「飛鳥」=アスカについての新着眼
「飛鳥」と書いてアスカと訓む理由については、従来、枕詞「飛ぶ鳥の」が地名アスカにかかることから説明されてきた(注1)。足利1998.は、新しい地名解釈、地名論の例として取りあげた。そこでの主張は、アスカと呼ぶ土地・地域が先にあり、それに流入した漢字文化において漢字を当てようとして「安宿」とし、「安宿」と記すと飛ぶ鳥も休むであろうからというので「飛ぶ鳥の」という枕詞ができ、「飛鳥(とぶとり)の安宿(あすか)」という表現が普及していった。そして、言葉が短縮されてアスカの音を「飛鳥」の文字に結号させたとしている(注2)。
この地名解釈の新見解は、「あすか」という地名の発生源は難しいから考えず、「飛鳥」をアスカと読む不思議さに迫ろうとする点である。筆者もほぼ同じ立場に立つ。ただし、音に字を当てる際に頭を使ったことに関して、今の人が使うのとは違う頭の使い方をしたであろうと考える。飛鳥時代になってにわかに文字が使われ始めたことにより、当時の人々は飛躍的に“なぞなぞ”的なものの考え方を発展させた。無文字社会から文字社会への大転換の時代である。それは、ちょうど、幼児が文字を知らずに音だけを頼りにしていた言語生活が、小学校へあがる頃になって文字を覚え出していく過程のなかで、すさまじく“なぞなぞ”に興じる傾向にあるのと同じである。大脳の、音声言語を司る部位と文字言語のそれとの間に複雑な連携を醸し出し、悦楽とするためであろう。長ずるに及んで文字に慣れ親しんでいくと、“なぞなぞ”への興味がさほど起こらず、かえってばかばかしいこととして片づける傾向へと転ずる。人は、文字言語を司る部位ばかりを、機械的、反復的に使用するように偏っていくらしい。
足利1998.の「あすか」→「安宿」表記→「飛ぶ鳥」説も、文字言語中枢偏重と言わざるを得ない。安らかな宿ならば飛ぶ鳥も休めるはずと考えるのは、かなり強引であり、そして、つまらない。安らかな宿は、旅ゆく人も走る馬も跳ねる兎も休めるはずである。なぜ鳥と限定できるのか示し得ない。選択的に飛ぶ鳥が選ばれている理由が示されなければ、示し伝えた相手になるほどと思わせることができない。なるほどと思わせられなければ、法華経のようにはそこから先へ“拡散”していくことはない。そして、枕詞とは、無文字社会から文字社会への大転換期における高度な言語遊戯の“なぞなぞ”である(注3)。あまり多くの例を見ない「安宿」という文字表記に依存した解釈は難しい。枕詞を冠した「飛鳥安宿」という字の並びは、上代の文献に皆無である。
当時のふつうの人、文字をほとんど読めないか、せいぜい小学校2年生レベルの識字能力の人にとって、「あすか」という地名は、アスカという音によって認識されていた。文字を記号素 monème として演算操作するに至っていないのが大前提である。この点を絶対条件として考えなければならない。万葉集に例を見ると、地名のアスカは、「飛鳥」、「明日香」、「明日香川」、「明日香河」、「飛鳥川」、「阿須可河泊」、「安須可河泊」、「明日香乃河」、「明日香之河」、「明日香能里」、「飛鳥壮(あすかをとこ)」などと表記され、全部で36例である。つまり、どう書いても通じればそれで構わないのである。常用漢字表もなければ、テストもない時代である。枕詞の「飛ぶ鳥の」を冠するのは4例(万78・194・196・3791)にとどまる。また、「飛ぶ鳥の」が他の語、「浄御(きよみ)の宮に」(万167)、「早く来まさね」(万971)、「到らむとぞよ」(万3381)にかかる例も見られる。
多くの辞書に「飛鳥」と書いてアスカと訓む理由にあげられる枕詞「飛ぶ鳥の」由来説は、枕詞というものを隠れ蓑にして、あるいは、ブラックボックスにして誤魔化した説明である。「飛鳥」と書いてキヨミやハヤやイタといった地名に訓まないことを証明できない。アスカという地名の音と「飛鳥」という文字表記との間の関係が、もっとダイレクトに感じられなければ、当時の人の間にわかり合うことはなく、通用しなかったと考えられる。当時の人にとって「飛鳥」と書いてアスカと訓めることは、ふつうに楽しめる“なぞなぞ”であったに違いない。
明日(あす)とのかかわり─羽ばたく翼─
アスカという地名は、言葉遊びとしては、アス(明日)との駄洒落が連想されやすい。だから、万葉集に「明日香」と書かれ、紀の古訓に記されているアクセント表記からも、アス(明日)(LL)、アスカガハ(飛鳥川)(LLLHL)と知られている。これは万葉集の風雅などではなく、単なる語呂合わせである。
明日香川 明日だに見むと ……(万198)
明日香川 明日も渡らむ ……(万2701)
今日もかも 明日香の川の ……(万356)
…… 今日今日(けふけふ)と 飛鳥に到り ……(万3886)
アスという語の観念は、上代と今日とで微妙な違いがある。古典基礎語辞典に、「アスはケフ(今日)の次の日だが、上代にはケフとアスの境界は現代とは異なっていた可能性がある。通い婚の時代、男女が早朝まだ暗いうちに別れ、アスも逢いたいというのはふたたび宵を迎えるときであり、一晩置いた次の日とは考えにくいからである。その場合、今日の宵や夜はアスになる。日の出が一日の始まりととらえるだけでなく、日没が一日の始まりとするとらえ方もあったということになる」(28頁、この項、白井清子)とある。現在の言い方では、キノフ(昨日、yesterday)→ケフ(今日、today)→アス(明日、tomorrow)という区別がはっきりしているが、上代はそうではなかった。時間の言い方としては、昼を中心とした時間の言い方に、アサ(朝)→ヒル(昼)→ユフ(夕)、夜を中心とする時間の言い方に、ユウヘ(夕)→ヨヒ(宵)→ヨナカ(夜中)→アカトキ(暁)→アシタ(旦)という2種類の言い方があった。
現代の今夜のことも、上代にアスということがある。すなわち、アスとは、あえていえば、next (day) という意に近い。漢字で記せば「翌」である。名義抄に、「翌日 ア爪」とある。アスカという場合、アス+カのカが、昼を表すフツカ(二日)、ミツカ(三日)のカを表す日の意と捉えたとすると、アクセント上、トヲカ(十日)(HHH)の例からカは高拍で一致する。したがって、アスカという音からは、次の日の日中のことを表しているように感じられよう。そして、「翌」字は「翼」と通用する。書経には、「翌日」のことを必ず「翼日」と記されている。「翌」字は「翊」字に同じく、羽を立てて羽ばたくことを表している。鶏のコケコッコーの鳴き声に代表されるアカトキ(暁)よりも後の時間帯であることを示唆している。アカトキ(暁)は飛べない鳥であるが、アスカは飛ぶ鳥なのである。この洒落がわからない人は、もはや「飛鳥」と記して喜んだ人たちの気持ちには近づけない。
「安宿」と書く例についても、安らかな宿の意に解したのではなく、ともに動詞と考えて、安は安息の意のやすむこと、宿はやどることを表しているのであろう。白川1995.に、「「家取る」の意。」(770頁)とある。ドは乙類である。漢字では他に、「次(やど)る」と書く。次の日、つまり、翌日のことを考えて、今日はゆっくり休むのである。飛鳥の地に安んで宿った事跡は、記に述べられている。
故、其の隼人[曾婆訶利(そばかり)]が飲む時に、大鋺(おほまり)、面(おもて)を覆ふ。爾に、席(むしろ)の下に置ける剣を取り出して、其の隼人が頸を斬りて、乃ち明日(あす)上り幸しき。故、其地(そこ)を号けて近飛鳥(ちかつあすか)と謂ふ。倭へ上り到りて、詔(の)りたまはく、「今日は此間(ここ)に留りて祓禊(みそぎ)を為て、明日参ゐ出でて、[石上(いそのかみ)の]神宮(かみのみや)を拝(をろが)まむ」とのりたまふ。故、其地を号けて遠飛鳥(とほつあすか)と謂ふ。(履中記)
記の記述では、「飛鳥」と書いてアスカと訓むことが既定事実となっている。多くの辞書に記載の枕詞由来説は、天武天皇の都した飛鳥浄御原宮の時代、朱鳥改元のもととなった瑞祥話を引いている。しかし、天武天皇時代をはるかに遡る履中天皇時代の、しかも、河内の近つ飛鳥にまで「飛鳥」と書いて何の疑いもなくアスカと訓んでいる。枕詞は本質的に言葉にかかるものである。飛鳥地方のなかで転々と遷都しつづけた最後の浄御原宮に事跡する事柄ならば、「浄御(きよみ)の宮に」(万167)にばかりかかることとして説明されるはずである。
「飛ぶ鳥の」がアスカにかかる理由は、鳥が飛ぶときに必要な翼のことと、羽ばたきのことが連想されるからであろう。上に触れた「翌」字に通用する「翼(つばさ)」については、
天飛ぶや 雁の翅(つばさ)の 覆羽(おほひば)の 何処漏りてか 霜の零(ふ)りけむ(万2238)
とある。翼は、羽が覆うように広げられているものである。よって飛ぶことができる代物といえる。オホヒバ(ヒは甲類)という音を聞けば、ヒノキの矮性園芸種のチャボヒバなどではなく、大きく葉(は、「羽」に同根の語)を広げるヒバのことが思い浮かぶ。チャボは鶏の一種でとても飛べそうにない。ヒバは、ヒノキ、アスナロ、サワラなどの仲間で、小枝が扁平に分枝し、葉が鱗片状になる樹木をいい、特にアスナロを指すことが多い。
左:アスナロ(神代植物公園)、右:アテ(ヒノキアスナロ、石川県の県木、皇居東御苑)
翌檜(あすなろ)は、樹形が檜に似るので、明日は檜になろうの意とする俗説がある。常緑の高木で、ヒノキ同様高さは30mに達する。別名をアスヒ、オニヒノキ、シロビ、アテなどともいう。樹皮は灰褐色で縦裂を来して薄く剥がれる。葉は鱗状で、十字に対生し、ヒノキと比べて厚く大きく、表面は緑色で光沢があり、裏面は気孔群があって蠟質で白っぽく見える。小枝は平面的でひらひらと地面と水平に茂り、鳥の翼を思わせる。5月ごろ花が咲いて10月ごろ1cmほどの毬果を結ぶ。種子は長楕円形で3~4mm、狭い側翼がついている。ずいぶんと翼にゆかりのある木である。材としての性能はヒノキ同様に良いが、臭気のある精油成分ヒノキチオールを含む。そのぶん防腐性に優れており、建築物の土台に使われたり、漆塗りの木地に用いられてきた。類似のヒノキについては、和名抄に、「檜 爾雅に云はく、栢葉松身は檜〈音は會、又、入声、古活反、飛(ひ)〉と曰ふといふ。」とある。ヒは日(ひ)と同じく甲類で「日の木」の意であろうといわれ、音仮名に「飛」の字が用いられている。以上いろいろな点から、アスナロは覆羽を比喩としていると思われる。したがって、飛鳥とは翼のこと、翼の字は翌に通じ、アスナロ(アスヒ)は香りが高いから、アスカと訓めるのである。
ヒバ・焚きつけ
ヒバという語については、記の黄泉国の説話に、地名「比婆(ひば、ヒは甲類)」として登場している。
故爾に伊耶那岐命(いざなきのみこと)の詔りたまはく、「愛(うつく)しき我がなに妹の命(みこと)や、子の一木(ひとつぎ)に易らむと謂ふや」とのりたまひて、乃ち御枕方(みまくらへ)に匍匐(はらば)ひ、御足方(みあとへ)に匍匐ひて哭きし時に、御涙に成れる神は、香山(かぐやま)の畝尾(うねを)の木本(このもと)に坐す、名は泣沢女神(なきさはめのかみ)ぞ。故、其の神(かむ)避(さ)れる伊耶那美神(いざなみのみこと)は、出雲国と伯伎国(ははきのくに)の堺の比婆(ひば)の山に葬(はぶ)りき。(記上)
黄泉国の話は、説話が細切れに錯綜している。伊耶那美命をいったんは葬ったはずが、伊耶那岐命は再度会おうとして黄泉国を訪れ、今度はそこから命からがら脱出して阿波岐原(あはきはら)で禊ぎをし、さらに再度中つ瀬でも禊ぎをする。全体的なストーリーが構成されたのち細部が練り上げられたのではなく、スキットの積み重ねで出来上がってきたと考えられる。ただし、総論としては竈の話であり、伊耶那岐命と伊耶那美命との男女の関係は、火鑽杵と火鑽臼との関係として捉えられる。「子の一木に易らむ」とは、木片に火種を継ぐことを「子」として考えている。火鑽臼自体に火がついてしまったから、自分が焚き木になって燃えてしまう役回りになったと憂いている。親は火鑽の器具であり、子は薪の木であると整理されよう。そして、仕方なく、もはや火鑽臼の機能を果たせない伊耶那美命を、ヒバの山のなかに葬ったといっている。
