葛西臨海水族園の案内電子パネルに、
タチウオの名前の由来
タチウオは、漢字では“太刀魚”と書きます。この名前は、背びれを波立たせるように動かしながら泳ぐ“立ち泳ぎ”からではなく、すがた・形が“太刀”に似ていることからつけられたと言われています。タチウオは、少し深い所にいる魚なので、水槽のライトを暗くしてあります。その特徴的な泳ぎや色・すがたを、目を凝らし、じっくりとご覧ください。
タチウオ(葛西臨海水族園にて)
とある。この説は通説である。深海魚だから立って泳いでいる姿など人々にはわからない。したがって、その名の由来は太刀によるのであろうと考えられている。太刀→タチウオへと命名がつながっているというものである。
言葉の語源などというものは、科学の対象ではない。言葉は空中を飛び交っており、証拠が残らず、検証できない。論証しようにも、反証の可能性を持たない。よって、言った者勝ちの様相を呈する。いちばん勝ったのは、民俗学の柳田国男であった。それでも、深海魚だから立ち泳ぎの様はわからないはずであるとの理屈は通っている。確かにその通りだから、この説は有力な説であるといわれている。
筆者は、語源を探るという立場に立たない。飛鳥時代の上代の人たちが、言葉をどのように捉えていて、記紀万葉を創作していたかについて検証している。無文字文化のなかにある上代人は、言葉の“語源”ではなく、“語感”を楽しんでいたと考えるからである。そう考えないと、万葉歌に、枕詞をはじめさまざまに巧みなレトリックを駆使した、当時の人々の思考回路が納得できない。その前提のうえで、鉄器の太刀が先に言葉としてあって、その後、魚のタチウオが命名されたとする説に、異議を唱えたい。“語感”において、現代人はあまりにも杜撰であると思う。“語源”についての説を聞いても、ほほぉと思ってもすぐに忘れてしまう。
鉄器の太刀が登場するのは、古墳時代である。それよりも前から、魚のタチウオは知られていたであろう。そのとき、ザコ(雑魚)、ないし、他の呼び名が付けられていたかどうか不詳である。筆者は、タチ、タチイヲ、タチウヲなどと既に呼ばれていたのではないかと推測する。かなり特徴をもった魚だから、名前がないことのほうが不自然に思われる。英語でも cutlass fish と呼ばれるあの魚について、古代の人たちが見出した特徴は、細長いこと、立って泳いでいるかもしれないこと以上に、歯が鋭い点であったと思う。古代の人たちにとって、野生の動植物や鉱物など自然界にあるものすべては、自分たちにとって利用可能かどうか、身に危険が及ぶかどうかを中心にしてまず見たに違いあるまい。「泳ぎや色・すがた」以前に、“活用”“利用”“作用”に関心が向かった。すると、cutlass fish は非常に危険で、釣りの際は気を付けないといけない。それが第一である。当然、古代の人たちが釣りをすれば、とても多くの場合、釣針を持って行かれる魚であることに気が付いていたであろう。釣糸が断たれるのである。「断つ」からタチである。たまにうまいこと釣り上げて食べるとき、そのままでは長すぎて煮ることも焼くこともできない。一般的な魚の下ごしらえでは行われない方法をとる。ぶつ切りである。今日でも、スーパーでパック詰めされて見られる。やはり、「断つ」からタチである。
タチウオ(スーパーで購入)
そういう語が先にあり、古墳時代になって、鉄器の太刀、ならびに、馬が大陸から入ってきた。平安時代の古辞書に、馬のタテガミのことをタチカミと呼んでいる。必ずタチカミである。
「鬣 加葉反、頂なり。帚なり。馬の頚の上の毛なり。太千加美(たちかみ)。」新撰字鏡(898~901年成立)
「鬣 唐韻に云はく、鬐〈音耆、今案ずるに鬐鬣は俗に宇奈加美(うなかみ)と云ふ。又、魚の宇奈加美(うなかみ)は、魚躰を見て之れを知る〉は、馬の頂の上の長き毛也といふ。文選に云はく、軍馬は髦を弭(なび)かせて仰ぎ秣(まぐさく)ふといふ〈髦は音毛、訓は師説に多智賀美(たちかみ)と云ふ〉。鬣の称也。」和名抄(931~938年成立)
