https://mainichi.jp/articles/20181207/k00/00m/030/265000c
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/news5plus/1544227965/-100
民主主義社会は他者との違いを意識して自分の価値を高めることが許され、そしてそう推奨される社会です。ここで問題となるのは、人間の価値とはどのようなことであるのか、これが明確な答えであるという広報に社会は溢れておりますが、明確な答えはそう簡単には見つからないという事実を理解すると、あまり多弁ではなくなることが本質的です。そうした答えを死にものぐるいで探し、時には命さえ落とすことがありますが、物質的な富が答えになったり、もういらないとして捨てた古典の文章に、かろうじてヒントが隠されているような場合もあります。こう申し上げますとあたかも私が人の価値をさも知っているというような物言いですが、こうした文言は、哀れなスネッブが血迷いながら適当な独り言を示しているものとお思いください。今回のケースは、アメリカという民主主義社会が、個々人に自分の価値を高めなさいと推奨し、史上最高の物質的富を築き上げたものの、精神的価値観としてのLGBTと、社会的な齟齬が持ち上がってきた、というところであると感じます。LGBTの趣旨というのは、マイノリティーへの共感の一種であると思われますが,共感を強制されるところに、齟齬が生まれます。つまりLGBT側は、人道的優位な立場を意識し、共感を示さない側に人道的抑圧を仕掛けている場面であります。時と場合によっては、LGBTに共感を示すことで社会はうまく運営されてゆく場合もあることでしょう。しかしLGBTではないひとに共感を強制し始める段になるから、1市民のLGBTに対する反感が社会に広がってゆく趨勢になります。LGBTは民主主義社会の、自分の価値を高めようとする精神に乗っ取り、精神的に他者の痛みを理解する姿勢を示そうとする立場であるとは理解しますが、自分の痛みを他者に強制しようとすることは時と場合によっては暴力に転換されますから、扱い方に注意が必要なのではないか、と懸念されます。他人の痛みに敏感であることが自分の価値を高める民主主義の姿勢と合致していたわけで、自分の痛みを他人に強制することは、民主主義の価値と齟齬が生まれる、ということであります。そして、自分の痛みを社会化させること悪夢になる場合があるのですから、よっぽど注意が必要です。私も言葉通り一貫して人生を渡ってきたわけではありませんが、出来る事ならば人生を一貫していきてゆきたい思いは、衰えておりません。人は誰もが間違えますから、私も、そしてあなたも、限界を抱えて生きているわけです。相手の限界を見定め、自分もそんなものなのだな、というほど良い諦めが、寛容性を生むのではないか、と愚考いたします。
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民主主義社会は他者との違いを意識して自分の価値を高めることが許され、そしてそう推奨される社会です。ここで問題となるのは、人間の価値とはどのようなことであるのか、これが明確な答えであるという広報に社会は溢れておりますが、明確な答えはそう簡単には見つからないという事実を理解すると、あまり多弁ではなくなることが本質的です。そうした答えを死にものぐるいで探し、時には命さえ落とすことがありますが、物質的な富が答えになったり、もういらないとして捨てた古典の文章に、かろうじてヒントが隠されているような場合もあります。こう申し上げますとあたかも私が人の価値をさも知っているというような物言いですが、こうした文言は、哀れなスネッブが血迷いながら適当な独り言を示しているものとお思いください。今回のケースは、アメリカという民主主義社会が、個々人に自分の価値を高めなさいと推奨し、史上最高の物質的富を築き上げたものの、精神的価値観としてのLGBTと、社会的な齟齬が持ち上がってきた、というところであると感じます。LGBTの趣旨というのは、マイノリティーへの共感の一種であると思われますが,共感を強制されるところに、齟齬が生まれます。つまりLGBT側は、人道的優位な立場を意識し、共感を示さない側に人道的抑圧を仕掛けている場面であります。時と場合によっては、LGBTに共感を示すことで社会はうまく運営されてゆく場合もあることでしょう。しかしLGBTではないひとに共感を強制し始める段になるから、1市民のLGBTに対する反感が社会に広がってゆく趨勢になります。LGBTは民主主義社会の、自分の価値を高めようとする精神に乗っ取り、精神的に他者の痛みを理解する姿勢を示そうとする立場であるとは理解しますが、自分の痛みを他者に強制しようとすることは時と場合によっては暴力に転換されますから、扱い方に注意が必要なのではないか、と懸念されます。他人の痛みに敏感であることが自分の価値を高める民主主義の姿勢と合致していたわけで、自分の痛みを他人に強制することは、民主主義の価値と齟齬が生まれる、ということであります。そして、自分の痛みを社会化させること悪夢になる場合があるのですから、よっぽど注意が必要です。私も言葉通り一貫して人生を渡ってきたわけではありませんが、出来る事ならば人生を一貫していきてゆきたい思いは、衰えておりません。人は誰もが間違えますから、私も、そしてあなたも、限界を抱えて生きているわけです。相手の限界を見定め、自分もそんなものなのだな、というほど良い諦めが、寛容性を生むのではないか、と愚考いたします。
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