火熾し(奈良大和路~悠~遊~「往馬大社 火祭りの準備 火きり木神事 2013(http://pinbokejun.blog93.fc2.com/?tag=%E5%BE%80%E9%A6%AC%E5%A4%A7%E7%A4%BE&page=1)」)
出雲は、それを導く枕詞に、「八雲立つ」(記1、紀1、紀20)とあるように、雲(煙)がもくもくと立ち込めることに当たり、伯伎(ははき)は、箒(帚、ははき)にも使えそうな細い柴を指していることに相当させられる。その間に、比婆(ひば、ヒは甲類)の山がある。ヒバともいうアスナロは、自ら剥がれていく性質の樹皮を使って、槇肌(まいはだ)として船底の水漏れ防止に用いたり、火縄にも用いられた。当然、焚き付けにも使われた。すなわち、出雲、伯伎、比婆という語によって、火の焚きつけの様子が示されている。
帚(奈良県橿原市新堂遺跡出土、古墳時代、5世紀後半。小枝を藁で縛り束ねる。『橿原市埋蔵文化財調査報告 第12冊 新堂遺跡』奈良県橿原市教育委員会、2015年9月、図版40。https://sitereports.nabunken.go.jp/21804(106/122))
葬った地の別伝としては、宗教祭祀を思わせる記事に、「[伊奘冉尊を]紀伊国(きのくに)の熊野の有馬村(ありまのむら)」(神代紀第五段一書第五)に葬ったとある。紀伊国は、木の国の意にとれる。熊野は、道が隈状になるように入り組んでいる状態と思える。アリマノムラは、魔がいて群れていることを指すと聞こえる。当時「魔」といえば、もっぱら天狗を表し、後述するとおり、竈口で火の焚きつけをする場面が表現されていると考えられる。火鑽臼が火のついた炭になってしまったから、火種としてふたつにばらしてくべている様子である。埋葬する意の「葬(はぶ)る」については、白川1995.に、「はふる〔散・屠・放〕 四段。ばらばらに解きほぐし、切りはなすことをいう。「放る」もまた同系の語。また「葬る」「散る」にも放・散の意がある。」(627頁)、「はふる〔溢〕 四段。水などがあふれる。その器に入りきらずに、外にあふれることをいう。「散る」と同根の語。水のみでなく、雲や風波がわきおこることをもいう。」(同頁)とある。
また、「翥(はふ)る」とは、鳥などが羽ばたくことをいう古語である。新撰字鏡に、「翥 止遮反、挙也、翔也、波布利伊奴(はふりいぬ)」、和名抄に、「飛翥 唐韻に云はく、翥〈音恕、字は亦䬡に作る、文選射雉賦に云はく、軒々波布流(はふる)、俗に云はく、波都々(はつつ)といふ〉は飛び挙ぐる也といふ。」とある。ハフルという語の水が溢れる意には、名義抄に、「窴 アス、オク、塞也、満也」(注4)とある。つまり、飛鳥とは水のいっぱいになって溢れることを表しているから、そのようなところはアス(窴)+カ(処)なのである。カは、奥処(おくが)などという処の意である。ハクチョウなどの場合、羽ばたいて飛ぶには、水がいっぱいになっている池や湖の上を疾走するようにしてから上昇している。狭い水たまりにハクチョウのような大型の水鳥は降り立たない。いざ飛び立とうにも飛び立てなくなる。関連する様子は古事記に見える。
故、其[吉備]の国より上り幸しし時に、亀の甲(せ)に乗りて釣を為つつ打ち羽挙(はふ)り来る人、速吸門(はやすひのと)に逢ひき。(神武記)
国つ神で、「海道(うみぢ)」をよく知り、「槁根津日子(さをねつひこ)」と名づけられている。水上を行く様が水鳥の飛び立ちつつあるときの疾走の様子を表わしている。なお、ナロという語は、方言に、平らなところを表す言葉としてあり、枕草子・能因本・第百四十七段に、「土はうるはしうなろからぬに」とある。アスカのカを処の意と捉えるなら、一定の面積を持った場所を表すこととして理解される。一定の広さがなければ水鳥が飛び立てないことを知っている。
次に、庭津日神(にはつひのかみ)、次に、阿須波神(あすはのかみ)、次に、波比岐神(はひきのかみ)……(記上)
庭なかの 阿須波乃可美(あすはのかみ)に 木柴さし 吾は斎はむ 帰り来までに(万4350)
生井・栄井・津長井・阿須波(あすは)・婆比支(はひき)と御名は白して辞竟へ奉らば、……(延喜式・祝詞・祈年祭)
上の3例に見える、語義未詳ながらアスハと言っている神名は、一説に敷地神とも考えられている。作業場としての庭や井戸に近接するものとされようから、自然のなかにありつつ人工的にも構成される場所の神と考えられる。すると、アスもナロも一面に拡がるところを表していると知れる。アスナロは、別名、アテとされ、輪島塗など漆器に珍重される材であった。「貴(あて)」なる木であっての命名かとされる。したがって、山のなかに一定の場所を作って、そこに植林されたこともあったのであろう。
枕草子に、「あすは檜の木、この世に近くも見え聞えず、御嶽(みたけ)に詣でて帰りたる人などの、持て来める、枝さしなどは、いと手触れにくげに荒くましけれど、……」(第三十八段)とあるのが、文献上に見える命名俗説の初見である。同段に載る他の木の名称から、アスハヒノキというひと続きの名詞ではなく、アスハヒの木と言っている。「幸(さき)はひ」、「賑(にぎ)はひ」の類の語形とすると、ハヒ(這)と意と捉えられる。山にヒノキを植樹して人工林にする際、陰樹としてアスナロの方が生育に強く、間伐をしないと負けてしまうという。そこから、陰でじわじわと拡がることや、明日になると拡がってしまうという意味をにおわせるものがある。
秋葉原・竈
ヒバは、焚きつけの際の着火剤であった。黄泉国からの帰還の語り次のようにある。
是(ここ)を以て、伊耶那伎大神の詔はく、「吾は、いなしこめしこめき穢(きたな)き国に到りて在りけり。故、吾は、御身(みみ)の禊(みそぎ)を為む」とのりたまひて、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘の小門(をど)の阿波岐原(あはきはら)に到り坐(ま)して、禊祓(みそぎはらへ)しき。(記上)
一般に、禊ぎの場としては河原が多く、水のあるところである。「阿波岐原」は、河原や海岸であるとは明記されていない。後段に、「中つ瀬」に禊ぎをしたとあるが、その前段階である。「阿波岐原」は、紀に、「檍原(あはきはら)」とある。檍とは、和名抄に、「檍 説文に云はく、檍〈音は億、日本紀私記に阿波岐(あはき)と云ふ。今案ずるに、又櫓木の一名也。尓雅に見ゆ。〉は梓の属也といふ。」とある。何の木かよくわからない。橿の木の一名ではないかともされている。仮にそうであるなら、単に「橿原」と記せば良いのであるが、わざわざ「檍原」としている。アハキに似たことばにツハキがあり、白川1995.に、「つはく〔唾〕 四段。「つ」は唾液。唾を飛ばす。「唾吐く」の意。」(517~518頁)とする。同様に考えれば、アハキのアは、熱(暑)い、暖(温)かいなど、熱気を表すアを口から噴き出している様子を示そうとしているのであろう。説文には、「檍 杶なり。木に从ひ意声。」とあり、杶とはチャンチン、香椿とも記されるセンダン科の落葉高木を表す。今慣用の「椿」字を、冬から春初めに花咲くツバキ(古語に清音)のこととするのは本邦のみである。中国ではチャンチンに当てる。檍の字は、木偏に意、意は「噫(あ)」、「噫(ああ)」などと記される嘆息を示す字である。あ、と嘆き声を吐くからアハキである。紀の編纂者は、アハキに洒落で文字を当てたらしい。
左:佐竹秋葉神社(現台東区、明治期に秋葉ヶ原より勧請遷座)、右:現代版火防の神さま(神田消防署から秋葉原駅を望む)
アハキは、後に転倒してアキハといい、秋葉原は、火防せの神として崇められる秋葉神社の秋葉の原っぱ、すなわち、火除け地のことを指すのであろう。秋葉は黄葉するように葉が枯れていった葉であり、焚き火に適するほどに乾燥している。これは、焚きつけに使うヒバに同じである。「小門」のところに秋葉原がある。火の気のあるところの前に門があり、物を置かずに延焼しないようにしていたのは竈である。縄文・弥生時代のコンロは地床炉である。竪穴住居のに地面を浅く掘りくぼめて作られていた。土製支脚や烏帽子形石を3点として甕を置いて火を使った。四方がすべて前面である。
古墳時代になると、朝鮮半島南部から新しいコンロ、すなわち、壁際に造り付けた造付竈がもたらされた。従来の炉は、一部地域を除いてほぼ一掃されてしまう。竈は屋内の床を若干掘りくぼめて作られている。今日まで残っている民家のヘツイでも、土間の地面を20cmほど掘り下げて作られた跡が認められる。古い竃ほど掘り下げた形式のものが多いという(注5)。実際に使った場合、焚き口のほうだけ火が見えるから、その方だけ気をつければいい。その際、掘り下げた場所は、火のある炉の部分ばかりでなく、その灰を引き出す場所も含めて掘りくぼめられている。そこを火除け地に見立てて、秋葉原ならぬ阿波岐原(檍原)と記しているものと考える。
竈(世田谷区立岡本民家園)
アハキに似た音のことばに、アバク(暴・発)がある。古く清音であったらしい。下二段の自動詞のときは剥げ落ちる、剥落する意、四段の他動詞のときは土中に埋もれて隠されている物を取り出すことである。竈の前の地面を掘り下げていることは、暴かれているということに当たろう。一方、暴かれて掘り下げられていれば、窪んでいるから原ではない。つまり、アハキハラという言葉には自己撞着がある。それは、「黄泉比良坂(泉津平坂)(よもつひらさか)」(記上、神代紀第五段一書第六他)とあって、坂が平らなはずがないのと同じである。洒落を言って言語論理学的に楽しんでいる。それほどに、竈の到来、出現は、倭の国の人々にとって新鮮で、画期的なものであった。今日の秋葉原という地名も、秋葉神社に由来しつつも、三河の秋葉神社が山の頂にあることの矛盾を忘却することで成り立っている。彼の地になぜ火防の神社があるかについては、焼畑農耕に深く結びついているからであろう。
紀の「飛鳥」─言葉の展開─
紀において、現在の奈良県明日香村付近を指す「飛鳥(あすか)」という地名の記述については、崇峻紀の例がはじめである。
蘇我大臣、亦本願(もとのねがひ)の依(まにま)にして、飛鳥の地(ところ)に法興寺(ほふこうじ)を起つ。(崇峻前紀・用明二年七月)
飛鳥衣縫造(あすかのきぬぬひのみやつこ)が祖(おや)、樹葉(このは)の家を壊(こほ)ちて、始めて法興寺を作り、此の地を飛鳥真神原(あすかのまかみのはら)と名(なづ)く。亦は飛鳥苫田(あすかのとまた)と名く。(崇峻紀元年是歳)
飛鳥衣縫については、雄略紀に記載がある。
衣縫の兄媛(えひめ)を以て大三輪神(おほみわのかみ)に奉る。弟媛(おとひめ)を以て漢衣縫部(あやのきぬぬひべ)とす。漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)の衣縫は、是、飛鳥衣縫部・伊勢衣縫が先(おや)なり。(雄略紀十四年三月)
衣縫の樹葉という人の家を壊して法興寺を建てている。アスカの名は、アスナロの葉の翻る翼のような風情をもって飛鳥と記されていた。そんな樹の葉っぱを表す人名の家を壊している。鳥の種類は、コノハとあるのだからコノハズクであろう。フクロウ目フクロウ科の鳥で、ミミズクのなかでは一番小さく、全長が20cmほどである。山あいの森に生息し、夜行性で、昼間は樹上に止まって休んでいる。新撰字鏡に、「木莵、又功婦と云ふ、〈豆久(つく)〉」、和名抄に、「木兎 爾雅注に云はく、木兎〈豆久(つく)〉は鴟に似て小さく、兎の頭の毛の角ありといふ。」とある。