「鬣 良渉反、獣の長い毛。ウナカミ、タチカミ、ハタ、ヒレ、馬ノカミ。」名義抄(1081~1100年成立)
これらの記述は、通説の太刀→タチウオではなく、言葉が、タチウオ→太刀、鬣へと連想されたことを物語っている。現在見られる馬には、2系統の種がある。ユーラシア大陸の西の方に起源をもつ馬で、世界中に拡がって家畜馬、競走馬としているのが1つである。野生種としては滅んでいる。その最後のターパンは、1枚のモノクロ写真に残されている。日本で野性的に暮らしているのは、大陸から連れて来られた家畜馬が放たれたものである。もう1つは、モウコノウマ(蒙古野馬)である。これも絶滅しかけていたところを人の手によって命脈を保ってモンゴルの平原に放たれている。モウコノウマでは、鬣はモヒカンのように立っているが、ヤマトの人が見かけたり、話に聞いたりしたことはなかったものと思われる。騎馬民族が使ったなかにモウコノウマはいなかったとする説によっている。そして、ターパンを含めて世界に拡がる家畜馬たちは、鬣が垂れていると表現されるのがふさわしい。垂れているのにタチカミと古辞書にある。これ如何に、である。そして、上の和名抄、巻第七の牛馬躰百六に、鬣と魚のウナカミとが関連させて説明されている。不思議な説明である。連想として、タチウオ以外には考えられない。
左:道産子、右:モウコノウマ(いずれも多摩動物公園にて)
和名抄、巻第八の龍魚躰百九には、
鰭 文選注に云はく、鰭〈音耆、波太(はた)、俗に比礼(ひれ)と云ふ〉は魚の背の上の鬣也といふ。唐韻に云はく、鬣〈音獦、又馬躰に見ゆ〉は鬚鰭也といふ。
とある。タチウオの鰭は、そもそも背びればかり目立つ。長く伸びた背びれを靡かせて泳いでいる。靡かせることに推進力をもつ魚としては、例えばカワハギの仲間がいる。流体力学に詳しくない者は、水槽にへばりついて見ても、どうしてそこから推進力が生れるのか不思議であるが、タチウオの鰭の動きはオーロラのようでもあり、馬の鬣のようでもある。タチウオは、古代において釣り上げられた時、果して背びれを靡かせたかどうか、その際どのように認識されたか不明ではある。ただ、今日でも釣り人が、釣り上げた時、決して手を出さないように注意している点は同じであったに違いない。噛みつかれると、指などを簡単に「断つ」ことがあるからである。
そして、作用に加えて、色・すがたまでも、大陸から新たにもたらされた鉄器の sword に合致すると思われたであろう。タチウオが刃が鋭くて物を断つのと同じように、鉄器の sword はよく切れると評判になったに違いあるまい。また、ほぼ同時に大陸から伝わった馬は、乗り物としてそれまで見たこともないほどに高速であったろう。その走りの鋭さは、白馬の場合、色・すがたともに、タチウオを彷彿とさせるものがある。そこで、タチウオの名から、鉄器の sword の名はタチ、馬の項から背にかけての髪のことをタチカミと名づけた、と推量される。太刀は、タチウオの背びれの付き方と同じく、片刃のものを本来的には指す言葉として示されたのであろう。「両刃(もろは)のタチ」とは言わず、必ず「両刃のツルギ(剣)」という。タチウオの腹びれや尻ひれが、背びれのようにはついていないからである。さらに、釣り上げたタチウオを放って置くとそうなるように、太刀にも馬にも、茶色いものがある。太刀の場合は鉄錆である。そうなると、銅の矛のように切れ味が悪くなる。技術の先祖がえりである。
太刀(古備前正恒、平安時代、12世紀、文化庁蔵、東博展示品)
以上のような“説”にしかならない議論は、たとえ古辞書の記載を頼りにできるとはいえ、管見にして記紀万葉に証拠が見られないため、筆者としては避けたいところである。しかし、古墳時代の人々の観念に、タチウオ→タチカミとなる物的証拠が出てしまっている。馬の形象埴輪である。その問題点については、あまり深入りせず、簡単に紹介するに止める。「発掘された日本列島2015」展に、栃木県の甲塚(かぶとづか)古墳出土の形象埴輪がある。残された顔料から、馬体は白く塗られていたと検証されている。木村友則「甲塚古墳」文化庁編『発掘された日本列島2015』(共同通信社、2015年)に次のようにある。
