『「誰がやっても同じ」=「誰がやっても大丈夫」、政治不信ではなく政治過信が根底にあるのでしょうね』
『以前より『政治過信』という言葉を私は使っています』
『投票率低下をすぐに政治不信と捉える向きもありますが、本当に不信で生活や将来に危機感を持っていたら投票に行くはずですから、最終的には「文句は言うが、投票に行かなくても大丈夫」と有権者が思っていることが背景にあると私は思っています』
ツイッターを駆使して意見を聴き、自らの意見を端的に述べる熊谷・千葉市長。選挙での投票行動を巡って、4月4日に上記の鋭い洞察を示した。政治への期待感があるから、その期待のバーが高い。それを越えるのを当然だと思っていると、満たされないときに、人は不信を感じる。しかし、その不信感が危機感に結びつかないのは、何とかなるだろうと、考えているからだ。
ここで、筆者は次の言葉を想い起こした。
「毎日の新聞は政治家への不信に満ちている…現代人の政治への不信は、実は政治への過信の裏返しであることに気が付かない」。
(永井陽之助『政治的人間』1968年初出「柔構造社会と暴力」所収)
熊谷市長の発想は、将に、約50年前の永井陽之助の発想と同じである。筆者は大学生時代に読んだのだが、「不信/過信」の関係が現代の政治社会の中核にあることを認識させられ、その鋭い感受性に敬服したのを覚えている。
この状況は今でも続く、大衆民主主義社会での基本的課題なのだ。
熊谷市長は更に呟く。以下では自己の判断と選択を論理化して述べている。
『私自身はとても政治過信には至れず、自分たちの将来を少しでもマシなものにするために行動する必要を感じ、会社員を辞めて市長を務めさせて頂いています。
投票に行くのは最低限の政治参加であって、危機感があれば立候補もしくは何らかの形で積極的に政治的意思決定に参画する必要性を感じます』。
『僕が選挙に行く目的のひとつは、自分自身の変化を促す点にあります。初めて投票することで萌芽して、政治参加(投票を続け政治を監視)することで育っていく精神的成長があると思っています。そういう市民が増えれば、結果的に政治の向上にもつながるはずです』。
投票することを自己変革のきっかけにし、精神的成長に繋げる姿勢は、極めてストイックでもある。更に驚くのは、それを自らの危機感に繋げて行動に移したことだ。この精神と活動力は一体の様に見える。
彼を取り上げるのは今度が始めてではない。丁度、3年前、原発由来の放射線問題に対する態度だった。
「…私も反論相手自体は殆ど説得不能だと理解…こうした方々の言説で不安に思う方がいることは行政として無視できない…放置した結果、善良な方々に影響が出るのは(行政として)困るので公開して反論しています」。
『熊谷・千葉市長の際だった政治姿勢120413』
この反応は、熊谷市長が住民に身近な基礎自治体の長として、生の住民に配慮する鋭い感覚の持主であることを示している。この人たちが不安感を持つようになれば、その自治体は危機と云えるのだ。その政治姿勢は今回の投票行動に表れた考え方と同じ処から発せられているように思える。
即ち、一貫した政治姿勢は、しっかりと身に付けたものなのだ。この姿勢を武器に、100万人都市の首長としての舵取りは、千葉市民だけでなく、多くの人たちから注目されている。大衆民主主義社会における一つの政治家像として定着していくことを期待したい。
『以前より『政治過信』という言葉を私は使っています』
『投票率低下をすぐに政治不信と捉える向きもありますが、本当に不信で生活や将来に危機感を持っていたら投票に行くはずですから、最終的には「文句は言うが、投票に行かなくても大丈夫」と有権者が思っていることが背景にあると私は思っています』
ツイッターを駆使して意見を聴き、自らの意見を端的に述べる熊谷・千葉市長。選挙での投票行動を巡って、4月4日に上記の鋭い洞察を示した。政治への期待感があるから、その期待のバーが高い。それを越えるのを当然だと思っていると、満たされないときに、人は不信を感じる。しかし、その不信感が危機感に結びつかないのは、何とかなるだろうと、考えているからだ。
ここで、筆者は次の言葉を想い起こした。
「毎日の新聞は政治家への不信に満ちている…現代人の政治への不信は、実は政治への過信の裏返しであることに気が付かない」。
(永井陽之助『政治的人間』1968年初出「柔構造社会と暴力」所収)
熊谷市長の発想は、将に、約50年前の永井陽之助の発想と同じである。筆者は大学生時代に読んだのだが、「不信/過信」の関係が現代の政治社会の中核にあることを認識させられ、その鋭い感受性に敬服したのを覚えている。
この状況は今でも続く、大衆民主主義社会での基本的課題なのだ。
熊谷市長は更に呟く。以下では自己の判断と選択を論理化して述べている。
『私自身はとても政治過信には至れず、自分たちの将来を少しでもマシなものにするために行動する必要を感じ、会社員を辞めて市長を務めさせて頂いています。
投票に行くのは最低限の政治参加であって、危機感があれば立候補もしくは何らかの形で積極的に政治的意思決定に参画する必要性を感じます』。
『僕が選挙に行く目的のひとつは、自分自身の変化を促す点にあります。初めて投票することで萌芽して、政治参加(投票を続け政治を監視)することで育っていく精神的成長があると思っています。そういう市民が増えれば、結果的に政治の向上にもつながるはずです』。
投票することを自己変革のきっかけにし、精神的成長に繋げる姿勢は、極めてストイックでもある。更に驚くのは、それを自らの危機感に繋げて行動に移したことだ。この精神と活動力は一体の様に見える。
彼を取り上げるのは今度が始めてではない。丁度、3年前、原発由来の放射線問題に対する態度だった。
「…私も反論相手自体は殆ど説得不能だと理解…こうした方々の言説で不安に思う方がいることは行政として無視できない…放置した結果、善良な方々に影響が出るのは(行政として)困るので公開して反論しています」。
『熊谷・千葉市長の際だった政治姿勢120413』
この反応は、熊谷市長が住民に身近な基礎自治体の長として、生の住民に配慮する鋭い感覚の持主であることを示している。この人たちが不安感を持つようになれば、その自治体は危機と云えるのだ。その政治姿勢は今回の投票行動に表れた考え方と同じ処から発せられているように思える。
即ち、一貫した政治姿勢は、しっかりと身に付けたものなのだ。この姿勢を武器に、100万人都市の首長としての舵取りは、千葉市民だけでなく、多くの人たちから注目されている。大衆民主主義社会における一つの政治家像として定着していくことを期待したい。