初め天皇生(あ)れます日に、木菟(つく)、産殿に入(とびい)れり。明旦(くつるあした)に、誉田天皇、大臣武内宿禰を喚(め)して語りて曰はく、「是、何の瑞(みつ)ぞ」とのたまふ。大臣、対へて言さく「吉祥(よきさが)なり。復(また)昨日(きのふ)、臣(やつかれ)が妻の産(こう)む時に当りて、鷦鷯(さざき)、産屋に入れり。是、亦異(あや)し」とまをす。爰(ここ)に、天皇の曰はく、「今朕が子と大臣の子と、同日(おなじひ)に共に産れたり。並に瑞有り。是天つ表(しるし)なり。以為(おも)ふに、其の鳥の名を取りて、各相易へて子に名けて、後葉(のちのよ)の契(しるし)とせむ」とのたまふ。則ち鷦鷯の名を取りて、太子(みこ)に名けて、大鷦鷯皇子(おほさざきのみこ)と曰へり。木菟の名を取りて、大臣の子に号けて、木菟宿禰(つくのすくね)と曰へり。是、平群臣が始祖(はじめのおや)なり。(仁徳紀元年正月)
これもまた、名にまつわる話である。木菟(つく)と鷦鷯(さざき)については、ともに、タクミドリと呼ばれたことから、交換に値するとされたと考えられ、そして、それゆえに吉兆とされたと考えられる。和名抄に、「巧婦 兼名苑に云はく、巧婦〈太久美止利(たくみどり)〉は好みて葦の皮を割き、中の虫を食らふ、故に亦の名は蘆虎なりといふ。」とあるものは、実はミソサザイの異名で、ミソサザイの古名が鷦鷯である。上述のとおり、新撰字鏡には、木莵のことを功婦ともいう。
コノハズクは鳴き声から、声の仏法僧(ぶっぽうそう)と呼ばれる。今日、ブッポウソウとされる鳥は別種であるが、コノハズクの鳴き声の方は、ブッポウソウと聞こえる。崇峻紀の記事は、衣縫、すなわち、針子の樹葉、つまり、張子の虎ならぬ張子の仏法僧の家が当初あったということである。張りぼての仏法僧、あるいは、脱活乾漆の仏像のある家を壊して、飛鳥大仏として今日に残る金銅の仏像を安置した法興寺という寺を建てた、という洒落と解釈できる。それが崇峻紀の記事に込められた意味であり、飛鳥時代の頓智である。無文字社会に生き、言霊信仰のあった古代において、時代を切り拓くとはこういうことである。この機智がなければ、人々の納得も支持も得られず、蘇我氏による独断専行との誹りを招くことになるであろう。
その場所は、コノハズクがいたのだから飛鳥と書いてふさわしかった。崇峻紀の記事は、コノハズクがいなくなっても、飛鳥真神原(あすかのまかみのはら、ミは乙類)、ないし、飛鳥苫田(あすかのとまた、トは甲類)と呼ぶようにしたと言っている。トマタとあるのは、第一に、ト(門)+マタ(股)の意であろう。門は跨ぐのが当たり前のようであるが、人が足を挙げて跨がずとも通り抜けられる門もある。コノハズクという鳥がいた門とは、鳥居である。和名抄に、「鶏栖 考声切韻に云はく、𣔺〈毛報反〉は今の門鳥栖也といふ。弁色立成に云はく、鶏栖〈鳥居也、楊氏説に同じ〉といふ。」とある。鳥居に扉はついていない。神さまは広い心を持っておられ、いつお参りに行っても受け入れて下さるし、鳥居をくぐった中の神域において、悪いことをすると罰が当たるから誰も悪いことはしない。境内参拝自由で、鳥居に閉ざすべき扉はない。鳥居は、明神鳥居のように、開の字の門構えのなかの旁、开の形をしているものが多い。
そんなところに法興寺の伽藍が建ち、扉のついた門が構えられた。鳥居の形の上の方にあった楣(まぐさ)が下に降りてきて蹴放しとなり、閂であれ猿落としであれ、扉に鍵がかかるようになった。鳥居から敷居への転換である。そこは、決して足で踏んではならず、きちんと跨がなければならないと躾けられる。摩耗すると鍵が役に立たなくなるからである。自分の家のそれは守らねばならないし、他人の家のそれを意図的に摩耗させようとしていると感じられては信用を失う。つまり、すべては、防犯上、警備上の問題である。新しい神さまである仏教の法興寺が建てられて、門(もん)は開かれたものから閉ざされたものへと変った。伽藍全体に鍵がかかるようにしたのである。閉の字の門構えの中の形は、才という字であり、カドと訓んで才能、才覚のことである。カド(門)ということばは、門柱と横架材とによって四角くなった、閉ざされる戸のついた門(もん)のことを指すのであろう。
上代、敷居のことはシキミ(キ・ミはともに甲類)などという。和名抄に、「閾 爾雅注に云はく、閾〈音は域〉は門限也といふ。兼名苑に云はく、閾は一名、閫〈苦本反、之岐美(しきみ)、俗に度之岐美(とじきみ)と云ふ〉といふ。」とある。同音のシキミには、樒(梻)(しきみ、キ・ミはともに甲類)があり、仏前に飾られる樹葉である。神前に飾られる榊(さかき)との対から、梻なる国字が造られている。衣縫の名が樹葉であったことから、当時の人の頓智がここに及んでいたことが確かめられる。閾には、トシキミ、トシキ、シキ、トシミ、シキといった言い方もあったらしい。狩谷棭斎・箋注倭名類聚抄では、シキヰはシキミの訛であるかとする。
爾くして、天皇、直(ただ)に女鳥王(めどりのみこ)の坐す所に幸して、其の殿戸の閾(しきみ)の上に坐しき。是に、女鳥王、機に坐して服(ころも)を織りき。(仁徳記)
秋九月に、朝礼(みかどのゐや)を改む。因りて詔して曰はく、「凡そ宮門(みかど)を出(まか)で入(まゐ)らむことは、両(ふた)つの手を以て地(つち)に押し、両つの脚をもて跪きて、梱(とじきみ)を越えて、立ちて行け」とのたまふ。(推古紀十二年九月)
トマタについて、第二に、苫田と書かれてある。苫をもって田の番をする小屋を表している。「田廬(たぶせ)」(万1592・3817)のことであろう。和名抄に、「苫 爾雅注に云はく、苫〈士廉反、止万(とま)〉は菅茅を編みて以て屋を覆ふ也といふ。」とある。菅や茅で編んだ薦で、小屋の屋根や船の上などの覆いに用いられた。きちんと編み込まれたものではないから、編目に隙間があって雨漏りがあったかもしれない。田の稔りの時期に番をするためには、隙間があるのはかえって都合が良い。イノシシなどの害獣や泥棒などの侵入を監視することができる。その機能は、漁師が獲物の動物を待ち伏せし、弓矢を射るために身を隠しておくところ、「射翳(まぶし)」に同じである。和名抄に、「射翳 文選射雉賦注に云はく、射翳〈於計反、隠也、障也、師説に末布之(まぶし)〉は隠れ以て射る所の者也といふ。」とある。田廬は、田の稔りをとられないようにする小屋だが、田という字は、田猟、狩りの意味がある。つまり、「田」とは、稲刈りのことにも、獣狩りにも用いる字なのである。
そして、もともと、衣縫の樹葉という人の家があった。樹の葉はクワの葉のことを暗示しており、養蚕が行われていたことを表しているに相違あるまい。絹糸は衣縫の職に欠かせない。その蚕が繭を作る際には、蔟(蚕簿)(まぶし)と呼ばれる道具を用いた。蔟は、一匹ずつで安心して繭が作れるようにした、仕切られた、カプセルホテルのような仕掛けである。二匹が繭を絡ませてしまうと糸を控きだすことができなくなる。隙間をあけつつ藁などで編まれた。射翳も蔟も、隠れるものながら隙間のあるものとして似通っており、いずれもマブシである。弓矢の話が登場しているが、それは、箙(えびら)という語にも通じる。箙は矢を入れる武具である。背に負う矢入れの名は、靫(ゆぎ)、胡籙(ころく・やなぐひ)、空穂(うつぼ)などとも呼ばれる。箙は形が蔟に似ており、蔟のことをエビラともいうのでその名があるとされる。この点は、マカミハラにも関わりがある。
蔟の例(横浜のシルク博物館)
マカミ=狼
かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに畏き 明日香の 真神の原に ひさかたの 天つ御門(みかど)を かしこくも 定め賜ひて ……(万199)
大口の 真神の原に 降る雪は いたくな降りそ 家もあらなくに(万1636)
…… 大口の 真神の原ゆ 思ひつつ 帰りにし人 家に到りや(万3268)
マカミとは、イヌ科の動物、オオカミのことである。大きく口を開けるところから枕詞オホクチノはマカミに掛かるとされる。いつも開口している門が鳥居であることと似た発想である。ただし、オオカミが大きく口を開けるのは、ワォーと遠吠えするためである。群れの仲間との連絡や、狩りの合図、縄張りの主張などのために行われ、何頭もが合唱することもある。目的によって声を変えているとされるが、動物のことを深く知らなければ詳細はわからない。古代の生活において、門が大きく口を開けていながらオオカミのように遠吠えする警備員がいたことは知られている。隼人(はやひと・はやと)である。
是を以て、火酢芹命(ほのすせりのみこと)の苗裔(のち)、諸の隼人(はやひと)等、今に至るまでに天皇の宮墻(みかき)の傍(もと)を離れずして、代(よよ)に吠ゆる狗して奉事(つかへまつ)る者なり。(神代紀第十段一書第二)
隼人の 名に負ふ夜声 いちしろく わが名は告(の)りつ 妻と恃ませ(万2497)
凡そ践祚大嘗日、応天門の内の左右に分陣し、其の群官初め入り吠えを発す。(延喜式・隼人司)
拙稿「隼人(はやと・はやひと)の名義は、助詞のハヤによく表れている」に触れたように、ハヤト・ハヤヒトの名の主眼は、助詞のハヤであった。言葉かどうかさえわからない声を発するのが隼人であり、それはオオカミの遠吠えに同じである。
是に中大兄、衛門府(ゆけひのつかさ)に戒めて、一時(もろとも)に倶に十二(よも)の通門(みかど)を鏁(さしかた)めて、往来(かよ)はしめず。衛門府を一所に召し聚(あつ)めて、将に給禄(ものさづ)けむとす。(皇極紀四年六月)
宮城の門番についての記述である。大化の改新で蘇我入鹿を宮殿内で斬殺する場面である。衛門府の初出である。養老令・職員令に、「衛門府 督(かみ)一人。〈掌らむこと、諸門の禁衛(きむゑ)、出入、礼儀(らいぎ)のこと、時を以て巡り検(み)むこと、及び隼人、門籍(もんじゃく)、門牓(もんばう)の事。〉佐(すけ)一人。大尉(だいゐ)二人。少尉(せうゐ)二人。大志(だいし)二人。少志(せうし)二人。医師(くすし)一人。門部二百人。物部三十人。使部三十人。直丁四人。衛士(ゑじ)。」とある。諸門の禁衛、出入の礼儀を掌り、宮城の門の警備を主要な任務とした。「礼儀」については、推古紀に挙げた所作も一例であろう。衛門府がユケヒノツカサと訓まれるのは、ユキ(靫)+オヒ(負)の約からである。すなわち、不法侵入者に対して、弓矢を持った守衛さんとサイレン役の隼人とで対応したのである。苫田に狩りのことが示されていたのは、門の番をする靫負との関係からであった。
そしてまた、真神原のハラについては、第一に、大角(はら)からの着想によるものでもある。新撰字鏡に、「篍 子有反、去、起居の為に筩を吹く、※(草冠に即)吹廗也、波良(はら)、又久太(くだ)」、和名抄に、「角 兼名苑注に云はく、角〈楊氏漢語抄に、大角は波良乃布江(はらのふえ)、小角は久太乃布江(くだのふえ)と云ふ〉は、本(もと)胡中に出づといふ。或に云はく、呉越に出で、以て龍吟に象る也といふ。」、「大角(はら)・小角(くだ)」(天武紀十四年十一月)とある。岩波古語辞典の「はら【大角】」の項では、「「はらのふえ」に同じ。「大角」を唐代の宮門の警衛を司った武官が持ち、それを「簸邏廻(はらくわい)」と称したことによる。」と、古今要覧稿の説を採っている。隼人の吠え声とオオカミの遠吠えと大角の音とは、それぞれ同等のものと考えられたようである。すべては警備上の問題であった。万199番歌では、真神の原というところは、番人がいるような門があって近づきがたいというニュアンスを歌い、また、明日香の真神の原に都を定めたことが賢明であったとは、ミカドを「御門」と書くからであった。
第二に、真神原のマカミが獣のオオカミ、原のハラが同根と思われる腹のことを表すとすれば、イヌ科のオオカミは一度に4~6匹の子を産むほど多産であることが知られていたであろう。つまり、真神原とは、お腹の中にたくさんの子の宿りを含意している。もともと、そこは衣縫の樹葉の家があった。養蚕が行われており、「蚕(こ)」がたくさん飼われていた。張子の仏法僧とあったのは、蚕の繭のことを含意していたものと思われる。皇后さまの御養蚕に、特に純国産種の小石丸という品種を育てられている。それは江戸時代頃に作られたものとされているが、繭の形は二つ豆入りの落花生のようであり、起き上がり小法師のように見える。古代の繭の形を留めているとしたら、見た目からの連想でもあったのであろう。