……甲塚古墳[古墳時代後期、6世紀後半、出土品は下野市教育委員会所蔵]は全長80メートル規模の帆立貝形前方後円墳で、出土遺物から、古墳時代後期に築造されたことが分かりました。また、古墳には幅約14メートルの平坦面(墳丘第一段目)があり、平坦面の中央付近に円筒埴輪が一列に並んで一周していました。さらに、墳丘西側では、馬や人の形をした形象埴輪が列状に並んでいることも確認されました。復元することのできた埴輪は全部で24個体あり、その配置状況を確認できただけでなく、出土した破片にわずかに残された顔料を元に、赤・白・黒・灰色の4色で彩色されていたことも分かりました。……24個体の形象埴輪のうち2個体は、女性が布を織っている様子を表したものです。機織形埴輪の出土は、全国で初めての例となります。また、織機はそれぞれ異なる型式のものを表現していることから、6世紀後半頃には既に構造の異なる織機が存在していたことが分かりました。(27頁)
形象埴輪に残存していた顔料を調べた結果、赤、白、黒、灰色の4色が使われていたことが判明。機織形埴輪のうち、人物部分が残存するほうの上衣には、白地に赤色の円文様が施されていたことが分かった。また、馬形埴輪は4個体すべての体部に白彩痕が確認できることから、白馬を表現していたと考えられる。(28頁)
……[馬形埴輪のうち高さ105.5センチ、長さ推定95.8センチの]馬は馬形埴輪の先頭に置かれており、口元に付けられたf字形の鏡板や、胸元の馬鐸、壺形の鐙、横座り用の足置き板など装備品が豪華であるため、被葬者の馬と考えられる。(29頁)
甲塚古墳出土の埴輪(「発掘された日本列島2015」展、江戸東京博物館にて。「発掘された日本列島2015」展は、栃木県立博物館(平成27年9月19日(土)~11月1日(日))、岡山県立博物館(平成27年11月13日(金)~12月23日(水))、岩手県立博物館(平成28年1月14日(木)~2月28日(日))を巡回します。)
馬形埴輪は、全国的に同様な形状をしている。その鬣は、なぜか、どれもが、ポマードで塗り固められたように立っている。現在見られる実物の馬のなかに、比較的に立っているように感じられる個体もいないわけではない。また、鬣を切りそろえたり、束にまとめて括るお洒落も歴史的に行われていた。絵巻や屏風絵に描かれている。しかし、埴輪の表現者は、それらの様子を準えようとして、馬の代表として創作したのではないであろう。すなわち、埴輪の馬の鬣が立っているのは、タチカミと名づけたことの副産物として、立ち髪と洒落をもって観念されたこと、ならびに、馬が止まっている時ではなく、疾走している時、鬣が靡いてまるで立っているかのように見えたことによっているのであろう。馬の馬たる本質とは、人を載せて人が制御し、速く走らせるところにある。古代のスポーツカーである。雄略前紀に、「騁(は)せ射む」、「馬を驟(は)せて」とある。古代の芸術家は、馬の“本質”を造形した。装備品として、轡などの制御器具の着装は必然のことになる。馬の埴輪を制作することとは、多方向から撮影した馬画像をもとに、2分の1サイズモデルを3Dプリンターで復元することとは異なる。表意、写意がある。
馬の埴輪の造形者たちは、鬣を作るに当たって、タチカミなる語を知っており、タチウオの背びれのような、太刀の刃のような、“鋭さ”を表現しようとした。彩色を施すに当たっては、腐ったり錆びたりした色よりも、新鮮な、切れ味のいいものが志向された。そのため、甲塚古墳の馬形埴輪が白い顔料を用いて塗られてつくられた、と説明できる。
(上掲書28頁の復元模型の写真印刷では、鬣と尾だけは灰色に見えます。展覧会の解説パネルでご確認ください。)
