘆くにし 袖さへ濡れぬ かくばかり もとなし恋ひば 古郷に この月ごろも ありかつましじ(万723)
父母が 成しのまにまに 箸向ふ 弟の命は 朝露の 消やすき命 神の共 争ひかねて 葦原の 瑞穂の国に 家無みや また還り来ぬ 遠つ国 黄泉の界に 延ふ蔦の 各が向き向き 天雲の 別れし行けば 闇夜なす 思ひ迷はひ 射ゆ猪鹿の 心を痛み 葦垣の 思ひ乱れて 春鳥の 音のみ泣きつつ あぢさはふ 夜昼知らず かぎろひの 心燃えつつ 嘆き別れぬ(万1804)
ますらをの 現し心も 吾は無し 夜昼といはず 恋ひし渡れば(万2376)
思ふらむ その人なれや ぬばたまの 夜昼といはず 吾が恋ひ渡る(万2569或本)
吾が恋は 夜昼別かず 百重なす 情し思へば いたもすべなし(万2902)
これら「夜昼」の例では、多くの場合、恋に関連して歌われている。恋は共寝を連想させるから夜を先にした言葉が使われているようである。そしてまた、ただ体だけが目当てではないと言おうとして夜昼の別なく恋していると歌っている。
舎人が今、「宮道」にして皇子に仕えようとしているのは殯宮である。殯の儀式は夜に行われることがメインである。今、通夜として名残りをとどめている。「皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首」の前に位置しているのは、「日並皇子尊殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首〈并短歌〉」である。「殯宮」は「あらきのみや」と訓まれている。アラキはまた、「新墾」という意をも表す。新しく開墾して田圃にしたところが「新墾田」である。「殯宮」へ行くということは、「新墾田」へ行くことと同等である、というのが、言葉と事柄とが相即な関係になるようにものごとを考えていた上代の人たちの思考に沿っている。つまり、「殯宮」へ宮仕えに夜昼問わずに赴くことは、新しく開墾して作った田へ常ながらに行くということと同じこととされることになる。その意味深い言い方を導くためには、「田人」を思い起こさせる「畠子」という造語がふさわしいことになる。
夜間農作業(大蔵永常・除蝗録、松明をともし或は田の中に火をたきて蝗を集めてとる図、国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200021676/34?ln=jaをトリミング)
田圃へ夜昼と見に行く必要はそれほどはない。鳥獣から苗や作物を守る必要があると言っても、収穫期になって特に山間部で見張り小屋で一晩中、火を焚きながら見張ることはあっても、ふだんは鹿猪垣、案山子、鳴子、ししおどし、オオカミの糞を混ぜたものを置いて寄せ付けないといったことが行われる程度であった。収穫期以外の夜間作業としては、大雨が降った時に灌漑設備を点検したり、イナゴ、ウンカ、いもち病が大量に発生した時に虫送りの松明を焚くことが行われた。一方、畠(畑)のほうが獣害がつきものである。昼間は雑草を抜き、水をかけ、枝や蔓を誘引固定し、夜間はイノシシ、サル、シカ、タヌキなどを追い払わなければならない。畑は水田に向かないところに耕される傾向があり、山に近いところに作られたことも災いしたかもしれない。成ったものから順次収穫する畑は、ほぼ常時収穫期であるから、夜昼と見に行く必要があった(注2)。
つまり、今、夜昼問わずにアラキ(殯)へお仕えに行くことは、一般的にアラキ(新墾)(田)へ行く「田人」よりももう少し頻繁に、夜でさえも耕作地へ通うことに相当するということで、「八多籠」=「畠子」に登場願ったということになる。
以上、万193番歌の訓みと解釈を検討し、確定した。
(注)
(注1)「夜昼」について検討された論考は管見に入らない。
(注2)近世の農書に詳細が記されているわけではないが、農薬の進歩を除き、今日の作物管理とさほど変わらないと考える。
(引用・参考文献)
阿蘇2006. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第1巻』笠間書院、2006年。
伊藤2009. 伊藤博『新版万葉集一 現代語訳付き』角川学芸出版(角川ソフィア文庫)、平成21年。
稲岡1997. 稲岡耕二『和歌文学大系 萬葉集(一)』明治書院、平成9年。
澤瀉1958. 澤瀉久隆『萬葉集注釈 巻第二』中央公論社、昭和33年。
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
新編全集本 小島憲之・木下正俊・東野治之校注・訳『新編日本古典文学全集6 万葉集①』小学館、1994年。
大系本 高木市之助・五味智英・大野晋校注・訳『日本古典文学大系 萬葉集一』岩波書店、昭和32年。
武田1956. 武田祐吉『増訂 萬葉集全註釈 三』角川書店、昭和31年。
多田2009. 多田一臣『万葉集全解Ⅰ』筑摩書房、2009年。
土屋1949. 土屋文明『萬葉集私注 第二巻』筑摩書房、昭和24年。
中西1978. 中西進『万葉集 全訳注原文付(一)』講談社(講談社文庫)、1978年。
橋本1953. 橋本四郎「「八多籠」」『萬葉』第9号、昭和28年10月。萬葉学会ホームページhttps://manyoug.jp/memoir/1953
百姓伝記 古島敏雄校注『百姓伝記(下)』岩波書店(岩波文庫)、1977年。
吉永1969. 吉永登『万葉─通説を疑う─』創元社、昭和44年。