江戸期における蚕の日本在来種の例(横浜のシルク博物館)
左:コノハズク(ウィクショナリーhttps://ja.wiktionary.org/wiki/コノハズク)、右:クワコ(公益財団法人大和市スポーツ・よか・みどり財団http://www.yamato-zaidan.or.jp/archives/100862)
さらに、野生種の蚕の幼虫(クワゴ)は、クワの樹の葉の上にいて、しかも、コノハズクとよく似た変な顔をしている。そんな樹葉という名の衣縫の家を壊し、大きな山門のある法興寺が新たに作られた。コノハズクという鳥が居る鳥居の神さまと同じく、寺も本当の神さまだから真神であり、飛鳥大仏は腹が張っているから真神原であると言いたいのであろう。その両方を表すのに共通して適う名称を求めて知恵が捻られ、マカミノハラなる言葉が考え抜かれたのである。
以上が、飛鳥の地において、衣縫の樹葉の家が法興寺へと変えられた時に、真神原、苫田なる字(あざ)の名が付けられた背景である。土地利用において、もともとの意味合いと新しい意味合いとを合わせる形で、地名が名づけられている。ことほど左様に名前というものについて、古代の人々は大切にし、慎重に扱っていたのであった(注6)。
アスカを「飛鳥」と記そうとした人の謎掛けを追ってきた。それを折り返せば、「飛鳥」と書いてどうしてアスカと訓むのか、上代の人にとってなるほど面白いと思える謎解きとなろう。そのためには、記紀のお話(咄・噺・譚)がお話として定着していなくてはならない。それは実は案外、当たり前のことである。話(咄・噺・譚)を仲介役として、ヤマトコトバが人々の間で保たれていたと考えられるからである。そうでなければ、万葉集のような膨大な言葉の塊が、それも防人にかり出されるような庶民も含めて多くの人々によって作り上げられるはずはない。実に豊饒な言葉が文字を持たずにできあがっていた。人々の間でコミュニケーションツールとして行き交っている。なぜ通じるのか。なぜ互いにわかるのか。言葉について言葉自身が自己説明をしているから、なるほどと理解し合える。すなわち、“なぞなぞ”である。古語に、「無端事(あとなしこと)」(天武紀朱鳥元年正月)という。そうやってできあがったヤマトコトバの体系が、記紀万葉のお話である。万葉集の「歌」が抒情なり叙景なりを伝えることがあるのも、すべては言葉が基盤として立ち上がっているからである。特に初期万葉の歌は、記紀歌謡の続きともいえる物語歌である。それを当初、「雑歌」と分類したようである。したがって、ひとり「飛鳥」字を取り出してきてどうしてアスカと訓むのかと問題提起をし、漢和辞典をひっくり返しても、その意味するところはわかるわけがない。漢語ヒテウ(ヒチョウ)のことではなく、すべてはヤマトコトバで解かれよう。記紀万葉のそれ自体が母胎となりつつ子どもでもあるお話(咄・噺・譚)の“なぞなぞ”ワールドに没入しない限り、納得されることはない。
(注)
(注1)多くの辞書に記載の枕詞由来説は、例えば、時代別国語大辞典に、「とぶとりの[飛鳥]①枕詞。天武紀朱鳥元年七月の条に「戊午、改元曰二朱鳥〈阿訶美苔利〉元年一仍名レ宮曰二飛鳥浄御原宮一」とあり、扶桑略記にも「天武十五年丙戊大倭国進二赤雉一、仍七月改為二朱鳥元年一ともあって、赤い鳥の瑞祥を喜んで浄御原宮に飛ブ鳥ノの枕詞を冠し、その宮の所在地である大和の明日香の枕詞ともしたものである。のちに長谷・春日のように、明日香の地名にもそのまま「飛鳥」の文字を用いるに至った。」(499頁)とある。日本国語大辞典第二版337頁や角川古語大辞典69頁にも同様の解釈が記されている。
(注2)同書を引用する。
地名は、地図と並ぶ歴史地理学の基本資料です。……地名解釈といっても、地名の語源については原則として触れるつもりはありません。一般に地名、特に古地名の語源を解くことはかなり難しく、下手をすると荒唐無稽で無意味な地名解釈に陥ってしまうからです。
ここで私が試みる地名解釈とは、普通ではその漢字は絶対そうは読めないという種類の漢字地名の問題、例えば飛鳥という地名はなぜ「あすか」と読むのか、百済はどうして「くだら」と読めるのか、といった「不思議さ」に答えを示すことです。
さて、飛鳥はなぜ「あすか」と読むのでしょうか。……[いくつかの辞書には、枕詞「飛ぶ鳥の」から「飛鳥」を「あすか」と読むと説明されています。]「飛鳥(とぶとり)」は、確かに「あすか」の枕詞です。しかし、なぜ「飛鳥(とぶとり)」が「あすか」の枕詞になったのかを説明することから始めなければ、正確な理解には到達できないのではないかと思うのです。枕詞という一言で片付けてしまうことは、正解に至る道を閉ざしてしまうという点で危険です。ある言葉がもう一つの言葉の枕詞になるためには、当然それなりの理由があるはずです。残念ながら……辞書には、どこにもその理由が記されておらず、「あすか」の用字に枕詞がすりかわって入りこんだ理由についても一切述べられていません。これでは何も分からないのです。
「あすか」のもともとの意味は、不明と言うべきです。が、ともかく「あすか」と呼ぶ土地・地域があったはずです。そこへ漢字文化が流入し、「あすか」に漢字が当てられることになった。その時当てられた漢字は「安宿」であったに違いないと思います。「安宿」の用例は河内国のいわゆる「近つ飛鳥」地域の郡名にありました。これならば間違いなく「あすか」の音に合致します。さらに光明皇后が安宿媛という名であった事実があります。これは奈良時代の初めに「あすか」を「安宿」と表記していた証拠になります。
そして重要なことは、はじめ「安宿」の字が用いられたからこそ枕詞が「飛ぶ鳥の」となり得たということです。「安宿」は「やすやど」などではありません。「やすらかなやど」と解するのが、雅というものです。そして、「やすらかなやど」であるならば、飛ぶ鳥も好んで羽を休めたに違いない。そういう文脈の中で、「飛鳥」が枕詞となり、「飛鳥(とぶとり)の安宿(あすか)」という表現が成立・普及することになったと解すべきなのです。
次いで、古代日本人が好んで行なったらしい「短縮」の手法が加えられました。それは「とぶとり」という「音」を略し、「安宿」という文字を略して、「あすか」の「音」を「飛鳥」の文字に結号するという手法にほかなりません。これと同様な「短縮」の手法は、「下毛野(しもつけぬ)」の「毛」の字と「ぬ」の音を略して「下野(しもつけ)」とした例、「近淡海(ちかつおうみ)」の「ちかつ」の音を略し、「淡」の字を落とし(且つ「海」を「江」字に変えて)「近江(おうみ)」と作った例など、いくつも見られるのです。
『万葉集』では「明日香」の字が使われていますが、これは『万葉集』の風雅であって、「明日香」の用字が漢字到来の最初に当てられていたならば「飛ぶ鳥」が枕詞として成立するはずはなかったでしょう。これは大事なことです。(234~237頁)
(注3)廣岡2005.。
(注4)「塞」字は「寒」に見えるが、説文に「𥧑 塞也、穴に从ひ眞声。」とあり、新撰字鏡も「塞」に作る。
(注5)狩野2004.125頁。
(注6)アスカという地名自体、近代国家において江戸→東京と改名したのと同様に、もとの地名は不明ながら古代の都たるにふさわしいように名づけられたものではないかという説がある。およそ筆者には、名づけるとはどういうことか、地名とはどういうものか、そもそも言葉とは何か、記録(しる)すとはどういうことか、といったことすべてをスルーしてしまっているように感じられる。
地名を改める場合、紀ではきちんと記されている。いくつか見ると次のようにある。
却(かへ)りて草香津(くさかのつ)に至り、盾を植(た)てて雄誥(をたけび)したまふ。雄誥、此には烏多鶏縻(をたけび)と云ふ。因りて改めて其の津を号けて盾津と曰ふ。今、蓼津と云ふは訛(よこなま)れるなり。(神武前紀戊午年四月)
夫れ磐余の地、旧名(もとのな)は片居(かたゐ)、片居、此には伽哆韋(かたゐ)と云ふ。亦は片立(かたたち)と曰ふ。片立、此には伽哆哆知(かたたち)と云ふ。我が皇軍(みいくさ)の虜(あた)を破るに逮(いた)り、大きに軍(いくさびと)集ひて其の地に満(いは)めり。因りて号(な)を改めて磐余(いはれ)と為す。(神武前紀己未年二月)
……輪韓河(わからがは)に到り、埴安彦と河を挟み屯(いは)み、各(おのもおのも)相挑(いど)む。故、時の人、改めて其の河を号けて挑河(いどみがは)と曰ふ。今、泉河(いづみがは)と謂ふは訛れるなり。(崇神紀十年九月)
乃ち三諸丘に登り、大蛇(をろち)を捉取(とら)へて、天皇に示(み)せ奉る。天皇、斎戒(ものいみ)したまはず。其の雷(かみ)虺虺(なりひび)きて、目精(まなこ)赫赫(かかや)く。天皇、畏みたまひ、目を蔽ひて見たまはず、殿中(おほとののうち)に却(しりぞ)き入り、丘に放たしめたまふ。仍りて改めて名を賜ひて雷(いかづち)とす。(雄略紀七年七月)
……御船、還りて娜大津(なのおほつ)に至る。磐瀬行宮(いはせのかりみや)に居(おは)します。天皇、此れを改めて、名づけて長津(ながつ)と曰(のたま)ふ。(斉明紀七年三月)
草香津→盾津(蓼津)、片居(片立)→磐余、輪韓河→挑河(泉河)、三諸丘→雷(丘)、娜大津→長津と改名している。紀においては、地名を「改」めたとある場合、改める前の名と改めた後の名とを記すという当たり前のことが当たり前に行われている。第四例目は、あるいは地名ではなく人名の改変とする説もある。最後の斉明紀の例において、改名の謂れが不明確である点については、歴史学上重要な問題が隠されていると思われるが、稿を改めて論じたい。
続日本紀に、いわゆる好字令と呼ばれている件がある。
五月甲子、制、畿内・七道諸国の郡(こほり)・郷(さと)の名は好き字を着(つ)けよ。(元明天皇・和銅六年五月)
すでにある地名にきれいな字を当てようというのである。人々にそう呼ばれている地名が先に存在し、それに文字を当てるという作業が行われている。それが物事の順序である。そんな当て字のために、例えば、スミノエ、ヒエに住吉、日吉と書いたがために、スミヨシ、ヒヨシと呼ばれるようになったといった地名の改変が後に起こっている。これらが、古代において地名が変わる際の一般論である。
飛鳥時代において、仮に地名のエドを、政策だからといきなりトウキャウに変えるなどということはあり得ないことである。当時、ほとんどすべての人は文字が読めなかったのだから、訳が分からず、承服しかね、したがって定着しなかったであろう。彼らにとっての言葉は、明治期に新たな漢語をもって「近代化」政策を推し進めたり、今日のようなカタカナ語、和製英語の造語を通して新しいモノが生れて豊かになっていっていると信じさせる「経済成長」の戦略などとは、位相が異なる。言葉は事柄と同一である、言=事であるとする言霊信仰の下にあって、決して蔑ろにはできない重々しいものであった。
(引用・参考文献)
足利2012. 足利健亮『地図から読む歴史』講談社(講談社学術文庫)、2012年。(『景観から歴史を読む─地図を読む楽しみ─』日本放送出版協会(NHKライブラリー)、1998年。)
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典』岩波書店、1974年。
角川古語大辞典 中村幸彦・岡見正雄・阪倉篤義編『角川古語大辞典 第一巻』角川書店、昭和57年。
狩野2004. 狩野敏次『かまど』法政大学出版局、2004年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
日本国語大辞典第二版 日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞典編集部編『日本国語大辞典 第二版 第一巻』小学館、2000年。
廣岡2005. 廣岡義隆『上代言語動態論』塙書房、2005年。
※本稿は、2013年に発表した旧稿を、2017年に改稿したものを、2020年7月に再度整理し直したものである。