茶色い馬はポピュラーだし、埴土の色は茶色いのだから、そのままでいいではないかと思えるところを白く塗っている。制作者の意図を汲み取らなければならない。
埴輪馬(群馬県高崎市箕郷町上芝古墳出土、古墳時代、6世紀、東博展示品。鬣前部は角のようでさえある。)
ここには、当たり前のことであるが、人の観念が関わっている。馬とは何か、についての古墳時代の人々の思いが込められている。そして、古墳という上流階級の人々の墓所に副葬されている。木村、前掲解説にあるとおり、被葬者は、機織形埴輪から女性であろう。彼女が乗るための馬であると考えられる。その場合、自転車の後部荷台に横座りをするように、馬に実際に横座りして、足をちょこんと足置き板に乗せて座ったかといえば、なかなかにあり得ない。そのような乗り方はとても危険である。反対側に振り落とされた時、後頭部から落下する。とても実際に乗る光景を標しているとは考えられない。また、埴輪の馬の出土例は、そのほとんどが、馬具をつけた形ながら人は騎乗しておらず、馬曳きが別に作られている。乗っているところを写生しているのではない。甲塚古墳出土品でも、観念の成せるわざとして、女性の被葬者が、あの世へ行く際、ないしはあの世において、乗ってくれたらいいなと思われる馬が制作されていると考えられる。古墳時代の人の考える「あの世(黄泉国? 常世国? 天寿国?)」なるものが、どのようなものであったかわからない。それでも、人類のほとんどすべての民族同様、墓所には、あの世へ行くための道具や、あの世で困らないための器物がいろいろ副葬されていると考えられている。したがって、逆に、たとえば当時使われていた馬具について、埴輪の飾り付け方からある程度想像することは可能ではあるが、それは、当時の人々の“観念”というフィルターを通した上での造形であることを念頭に置かなければならない。そのままの形であったかどうかについては、慎重に見極めなければならない。
以上見てきたように、古辞書の資料と考古学の発掘出土品から、タチウオ→太刀、鬣という言葉の流れが追跡され、古代の人びとの“観念”が顧みられた。そこには、現代の、いや、中古にはすでに失われ、変質してしまっている「ものの見方」があったようである。中古の文学は、ほぼ“宮殿文学”である。記紀万葉にある、隙あらば捕まえて食べてやろう、使ってやろう、逆に隙を付かれぬようにしよう、といった生々しさの現場からは遠ざかっている。現代人が高層マンションに暮らし、コンビニで弁当を買って来て食べていて近づけるのは平安宮廷までで、生活感覚、日常感覚において、古墳時代、飛鳥時代の実感には迫れないということである。
(2015.12.22追記)
乗馬法に横座りは存在している。埴輪の例では、例えば、高橋克壽「横座りの馬」奈文研ギャラリー10(『奈文研ニュース』№18、2005年9月)には鞍からだいぶ下の方へ足を伸ばした状態で乗ることになり、あり得なくはない。甲塚古墳の足置きは、膝を折り曲げた体育館座りになるので、リアルには想定しにくい。ヨーロッパの例では、貴族の女性はsidesaddle(横鞍)を使って横座りに騎乗していた。むろん、上半身は馬同様に前を向き、手綱を握っている。なお、ロバに騎乗する場合、背骨の関係からウマのように背中の真ん中付近には乗れず、後ろのお尻の方に乗るはずなので、下の様子は騎乗の点からはふさわしいものとは言えないようである。
一休宗純(1394~1481)筆「杜甫騎驢図賛」(紙本墨書、室町時代、15世紀、東博展示品、広田松繁氏寄贈)
上に賛が左から書いてある。「杜甫騎馿圖 漢々蜀江風色癯 不騎官馬只騎驢 残生七十吟髭雪 日短乾坤一腐儒 東海純一休」(試訓;漢々たる蜀江は風色癯せたり/官馬に騎らずして只だ驢に騎る/残生七十にして吟髭の雪/日の短きこと乾坤に一腐儒のごとし 注;「驢」は平声魚韻である。虞韻の「鱸」、「艫」、「櫨」などと混同したものか。)
(2017.2.12追記)
いかにもタチウオのような太刀を見つけたので記す。
飾り大刀刀身(藤ノ木古墳出土復元品、河内國平作、橿原考古学研究所附属博物館展示品)
タチウオの名前の由来
タチウオは、漢字では“太刀魚”と書きます。この名前は、背びれを波立たせるように動かしながら泳ぐ“立ち泳ぎ”からではなく、すがた・形が“太刀”に似ていることからつけられたと言われています。タチウオは、少し深い所にいる魚なので、水槽のライトを暗くしてあります。その特徴的な泳ぎや色・すがたを、目を凝らし、じっくりとご覧ください。
タチウオ(葛西臨海水族園にて)
とある。この説は通説である。深海魚だから立って泳いでいる姿など人々にはわからない。したがって、その名の由来は太刀によるのであろうと考えられている。太刀→タチウオへと命名がつながっているというものである。
言葉の語源などというものは、科学の対象ではない。言葉は空中を飛び交っており、証拠が残らず、検証できない。論証しようにも、反証の可能性を持たない。よって、言った者勝ちの様相を呈する。いちばん勝ったのは、民俗学の柳田国男であった。それでも、深海魚だから立ち泳ぎの様はわからないはずであるとの理屈は通っている。確かにその通りだから、この説は有力な説であるといわれている。
筆者は、語源を探るという立場に立たない。飛鳥時代の上代の人たちが、言葉をどのように捉えていて、記紀万葉を創作していたかについて検証している。無文字文化のなかにある上代人は、言葉の“語源”ではなく、“語感”を楽しんでいたと考えるからである。そう考えないと、万葉歌に、枕詞をはじめさまざまに巧みなレトリックを駆使した、当時の人々の思考回路が納得できない。その前提のうえで、鉄器の太刀が先に言葉としてあって、その後、魚のタチウオが命名されたとする説に、異議を唱えたい。“語感”において、現代人はあまりにも杜撰であると思う。“語源”についての説を聞いても、ほほぉと思ってもすぐに忘れてしまう。
鉄器の太刀が登場するのは、古墳時代である。それよりも前から、魚のタチウオは知られていたであろう。そのとき、ザコ(雑魚)、ないし、他の呼び名が付けられていたかどうか不詳である。筆者は、タチ、タチイヲ、タチウヲなどと既に呼ばれていたのではないかと推測する。かなり特徴をもった魚だから、名前がないことのほうが不自然に思われる。英語でも cutlass fish と呼ばれるあの魚について、古代の人たちが見出した特徴は、細長いこと、立って泳いでいるかもしれないこと以上に、歯が鋭い点であったと思う。古代の人たちにとって、野生の動植物や鉱物など自然界にあるものすべては、自分たちにとって利用可能かどうか、身に危険が及ぶかどうかを中心にしてまず見たに違いあるまい。「泳ぎや色・すがた」以前に、“活用”“利用”“作用”に関心が向かった。すると、cutlass fish は非常に危険で、釣りの際は気を付けないといけない。それが第一である。当然、古代の人たちが釣りをすれば、とても多くの場合、釣針を持って行かれる魚であることに気が付いていたであろう。釣糸が断たれるのである。「断つ」からタチである。たまにうまいこと釣り上げて食べるとき、そのままでは長すぎて煮ることも焼くこともできない。一般的な魚の下ごしらえでは行われない方法をとる。ぶつ切りである。今日でも、スーパーでパック詰めされて見られる。やはり、「断つ」からタチである。
タチウオ(スーパーで購入)
そういう語が先にあり、古墳時代になって、鉄器の太刀、ならびに、馬が大陸から入ってきた。平安時代の古辞書に、馬のタテガミのことをタチカミと呼んでいる。必ずタチカミである。
「鬣 加葉反、頂なり。帚なり。馬の頚の上の毛なり。太千加美(たちかみ)。」新撰字鏡(898~901年成立)
「鬣 唐韻に云はく、鬐〈音耆、今案ずるに鬐鬣は俗に宇奈加美(うなかみ)と云ふ。又、魚の宇奈加美(うなかみ)は、魚躰を見て之れを知る〉は、馬の頂の上の長き毛也といふ。文選に云はく、軍馬は髦を弭(なび)かせて仰ぎ秣(まぐさく)ふといふ〈髦は音毛、訓は師説に多智賀美(たちかみ)と云ふ〉。鬣の称也。」和名抄(931~938年成立)