「飛鳥」と書いてアスカと訓む理由については、従来、枕詞「飛ぶ鳥の」が地名アスカにかかることから説明されてきた(注1)。足利1998.は、新しい地名解釈、地名論の例として取りあげた。そこでの主張は、アスカと呼ぶ土地・地域が先にあり、それに流入した漢字文化において漢字を当てようとして「安宿」とし、「安宿」と記すと飛ぶ鳥も休むであろうからというので「飛ぶ鳥の」という枕詞ができ、「飛鳥(とぶとり)の安宿(あすか)」という表現が普及していった。そして、言葉が短縮されてアスカの音を「飛鳥」の文字に結号させたとしている(注2)。
この地名解釈の新見解は、「あすか」という地名の発生源は難しいから考えず、「飛鳥」をアスカと読む不思議さに迫ろうとする点である。筆者もほぼ同じ立場に立つ。ただし、音に字を当てる際に頭を使ったことに関して、今の人が使うのとは違う頭の使い方をしたであろうと考える。飛鳥時代になってにわかに文字が使われ始めたことにより、当時の人々は飛躍的に“なぞなぞ”的なものの考え方を発展させた。無文字社会から文字社会への大転換の時代である。それは、ちょうど、幼児が文字を知らずに音だけを頼りにしていた言語生活が、小学校へあがる頃になって文字を覚え出していく過程のなかで、すさまじく“なぞなぞ”に興じる傾向にあるのと同じである。大脳の、音声言語を司る部位と文字言語のそれとの間に複雑な連携を醸し出し、悦楽とするためであろう。長ずるに及んで文字に慣れ親しんでいくと、“なぞなぞ”への興味がさほど起こらず、かえってばかばかしいこととして片づける傾向へと転ずる。人は、文字言語を司る部位ばかりを、機械的、反復的に使用するように偏っていくらしい。
足利1998.の「あすか」→「安宿」表記→「飛ぶ鳥」説も、文字言語中枢偏重と言わざるを得ない。安らかな宿ならば飛ぶ鳥も休めるはずと考えるのは、かなり強引であり、そして、つまらない。安らかな宿は、旅ゆく人も走る馬も跳ねる兎も休めるはずである。なぜ鳥と限定できるのか示し得ない。選択的に飛ぶ鳥が選ばれている理由が示されなければ、示し伝えた相手になるほどと思わせることができない。なるほどと思わせられなければ、法華経のようにはそこから先へ“拡散”していくことはない。そして、枕詞とは、無文字社会から文字社会への大転換期における高度な言語遊戯の“なぞなぞ”である(注3)。あまり多くの例を見ない「安宿」という文字表記に依存した解釈は難しい。枕詞を冠した「飛鳥安宿」という字の並びは、上代の文献に皆無である。
当時のふつうの人、文字をほとんど読めないか、せいぜい小学校2年生レベルの識字能力の人にとって、「あすか」という地名は、アスカという音によって認識されていた。文字を記号素 monème として演算操作するに至っていないのが大前提である。この点を絶対条件として考えなければならない。万葉集に例を見ると、地名のアスカは、「飛鳥」、「明日香」、「明日香川」、「明日香河」、「飛鳥川」、「阿須可河泊」、「安須可河泊」、「明日香乃河」、「明日香之河」、「明日香能里」、「飛鳥壮(あすかをとこ)」などと表記され、全部で36例である。つまり、どう書いても通じればそれで構わないのである。常用漢字表もなければ、テストもない時代である。枕詞の「飛ぶ鳥の」を冠するのは4例(万78・194・196・3791)にとどまる。また、「飛ぶ鳥の」が他の語、「浄御(きよみ)の宮に」(万167)、「早く来まさね」(万971)、「到らむとぞよ」(万3381)にかかる例も見られる。
多くの辞書に「飛鳥」と書いてアスカと訓む理由にあげられる枕詞「飛ぶ鳥の」由来説は、枕詞というものを隠れ蓑にして、あるいは、ブラックボックスにして誤魔化した説明である。「飛鳥」と書いてキヨミやハヤやイタといった地名に訓まないことを証明できない。アスカという地名の音と「飛鳥」という文字表記との間の関係が、もっとダイレクトに感じられなければ、当時の人の間にわかり合うことはなく、通用しなかったと考えられる。当時の人にとって「飛鳥」と書いてアスカと訓めることは、ふつうに楽しめる“なぞなぞ”であったに違いない。
明日(あす)とのかかわり─羽ばたく翼─
アスカという地名は、言葉遊びとしては、アス(明日)との駄洒落が連想されやすい。だから、万葉集に「明日香」と書かれ、紀の古訓に記されているアクセント表記からも、アス(明日)(LL)、アスカガハ(飛鳥川)(LLLHL)と知られている。これは万葉集の風雅などではなく、単なる語呂合わせである。
明日香川 明日だに見むと ……(万198)
明日香川 明日も渡らむ ……(万2701)
今日もかも 明日香の川の ……(万356)
…… 今日今日(けふけふ)と 飛鳥に到り ……(万3886)
アスという語の観念は、上代と今日とで微妙な違いがある。古典基礎語辞典に、「アスはケフ(今日)の次の日だが、上代にはケフとアスの境界は現代とは異なっていた可能性がある。通い婚の時代、男女が早朝まだ暗いうちに別れ、アスも逢いたいというのはふたたび宵を迎えるときであり、一晩置いた次の日とは考えにくいからである。その場合、今日の宵や夜はアスになる。日の出が一日の始まりととらえるだけでなく、日没が一日の始まりとするとらえ方もあったということになる」(28頁、この項、白井清子)とある。現在の言い方では、キノフ(昨日、yesterday)→ケフ(今日、today)→アス(明日、tomorrow)という区別がはっきりしているが、上代はそうではなかった。時間の言い方としては、昼を中心とした時間の言い方に、アサ(朝)→ヒル(昼)→ユフ(夕)、夜を中心とする時間の言い方に、ユウヘ(夕)→ヨヒ(宵)→ヨナカ(夜中)→アカトキ(暁)→アシタ(旦)という2種類の言い方があった。
現代の今夜のことも、上代にアスということがある。すなわち、アスとは、あえていえば、next (day) という意に近い。漢字で記せば「翌」である。名義抄に、「翌日 ア爪」とある。アスカという場合、アス+カのカが、昼を表すフツカ(二日)、ミツカ(三日)のカを表す日の意と捉えたとすると、アクセント上、トヲカ(十日)(HHH)の例からカは高拍で一致する。したがって、アスカという音からは、次の日の日中のことを表しているように感じられよう。そして、「翌」字は「翼」と通用する。書経には、「翌日」のことを必ず「翼日」と記されている。「翌」字は「翊」字に同じく、羽を立てて羽ばたくことを表している。鶏のコケコッコーの鳴き声に代表されるアカトキ(暁)よりも後の時間帯であることを示唆している。アカトキ(暁)は飛べない鳥であるが、アスカは飛ぶ鳥なのである。この洒落がわからない人は、もはや「飛鳥」と記して喜んだ人たちの気持ちには近づけない。
「安宿」と書く例についても、安らかな宿の意に解したのではなく、ともに動詞と考えて、安は安息の意のやすむこと、宿はやどることを表しているのであろう。白川1995.に、「「家取る」の意。」(770頁)とある。ドは乙類である。漢字では他に、「次(やど)る」と書く。次の日、つまり、翌日のことを考えて、今日はゆっくり休むのである。飛鳥の地に安んで宿った事跡は、記に述べられている。
故、其の隼人[曾婆訶利(そばかり)]が飲む時に、大鋺(おほまり)、面(おもて)を覆ふ。爾に、席(むしろ)の下に置ける剣を取り出して、其の隼人が頸を斬りて、乃ち明日(あす)上り幸しき。故、其地(そこ)を号けて近飛鳥(ちかつあすか)と謂ふ。倭へ上り到りて、詔(の)りたまはく、「今日は此間(ここ)に留りて祓禊(みそぎ)を為て、明日参ゐ出でて、[石上(いそのかみ)の]神宮(かみのみや)を拝(をろが)まむ」とのりたまふ。故、其地を号けて遠飛鳥(とほつあすか)と謂ふ。(履中記)
記の記述では、「飛鳥」と書いてアスカと訓むことが既定事実となっている。多くの辞書に記載の枕詞由来説は、天武天皇の都した飛鳥浄御原宮の時代、朱鳥改元のもととなった瑞祥話を引いている。しかし、天武天皇時代をはるかに遡る履中天皇時代の、しかも、河内の近つ飛鳥にまで「飛鳥」と書いて何の疑いもなくアスカと訓んでいる。枕詞は本質的に言葉にかかるものである。飛鳥地方のなかで転々と遷都しつづけた最後の浄御原宮に事跡する事柄ならば、「浄御(きよみ)の宮に」(万167)にばかりかかることとして説明されるはずである。
「飛ぶ鳥の」がアスカにかかる理由は、鳥が飛ぶときに必要な翼のことと、羽ばたきのことが連想されるからであろう。上に触れた「翌」字に通用する「翼(つばさ)」については、
天飛ぶや 雁の翅(つばさ)の 覆羽(おほひば)の 何処漏りてか 霜の零(ふ)りけむ(万2238)
とある。翼は、羽が覆うように広げられているものである。よって飛ぶことができる代物といえる。オホヒバ(ヒは甲類)という音を聞けば、ヒノキの矮性園芸種のチャボヒバなどではなく、大きく葉(は、「羽」に同根の語)を広げるヒバのことが思い浮かぶ。チャボは鶏の一種でとても飛べそうにない。ヒバは、ヒノキ、アスナロ、サワラなどの仲間で、小枝が扁平に分枝し、葉が鱗片状になる樹木をいい、特にアスナロを指すことが多い。
左:アスナロ(神代植物公園)、右:アテ(ヒノキアスナロ、石川県の県木、皇居東御苑)
翌檜(あすなろ)は、樹形が檜に似るので、明日は檜になろうの意とする俗説がある。常緑の高木で、ヒノキ同様高さは30mに達する。別名をアスヒ、オニヒノキ、シロビ、アテなどともいう。樹皮は灰褐色で縦裂を来して薄く剥がれる。葉は鱗状で、十字に対生し、ヒノキと比べて厚く大きく、表面は緑色で光沢があり、裏面は気孔群があって蠟質で白っぽく見える。小枝は平面的でひらひらと地面と水平に茂り、鳥の翼を思わせる。5月ごろ花が咲いて10月ごろ1cmほどの毬果を結ぶ。種子は長楕円形で3~4mm、狭い側翼がついている。ずいぶんと翼にゆかりのある木である。材としての性能はヒノキ同様に良いが、臭気のある精油成分ヒノキチオールを含む。そのぶん防腐性に優れており、建築物の土台に使われたり、漆塗りの木地に用いられてきた。類似のヒノキについては、和名抄に、「檜 爾雅に云はく、栢葉松身は檜〈音は會、又、入声、古活反、飛(ひ)〉と曰ふといふ。」とある。ヒは日(ひ)と同じく甲類で「日の木」の意であろうといわれ、音仮名に「飛」の字が用いられている。以上いろいろな点から、アスナロは覆羽を比喩としていると思われる。したがって、飛鳥とは翼のこと、翼の字は翌に通じ、アスナロ(アスヒ)は香りが高いから、アスカと訓めるのである。
ヒバ・焚きつけ
ヒバという語については、記の黄泉国の説話に、地名「比婆(ひば、ヒは甲類)」として登場している。
故爾に伊耶那岐命(いざなきのみこと)の詔りたまはく、「愛(うつく)しき我がなに妹の命(みこと)や、子の一木(ひとつぎ)に易らむと謂ふや」とのりたまひて、乃ち御枕方(みまくらへ)に匍匐(はらば)ひ、御足方(みあとへ)に匍匐ひて哭きし時に、御涙に成れる神は、香山(かぐやま)の畝尾(うねを)の木本(このもと)に坐す、名は泣沢女神(なきさはめのかみ)ぞ。故、其の神(かむ)避(さ)れる伊耶那美神(いざなみのみこと)は、出雲国と伯伎国(ははきのくに)の堺の比婆(ひば)の山に葬(はぶ)りき。(記上)
黄泉国の話は、説話が細切れに錯綜している。伊耶那美命をいったんは葬ったはずが、伊耶那岐命は再度会おうとして黄泉国を訪れ、今度はそこから命からがら脱出して阿波岐原(あはきはら)で禊ぎをし、さらに再度中つ瀬でも禊ぎをする。全体的なストーリーが構成されたのち細部が練り上げられたのではなく、スキットの積み重ねで出来上がってきたと考えられる。ただし、総論としては竈の話であり、伊耶那岐命と伊耶那美命との男女の関係は、火鑽杵と火鑽臼との関係として捉えられる。「子の一木に易らむ」とは、木片に火種を継ぐことを「子」として考えている。火鑽臼自体に火がついてしまったから、自分が焚き木になって燃えてしまう役回りになったと憂いている。親は火鑽の器具であり、子は薪の木であると整理されよう。そして、仕方なく、もはや火鑽臼の機能を果たせない伊耶那美命を、ヒバの山のなかに葬ったといっている。