「鬣 良渉反、獣の長い毛。ウナカミ、タチカミ、ハタ、ヒレ、馬ノカミ。」名義抄(1081~1100年成立)
これらの記述は、通説の太刀→タチウオではなく、言葉が、タチウオ→太刀、鬣へと連想されたことを物語っている。現在見られる馬には、2系統の種がある。ユーラシア大陸の西の方に起源をもつ馬で、世界中に拡がって家畜馬、競走馬としているのが1つである。野生種としては滅んでいる。その最後のターパンは、1枚のモノクロ写真に残されている。日本で野性的に暮らしているのは、大陸から連れて来られた家畜馬が放たれたものである。もう1つは、モウコノウマ(蒙古野馬)である。これも絶滅しかけていたところを人の手によって命脈を保ってモンゴルの平原に放たれている。モウコノウマでは、鬣はモヒカンのように立っているが、ヤマトの人が見かけたり、話に聞いたりしたことはなかったものと思われる。騎馬民族が使ったなかにモウコノウマはいなかったとする説によっている。そして、ターパンを含めて世界に拡がる家畜馬たちは、鬣が垂れていると表現されるのがふさわしい。垂れているのにタチカミと古辞書にある。これ如何に、である。そして、上の和名抄、巻第七の牛馬躰百六に、鬣と魚のウナカミとが関連させて説明されている。不思議な説明である。連想として、タチウオ以外には考えられない。
左:道産子、右:モウコノウマ(いずれも多摩動物公園にて)
和名抄、巻第八の龍魚躰百九には、
鰭 文選注に云はく、鰭〈音耆、波太(はた)、俗に比礼(ひれ)と云ふ〉は魚の背の上の鬣也といふ。唐韻に云はく、鬣〈音獦、又馬躰に見ゆ〉は鬚鰭也といふ。
とある。タチウオの鰭は、そもそも背びればかり目立つ。長く伸びた背びれを靡かせて泳いでいる。靡かせることに推進力をもつ魚としては、例えばカワハギの仲間がいる。流体力学に詳しくない者は、水槽にへばりついて見ても、どうしてそこから推進力が生れるのか不思議であるが、タチウオの鰭の動きはオーロラのようでもあり、馬の鬣のようでもある。タチウオは、古代において釣り上げられた時、果して背びれを靡かせたかどうか、その際どのように認識されたか不明ではある。ただ、今日でも釣り人が、釣り上げた時、決して手を出さないように注意している点は同じであったに違いない。噛みつかれると、指などを簡単に「断つ」ことがあるからである。
そして、作用に加えて、色・すがたまでも、大陸から新たにもたらされた鉄器の sword に合致すると思われたであろう。タチウオが刃が鋭くて物を断つのと同じように、鉄器の sword はよく切れると評判になったに違いあるまい。また、ほぼ同時に大陸から伝わった馬は、乗り物としてそれまで見たこともないほどに高速であったろう。その走りの鋭さは、白馬の場合、色・すがたともに、タチウオを彷彿とさせるものがある。そこで、タチウオの名から、鉄器の sword の名はタチ、馬の項から背にかけての髪のことをタチカミと名づけた、と推量される。太刀は、タチウオの背びれの付き方と同じく、片刃のものを本来的には指す言葉として示されたのであろう。「両刃(もろは)のタチ」とは言わず、必ず「両刃のツルギ(剣)」という。タチウオの腹びれや尻ひれが、背びれのようにはついていないからである。さらに、釣り上げたタチウオを放って置くとそうなるように、太刀にも馬にも、茶色いものがある。太刀の場合は鉄錆である。そうなると、銅の矛のように切れ味が悪くなる。技術の先祖がえりである。
太刀(古備前正恒、平安時代、12世紀、文化庁蔵、東博展示品)
以上のような“説”にしかならない議論は、たとえ古辞書の記載を頼りにできるとはいえ、管見にして記紀万葉に証拠が見られないため、筆者としては避けたいところである。しかし、古墳時代の人々の観念に、タチウオ→タチカミとなる物的証拠が出てしまっている。馬の形象埴輪である。その問題点については、あまり深入りせず、簡単に紹介するに止める。「発掘された日本列島2015」展に、栃木県の甲塚(かぶとづか)古墳出土の形象埴輪がある。残された顔料から、馬体は白く塗られていたと検証されている。木村友則「甲塚古墳」文化庁編『発掘された日本列島2015』(共同通信社、2015年)に次のようにある。
……甲塚古墳[古墳時代後期、6世紀後半、出土品は下野市教育委員会所蔵]は全長80メートル規模の帆立貝形前方後円墳で、出土遺物から、古墳時代後期に築造されたことが分かりました。また、古墳には幅約14メートルの平坦面(墳丘第一段目)があり、平坦面の中央付近に円筒埴輪が一列に並んで一周していました。さらに、墳丘西側では、馬や人の形をした形象埴輪が列状に並んでいることも確認されました。復元することのできた埴輪は全部で24個体あり、その配置状況を確認できただけでなく、出土した破片にわずかに残された顔料を元に、赤・白・黒・灰色の4色で彩色されていたことも分かりました。……24個体の形象埴輪のうち2個体は、女性が布を織っている様子を表したものです。機織形埴輪の出土は、全国で初めての例となります。また、織機はそれぞれ異なる型式のものを表現していることから、6世紀後半頃には既に構造の異なる織機が存在していたことが分かりました。(27頁)
形象埴輪に残存していた顔料を調べた結果、赤、白、黒、灰色の4色が使われていたことが判明。機織形埴輪のうち、人物部分が残存するほうの上衣には、白地に赤色の円文様が施されていたことが分かった。また、馬形埴輪は4個体すべての体部に白彩痕が確認できることから、白馬を表現していたと考えられる。(28頁)
……[馬形埴輪のうち高さ105.5センチ、長さ推定95.8センチの]馬は馬形埴輪の先頭に置かれており、口元に付けられたf字形の鏡板や、胸元の馬鐸、壺形の鐙、横座り用の足置き板など装備品が豪華であるため、被葬者の馬と考えられる。(29頁)
甲塚古墳出土の埴輪(「発掘された日本列島2015」展、江戸東京博物館にて。「発掘された日本列島2015」展は、栃木県立博物館(平成27年9月19日(土)~11月1日(日))、岡山県立博物館(平成27年11月13日(金)~12月23日(水))、岩手県立博物館(平成28年1月14日(木)~2月28日(日))を巡回します。)
馬形埴輪は、全国的に同様な形状をしている。その鬣は、なぜか、どれもが、ポマードで塗り固められたように立っている。現在見られる実物の馬のなかに、比較的に立っているように感じられる個体もいないわけではない。また、鬣を切りそろえたり、束にまとめて括るお洒落も歴史的に行われていた。絵巻や屏風絵に描かれている。しかし、埴輪の表現者は、それらの様子を準えようとして、馬の代表として創作したのではないであろう。すなわち、埴輪の馬の鬣が立っているのは、タチカミと名づけたことの副産物として、立ち髪と洒落をもって観念されたこと、ならびに、馬が止まっている時ではなく、疾走している時、鬣が靡いてまるで立っているかのように見えたことによっているのであろう。馬の馬たる本質とは、人を載せて人が制御し、速く走らせるところにある。古代のスポーツカーである。雄略前紀に、「騁(は)せ射む」、「馬を驟(は)せて」とある。古代の芸術家は、馬の“本質”を造形した。装備品として、轡などの制御器具の着装は必然のことになる。馬の埴輪を制作することとは、多方向から撮影した馬画像をもとに、2分の1サイズモデルを3Dプリンターで復元することとは異なる。表意、写意がある。
馬の埴輪の造形者たちは、鬣を作るに当たって、タチカミなる語を知っており、タチウオの背びれのような、太刀の刃のような、“鋭さ”を表現しようとした。彩色を施すに当たっては、腐ったり錆びたりした色よりも、新鮮な、切れ味のいいものが志向された。そのため、甲塚古墳の馬形埴輪が白い顔料を用いて塗られてつくられた、と説明できる。
(上掲書28頁の復元模型の写真印刷では、鬣と尾だけは灰色に見えます。展覧会の解説パネルでご確認ください。)
茶色い馬はポピュラーだし、埴土の色は茶色いのだから、そのままでいいではないかと思えるところを白く塗っている。制作者の意図を汲み取らなければならない。