火熾し(奈良大和路~悠~遊~「往馬大社 火祭りの準備 火きり木神事 2013(http://pinbokejun.blog93.fc2.com/?tag=%E5%BE%80%E9%A6%AC%E5%A4%A7%E7%A4%BE&page=1)」)
出雲は、それを導く枕詞に、「八雲立つ」(記1、紀1、紀20)とあるように、雲(煙)がもくもくと立ち込めることに当たり、伯伎(ははき)は、箒(帚、ははき)にも使えそうな細い柴を指していることに相当させられる。その間に、比婆(ひば、ヒは甲類)の山がある。ヒバともいうアスナロは、自ら剥がれていく性質の樹皮を使って、槇肌(まいはだ)として船底の水漏れ防止に用いたり、火縄にも用いられた。当然、焚き付けにも使われた。すなわち、出雲、伯伎、比婆という語によって、火の焚きつけの様子が示されている。
帚(奈良県橿原市新堂遺跡出土、古墳時代、5世紀後半。小枝を藁で縛り束ねる。『橿原市埋蔵文化財調査報告 第12冊 新堂遺跡』奈良県橿原市教育委員会、2015年9月、図版40。https://sitereports.nabunken.go.jp/21804(106/122))
葬った地の別伝としては、宗教祭祀を思わせる記事に、「[伊奘冉尊を]紀伊国(きのくに)の熊野の有馬村(ありまのむら)」(神代紀第五段一書第五)に葬ったとある。紀伊国は、木の国の意にとれる。熊野は、道が隈状になるように入り組んでいる状態と思える。アリマノムラは、魔がいて群れていることを指すと聞こえる。当時「魔」といえば、もっぱら天狗を表し、後述するとおり、竈口で火の焚きつけをする場面が表現されていると考えられる。火鑽臼が火のついた炭になってしまったから、火種としてふたつにばらしてくべている様子である。埋葬する意の「葬(はぶ)る」については、白川1995.に、「はふる〔散・屠・放〕 四段。ばらばらに解きほぐし、切りはなすことをいう。「放る」もまた同系の語。また「葬る」「散る」にも放・散の意がある。」(627頁)、「はふる〔溢〕 四段。水などがあふれる。その器に入りきらずに、外にあふれることをいう。「散る」と同根の語。水のみでなく、雲や風波がわきおこることをもいう。」(同頁)とある。
また、「翥(はふ)る」とは、鳥などが羽ばたくことをいう古語である。新撰字鏡に、「翥 止遮反、挙也、翔也、波布利伊奴(はふりいぬ)」、和名抄に、「飛翥 唐韻に云はく、翥〈音恕、字は亦䬡に作る、文選射雉賦に云はく、軒々波布流(はふる)、俗に云はく、波都々(はつつ)といふ〉は飛び挙ぐる也といふ。」とある。ハフルという語の水が溢れる意には、名義抄に、「窴 アス、オク、塞也、満也」(注4)とある。つまり、飛鳥とは水のいっぱいになって溢れることを表しているから、そのようなところはアス(窴)+カ(処)なのである。カは、奥処(おくが)などという処の意である。ハクチョウなどの場合、羽ばたいて飛ぶには、水がいっぱいになっている池や湖の上を疾走するようにしてから上昇している。狭い水たまりにハクチョウのような大型の水鳥は降り立たない。いざ飛び立とうにも飛び立てなくなる。関連する様子は古事記に見える。
故、其[吉備]の国より上り幸しし時に、亀の甲(せ)に乗りて釣を為つつ打ち羽挙(はふ)り来る人、速吸門(はやすひのと)に逢ひき。(神武記)
国つ神で、「海道(うみぢ)」をよく知り、「槁根津日子(さをねつひこ)」と名づけられている。水上を行く様が水鳥の飛び立ちつつあるときの疾走の様子を表わしている。なお、ナロという語は、方言に、平らなところを表す言葉としてあり、枕草子・能因本・第百四十七段に、「土はうるはしうなろからぬに」とある。アスカのカを処の意と捉えるなら、一定の面積を持った場所を表すこととして理解される。一定の広さがなければ水鳥が飛び立てないことを知っている。
次に、庭津日神(にはつひのかみ)、次に、阿須波神(あすはのかみ)、次に、波比岐神(はひきのかみ)……(記上)
庭なかの 阿須波乃可美(あすはのかみ)に 木柴さし 吾は斎はむ 帰り来までに(万4350)
生井・栄井・津長井・阿須波(あすは)・婆比支(はひき)と御名は白して辞竟へ奉らば、……(延喜式・祝詞・祈年祭)
上の3例に見える、語義未詳ながらアスハと言っている神名は、一説に敷地神とも考えられている。作業場としての庭や井戸に近接するものとされようから、自然のなかにありつつ人工的にも構成される場所の神と考えられる。すると、アスもナロも一面に拡がるところを表していると知れる。アスナロは、別名、アテとされ、輪島塗など漆器に珍重される材であった。「貴(あて)」なる木であっての命名かとされる。したがって、山のなかに一定の場所を作って、そこに植林されたこともあったのであろう。
枕草子に、「あすは檜の木、この世に近くも見え聞えず、御嶽(みたけ)に詣でて帰りたる人などの、持て来める、枝さしなどは、いと手触れにくげに荒くましけれど、……」(第三十八段)とあるのが、文献上に見える命名俗説の初見である。同段に載る他の木の名称から、アスハヒノキというひと続きの名詞ではなく、アスハヒの木と言っている。「幸(さき)はひ」、「賑(にぎ)はひ」の類の語形とすると、ハヒ(這)と意と捉えられる。山にヒノキを植樹して人工林にする際、陰樹としてアスナロの方が生育に強く、間伐をしないと負けてしまうという。そこから、陰でじわじわと拡がることや、明日になると拡がってしまうという意味をにおわせるものがある。
秋葉原・竈
ヒバは、焚きつけの際の着火剤であった。黄泉国からの帰還の語り次のようにある。
是(ここ)を以て、伊耶那伎大神の詔はく、「吾は、いなしこめしこめき穢(きたな)き国に到りて在りけり。故、吾は、御身(みみ)の禊(みそぎ)を為む」とのりたまひて、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘の小門(をど)の阿波岐原(あはきはら)に到り坐(ま)して、禊祓(みそぎはらへ)しき。(記上)
一般に、禊ぎの場としては河原が多く、水のあるところである。「阿波岐原」は、河原や海岸であるとは明記されていない。後段に、「中つ瀬」に禊ぎをしたとあるが、その前段階である。「阿波岐原」は、紀に、「檍原(あはきはら)」とある。檍とは、和名抄に、「檍 説文に云はく、檍〈音は億、日本紀私記に阿波岐(あはき)と云ふ。今案ずるに、又櫓木の一名也。尓雅に見ゆ。〉は梓の属也といふ。」とある。何の木かよくわからない。橿の木の一名ではないかともされている。仮にそうであるなら、単に「橿原」と記せば良いのであるが、わざわざ「檍原」としている。アハキに似たことばにツハキがあり、白川1995.に、「つはく〔唾〕 四段。「つ」は唾液。唾を飛ばす。「唾吐く」の意。」(517~518頁)とする。同様に考えれば、アハキのアは、熱(暑)い、暖(温)かいなど、熱気を表すアを口から噴き出している様子を示そうとしているのであろう。説文には、「檍 杶なり。木に从ひ意声。」とあり、杶とはチャンチン、香椿とも記されるセンダン科の落葉高木を表す。今慣用の「椿」字を、冬から春初めに花咲くツバキ(古語に清音)のこととするのは本邦のみである。中国ではチャンチンに当てる。檍の字は、木偏に意、意は「噫(あ)」、「噫(ああ)」などと記される嘆息を示す字である。あ、と嘆き声を吐くからアハキである。紀の編纂者は、アハキに洒落で文字を当てたらしい。
左:佐竹秋葉神社(現台東区、明治期に秋葉ヶ原より勧請遷座)、右:現代版火防の神さま(神田消防署から秋葉原駅を望む)
アハキは、後に転倒してアキハといい、秋葉原は、火防せの神として崇められる秋葉神社の秋葉の原っぱ、すなわち、火除け地のことを指すのであろう。秋葉は黄葉するように葉が枯れていった葉であり、焚き火に適するほどに乾燥している。これは、焚きつけに使うヒバに同じである。「小門」のところに秋葉原がある。火の気のあるところの前に門があり、物を置かずに延焼しないようにしていたのは竈である。縄文・弥生時代のコンロは地床炉である。竪穴住居のに地面を浅く掘りくぼめて作られていた。土製支脚や烏帽子形石を3点として甕を置いて火を使った。四方がすべて前面である。
古墳時代になると、朝鮮半島南部から新しいコンロ、すなわち、壁際に造り付けた造付竈がもたらされた。従来の炉は、一部地域を除いてほぼ一掃されてしまう。竈は屋内の床を若干掘りくぼめて作られている。今日まで残っている民家のヘツイでも、土間の地面を20cmほど掘り下げて作られた跡が認められる。古い竃ほど掘り下げた形式のものが多いという(注5)。実際に使った場合、焚き口のほうだけ火が見えるから、その方だけ気をつければいい。その際、掘り下げた場所は、火のある炉の部分ばかりでなく、その灰を引き出す場所も含めて掘りくぼめられている。そこを火除け地に見立てて、秋葉原ならぬ阿波岐原(檍原)と記しているものと考える。
竈(世田谷区立岡本民家園)
アハキに似た音のことばに、アバク(暴・発)がある。古く清音であったらしい。下二段の自動詞のときは剥げ落ちる、剥落する意、四段の他動詞のときは土中に埋もれて隠されている物を取り出すことである。竈の前の地面を掘り下げていることは、暴かれているということに当たろう。一方、暴かれて掘り下げられていれば、窪んでいるから原ではない。つまり、アハキハラという言葉には自己撞着がある。それは、「黄泉比良坂(泉津平坂)(よもつひらさか)」(記上、神代紀第五段一書第六他)とあって、坂が平らなはずがないのと同じである。洒落を言って言語論理学的に楽しんでいる。それほどに、竈の到来、出現は、倭の国の人々にとって新鮮で、画期的なものであった。今日の秋葉原という地名も、秋葉神社に由来しつつも、三河の秋葉神社が山の頂にあることの矛盾を忘却することで成り立っている。彼の地になぜ火防の神社があるかについては、焼畑農耕に深く結びついているからであろう。
紀の「飛鳥」─言葉の展開─
紀において、現在の奈良県明日香村付近を指す「飛鳥(あすか)」という地名の記述については、崇峻紀の例がはじめである。
蘇我大臣、亦本願(もとのねがひ)の依(まにま)にして、飛鳥の地(ところ)に法興寺(ほふこうじ)を起つ。(崇峻前紀・用明二年七月)
飛鳥衣縫造(あすかのきぬぬひのみやつこ)が祖(おや)、樹葉(このは)の家を壊(こほ)ちて、始めて法興寺を作り、此の地を飛鳥真神原(あすかのまかみのはら)と名(なづ)く。亦は飛鳥苫田(あすかのとまた)と名く。(崇峻紀元年是歳)
飛鳥衣縫については、雄略紀に記載がある。
衣縫の兄媛(えひめ)を以て大三輪神(おほみわのかみ)に奉る。弟媛(おとひめ)を以て漢衣縫部(あやのきぬぬひべ)とす。漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)の衣縫は、是、飛鳥衣縫部・伊勢衣縫が先(おや)なり。(雄略紀十四年三月)
衣縫の樹葉という人の家を壊して法興寺を建てている。アスカの名は、アスナロの葉の翻る翼のような風情をもって飛鳥と記されていた。そんな樹の葉っぱを表す人名の家を壊している。鳥の種類は、コノハとあるのだからコノハズクであろう。フクロウ目フクロウ科の鳥で、ミミズクのなかでは一番小さく、全長が20cmほどである。山あいの森に生息し、夜行性で、昼間は樹上に止まって休んでいる。新撰字鏡に、「木莵、又功婦と云ふ、〈豆久(つく)〉」、和名抄に、「木兎 爾雅注に云はく、木兎〈豆久(つく)〉は鴟に似て小さく、兎の頭の毛の角ありといふ。」とある。
初め天皇生(あ)れます日に、木菟(つく)、産殿に入(とびい)れり。明旦(くつるあした)に、誉田天皇、大臣武内宿禰を喚(め)して語りて曰はく、「是、何の瑞(みつ)ぞ」とのたまふ。大臣、対へて言さく「吉祥(よきさが)なり。復(また)昨日(きのふ)、臣(やつかれ)が妻の産(こう)む時に当りて、鷦鷯(さざき)、産屋に入れり。是、亦異(あや)し」とまをす。爰(ここ)に、天皇の曰はく、「今朕が子と大臣の子と、同日(おなじひ)に共に産れたり。並に瑞有り。是天つ表(しるし)なり。以為(おも)ふに、其の鳥の名を取りて、各相易へて子に名けて、後葉(のちのよ)の契(しるし)とせむ」とのたまふ。則ち鷦鷯の名を取りて、太子(みこ)に名けて、大鷦鷯皇子(おほさざきのみこ)と曰へり。木菟の名を取りて、大臣の子に号けて、木菟宿禰(つくのすくね)と曰へり。是、平群臣が始祖(はじめのおや)なり。(仁徳紀元年正月)
これもまた、名にまつわる話である。木菟(つく)と鷦鷯(さざき)については、ともに、タクミドリと呼ばれたことから、交換に値するとされたと考えられ、そして、それゆえに吉兆とされたと考えられる。和名抄に、「巧婦 兼名苑に云はく、巧婦〈太久美止利(たくみどり)〉は好みて葦の皮を割き、中の虫を食らふ、故に亦の名は蘆虎なりといふ。」とあるものは、実はミソサザイの異名で、ミソサザイの古名が鷦鷯である。上述のとおり、新撰字鏡には、木莵のことを功婦ともいう。
コノハズクは鳴き声から、声の仏法僧(ぶっぽうそう)と呼ばれる。今日、ブッポウソウとされる鳥は別種であるが、コノハズクの鳴き声の方は、ブッポウソウと聞こえる。崇峻紀の記事は、衣縫、すなわち、針子の樹葉、つまり、張子の虎ならぬ張子の仏法僧の家が当初あったということである。張りぼての仏法僧、あるいは、脱活乾漆の仏像のある家を壊して、飛鳥大仏として今日に残る金銅の仏像を安置した法興寺という寺を建てた、という洒落と解釈できる。それが崇峻紀の記事に込められた意味であり、飛鳥時代の頓智である。無文字社会に生き、言霊信仰のあった古代において、時代を切り拓くとはこういうことである。この機智がなければ、人々の納得も支持も得られず、蘇我氏による独断専行との誹りを招くことになるであろう。
その場所は、コノハズクがいたのだから飛鳥と書いてふさわしかった。崇峻紀の記事は、コノハズクがいなくなっても、飛鳥真神原(あすかのまかみのはら、ミは乙類)、ないし、飛鳥苫田(あすかのとまた、トは甲類)と呼ぶようにしたと言っている。トマタとあるのは、第一に、ト(門)+マタ(股)の意であろう。門は跨ぐのが当たり前のようであるが、人が足を挙げて跨がずとも通り抜けられる門もある。コノハズクという鳥がいた門とは、鳥居である。和名抄に、「鶏栖 考声切韻に云はく、𣔺〈毛報反〉は今の門鳥栖也といふ。弁色立成に云はく、鶏栖〈鳥居也、楊氏説に同じ〉といふ。」とある。鳥居に扉はついていない。神さまは広い心を持っておられ、いつお参りに行っても受け入れて下さるし、鳥居をくぐった中の神域において、悪いことをすると罰が当たるから誰も悪いことはしない。境内参拝自由で、鳥居に閉ざすべき扉はない。鳥居は、明神鳥居のように、開の字の門構えのなかの旁、开の形をしているものが多い。
そんなところに法興寺の伽藍が建ち、扉のついた門が構えられた。鳥居の形の上の方にあった楣(まぐさ)が下に降りてきて蹴放しとなり、閂であれ猿落としであれ、扉に鍵がかかるようになった。鳥居から敷居への転換である。そこは、決して足で踏んではならず、きちんと跨がなければならないと躾けられる。摩耗すると鍵が役に立たなくなるからである。自分の家のそれは守らねばならないし、他人の家のそれを意図的に摩耗させようとしていると感じられては信用を失う。つまり、すべては、防犯上、警備上の問題である。新しい神さまである仏教の法興寺が建てられて、門(もん)は開かれたものから閉ざされたものへと変った。伽藍全体に鍵がかかるようにしたのである。閉の字の門構えの中の形は、才という字であり、カドと訓んで才能、才覚のことである。カド(門)ということばは、門柱と横架材とによって四角くなった、閉ざされる戸のついた門(もん)のことを指すのであろう。
上代、敷居のことはシキミ(キ・ミはともに甲類)などという。和名抄に、「閾 爾雅注に云はく、閾〈音は域〉は門限也といふ。兼名苑に云はく、閾は一名、閫〈苦本反、之岐美(しきみ)、俗に度之岐美(とじきみ)と云ふ〉といふ。」とある。同音のシキミには、樒(梻)(しきみ、キ・ミはともに甲類)があり、仏前に飾られる樹葉である。神前に飾られる榊(さかき)との対から、梻なる国字が造られている。衣縫の名が樹葉であったことから、当時の人の頓智がここに及んでいたことが確かめられる。閾には、トシキミ、トシキ、シキ、トシミ、シキといった言い方もあったらしい。狩谷棭斎・箋注倭名類聚抄では、シキヰはシキミの訛であるかとする。
爾くして、天皇、直(ただ)に女鳥王(めどりのみこ)の坐す所に幸して、其の殿戸の閾(しきみ)の上に坐しき。是に、女鳥王、機に坐して服(ころも)を織りき。(仁徳記)
秋九月に、朝礼(みかどのゐや)を改む。因りて詔して曰はく、「凡そ宮門(みかど)を出(まか)で入(まゐ)らむことは、両(ふた)つの手を以て地(つち)に押し、両つの脚をもて跪きて、梱(とじきみ)を越えて、立ちて行け」とのたまふ。(推古紀十二年九月)
トマタについて、第二に、苫田と書かれてある。苫をもって田の番をする小屋を表している。「田廬(たぶせ)」(万1592・3817)のことであろう。和名抄に、「苫 爾雅注に云はく、苫〈士廉反、止万(とま)〉は菅茅を編みて以て屋を覆ふ也といふ。」とある。菅や茅で編んだ薦で、小屋の屋根や船の上などの覆いに用いられた。きちんと編み込まれたものではないから、編目に隙間があって雨漏りがあったかもしれない。田の稔りの時期に番をするためには、隙間があるのはかえって都合が良い。イノシシなどの害獣や泥棒などの侵入を監視することができる。その機能は、漁師が獲物の動物を待ち伏せし、弓矢を射るために身を隠しておくところ、「射翳(まぶし)」に同じである。和名抄に、「射翳 文選射雉賦注に云はく、射翳〈於計反、隠也、障也、師説に末布之(まぶし)〉は隠れ以て射る所の者也といふ。」とある。田廬は、田の稔りをとられないようにする小屋だが、田という字は、田猟、狩りの意味がある。つまり、「田」とは、稲刈りのことにも、獣狩りにも用いる字なのである。
そして、もともと、衣縫の樹葉という人の家があった。樹の葉はクワの葉のことを暗示しており、養蚕が行われていたことを表しているに相違あるまい。絹糸は衣縫の職に欠かせない。その蚕が繭を作る際には、蔟(蚕簿)(まぶし)と呼ばれる道具を用いた。蔟は、一匹ずつで安心して繭が作れるようにした、仕切られた、カプセルホテルのような仕掛けである。二匹が繭を絡ませてしまうと糸を控きだすことができなくなる。隙間をあけつつ藁などで編まれた。射翳も蔟も、隠れるものながら隙間のあるものとして似通っており、いずれもマブシである。弓矢の話が登場しているが、それは、箙(えびら)という語にも通じる。箙は矢を入れる武具である。背に負う矢入れの名は、靫(ゆぎ)、胡籙(ころく・やなぐひ)、空穂(うつぼ)などとも呼ばれる。箙は形が蔟に似ており、蔟のことをエビラともいうのでその名があるとされる。この点は、マカミハラにも関わりがある。
蔟の例(横浜のシルク博物館)
マカミ=狼
かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに畏き 明日香の 真神の原に ひさかたの 天つ御門(みかど)を かしこくも 定め賜ひて ……(万199)
大口の 真神の原に 降る雪は いたくな降りそ 家もあらなくに(万1636)
…… 大口の 真神の原ゆ 思ひつつ 帰りにし人 家に到りや(万3268)
マカミとは、イヌ科の動物、オオカミのことである。大きく口を開けるところから枕詞オホクチノはマカミに掛かるとされる。いつも開口している門が鳥居であることと似た発想である。ただし、オオカミが大きく口を開けるのは、ワォーと遠吠えするためである。群れの仲間との連絡や、狩りの合図、縄張りの主張などのために行われ、何頭もが合唱することもある。目的によって声を変えているとされるが、動物のことを深く知らなければ詳細はわからない。古代の生活において、門が大きく口を開けていながらオオカミのように遠吠えする警備員がいたことは知られている。隼人(はやひと・はやと)である。
是を以て、火酢芹命(ほのすせりのみこと)の苗裔(のち)、諸の隼人(はやひと)等、今に至るまでに天皇の宮墻(みかき)の傍(もと)を離れずして、代(よよ)に吠ゆる狗して奉事(つかへまつ)る者なり。(神代紀第十段一書第二)
隼人の 名に負ふ夜声 いちしろく わが名は告(の)りつ 妻と恃ませ(万2497)
凡そ践祚大嘗日、応天門の内の左右に分陣し、其の群官初め入り吠えを発す。(延喜式・隼人司)
拙稿「隼人(はやと・はやひと)の名義は、助詞のハヤによく表れている」に触れたように、ハヤト・ハヤヒトの名の主眼は、助詞のハヤであった。言葉かどうかさえわからない声を発するのが隼人であり、それはオオカミの遠吠えに同じである。
是に中大兄、衛門府(ゆけひのつかさ)に戒めて、一時(もろとも)に倶に十二(よも)の通門(みかど)を鏁(さしかた)めて、往来(かよ)はしめず。衛門府を一所に召し聚(あつ)めて、将に給禄(ものさづ)けむとす。(皇極紀四年六月)
宮城の門番についての記述である。大化の改新で蘇我入鹿を宮殿内で斬殺する場面である。衛門府の初出である。養老令・職員令に、「衛門府 督(かみ)一人。〈掌らむこと、諸門の禁衛(きむゑ)、出入、礼儀(らいぎ)のこと、時を以て巡り検(み)むこと、及び隼人、門籍(もんじゃく)、門牓(もんばう)の事。〉佐(すけ)一人。大尉(だいゐ)二人。少尉(せうゐ)二人。大志(だいし)二人。少志(せうし)二人。医師(くすし)一人。門部二百人。物部三十人。使部三十人。直丁四人。衛士(ゑじ)。」とある。諸門の禁衛、出入の礼儀を掌り、宮城の門の警備を主要な任務とした。「礼儀」については、推古紀に挙げた所作も一例であろう。衛門府がユケヒノツカサと訓まれるのは、ユキ(靫)+オヒ(負)の約からである。すなわち、不法侵入者に対して、弓矢を持った守衛さんとサイレン役の隼人とで対応したのである。苫田に狩りのことが示されていたのは、門の番をする靫負との関係からであった。
そしてまた、真神原のハラについては、第一に、大角(はら)からの着想によるものでもある。新撰字鏡に、「篍 子有反、去、起居の為に筩を吹く、※(草冠に即)吹廗也、波良(はら)、又久太(くだ)」、和名抄に、「角 兼名苑注に云はく、角〈楊氏漢語抄に、大角は波良乃布江(はらのふえ)、小角は久太乃布江(くだのふえ)と云ふ〉は、本(もと)胡中に出づといふ。或に云はく、呉越に出で、以て龍吟に象る也といふ。」、「大角(はら)・小角(くだ)」(天武紀十四年十一月)とある。岩波古語辞典の「はら【大角】」の項では、「「はらのふえ」に同じ。「大角」を唐代の宮門の警衛を司った武官が持ち、それを「簸邏廻(はらくわい)」と称したことによる。」と、古今要覧稿の説を採っている。隼人の吠え声とオオカミの遠吠えと大角の音とは、それぞれ同等のものと考えられたようである。すべては警備上の問題であった。万199番歌では、真神の原というところは、番人がいるような門があって近づきがたいというニュアンスを歌い、また、明日香の真神の原に都を定めたことが賢明であったとは、ミカドを「御門」と書くからであった。
第二に、真神原のマカミが獣のオオカミ、原のハラが同根と思われる腹のことを表すとすれば、イヌ科のオオカミは一度に4~6匹の子を産むほど多産であることが知られていたであろう。つまり、真神原とは、お腹の中にたくさんの子の宿りを含意している。もともと、そこは衣縫の樹葉の家があった。養蚕が行われており、「蚕(こ)」がたくさん飼われていた。張子の仏法僧とあったのは、蚕の繭のことを含意していたものと思われる。皇后さまの御養蚕に、特に純国産種の小石丸という品種を育てられている。それは江戸時代頃に作られたものとされているが、繭の形は二つ豆入りの落花生のようであり、起き上がり小法師のように見える。古代の繭の形を留めているとしたら、見た目からの連想でもあったのであろう。