埴輪馬(群馬県高崎市箕郷町上芝古墳出土、古墳時代、6世紀、東博展示品。鬣前部は角のようでさえある。)
ここには、当たり前のことであるが、人の観念が関わっている。馬とは何か、についての古墳時代の人々の思いが込められている。そして、古墳という上流階級の人々の墓所に副葬されている。木村、前掲解説にあるとおり、被葬者は、機織形埴輪から女性であろう。彼女が乗るための馬であると考えられる。その場合、自転車の後部荷台に横座りをするように、馬に実際に横座りして、足をちょこんと足置き板に乗せて座ったかといえば、なかなかにあり得ない。そのような乗り方はとても危険である。反対側に振り落とされた時、後頭部から落下する。とても実際に乗る光景を標しているとは考えられない。また、埴輪の馬の出土例は、そのほとんどが、馬具をつけた形ながら人は騎乗しておらず、馬曳きが別に作られている。乗っているところを写生しているのではない。甲塚古墳出土品でも、観念の成せるわざとして、女性の被葬者が、あの世へ行く際、ないしはあの世において、乗ってくれたらいいなと思われる馬が制作されていると考えられる。古墳時代の人の考える「あの世(黄泉国? 常世国? 天寿国?)」なるものが、どのようなものであったかわからない。それでも、人類のほとんどすべての民族同様、墓所には、あの世へ行くための道具や、あの世で困らないための器物がいろいろ副葬されていると考えられている。したがって、逆に、たとえば当時使われていた馬具について、埴輪の飾り付け方からある程度想像することは可能ではあるが、それは、当時の人々の“観念”というフィルターを通した上での造形であることを念頭に置かなければならない。そのままの形であったかどうかについては、慎重に見極めなければならない。
以上見てきたように、古辞書の資料と考古学の発掘出土品から、タチウオ→太刀、鬣という言葉の流れが追跡され、古代の人びとの“観念”が顧みられた。そこには、現代の、いや、中古にはすでに失われ、変質してしまっている「ものの見方」があったようである。中古の文学は、ほぼ“宮殿文学”である。記紀万葉にある、隙あらば捕まえて食べてやろう、使ってやろう、逆に隙を付かれぬようにしよう、といった生々しさの現場からは遠ざかっている。現代人が高層マンションに暮らし、コンビニで弁当を買って来て食べていて近づけるのは平安宮廷までで、生活感覚、日常感覚において、古墳時代、飛鳥時代の実感には迫れないということである。
(2015.12.22追記)
乗馬法に横座りは存在している。埴輪の例では、例えば、高橋克壽「横座りの馬」奈文研ギャラリー10(『奈文研ニュース』№18、2005年9月)には鞍からだいぶ下の方へ足を伸ばした状態で乗ることになり、あり得なくはない。甲塚古墳の足置きは、膝を折り曲げた体育館座りになるので、リアルには想定しにくい。ヨーロッパの例では、貴族の女性はsidesaddle(横鞍)を使って横座りに騎乗していた。むろん、上半身は馬同様に前を向き、手綱を握っている。なお、ロバに騎乗する場合、背骨の関係からウマのように背中の真ん中付近には乗れず、後ろのお尻の方に乗るはずなので、下の様子は騎乗の点からはふさわしいものとは言えないようである。
一休宗純(1394~1481)筆「杜甫騎驢図賛」(紙本墨書、室町時代、15世紀、東博展示品、広田松繁氏寄贈)
上に賛が左から書いてある。「杜甫騎馿圖 漢々蜀江風色癯 不騎官馬只騎驢 残生七十吟髭雪 日短乾坤一腐儒 東海純一休」(試訓;漢々たる蜀江は風色癯せたり/官馬に騎らずして只だ驢に騎る/残生七十にして吟髭の雪/日の短きこと乾坤に一腐儒のごとし 注;「驢」は平声魚韻である。虞韻の「鱸」、「艫」、「櫨」などと混同したものか。)
(2017.2.12追記)
いかにもタチウオのような太刀を見つけたので記す。
飾り大刀刀身(藤ノ木古墳出土復元品、河内國平作、橿原考古学研究所附属博物館展示品)