江戸期における蚕の日本在来種の例(横浜のシルク博物館)
左:コノハズク(ウィクショナリーhttps://ja.wiktionary.org/wiki/コノハズク)、右:クワコ(公益財団法人大和市スポーツ・よか・みどり財団http://www.yamato-zaidan.or.jp/archives/100862)
さらに、野生種の蚕の幼虫(クワゴ)は、クワの樹の葉の上にいて、しかも、コノハズクとよく似た変な顔をしている。そんな樹葉という名の衣縫の家を壊し、大きな山門のある法興寺が新たに作られた。コノハズクという鳥が居る鳥居の神さまと同じく、寺も本当の神さまだから真神であり、飛鳥大仏は腹が張っているから真神原であると言いたいのであろう。その両方を表すのに共通して適う名称を求めて知恵が捻られ、マカミノハラなる言葉が考え抜かれたのである。
以上が、飛鳥の地において、衣縫の樹葉の家が法興寺へと変えられた時に、真神原、苫田なる字(あざ)の名が付けられた背景である。土地利用において、もともとの意味合いと新しい意味合いとを合わせる形で、地名が名づけられている。ことほど左様に名前というものについて、古代の人々は大切にし、慎重に扱っていたのであった(注6)。
アスカを「飛鳥」と記そうとした人の謎掛けを追ってきた。それを折り返せば、「飛鳥」と書いてどうしてアスカと訓むのか、上代の人にとってなるほど面白いと思える謎解きとなろう。そのためには、記紀のお話(咄・噺・譚)がお話として定着していなくてはならない。それは実は案外、当たり前のことである。話(咄・噺・譚)を仲介役として、ヤマトコトバが人々の間で保たれていたと考えられるからである。そうでなければ、万葉集のような膨大な言葉の塊が、それも防人にかり出されるような庶民も含めて多くの人々によって作り上げられるはずはない。実に豊饒な言葉が文字を持たずにできあがっていた。人々の間でコミュニケーションツールとして行き交っている。なぜ通じるのか。なぜ互いにわかるのか。言葉について言葉自身が自己説明をしているから、なるほどと理解し合える。すなわち、“なぞなぞ”である。古語に、「無端事(あとなしこと)」(天武紀朱鳥元年正月)という。そうやってできあがったヤマトコトバの体系が、記紀万葉のお話である。万葉集の「歌」が抒情なり叙景なりを伝えることがあるのも、すべては言葉が基盤として立ち上がっているからである。特に初期万葉の歌は、記紀歌謡の続きともいえる物語歌である。それを当初、「雑歌」と分類したようである。したがって、ひとり「飛鳥」字を取り出してきてどうしてアスカと訓むのかと問題提起をし、漢和辞典をひっくり返しても、その意味するところはわかるわけがない。漢語ヒテウ(ヒチョウ)のことではなく、すべてはヤマトコトバで解かれよう。記紀万葉のそれ自体が母胎となりつつ子どもでもあるお話(咄・噺・譚)の“なぞなぞ”ワールドに没入しない限り、納得されることはない。
(注)
(注1)多くの辞書に記載の枕詞由来説は、例えば、時代別国語大辞典に、「とぶとりの[飛鳥]①枕詞。天武紀朱鳥元年七月の条に「戊午、改元曰二朱鳥〈阿訶美苔利〉元年一仍名レ宮曰二飛鳥浄御原宮一」とあり、扶桑略記にも「天武十五年丙戊大倭国進二赤雉一、仍七月改為二朱鳥元年一ともあって、赤い鳥の瑞祥を喜んで浄御原宮に飛ブ鳥ノの枕詞を冠し、その宮の所在地である大和の明日香の枕詞ともしたものである。のちに長谷・春日のように、明日香の地名にもそのまま「飛鳥」の文字を用いるに至った。」(499頁)とある。日本国語大辞典第二版337頁や角川古語大辞典69頁にも同様の解釈が記されている。
(注2)同書を引用する。
地名は、地図と並ぶ歴史地理学の基本資料です。……地名解釈といっても、地名の語源については原則として触れるつもりはありません。一般に地名、特に古地名の語源を解くことはかなり難しく、下手をすると荒唐無稽で無意味な地名解釈に陥ってしまうからです。
ここで私が試みる地名解釈とは、普通ではその漢字は絶対そうは読めないという種類の漢字地名の問題、例えば飛鳥という地名はなぜ「あすか」と読むのか、百済はどうして「くだら」と読めるのか、といった「不思議さ」に答えを示すことです。
さて、飛鳥はなぜ「あすか」と読むのでしょうか。……[いくつかの辞書には、枕詞「飛ぶ鳥の」から「飛鳥」を「あすか」と読むと説明されています。]「飛鳥(とぶとり)」は、確かに「あすか」の枕詞です。しかし、なぜ「飛鳥(とぶとり)」が「あすか」の枕詞になったのかを説明することから始めなければ、正確な理解には到達できないのではないかと思うのです。枕詞という一言で片付けてしまうことは、正解に至る道を閉ざしてしまうという点で危険です。ある言葉がもう一つの言葉の枕詞になるためには、当然それなりの理由があるはずです。残念ながら……辞書には、どこにもその理由が記されておらず、「あすか」の用字に枕詞がすりかわって入りこんだ理由についても一切述べられていません。これでは何も分からないのです。
「あすか」のもともとの意味は、不明と言うべきです。が、ともかく「あすか」と呼ぶ土地・地域があったはずです。そこへ漢字文化が流入し、「あすか」に漢字が当てられることになった。その時当てられた漢字は「安宿」であったに違いないと思います。「安宿」の用例は河内国のいわゆる「近つ飛鳥」地域の郡名にありました。これならば間違いなく「あすか」の音に合致します。さらに光明皇后が安宿媛という名であった事実があります。これは奈良時代の初めに「あすか」を「安宿」と表記していた証拠になります。
そして重要なことは、はじめ「安宿」の字が用いられたからこそ枕詞が「飛ぶ鳥の」となり得たということです。「安宿」は「やすやど」などではありません。「やすらかなやど」と解するのが、雅というものです。そして、「やすらかなやど」であるならば、飛ぶ鳥も好んで羽を休めたに違いない。そういう文脈の中で、「飛鳥」が枕詞となり、「飛鳥(とぶとり)の安宿(あすか)」という表現が成立・普及することになったと解すべきなのです。
次いで、古代日本人が好んで行なったらしい「短縮」の手法が加えられました。それは「とぶとり」という「音」を略し、「安宿」という文字を略して、「あすか」の「音」を「飛鳥」の文字に結号するという手法にほかなりません。これと同様な「短縮」の手法は、「下毛野(しもつけぬ)」の「毛」の字と「ぬ」の音を略して「下野(しもつけ)」とした例、「近淡海(ちかつおうみ)」の「ちかつ」の音を略し、「淡」の字を落とし(且つ「海」を「江」字に変えて)「近江(おうみ)」と作った例など、いくつも見られるのです。
『万葉集』では「明日香」の字が使われていますが、これは『万葉集』の風雅であって、「明日香」の用字が漢字到来の最初に当てられていたならば「飛ぶ鳥」が枕詞として成立するはずはなかったでしょう。これは大事なことです。(234~237頁)
(注3)廣岡2005.。
(注4)「塞」字は「寒」に見えるが、説文に「𥧑 塞也、穴に从ひ眞声。」とあり、新撰字鏡も「塞」に作る。
(注5)狩野2004.125頁。
(注6)アスカという地名自体、近代国家において江戸→東京と改名したのと同様に、もとの地名は不明ながら古代の都たるにふさわしいように名づけられたものではないかという説がある。およそ筆者には、名づけるとはどういうことか、地名とはどういうものか、そもそも言葉とは何か、記録(しる)すとはどういうことか、といったことすべてをスルーしてしまっているように感じられる。
地名を改める場合、紀ではきちんと記されている。いくつか見ると次のようにある。
却(かへ)りて草香津(くさかのつ)に至り、盾を植(た)てて雄誥(をたけび)したまふ。雄誥、此には烏多鶏縻(をたけび)と云ふ。因りて改めて其の津を号けて盾津と曰ふ。今、蓼津と云ふは訛(よこなま)れるなり。(神武前紀戊午年四月)
夫れ磐余の地、旧名(もとのな)は片居(かたゐ)、片居、此には伽哆韋(かたゐ)と云ふ。亦は片立(かたたち)と曰ふ。片立、此には伽哆哆知(かたたち)と云ふ。我が皇軍(みいくさ)の虜(あた)を破るに逮(いた)り、大きに軍(いくさびと)集ひて其の地に満(いは)めり。因りて号(な)を改めて磐余(いはれ)と為す。(神武前紀己未年二月)
……輪韓河(わからがは)に到り、埴安彦と河を挟み屯(いは)み、各(おのもおのも)相挑(いど)む。故、時の人、改めて其の河を号けて挑河(いどみがは)と曰ふ。今、泉河(いづみがは)と謂ふは訛れるなり。(崇神紀十年九月)
乃ち三諸丘に登り、大蛇(をろち)を捉取(とら)へて、天皇に示(み)せ奉る。天皇、斎戒(ものいみ)したまはず。其の雷(かみ)虺虺(なりひび)きて、目精(まなこ)赫赫(かかや)く。天皇、畏みたまひ、目を蔽ひて見たまはず、殿中(おほとののうち)に却(しりぞ)き入り、丘に放たしめたまふ。仍りて改めて名を賜ひて雷(いかづち)とす。(雄略紀七年七月)
……御船、還りて娜大津(なのおほつ)に至る。磐瀬行宮(いはせのかりみや)に居(おは)します。天皇、此れを改めて、名づけて長津(ながつ)と曰(のたま)ふ。(斉明紀七年三月)
草香津→盾津(蓼津)、片居(片立)→磐余、輪韓河→挑河(泉河)、三諸丘→雷(丘)、娜大津→長津と改名している。紀においては、地名を「改」めたとある場合、改める前の名と改めた後の名とを記すという当たり前のことが当たり前に行われている。第四例目は、あるいは地名ではなく人名の改変とする説もある。最後の斉明紀の例において、改名の謂れが不明確である点については、歴史学上重要な問題が隠されていると思われるが、稿を改めて論じたい。
続日本紀に、いわゆる好字令と呼ばれている件がある。
五月甲子、制、畿内・七道諸国の郡(こほり)・郷(さと)の名は好き字を着(つ)けよ。(元明天皇・和銅六年五月)
すでにある地名にきれいな字を当てようというのである。人々にそう呼ばれている地名が先に存在し、それに文字を当てるという作業が行われている。それが物事の順序である。そんな当て字のために、例えば、スミノエ、ヒエに住吉、日吉と書いたがために、スミヨシ、ヒヨシと呼ばれるようになったといった地名の改変が後に起こっている。これらが、古代において地名が変わる際の一般論である。
飛鳥時代において、仮に地名のエドを、政策だからといきなりトウキャウに変えるなどということはあり得ないことである。当時、ほとんどすべての人は文字が読めなかったのだから、訳が分からず、承服しかね、したがって定着しなかったであろう。彼らにとっての言葉は、明治期に新たな漢語をもって「近代化」政策を推し進めたり、今日のようなカタカナ語、和製英語の造語を通して新しいモノが生れて豊かになっていっていると信じさせる「経済成長」の戦略などとは、位相が異なる。言葉は事柄と同一である、言=事であるとする言霊信仰の下にあって、決して蔑ろにはできない重々しいものであった。
(引用・参考文献)
足利2012. 足利健亮『地図から読む歴史』講談社(講談社学術文庫)、2012年。(『景観から歴史を読む─地図を読む楽しみ─』日本放送出版協会(NHKライブラリー)、1998年。)
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典』岩波書店、1974年。
角川古語大辞典 中村幸彦・岡見正雄・阪倉篤義編『角川古語大辞典 第一巻』角川書店、昭和57年。
狩野2004. 狩野敏次『かまど』法政大学出版局、2004年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
日本国語大辞典第二版 日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞典編集部編『日本国語大辞典 第二版 第一巻』小学館、2000年。
廣岡2005. 廣岡義隆『上代言語動態論』塙書房、2005年。
※本稿は、2013年に発表した旧稿を、2017年に改稿したものを、2020年7月に再度整理し直したものである。